第二十九話 「奪還 その七」
わかっている、そんなことは。
立ち上がらなければいけない。先へ進まなければいけない。
頭の中で反復される意志はまるで呪いのように。
清子は木偶人形が動き出すように弱々しく立ち上がり、鈴希に手を引かれて最奥の部屋へと進む。
だが、顔は俯いたまま正面を見ようとはせず。
半分引きずられる足が摩擦の強い床で度々止まっては、鈴希が乱暴に力を込める。
その清子の耳に、自動扉が開く虫の羽音のような音が聞こえた。
ビクリと体が反応し、清子はそこで足を止めた。
負けじと鈴希は力を込めるが、それでも清子は動かない。
「清子さん、いい加減にして」
「…………」
叱責されてもなお動こうとしない清子。
しびれを切らした鈴希は、また胸ぐらを掴み、開かれたままの自動扉の向こうへと無理やり投げ入れた。
つんのめり、転んで清子が触れた灰色の床は濡れていて冷たい。
「よく見て。あなたが怖がっているようなものはここにないよ」
それもわかっていた。
それでも清子は今の言葉に僅かな希望を感じ、顔を上げ左右を見た。
そこには、外から見た通り銀色の台が二つある。
いやに美しく、歪んだ自分の顔と背後の風景までもがぼんやりと映って見え、それが気味悪い。
念入りに磨かれているのだ。
その証拠に、美しく見える銀色の台には拭って残った跡が筋になって弧を描いている。
いったい何のなにをそれほど念入りに拭き取ったのか。
それがまざまざと思い浮かび、清子は嘔吐した。
朦朧とする意識の中、瞼の裏に見える白衣の七人は、清子を見下ろしている。
その手には青いゴム手袋とメス。
徐々に近づいてきて、同時にマスク越しの十四の瞳が覗き込んでくる。
「清子さん、立って」
鈴希の声で幻覚は消え、しかし鈴希自身の姿は台に隠れて見えなかった。
早く、と促され、清子は口元を拭ってゆっくりと立ち上がった。
鈴希は、台を隔てて向こうにいる。
いくつもの台と同色の蓋がこちらを向いている無骨な三段積みの棚の前だ。
間近に見るのは初めてだが、清子はこれも知っている。
呆然と立ち尽くし、清子が背中を見ていると、鈴希は徐に中段一番右端の蓋を開けた。
すると中から薄い白い煙が溢れ出し、鈴希の足下に落ちていく途中で消えていく。
鈴希はその中のものを半分だけ引き出し確認だけしてすぐに戻すと、今度はその隣のもの開け、中を引き出してまた戻す。
開けて、出して、戻す。
それを一番左端まで五回繰り返し、そこで手を止めた。
襖が開くのと同じ程度の静かな物音。
ガタン、と一際大きな音が立った時、鈴希の目の前には棚の中身が完全に露出していた。
銀色の棚は、冷凍庫。でも、ただの冷凍庫ではない。
これは専用のものなのだ。中に入れるものが限定されている特別製のもの。
人を保存するためのものだ。
その冷たい台の上で仰向けに寝ているひと。
別れた時よりも黒みが増して見えるのは、冷やされたせいなのか。
白い靄と相まって銀色に紛れて見え、姿があまりはっきりしないように感じられる。
清子は、気がつくと真っ直ぐに立っていた。
恐れも不安も失せ、鼓動も呼吸も虫のそれといえるほど静かだ。
「やっと見つけた」
それは清子が言うつもりだった台詞だ。
しかし現実には鈴希が言っていて、清子の目に映る黒い人の頬に手の甲を触れたが、ピクリと動きを止め、すぐに手を放した。
背中越しでは鈴希の表情を窺えないが、顔が僅かに動いたのを清子は見ていた。
自ずと動き出し、そばへ近づく。
その足取りに先ほどまでの重さはなく、淡々と距離を縮め。
そして、ようやく二人は再会を果たした。
「ただ……し……」
会いたかった。
簡単な言葉を言うつもりが、清子は膝から崩れ落ちた。
途端に溢れ出す嗚咽。
呻きとも叫びともつかない、ア、の一音だけが清子の口から垂れ流しにされ、涙も何もかもが一緒くたになって清子を汚していく。
後悔と自責と、感情はもはや原型を留めておらず、どろどろに溶けて混ざり合いヘドロと化し。全身に力を入れることすら叶わず。
それは、泣いているというにしてもあまりにも悲惨な光景だった。
そんなものを目の当たりにし、奥歯を噛みしめる鈴希の目にも薄っすらと涙が滲む。
「清子さん……」
震える唇で、ようやくといった様子で声を絞り出した鈴希は、地べたに崩れたままの清子を抱き締めた。
「ごめん」
でも。
と、鈴希はぐちゃぐちゃになった清子の顔を自分に向けた。
「ここで泣いてちゃダメだ。早く、雅くんを安心できるところに連れて行ってあげようよ」
でも、雅はもう壊されてしまった。
その鎖骨の両側からYの字に裂かれた傷痕、はみ出した糸、くぼんだ腹。
「ゆゆ、ゆび、ゆびが……っ」
右手の指が、一本残らず失われていた。
それから、縫われてもいない小さな傷がいくつも。
ひと目見ただけで、雅が弄ばれた後だとわかった。
「たたた、ただしただし……は……」
ガタガタと目に見てわかるほど震え、歯を鳴らしながら、それでも清子は雅のことを訊こうとしていた。
雅は死んでしまったのか。
腕を中心に体中にあった無数の傷は癒えていなかった。
それが雅に生じていた現象の終わりを意味するのだとすれば、雅はもう。
痛めつけられた息子の姿を目の当たりにし、清子はどうしても雅の死を考えずにはいられなかった。
部屋で見つけた時も、それからもずっと、雅は生きている、と感じていたのに。
ついさっき日記を読んだ時にも、それが感じられなくなっていた。
だからそうだ。
清子はすでに、雅が死んでしまったとを感じていた。
そういう意味で、銀色の解剖台からこの数メートルの移動こそが雅の死を否定するための行動だった。
無事でいてほしい、生きていてほしい。
切なる願いは出遅れ、今さらだったのか。
なら、もっと早くそう思っていれば雅は無事でいられたのだろうか。
ヘドロの中から後悔の部分が顔を出し、瞬間。
清子は思い出した。
途端に震えが止まり、呼吸が取り戻される。
「呪い……。私、呪いをかけました。雅に呪いを。あれは、意味がなかったんでしょうか……」
意味はあったはずだ。
山下青柳は、呪いが雅を守ると言った。
「呪い……、そうだ。呪い。善くんが、意味もなくそんなことさせるはずがない……」
清子さん、と名を呼ぶ鈴希の目に言いようのない力強さが感じられる。
「善くんを信じよう。まだ終わりじゃない。わたしたちは、ここで落ち込んでちゃいけないんですよ」
「はい」
清子が頷いたのは、ほとんど反射的にだった。
どうしてか感じられるみなぎるもの。
自信ではなく、希望があるわけでもない。それでも沸き起こる力のようなものは、信頼、だ。
今、無性に彼の言うことを考えてしまうのがそういうことなら、これこそが信じるということなのかもしれない。
霧峰善という人間が、いったいどうして雅に呪いをかけさせたのか。
鈴希の言う通り、清子にもそこに意味がないとは思えなかった。
だから、彼の言葉を現実にするために雅をここから連れ出さなければならない。
清子は立ち上がり、再び雅と向き合う。
もう目を背けるつもりはなかった。
今しなければならないことと、雅の姿に関係はない。
すると、鈴希は雅の寝せられた台を完全に引き出し、台の底から自動的に伸びたキャスターが床を掴む。
「このまま運びます」
鈴希が台を押し始めると、床をタイヤが床を躙る、ギュ、と微かに音がした。
清子は先に出て肌色の床に立ち、人の様子を窺う。
「誰も来ていない、大丈夫です」
廊下の方まで見渡し、人の気配が感じられないことを確認した清子が言うと。
鈴希が奥の部屋から雅を最奥の部屋から押し出す。
「清子さん、そういえばスマホ。エレベーターを使っていいのか、わかりますか?」
言われて初めて自分がスマートフォンを置いたままだったことを思い出し、清子は慌ててスマートフォンを拾いに行った。
それを手に取るのと同時、即座に側面のボタンを押すと、名無しのメッセージが届いている。
『少し待て』
と来ていたのは、およそ十分前。
少しの間混乱していたつもりが、もうそんなに経っていた。
続き、最新一分前のメッセージには『彼と共に貨物用のエレベーターに乗れ』と書かれている。
「彼……。鈴木さん、霧峰さんが下りてきているみたいです」
清子が言うと、鈴希は何かを思い出したようにハッと顔を上げ、「今何時ですか?」と。
「六時二十分です」
そう聞いて鈴希は「多めに時間を言ったのに」と顔をしかめた。
とにかく急ぎましょう、と鈴希が先行しクリーンルームに差し掛かろうという時だった。
「待って」
清子は鈴希を止めた。
貨物用ではない小さい方のエレベーターが動いている。
それは矢印が上を向き、五、から数字を減らし始めるところだった。
「上に行った……」
それが下に向かってこないことに安堵し、胸をなでおろすのも束の間。タッ、タッ、と階段を軽快に踏む音が廊下に響いた。
誰か来る。
それが善だと楽観視できないのは、言わずもがな地下五階に人がいることを知っているからだ。
「鈴希さんっ」
清子は静かに彼女を呼んだ。
当然鈴希にもその音は聞こえていたはずで、鈴希は慌てた様子で左右を確認していた。
隠れる場所といえば、三つある小部屋のどれかだろう。
しかし、そこに隠れたとして今をやり過ごせる可能性があっても、すぐに見つかって捕まるだけだ。
「ここまで来て……」
つまらないことに時間をくってしまったことを改めて後悔する清子。
そのそばで、「くそっ」、鈴希が吐き捨てるように言ったのが聞こえ。
鈴希は台を手前に引き戻しすと、「雅くんをお願い」、と自分はクリーンルームを突っ切って廊下に出た。
「鈴希さんっ!」
一人でどうするつもりだ。
清子は止めようとしたが、鈴希はもうすでに廊下を階段の方に向かっている。
窓に近づき、清子がそこを確認しようとした瞬間。
階段側の口から飛び出してきた黒いシャツの男と鉢合わせた鈴希が飛び退いた。
善だ。
「良かった……」
これで脱出できる。
そう思って清子が戻って雅を乗せた台を取りクリーンルームに押し込んだ瞬間。
それまで開きっぱなしだった出口が閉ざされた。
「えっ!」
突如の出来事に動揺する清子。すると。
『来るぞ!』
善の声がガラス扉の向こうで鈍く聞こえた。
誰が、か白衣の職員だろうということはわかっている。
だから早く逃げ出さなければならないのだ。
それなのに、どうしてここは閉じたのか。
施設のシステムが戻ったからではない証拠に、クリーンルームの反対側の扉は開いたままだ。
つまり、やったのは宝を守る竜に違いない。
「どうしてこんなことを……」
困惑する清子の視界に、二人が後退りして入って来る。
「鈴希さんっ、霧峰さんっ」
戸を叩き、清子は二人の気を引こうとするが、彼らの視線は廊下の向こうをじっと見つめたまま変わらない。
もう誰かは来ている。
清子も二人と同じく視線を階段の方へ向けると、そこに一人の男が立っていた。
中肉中背、慎重は善よりもずっと低く、とてもじゃないが敵わない相手だとは思えない。
しかし、二人の横顔には明らかな緊張が感じられ、同様に清子も男の姿を見て息を飲んだ。
男は、赤く汚れている。
白衣も、シャツも、顔も手も、スボンも、眼鏡にもその赤い飛沫が張り付いていた。
そんな汚れ方、普通ではない。
何が掛かったのかは、一目瞭然だった。
「にげてっ!」
清子が叫んだのは、男が血に染まった異常者だからではない。
男がまだ、血に染まった原因を持っていたからだ。
長さ五十センチほどの日本刀。
どす黒いどろりとした液体を滴らせる凶器を、男は力なく垂れ下げた右手に握り締めている。
嫌な未来しか浮かばない。
逃げろ、という忠告も声にならず、清子はただ戸を一発だけ叩いた。
すると、善が何か言い、鈴希が頷いた。
「なにをするの……?」
鈴希がバッグからあれを出した。
受け取るなりカバーを投げ捨て、善はそれを右手に構える。
「やめて、ダメっ! 殺される!」
ドン、ドン、と戸を叩く清子の手は拳に変わっていた。
しかし、善は異常な男に向かって突っ走っていく。
同時、鈴希が貨物用エレベーターのボタンを押し、その扉がゆっくりと下から上へと収納されていく。
つまり、二人の作戦はこうだ。
善が相手の注意を引き、その隙に鈴希がエレベーターを開け、二人で乗り込み上へ逃げる。
清子は二人の連携の意味を察したが。そんなのは無謀だ、と下唇を噛んだ。
その時。
ガラス窓にぶつかる、ドッ、と振動を感じ、清子は一旦クリーンルームから室内に戻り、階段側の廊下を覗いた。
見えたのは白い背中。
奥で、口を真一文字に結んだ善の真剣な表情が窺える。
「霧峰さん……」
善も格闘技を心得ている。
いける、と確信した清子の視線の先で、善の細腕が男の胸に目掛けて突き出された瞬間。男の体が急激に震え出し、小刻みに何度もぶつかる後頭部がガラス窓を打ち鳴らした。
ほんの一時の攻防、勝者が善だと安心しきった清子の心を見透かしたかのように、クリーンルームの自動扉が開いた。
「こっち! 早く!」
エレベーターの中から鈴希が叫び、清子は急いで台を押し出し、前輪が廊下に出たところ。
それを、なぜか、と清子は思った。
なぜか、台が動かなくなった。
おかしな状況とは思ったが、それでもとにかく台を押そうと踏ん張る清子。
しかし、それを一度だけ試したところで気づく。
誰かが台を止めている。
はたと顔を上げる清子と、眉間にシワを寄せて苛立った顔の男の目が合う。
男は、離れない、と言った。
「ずっとなんだ。どんどん強くなる。頭がおかしくなりそうだ」
囁くようであること以外、何のおかしなところもない普通の話し方。
あの時、地下四階で聞いたのと同じだ。
男は左手で台の端を掴み、半ば振り返るようにして清子を見つめている。
「どうして……」
スタンガンを当てられたはずが、どうしてこの人は何事もなかったかのようにここにいる。
どうして、彼よりも先にここに。
まさか、という思いが疑問の答えとして清子に浮かぶのと同時。冷たい飛沫が顔にかかり、視界の隅で刀の刃が振り下ろされるのが見えていた。
「清子さんっ!」
鈴希の声がし、むしろそれに驚いて仰け反った清子は、台に足を引っ掛けて仰向けにひっくり返った。
この時の光景を、体験者は皆スローモーションに感じた、という。
清子も同じだった。
ゆっくりと流れていく景色の中で息子の姿だけを捉え続けていて、そばの男の形相も、凶器も、どうでもよかった。
ただもう一度だけ触れたいと、伸ばした左腕。
ちらと映った廊下天井の蛍光灯の白い光が目に飛び込んできた途端、フラッシュバックする。
清子はあの時消えてしまった、続き、を予感した。
雅に最も近づきたいと思ったその後、自分は息子を抱き締められたのか。
その先を知れるのは、この時だけだ。
金網の床に背中を打ち、清子の時は加速する。
咄嗟の閃きだった。
清子は雅が寝せられた台に足の裏を当て、そこに思い切り力を込めて蹴り出した。
その衝撃が僅かな段差で増幅し、跳ね。
次の瞬間に起きた出来事は、まるで奇跡としか言いようがなかった。
「た……っ」
雅の体が浮き上がった台の反動で跳ね上がり、その左腕が清子に振り下ろされた刀の軌道を逸したのだ。
「ただしっ!」
自分の命を狙う男のことなど視界の隅にも映らず。
清子は台から転げ落ちた息子に駆け寄ろうとしていた。
その脇をすれ違うようにして飛び込んできた鈴希が男を背後からクリーンルームの中へ押し倒し、今度は首筋にスタンガンが押し付けられた。
ブブブ、ブブブ。と空気が震える音を背景に、清子はうつ伏せに転んだ雅を抱き上げた。
「雅、大丈夫っ」
乱れた前髪を払い除け、ようやく見れた雅の顔は小さな頃と変わらず穏やかだった。
これだけ痛めつけられても、この子はずっと。
その顎に薄っすらとついた痕を見て、清子は悟る。
雅。
想いを胸の内に込め、冷たく軽くなった雅を抱えて台に寝かせると、清子は十八年ぶりにその額にキスをした。
と、その背後。
走り抜けていった鈴希の叫び声が響く。




