第三十四話 「救済 その四」
「雅は、私から逃げるために……」
全身から力が抜け、崩れ落ちる清子を慌てて文博が支えた。
「そうじゃない。あいつは、自立したかったんだ。でも、俺たちのバランスが悪かったせいで、あいつは自分の足でどうやって立てばいいのかもわからなくなってしまった。罪は、俺たち二人にあるんだ。お前だけじゃない」
「でも、じゃあどうすればいいの? 私は、どうやってあの子を救えばいいの?」
「救わなくていい……。もういいんだ、清子。あいつは今、自分の足で立っているんだろ? どこか別のところで、俺たちがいないところで戦ってるんだろ? それがあいつの人生なんだ。放っておいていい。雅は、それを望んだんだ」
「でも、それじゃああの子が死んでしまう!」
「仕方のないことなんだ、清子。雅が選んだ人生で、雅になにがあろうと、それは雅が決断することだ。そういう時支えてやるっていうのが理想的な親なのかもしれないが、俺たちは違った。今さら適当な反省をしたところで、人の本質はそう簡単に変わらない。
そうやって何度も失敗して、繰り返したら、それがまたあいつを傷つけることになるんだ」
「そんなの納得できない! あの子は私の子なの! お腹を痛めて産んだ大切な子なの!」
「だからだ、清子。だから俺たちは、あの子を手放さなきゃならない。痛いのはお前と俺だけなんだ。痛みに耐えることが親の役目なら、今俺たちはそうしなきゃならない」
「い、いや……いやよ。イヤだ! 雅を助けたい!」
「清子……」
苦しげに名を呼び、文博が清子を抱く力をさらに強くしたその時だった。
バチンッ。
強烈な破裂音が響き。殴られた清子も、文博も、その場にいた全員の息が止まった。
「うるさいのよ、あんた。ビービーギャーギャーと子どもじゃあるまいし。同じ女としても、あんたのそういうとこには共感できないわ。バカみたいだし、なによりダサい」
唖然とする一同の視線は、自ずと青柳に集まる。
すると青柳は、はあ、と重荷を下ろすようにため息をもらした。
「あのね、善くんは言ったわ。銀の盃に写っていた女性のことを、フリジア帽のマリアンヌみたいだった、って。それがこのザマ? あり得ないわよ。気持ち悪いったらない……」
吐き捨てるように言い、青柳は清子の首根っこを掴んで無理やり立ち上がらせた。
「突き放すことがカッコいいと思ってるツッパリ根性が消えない中学生の青春引きずりっぱなしのアホな夫と、愛情と干渉の区別もつかない自己中を責任だと勘違いしたまんまの妻。それがお互いに守り合って、夫婦愛の見せびらかし? バカじゃないの。
その子は今にも死にそうで、もしかしたら向こうでは殺されているかもしれないの。でも、そんなの当たり前。放っておくもおかないも、これだけ遠く離れていて意味のある問答じゃないことぐらい気づきなさいよ。
それと、忘れないで。
あんたらがどんな決断をしようとも、この私、山下青柳の力なくして叶わないのよ。この現状、全ては私が左右すると知りなさい、バカ夫婦。
だからハッキリ言ってあげる。
あんたらみたいな無能な夫婦がどうあがこうと、無理。絶対に無理。何百年何千年先かもわからない未来までその子に会うまで待つなんて無理よ」
「できますっ! やれます、私なら!」
「できないっつってんでしょ!」
怒鳴るのと同時、青柳は清子の頬に平手打ちをくらわせた。
「確率が五分五分なら、この際不可能と同等よ。そんな奇跡に頼るようなバカは、絶対に目的を達成できない……。運ってのはね、状況を二段も三段飛ばしにもできる強い力なの。あんたの思い通り、都合のいいほうに確立を引き上げたりできるようなものじゃない」
だからあんたらは無能らしく、今確実にできることをしなさい。
清子の頭を両手で掴みくすんだ瞳を見つめる濃紺の瞳は、これまでにないほどはっきりと青く、海中を彷彿とさせる。
「私たちが確実に……できること……?」
「届けるのよ」
「でも、そのためには転生が必要で……」
「必要ないわ。ここに永遠を得た呪受体があって触媒があって、私がいるならね。ただ声を届けるだけなら、できる」
「こ……え……」
瞬間、清子は総毛立った。
あの叫び声。
あれが雅のものだとしたら、届くのだ。
こちらからも、声なら。
「文博さんっ!」
期待に満ちた瞳には色が戻り、清子は困惑する文博を雅の前に連れて立った。
そうして並ぶ二人の後ろで青柳はローテーブルの上に立ち、二つの頭の上に手を置いた。
「たぶん、長くは持たない。みっともない手紙みたいな内容はよしてよ」
「……はい」
清子が返事をすると、文博も戸惑いながら「ああ」と応えた。
「それが、こっちと向こうを繋げている。しっかり握って」
指示されて清子が黒い石の入った袋を強く握り締めると、青柳があの呼吸を始めた。
吸う時に強く、吐く時には弱く。
清子は目を閉じるが、しかし、それを聴いていても前回のように眠たくなるような感覚はなく。自ずと両手は祈るように組まれていた。
すると、その硬く握り締めた手を温かい別の何かが覆った。
文博の手だ。
握られたのはいつ以来か、乾いて分厚くなっていた。
清子にはそれでも懐かしいと感じられる。
いつも自分を守ろうとしてくれていた人。
守るために、奮闘した人。
感謝を伝える代わりに、清子は文博の手に左の手を重ね直した。
そうして膨れ上がった三つの手の平は、その中心に黒い石を収め、さらにきつくひとつになる。
いつの間にか、青柳の息遣いが聴こえなくなっていた。
そんな暗闇の中はあまりにも静かで、どこかに音を探る内、清子は自分がどこに立っているのか感覚が曖昧になっていく。
その曖昧さは、自分の手に重なるもう一つの手の持ち主の存在感をも希薄にしていたが。温かいという感触と、左の指先に感じる僅かな脈動だけは残像のように残っていた。
ピク、ピク、と脈を感じる度、清子は消えかける手の存在を呼び戻すようにイメージしていく。
少し日に焼けた茶色みを帯びた肌。
そこを太い血管がいくつも枝分かれして走り。
拳の端で張り出した大きな丸い骨が張り出している。
はっきりと思い浮かべようとすればするほど、文博の手本来の大きさがわからなくなっていき、それはいつしか無限に広がる暗闇一杯に薄っすらと輪郭をつけていった。
清子の目下には、ひび割れた土の大地が広がっている。
そのひびの隙間をいくつかが川となり流れ、それらを阻むように向こうで巨大な山脈がそびえ立つ。光景。
そこをどこということもなく眺めていたつもりが、突如清子の目の前には家が建っていた。
しかしそれは全体の半分ほどが抉られており、家の原型を残した廃墟というのが正しい。
そしてその家を抉った原因と思われる巨大な石が、今は失われた家半分の代わりに大地に突き立っている。
清子はそこを上空から見下ろしていた。
だからじゃないが、その巨大な石が降ってきたのだと感じた。
中に人がいたのだろうか。それとも、廃墟になってから潰れたのか。
そんなことを考えていると、その所在不明の住人が自分自身になっていた。
見上げるほどの巨大な石と家の境との隙間から陽の光が差込む、廃墟内。
床板は湿り腐っていて、そこら中黒ずんでいるが、陽光以外に明かりのない室内では、影なのか腐敗によるものなのかの区別がつかない。
それでやっと清子がここがどこなのかを考え始めた、その時。
だれ。
と声が聞こえた気がした。
しかし、誰の姿も見えない。
それに、清子が声を出そうとしても口が動かせるだけで音は何も出なかった。
すると声の主は、思い出したわ、と言った。
何をだろうか。
考える間もなく。声の主は次に、でもなんだったかしら、と言う。
まるでわけがわからない。清子がぼんやりしていると。
声の主は、思い出せないからさっさと教えて、と言った。
何がなんだかさっぱりだが、清子が声の人に何かを教えられる立場にあるのは確かなようだ。
それをなんと伝えればいいのかは見当もつかなかったが、訊くべきことがあるような気がしていた。
雅は無事ですか。
ええ、ここにいるわ。
よかった。
言いたいのはそれだけ。
はい。
そう、じゃあそれだけ伝えるわ。
待って、もう一つだけ。
どうぞ。でも、みっともない手紙みたいなのはよしてよ。
あなたはもう大丈夫だ、と。
わかったわ、伝えておく。
よろしくお願いします。
その声なのか意識なのかは、伝えきれなかった。
清子の目の前には、ソファで横になったままの雅がいて、ヒュウヒュウと苦しそうに喉を鳴らす荒い息遣いが聴こえていた。
「あんまり持たないって言ったでしょ……。長いのよ」
青柳の弱々しい声がして、清子が咄嗟に振り返ると、汗をかいてびしょ濡れになった彼女がよろけてテーブルから足を踏み外した。
それを文博が慌てて受け止める。
「今のは、いったい……」
「そんなの知らないわよ」
言って文博の手を振り解くと、青柳は風船が勢いよくしぼむように大きく息を吐いてテーブルの上に腰を下ろした。
「それで、ウィウットだっけ? その子に会えたの?」
いや。と文博は首を横に振った。
「そう。じゃあ失敗したのか、私は……」
そう言ってうなだれる青柳に、いや、とまた文博が言った。
「成功だったと思う。誰かに言われたんだ、伝えておく、って……」
「へえ。じゃあ成功なのかもね。それで、あなたはなにを伝えたの?」
「俺はなにも……」
「はあ? こんだけ人に迷惑かけといて、なにもできなかったとか……。ほんと情けない男ね」
呆れて嘆息する青柳。
「いや、なにもってわけじゃない。ただ、頑張れ、ってそれだけしか……」
物憂げに文博はそう言うと、突然頭をぐしゃぐしゃに掻きむしった。
「もっと……。もっとなにか言ってやれたかもしれないのに。なにも思いつかなかった。こういう時に限って俺は……っ」
苦悩を口にする文博を、フンっ、と青柳は鼻で笑う。
「そうやって無駄に悩むくらいなら、もっと思慮深く生きれば? バカね」
「……バカ、か」
こぼすように呟くと、文博は雅を振り返りそっとその額を撫でた。
ごめんな。
注ぐような声で文博がそんなことを言った、瞬間。
突如雅が目と口を大きく開けた。
「うわぁっ!」
怯えた声を上げ、文博は仰け反り。
「雅っ!」
清子は咄嗟に飛びつくようにして雅に顔を寄せたが、そこにある雅の表情は穏やかな寝顔のままだった。
一度開いた目と口が、いつ閉じたのかがわからない。
雅、と清子がもう一度声をかけると。
「いきなりなによ。びっくりしたぁー……」
青柳が言った。
清子が振り向くと、そこで彼女は手を胸に当てていて、唖然とした顔をして文博を見ている。
「た、雅が今……生き返った……」
「は?」
転じて訝しげな表情に変わった青柳も清子と同じく雅の顔を覗き込むが、「どこがよ」、と話が通じていない。
でもたしかに。
そうなんです雅が。
清子と文博がそれぞれ言うと、青柳はそれとなく他の二人に視線を送った。
すると二人は、いつからか壁に寄りかかっていて。陽介が吉木を半ば支えるような格好で立っていた。
そこでそのまま、まず吉木が首を横に振り、次いで陽介も首を横に振った。
「……気のせいだったんじゃない?」
三人分の結論として、青柳はそう言った。
「でも……」
言いかけた清子だが、瞬きすらしていない間に元通りになっていた表情を説明もできないし。叫び声を連想していた自分を少し疑っていた。
諦めて、そうかもしれません、と答えると。
「気のせい……だったのかも……」
驚いて固まった表情のまま、文博もそう言った。
だからそうなのだろう。
不思議な光景を目の当たりにし、体験し、奇跡に期待するあまりそんな幻覚のようなものを見てしまったのかもしれない。
だが、だからこそ清子は信じようとも思っていた。
あの時、病院の廊下で聴こえたのは間違いなく叫び声だった。
ウィウットが生きるに上げた、勇ましい雄叫びだったのだと。
それに、あの台詞。
ついさっき聴いたばかりのものを忘れるはずがない。
ふと向けた清子の視線の先、その左手の甲は大きなガーゼで覆われていた。




