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特定不審死者Tがくれたもの  作者: 扉野ギロ
落札したもの
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第五話 「落札したもの そのニ」

 誰からだろう。

 ポーチから取り出したスマートフォンの画面に、家族以外の名前を想像するのはいつぶりか。

 清子が見つめる画面には、『お父さん』と表示されていた。

 

 それはある意味予想していなかった名だ。

 清子は画面を見つめたまま硬直する。


「どうしました?」


 清子の様子がおかしいことに気づいたのか、鈴希が脇に立ってスマートフォンを覗き込む。


「旦那さんから……。開かないんですか?」


 簡単な質問にも関わらず、清子は答えることができなかった。

 開くか、開かないか。開かないほうがいいに決まっている。

 それなのに、どうしてか清子は動くことができずにいた。

 すると。


「ちょっと貸してください」


 言うなり鈴希は清子の手からスマートフォンを奪い取り、手慣れた様子で操作を始めた。


「ちょっと……」


 一応の拒絶は見せたものの、清子はそれを奪い返そうとはしない。

 疑ってはいても、彼女ならなんとかしてくれるかもしれないという希望も未だ消えていなかったからだ。


「あ。清子さんロックしない人なんだ。不用心ですねえ」


 そんなことを言いながら鈴希がスマートフォンを操作すること二分ほど。

 終わりです、と言って清子にスマートフォンは返された。


「アプリの方もブロックして電源も落としちゃいました。いいですよね?」


 清子は返事をしなかった。

 しかしそんな清子の態度を見て、鈴希はうんうんと頷いた。


「わたしは迷わないですけどね。彼氏だろうが、両親だろうが友達だろうが、鬱陶しいと思ったらブロック。面倒だったら電源切っちゃう。 

 だって、自分が悪いんじゃなかったら、反省するのは向こうじゃないですか。だから、いいんです」


 鈴希は知ったようなことを言う。

 だから、鈴希への憧れは、清子が彼女へと抱く疑念よりもより濃く色を帯びていた。


 なんて強い人なのだろう。

 清子は漠然とそう感じるのと共に、この人は独りになるのが怖くないのだろうかとも思った。

 

 とりあえずコーヒーでも飲みましょうか。

 そう言う鈴希に促されて清子は居間にある二人がけのソファに腰を下ろした。


 清子が大手家具店で購入した牛皮のソファよりもずっと柔らかく、体が沈み込んでいく感触が気持ちいい。

 これは逸品だ、と素人の清子にもすぐわかった。


 そうして低くなった視線の正面には、木目の美しい楕円のローテーブルを挟んで本棚が二台と冷蔵庫がある。本棚の中には、本が何冊も収まっているのは当然だが、それ以外にもどこかの国の怪しげな置物やアクセサリーが置かれている。


 足下には毛足の短い麻のような感触の敷物。

 右手には雅が眠るベッドがあり。そこと今いる部屋にはもともと引き戸がついていたようだが、それは今ベッドのそばにあるクローゼットとファイルがいくつも収められた本棚の間に収まっている。それとパソコンの置かれたデスクが一台。


 そこから視線を居間に移すと。

 左手のすぐそばにはガラス戸の重たそうな棚が一つあり、CD、オーディオなどと、それから写真立てが並んでいる。


 写真のほとんどは風景を写したものだが。

 その写真の一つに、鈴希のスマートフォンに見たあの女性とのものがあった。彼女は制服を着ていない。

 やはり仲良さげな二人の背景には、見覚えのある黄金の三角錐、ピラミッドが映り込んでいる。


「濃いめでいいですか?」


 突然訊かれ、清子は慌てて鈴希へ視線を移した。

 彼女が立っているのは、狭いシンクの前。

 そのステンレス台の作業スペースには雑然と小物が置かれていて使えるようにはなっていない。

  

 いつの間にか並べられていた揃いのカップの口にインスタントコーヒーの口を当て、鈴希は清子のほうを見ていた。


「はい」


 返事をするなり、鈴希は躊躇なく大さじ一杯分はあろうかという量のコーヒーをカップに入れた。

 そして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、それをカップに注ぎ入れ、それを冷蔵庫の上に置かれた電子レンジの中へ移した。


 鈴希が電子レンジのボタンを押すと、低い耳鳴りのような音が鳴る。


 コーヒーが温まるまで何分だろうか。

 まるで自分が客のような気分になっていて、清子は意図せず「いい部屋ですね」と口走っていた。

 しかし。


「これが? 清子さん、変わってますね」


 それが鈴希の返事だ。


「狭いし、壁薄いから外の音まで丸聞こえだし。お風呂なんか入ってると捨て犬にでもなった気分になりますよ」

「い、いや。家具とか、そういうものが……」


 変なことを言ってしまったと思い、慌てて取り繕った清子だが、その一言に関心が込められていないことにすぐ気づいた。

 すると鈴希は、どこか微笑むような顔つきで小さく笑った。


「ま、わたしは気に入ってますよ。住めば都ってやつですけどね。悪くはないかな」

「で、ですよね」

「清子さん、一人暮らしの経験は?」

「一応、大学の時に」

「へえ。アパートじゃなく?」

「はい、最初に決めたマンションに四年間ずっと住んでいました」

「そうなんですか。で、そこはどうでした? 愛着とかありませんでしたか?」


 自分の住んでいた部屋に愛着をもつか。

 そんなことを清子は考えたことがなかった。


「いえ、特には……」


 恐縮して答えると、鈴希はまた微笑んで「だからですよ」と言った。


「だから、ちゃんとした家具を買うんです。お気に入りの。清子さん、部屋、ってなんだと思います?」

「……え?」

「部屋、です。雨風を凌ぐ空間? それとも自分だけのプライベート空間ですか?」

「え、っと……」


 わからない。

 小さく呟いた清子に、鈴希は「でしょうね」と頷く。


「まどろっこしいのは嫌いだから言っちゃいますけど。わたしは、清子さんみたいな人が苦手です」


 突然の一言に、清子は「あっ」と声をもらさずにはいられなかった。

 こんなにはっきりと言われたのは初めてだが、過去確かに耳にしたことがある一言だったからだ。

 清子の肩から力が抜ける。が。


「その態度は、正直ムカつきます」


 続く二撃目で清子の体にはぐっと力が入った。

 きっとそうくると思った。


「どうしてかわかりますか?」

「わ……わかりません……」


 言いながら、清子はきっと自分のこの怯えた態度が問題なのだろうと気づいていた。

 気づいていながら、答えを口にしない。

 そういう自信のなさや明け透けの弱さが、強者は気に食わないのだ。

 

 あの陰口を耳にした時、そう思った。

 

 落ち込み、落ち込み、暗いどこか深い所に落ちていく清子の感情は表情を失い。そして声を失ってしまった。

 もう何も見たくない、触れたくない、感じたくない。

 

 清子の思う防御が態勢として表れていたのだ。

 しぼむように体を縮こめ、清子は俯いていた。

 すると、聞こえもしない鈴希の嘆息が聞こえたような気がした。

 その時だ。


「あなたは許されるのに、ですか?」


 その一言が、清子の感情の一部を緩めた。

 清子は鈴希を見上げていた。


「あなたはわたしが苦手ですよね。でも、自分が苦手だと言われると落ち込む。つまり清子さんは自分を許すことに一生懸命で、他の人のことなんてどーでもいいって思ってるわけだ」

「そ、そんなことは……」

「ほら」

「え?」


 ほらね。と鈴希は微笑んだ。


「そういう人間って、否定する時だけは早いんです。迷わない。自分を否定する人間に対してだけ、より強く否定する力を発揮するんです」

「ちがっ……」


 清子が言い切るよりも早く、鈴希は「ほら」とまた笑った。


「違う、ですか? そうじゃない? そんなつもりは? どんな言葉が思い浮かんだか知りませんけど。どうせそういうことでしょ。まったく、防御力高いというかなんというか……」


 呆れているのか、ククク、と笑う鈴希からではそれが読み取れない。

 その折、電子レンジがブザーを鳴らし。鈴希がコーヒーを啜る音が。

 そしてローテーブル上の一点を見つめていた清子に突如、「どうぞ」と声がかけられた。

  

「あ、すいません……」


 一歩遅れて差し出されたカップに手を伸ばした瞬間。

 鈴希は手を離した。

   

 突然の出来事に清子がまた「あっ」と声をもらしたのは、カップが床に落ち、中の熱いコーヒーが自分の足先にかかった後だった。

 清子は慌てて足を引き、自分の足に撥ねたコーヒーを拭う。

 するとまた、鈴希がクスクスと声をもらして笑った。


 何が起こっているのかわからず、唖然とする清子。

 そこに鈴希がしゃがみ込み、清子よりもわずかに低い目線でサングラス越しに見つめていた。


「ね。それがダメなんです、清子さん」

「……え?」

「今、コーヒーがテーブルに置かれるって思ったでしょう」

「…………」


 清子は返事ができなかった。

 すると鈴希はまた立ち上がり、ガラス戸の棚に背をもたれた。


「目は口ほどに物を言う、なんて言いますけど。それよりも発言と行動の矛盾のほうがよっぽど心理を語ってますよ」


 そう思いませんか。

 その質問にも清子は答えられずにいると、鈴希はまずコーヒーを一口啜り、そして眉間にシワを寄せたいやに厳しい表情で清子を見つめた。


「……清子さんはね。たぶん、気を使われ慣れてるんです。だから、一歩出遅れる。コーヒーがテーブルに出されると思ったのは、そのせいじゃないですか?」

「…………」

「当てましょうか」


 鈴希の言葉に清子はビクつく。


「……何をですか」


 ご両親。

 それだけで十分、鈴希の予想はおそらく的を射ていると思えた。

 だから、清子は黙っていた。


「きっと過保護だったんでしょうね。あなたを勝手に愛した。好きなように、あなたのためだとかそんなことを言って……。

 でも、本当は違ったんじゃないですか?

 清子さん。あなたには、あなたの愛されたいその理想があった。そのズレを指摘しなかったのは、あなたが報いようと思ったから。むしろ報いないことで起きる何かのデメリットを想像したから。だからそうですね、あなたは真面目なのかもしれない。

 逆に言うと、あなたが無自覚に真面目でいられるほど、ご両親はあなたの幼い頃から愛したいように愛した、っても言えるかな……。どうです?」


 正解だ。

 清子の両親は、清子を愛してくれた。

 何不自由なく、むしろ裕福だと思えるほどに。

 時に厳しく、時に優しく。清子が何かしようとする度に助言をくれ、手を貸してくれた。

 それを息苦しく感じたことはなかった、だろうか。


「厳格な父親と優しい母親、もしくはその逆か。なんにせよありがちですね。ある種の親っていうのは、それが愛情とか教育だって言うんです。だけど。

 そうやって親にバランスを取られてきた子どもは、大人になれない。支えられなきゃ何もできなくなる。それがいつしか、気を使われることを念頭に置いた行動に変わるんですよ。

 誰かの言った通りにすることで成功できるって知ってるから。

 それ以外の行動を取ると失敗して後悔した、って意味でもあるかな」


 そう言うと鈴希はまたコーヒーを一口啜り、嘲笑ぎみに笑った。


「わたしは、そういう人間が嫌いなんです。つまらないから」

「……わかっています」

「何が、ですか?」

「えっ」


 何が、わかっているのか。

 鈴希は、お前に何がわかる、と言いたいのだろう。

 そう感じたからこそ、清子は口ごもり、それでもこの人には何か言わなければいけないと思った。


 ひねり出した答えは、「私は、面白くない人間なんです」。


「全部、鈴希さんの言う通りです。私は面白くない。

 失敗しないように慎重に生きてきて、あまり感情的にならない。だから、ですよね。

 親にすがって生きてきた私みたいな人間に、鈴希さんのような自立した人の気持ちを理解することなんてできない……」


 わかっています。清子は念を押すようにそう言った。

 すると返事とばかりに、鈴希の口からもれる大袈裟なため息が聞こえる。

 

「やっぱりわかってない」

「な、何が……です」

「人の言葉が、ですよ」

「……どういう意味ですか?」


 清子には、本当に意味がわからなかった。

 こういう時、自ずと首の角度が変わってしまう。

 

「わたしはね、つまらない、って言ったんです」

「そ、そんなの変わらないじゃないですか。気分次第というか……」

「そう思いますか?」


 意味深な言い方だ。きっと鈴希には、その違いがはっきりとあるのだろう。

 察して清子は、小さく首を横に振った。


「なぜ?」

「え……っと……」

「それ。それですよ。清子さん、言ったこととやってることめちゃくちゃなの気づいてますか? どうして、わからないのにわかったようなことしちゃうんですか?」

「それは……」


 わかっていたからだ。鈴希が何か深い意味をもって発言していることを。

 言いようもなく、清子はその通り「鈴希さんは、何か意味を感じているんですよね」と話した。


「確かにその通りですけど。それって清子さんが感じた何かを、わかった、って言ってるだけで、わたしが言っている意味自体を理解した上でわかったってことじゃないですよね。根本的にわたしの質問には答えられていない」

「そう……なんでしょうか……」


 納得はいっていない。だがもう、清子には限界が近づいていた。

 それもまた意味不明の苦痛が清子を蝕んでいたのだ。

 でも、知っている。

 今清子が感じる苦痛は、これまでもずっとどこかで感じていたものだった。

 自分を変えられないその枷となる究極の重量だった。


 押しつぶされるように清子は消沈していく。  

 

「……とにかく。あなたがそういう自分を乗り越えない限り、いくらアプリをブロックしても意味がない。それで電源を切ったって、今の問答と同じ、根本的な答えにはならないんですよ」


 覚えておいてください。

 そう言うと鈴希は、ようやくサングラスを外した。

 その顕になった瞳を見て、清子は出会いにこの目を見なくて良かったと安堵していた。


 それから鈴希は、清子のために今度はホットミルクを作ってテーブルの上に置いた。


「さっきのコーヒー、実はすごく苦かったんです。ごめんなさい」

「……え?」


 ごめんなさい。

 もう一度言うと、鈴希は清子にホットミルクを飲んだらもう眠るように言った。


 意見する余裕もない。

 緊張して乾いた喉を癒やすように、まだ熱いホットミルクを急ぎぎみに飲み干すと。清子は案の定睡魔に襲われ、部屋の隅に仕舞われていた簡易のハンモックに身をうずめて目を閉じた。


 自分を乗り越える。根本的な答え。雅のこと。これから。

 考えることはいくつもあり、でも、その一つも解決できる糸口すら掴めないまま清子は眠りに落ちる。


          ◯


 翌日。

 目を覚ました清子がハンモックから立ち上がると、鈴希は暗いパソコンモニタの前に突っ伏して眠っていた。

 その首筋に刻まれた小さなタトゥーにドキリとし。そして清子は、雅の眠るベッドを確認した。


 今ここで、夢ではなかった、と考えるのはわざとらしい。

 清子はあくまで現実を受け止めたつもりで薄い影のような姿になってしまった我が子を眺めていた。


 いつかはこうなると思っていた、と文博は言った。だが、本当にこうなることを予想していただろうか。

 これは、親である清子と文博が想像していたつまるところの最悪などではない。

 イレギュラーだ。


 だから考えなければならない。雅をどうするか。

 もしも死んでいないのなら、蘇らせるべきだ。

 しかしもし、これが雅の最期の姿なのだとしたら。


 そう考えるとふと、あの雄叫びが脳裏にこだまする。

 魂の叫びだ。

 あれは、雅がどこかで助けを求めているに違いない。

 やはり清子に出せる結論は、雅を取り戻すことだけだった。

 

 それから清子は時間を確かめるため、習慣的にスマートフォンの電源を入れた。


 そこに届いていた一通のメッセージは、美杏からのものだ。

 昨日よりも落ち着いた気分でメッセージを開くと、『どうしたの?』、『読んだ?』、『電源入れて』、の言葉と、また例のやり取りの画像が添付されていた。

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