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第三十話 「奪還 その八」

「善くんっ!」


 滑り込むようにして駆け寄った鈴希のそばで、善は腹部を抱え両膝を折って座り込んでいる。


「善くんっ、どこを刺されたの!?」


 鈴希が伸ばした手を、「触るな」と善は振り払った。

 その襟足が遠目の清子からでもびっしょりと濡れているのがわかる。


 刺された。

 少し遅れて鈴希の言ったことを理解し、清子が改めて善の様子を窺うと、実は黒ではなく深い紫色だったシャツの彼が手を押さえるあたりだけ正しく黒く変色している。

 同じくうなじのあたりもだ。


 似たようなシャツの変色が腹部だけで決定的に違うといえるのは、善の手が赤く濡れているから。  

 

「たいへん……っ」


 今さら善の危機に焦点が合い、清子は行動よりも先に考え始めた。

 

 とにかく止血だ。

 ポーチからハンカチを取り出し、「鈴希さん」と彼女にそれを渡し、清子はすぐに室内に駆け込んだ。


 目指すのはまたあの最奥の部屋。

 人の解剖が行われたその場所になら、ハンカチよりも使い物になる止血具があるはずだ。


 そこで気絶しているように見える男を飛び越えるのに、恐怖は微塵もなく。

 美杏が小学生の時の運動会以来の全力疾走。

 久しぶりに加速する清子の体は、軽かった。


 あっという間に部屋へ到着し、清子は冷凍庫とは反対の位置に置かれた白いロッカーを乱暴に開けると、そこには数種類の箱がいくつも収められていた。

 その中のいくつか、ガーゼの三種類を持てるだけ持ち、清子はまた来た道を戻った。


 そうして廊下に飛び出すと、善はシャツをはだけて担架の上で横になっていた。その脇に血染めのファイルが置かれている。

 もう善は自力で傷を押さえる力もないのか、今は鈴希が額に薄っすらと汗をかきながら善の脇腹に手の平を圧迫していた。


「これを」


 清子はガーゼの箱の中身を担架の上に撒け、一つずつが個包装されている中身を次々に取り出して鈴希の手元に重ねていく。


 鈴希がそれを挟もうと手を放した途端、傷口から血が山となって溢れ出し、善が浅く長く息を吸った。


「止まれ、止まれ、止まれ……」


 止まれ、止まれ。

 呪文のように唱える鈴希の手を、不意に善が掴んだ。

 驚いて鈴希の呪文が止む。


「善くん……」


 名を呼ばれるも、善は目を瞑ったまま天井を向いている。


「善くん? ねえ……」


 様子を窺う鈴希に掠れた声で、あれを、と返事が聞こえた。


「あれ、ってなに?」

「ホンモノだ……絶対忘れるなよ……」


 こんな時に何を言っている。

 焦ったのは、清子だった。


 しかし。鈴希は頷き、「清子さん、あの刀を持ってきて」、と傷口を押さえる手を片手に変え、担架を貨物用エレベーターに向けて移動させる。


 拒む理由も、意味もないだろう。

 この期に及んでホンモノがどうとか、清子には案の定理解できないことだったが、鈴希にはその意味が伝わっている。


 だから清子は、当然のこととして受け止めた。

 踵を返しクリーンルームに再突入すると、気絶してなお握られたままの日本刀を無理やり引き剥がし。


 そして、雅とともに貨物用エレベーターに乗り込んだ。


          ◯


 四人が地上に戻り鉄の扉を開くと、シャッターが開いていた。

 それが宝を守る竜の手はずだろうということはいいとして、そこに和歌山太郎の姿がなかった。

 

 気づいたのは清子だけで、鈴希は善を一刻も早く病院へ連れて行こうと一目散に施設を出て行った。

 

 和歌山太郎は、気絶から復活しどこかへ逃げたのだろうか。

 一見当たり前の判断とも思える行動だが、たかが女二人相手に仲間へ通報もせずにそんなことするのはおかしい。


 奇妙な和歌山太郎の行動は、もしかするとまだ施設の中に残っているのかもしれないという可能性でもあった。

 だとしたら、だ。

 なぜあれだけ騒がしくしていた地下六階に誰も来なかったのか。


 これもまた奇妙だ。


 困惑したまま清子も施設を出て、鈴希の後を追って善のバンへ向かう途中。どこからか救急車のサイレンが聞こえ。

 まさかこれも宝を守る竜の仕業だろうか、と清子がサイレンの出処を探して適当に向けた視線に、また一つないものが映り込んだ。

 

 駐車場の車、ハイブリットカーが一台抜けている。


 なら、やはり和歌山太郎は逃げ出したのかもしれない。

 警察を呼ばずに。

 女二人に恐れをなして。


「……やっぱり、変だ」


 納得がいかないまま、清子が敷地を出ようという時だった。

 強くなるサイレン。

 一台の救急車が、林側の曲がり角を曲がってこちらへ向かってくる。


「良かった」


 急ぎ足で鈴希に追いつく清子。

 

「竜、ですね」

「たぶん」


 そう言って頷く鈴希は安堵しているかと思いきや、眉間にシワを寄せ、まだ緊張は解けていない様子だ。


「どうしたんですか?」


 声を掛けた清子を急に振り返り、「あなたはバンで行って」、と言った。


「雅くんは、病院には連れていけない。とにかく今は、あなたが守ってあげて。どこでもいい、適当に走って。あとで必ず連絡する。それと、それ、絶対に失くさないで」


 さあ。

 言うなり鈴希は道に出て手を振り、こっちだと救急車にアピールし始めた。


 これ以上何を訊くこともない。

 清子は向かってくる救急車とすれ違い、走って台を押し進めた。 


 車の鍵は開いたままだった。

 手際よく雅と刀を車に乗せ、運転席に着く清子。

 

「鍵は……」


 日本じゃまずないと思いつつ、サンバイザーの間やグローブボックスを探すも見つからず。

 清子がもしやと探った鍵穴に、挿しっぱなしになっていた。


 エンジンをかけ、車が林から道に戻る寸前、清子が救急車の方を見ると、水色の服を着た救急隊員の一人がこっちへ向かって走ってくるところだ。


「行くよ、雅」


 清子は顔を正面に戻し、向かってくる救急隊員を振り切るようにアクセルを強く踏む。 

 そうして行く道すがら、早朝のサイレンを聞きつけた野次馬たちが施設に向かって歩いていくのとすれ違った。


 正面の信号は、青。

 この先を、鈴希は適当に走れと言ったが、清子に行く先はもう決まっていた。


 まだ終わりじゃない。


「今行くからね……雅……」


 清子には、救わなければならない息子がもう一人いる。

 その子が今どういう状況なのか、少なくとも危機が迫っていることは確かだ。


 地下であの日記を読んで何も感じなかったこと。

 それが、答えだった。

 真に切迫した状況に陥って、清子は初めて自分の心を知ったのだ。


 こっちの雅が息子だと思っている。


 自分の真意でありながら、なぜ今まで気づかなかったのか。

 原因は、いわゆる頭の中というものにあるのだろう。


 自身が一つであるのと同じく、雅も一人。

 どこかでそれを感じていて、だから意識が分裂してもこっちの雅を守ることで向こうの雅を取り戻すつもりだった。


 結局、そうなのだ。

 向こうにいるもう一人の雅を、戻せるものだと考えていた。

 こっちの雅では無理だとわかっていて。


 だから答えはすでに出ていた。    

 どちらの雅を守るべきか、それをこっちのと確定していたのだ。

 

 心で想うだけで、人は救えない。

 それがわかっているからこそ、全力を注いだのはこっちの雅の方で、おざなりに愛情らしいものだけを想ってなんとかしようとしていたのが向こうの雅への対処だった。


 それを遠く離れた距離のせいにし、自らの力は届かないと初めから救うつもりすらなかった。

 どこかで誰かがどうにかしてくれるし、向こうの雅にはどうにかしてもらうしかないと。


 むしろ、どうにかなると思っていた。

 それを、信じる、かのような感情で誤魔化し、ただただ心配だけを口にした。

 

 物言わぬ子を我が子と信じ、目の届かぬところで生きる子をおざなりに。


 そんなことが根本的な考えでいて、自分を親だといえはしない。

 初めから。雅が生まれた時から、ずっとそうだった。

 子どもを育てるということを、世話を焼くことだと勘違いしていた。


 そのための三食だったし、過去の思い出、涙、心配事だった。

 でも、違う。

 

 雅は、すでに雅だったのだ。


 自分の目に映る雅と、見えない雅と。

 どちらもずっと雅で、それなのに目に見える雅のことばかり気にしていて。

 そんなことだから、我が子の真の成長を見落とした。


 見た目の変化は、止まるのだ。

 若木だって、成長すればいつかは見た目の変化がつかなくなる。

 そこまでを成長と捉え、大人という成長しきった段階からは、老けたとしか感じなくなる。


 毎日毎日、ただ見ているだけだから。気づいたら、だ。


 気づいたら、雅は大人になっていた。

 違う。

 そうなることは決まっていた。


 毎日栄養を与え、健康に育てなくとも、体はそうなる。

 自分がそうで、文博がそうで。

 それなのに、どうしてこんな当たり前のことを信じていなかったのか。

 信じられなかったのか。


 信じるか信じないか、ではなかった。

 信じようが信じまいが、この世に生まれ落ちた時点で、もしかするとそれよりも前からずっと雅は雅だったのだ。


 雅は雅という一人の人間だった。


 子どもの意志を尊重する、のが正しい親としてのあり方か。

 子どもの健康を願う、のが親としての思いやりで優しさか。

 きっとどちらでもない。


 どちらも、生まれた我が子にはそもそも親かどうかなど関係ないのだ。


 彼は彼であり、これからもずっと彼という自分を軸に進歩していく。

 永遠に、永久に、その意志が消えるまで。


 それは目には見えないもの。

 ただ、行動として微かに感じることしかできない。

 

 見落とせば、時が飛ぶ。そして、二度とその時を想うことはできない。

 そうして想われなかった一瞬は、子どもにとって毒となる。

 その毒は彼らの軸を蝕み、永遠に永久に、その意志が消えるまで親の愛情は欠如したまま。 

 毒は自分自身では癒やすことはできないのだから当然だ。


 それでも。

 彼が在り続ける限り、欠けた軸を補うため枝を伸ばしたり、軸を太くしたりして成長しようとし続ける。

 雅は、もうこれ以上成長する力すら及ばないほど、彼自身という軸が蝕まれて細くなっていたのかもしれない。  


 だから雅は部屋にこもった。


 きっと、これ以上傷つけば意志という目に見えない自分が折れてしまうとわかっていたのだろう。

 石膏ボードの壁とメラミン板の扉が、雅を守ってくれる唯一の盾だった。


 そしてそれは、親である清子自身を守ってくれる盾にもなっていた。    


 雅は、藻掻いていたはずだ。

 だが、最後の意志を残して、それでもなおあの部屋で生き続けていたのは。


「…………」


 清子の頬を伝う涙は、間違いなく自分のためのものだ。

 それが、エゴでも勘違いでもいい。

 雅は、自分の命を自分以外の人のために使っていた。

 そう感じて、泣きたかったのだ。


 少しでも彼のことを知り、毒を癒やしてあげたかった。


 だって今はまだそれしかできない。

 この想いも、呪いとなって彼に届けばいい。

 願い、清子は涙を流し続けた。


          ◯


 一路高速道路上を南へ車を走らせる清子。

 スマートフォンが着信したのは、宮城と福島の県境を越える頃だった。


 すぐさま近くのパーキングエリアに車を停め、スマートフォンを立ち上げると、善から一回の着信と一通のメッセージ。それともう一つ、いつの間にかメッセージが届いていた。

 清子はまず、善からのメッセージの方を開いた。


『セーフ』


 たった一言。

 それで安堵し、清子は思わず吹き出した。


「あの人らしい……」


 それから電話をかけようと途中まで操作はしたものの、もう一通名無しからのメッセージが気になる。

 鈴希たちへの電話は後回しにし、清子はまず名無しからのメッセージを読むことにした。


『青い人。まずは、彼の奪還を感謝する。それと、この後の仕事は彼らに任せていい。あなたはトシゾウと共に続きを』


「……トシゾウ? 誰だろう」


 思い当たる人物に、そんな名の人がいただろうか。

 考える清子のスマートフォンが震え、そこには知らない番号が表示されていた。


「また知らない人……」


 もしもし。

 応答し、清子が耳に当てたスマートフォンのスピーカーからは、聞き覚えはあるが耳慣れない声がした。


『見つかりました。黒い欠片が……』


 吉木の声を聞き、清子は自分の頬が自然と釣り上がるのを感じていた。 


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