第二話 「信じ難い話」
車のフロントガラス越しに見える風景。
清子が知る限り、そこは最も見晴らしが良い場所のだった。目に入る大概は水と空ばかりで、アスファルトもビルも車も人も何もない。
しかし、今は八月。午後四時近くなっても、清子の視界にはどうしたって多くの人々が映り込んでいた。
カラフルなパラソル、カラフルな水着、カラフルなボール、はしゃぐ若者たち。平日で家族連れが少ないのは幸いだった。
エンジンを切って静まり返った車内では、一歩外に出れば多少乱暴に聞こえる人の騒ぎ超えも波の音も遠くこもって聞こえていた。
清子は、海を眺めていた。
雅が一歳の頃、初めて連れてきた海だ。
行く宛もなく車を走らせて、思いつく場所がここしかなかった。
あの頃は幸せだった。
ふと過去を思い返し、清子はまた罪悪感に襲われた。
「そうじゃないのに……」
あんたは、自分のためにしか何もできない。
美杏の言葉が頭から離れなかった。
清子は、思わず突っ伏しそうになる体を無理やり背もたれに寄せた。
「ねえ、雅。雅は、この海のこと覚えてる?」
返事はない。
バックミラーに越しに見る横になったままの息子の姿は、病院を出る時にかけられていたシートと助手席に隠れていて、自分が組ませた両手以外顔も見えなかった。
しかし、返事がない姿も見えないなんて状況にはとうに慣れていたはずだ。
そういう意味で、子どもと同じ空間にいて話しかけられるだけマシなのかもしれない。
「覚えてないよね、まだ一歳だったもん。ちっちゃい頃の雅は……」
可愛かった。
言い掛けて、清子は自分の言おうとしている言葉が残酷であることに気づき、慌てて飲み込んだ。
「ごめん。お母さん、全然ダメだ。どうしても小さい頃の雅のことばかり思い出しちゃうな」
我慢ならず、清子は結局ハンドルに頭を突っ伏す。
「ねえ雅、いったいどうやって大人になったの……?」
訴えかけるように言って後部座席を振り返り、改めて大きくなった息子の体に目をやると、突然その手の甲に五センチはある大きな切り傷が浮かんだ。
清子は咄嗟に雅の左手を取り、捲れ上がった皮膚を凝視する。
警察が不思議な現象だと言っていたそれは、確かにその通りだ。雅を病院から連れ出してからも、傷が現れて消える現象を見ていた。
しかし、これほど大きな傷は初めてだ。
一度捲れ上がった皮膚が花びらがしぼむ時を早回しで見るように、瞬く間に元に戻っていく。傷が大きいからなのか、清子は初めて傷が癒えていく過程を目の当たりにしていた。
しかも、その後消えると知っていた傷は、痕になっていつまでも雅の手の甲に残っている。
それがおかしなことというよりも、この傷が何の傷なのか、ということのほうが清子には気になっていた。
例えば昔にこんな傷をさせたことがあっただろうか。
もしそういう過去に体が受けた影響を再現しているのだとすれば、この不思議な傷の意味もわかるというのに。
清子の記憶にはそれがなかった。
なら、もしかして部屋にこもるようになってからの傷か。
だとすれば自傷行為に違いない。
ずっと前からシグナルを発していたかもしれない息子の絶望に気づきもしなかった。
悔しさよりも悲しさで清子の目からこぼれる涙が雅の黒い手の甲を濡らした。
すると。
「これ……。これも?」
清子が見つけたのは、雅の人差し指の先についた小さな傷だ。
しかしそれは閉じておらず、紙で切った時のように皮膚が捲れ上がったままだ。
連れてくる時にどこかにぶつけて切ってしまったのだろうか。
小さなその傷がどうしても清子は気になった。
「一応、写真に撮らせてね」
優しく語りかけ、この傷が消えてしまう前に、と清子はショルダーポーチからスマートフォンを取り出し数時間ぶりに電源を入れた。
するとその画面には、文博と実家、警察からの着信履歴、それから美杏のメッセージと。
「これは……、あの人?」
雅を隔離施設から連れ出す時、手伝ってくれた医師かもしれない。
清子は、真っ先に三十分ほど前に届いていたらしい彼からのメッセージを開いた。
『当然だが、警察が追っている。もしも思い出の場所を巡っているのなら、今すぐに中止して車を乗り換えろ。車はどこか店のものでない駐車場に乗り捨てたほうがいい』
意味がわからない。
清子は動揺するが、確かにメッセージに書いてあるような行動を取っていた。
警察が追っているのは着信履歴からも事実といえる。
だが、清子はそのメッセージに恐怖を抱くことはなかった。
むしろ、これはチャンスだとさえ感じていた。
あの謎の医師に従うことが正しいのだと、すぐさまそう判断させたのは清子の性格と趣味にしている映画鑑賞の賜物だろう。
きっと自分には奇跡が起きているのだと信じ、清子は帰宅する人々の車列に混ざって駐車場を出る。
それから十分もすると、再びスマートフォンが鳴った。
文博からの着信だ。
清子はそれを無視して車を走らせるが、五分と経たずに着信音が耳障りになり、車を路肩に止めてスマートフォンの電源を落とそうとした。
その時、今止んだばかりの着信音がまた鳴る。
「もう、イヤ……」
半ば乱暴にスマートフォンの縁を握りしめる清子だったが、そこに表示されているのが『お父さん』の名ではなく、知らない番号であることに気づく。
誰からか、考える間もなく。清子はそれをあの謎の医師からだと確信して電話に出た。
「もしもし……」
慎重に話す清子に対し、『あ、出た』と声を発したのは女性だった。
「だ、誰ですか……?」
『はじめまして、わたくしすずきと申します。ライターをやってまして……』
ライター、というその言葉が火をつけるものでないことくらい清子にもすぐにわかった。
いったいどこで調べたのか、スマートフォンから勢いよく耳を離し通話を切ろうとした瞬間。
『ちょっと待って! 娘さんですよ! 美杏ちゃんから聞いたの!』
車内に響き渡るほどの大声でライターの鈴木という女が叫んだ。
そこに、美杏、という娘の名があった。事情を確かめるつもりで清子はスマートフォンを耳に当て直す。
「美杏が? どういうことですか?」
清子が口を利くと、鈴木は『よかったー』と安堵したように言った。
『ちょこっと色々ありまして、たまたまです。病院で息子さん、雅くんのことを知ったんですよ。それでちょっと美杏ちゃんにお話お伺いしまして、お母さんに連絡してみるといいということになりまして……。それで、ちょっとインタビューさせてもらえません?』
ちょっとちょこっと。前略というにも甚だしく、横柄というよりももはや横暴ともとれるような態度だ。
清子は恐れをなしてまた通話を切ろうとしたが、しかしこの鈴木という女性は美杏をたぶらかして自分の番号を手に入れたのだ。
今の清子に一言も言わず電話を切るという選択肢は消えていた。
「あの。そちらがどういう経緯で息子のことを知ったのか知りませんが、娘を巻き込むのは止めてください。あの子には、普通でいてもらいたいんです。それに、息子のことだってあなたみたいな人に話すつもりはありません」
言い切ると清子の心臓がバクバクと暴れ、奥歯にも自然と力が入っていた。緊張のあまり鼻息も荒かった。
しかし、スピーカー越しの鈴木は『まあまあ』と慌てる様子もない。
『そう怒らないでくださいよ。こっちもまあ仕事っちゃ仕事なんです。いや、どっちかというと趣味に近いかな……いやでも……』
「しゅ、趣味って……。なんなんですかあなたはっ、いい加減にしてくださいっ。もう切ります」
興奮も相まって通話を切ろうとする清子。
するとまた、鈴木は叫んだ。
『ヘンリエッタ・ラックス!』
その名を偶然か清子は知っていた。
奇妙な不死の細胞というものの持ち主だった女性で、彼女の細胞が本人家族の知らぬあらゆるところで培養され、利用されていたことを問題視した映画を見たことがあったのだ。
「それが、どうかしましたか……」
言いながら、清子は彼女のいわんとしたことを理解できる気がしていた。
『似ていると思いませんか? 雅くんに起きていること』
「それは……」
今、生まれた解釈だ。
当人死亡にも関わらず、死なずに分裂を繰り返す細胞。
ヘンリエッタ・ラックスの細胞に関していえば、単に増殖して治癒するということではなかったはずだが。
死亡という状態に関係なく体が治っているという点では、そういう細かい部分で何か似ている節があるといえばある。
『それに、ありましたよね。なんとか細胞はあります、とかってやつ。あれはまあ、なかったことになっちゃってますけど。考えてみてください。
科学者が何百年もウン千年もずっとそのことを考えているんです。つまり、あり得る。何かをきっかけに雅くんの体は死ななくなっているかもしれないんです』
「でも、雅は息をしていませんし、心臓も止まっています。声をかけても返事をしないし、動かない……」
『それってのがつまり死んでる状態ってことですよ。でも、例を挙げればいくつもあるんです。それが人になかったってだけで、自然界には不死に近い状態が』
「じゃあ……」
清子に希望の光が差していた。
「雅は、やっぱり死んでいない……?」
『かもしれません』
鈴木の一言は、病院にいた医師や検視官のような有識者の言うことに比べて突拍子もない。
だが、それが欲しかったのだ。
今の清子には、信じ難い話こそ活力だった。
「よかった……」
思わず呟いた清子の言葉に、鈴木が呼応したかのように同じ言葉を言った。
『よかった。さすが、美杏ちゃんのお母さんですね。話が通じた』
とにかく会って話しましょう。
そう言う鈴木の提案を拒否するつもりはなかった。
承諾し、清子が自分のいる場所を告げると、鈴木はすぐさま近くにあるコインパーキングで待つように指示をよこした。
『ぶっ飛ばして行きますから。それまで絶対捕まらないでくださいよ』
それに清子が返事をする間もなく通話は切れた。
直後にまた文博から着信があったが、それを切り、清子はついに着信拒否の設定をしてアクセルを踏み込んだ。
◯
隣県の某所、海から十五分ほど車を走らせた場所に、鈴木から指示のあったコインパーキングは見つかった。
とはいえ、都内から来るという鈴木をここに停まってぼんやりと待つのは危険だ。
一度は近所を周回して時間を稼ごうとした清子だったが、途中でパトカーを見かけたことに怯え、コインパーキング近くのスーパーやコンビニの駐車場に車を停めながら時間を稼ぐことにした。
そんなことを二時間ほど続けた頃、美杏からメッセージが届いていたことをふと思い出し、清子はそれを開いた。
その最下には一言、『やっぱり読んでないね』と美杏からの一言が書かれており、そこから上にはスマートフォンのメッセージ画面のスクリーンショット画像が何枚も添付されていた。
ぱっと見では小さくて文字は読めないが、メッセージが片側に偏っているため一方的なものだということはわかる。
「なんだろう……」
口で交わすよりも多く、このスマートフォンのメッセージ機能で娘と会話してきた。ハイテクに疎い時代遅れの清子でも、もう慣れていた。
少しだけ緊張しながら画像をタップして、それが拡大された瞬間。
スマートフォンの画面は鈴木からの着信に変わった。
すかさず清子は電話に出る。
『着きました。今どこです?』
その明るい口調に、清子は安堵を覚えるようになっていた。
「近くのコンビニに停めていました。すぐに向かいます」
そうして待ち合わせのコインパーキングが見えると、そこで黄色の軽自動車のそばに寄りかかり、スマートフォンをいじるサングラスをかけたラフな格好の女性が目についた。
彼女は背が高い。それが場違いというか違和感に感じ、きっとそうだ、と清子に思わせた。
しかし、清子が車を侵入させると女はスマートフォンに目を落としたまま車に戻り、中で何やらしている様子だ。
「違ったかな……」
若干の不安を感じつつ、女の車から離れた場所に車を停める清子。
すると、彼女から着信が。
もしもし、と清子が言うよりも先に鈴木の声がする。
『今入って来たの、そうですか?』
「はい、そうです」
答えて先ほどの女を見ると、車内から清子を見つめて手を振っている。
それに清子が会釈をすると通話が切れ、女は車から下りて精算機へ行き、そうして車を出すとすぐに清子の右隣に停め直した。
女が車から降りてきて、清子の乗る車の窓を叩く。
清子は窓を開けた。
「セーフ。タダでした」
駐車料金のことだろう。
朗らかに言う女に、清子はただ会釈だけをした。
「改めまして、わたくしすずきと申します。よろしく」
そう言って差し出された名刺には、"SilverKey"という知らない会社名と"綿串鈴希"という彼女の名が書かれている。
「あれ、鈴木さんじゃ……」
清子が言うと、鈴希は肩をすくめた。
「間違ってないですけどね、よく間違われます。ささ、そんなことより早く雅くんを移しちゃいましょ。その前にこれ、どうぞ」
鈴希から新たに差し出されたのは、見知った洋服屋の袋だった。
「さすがに裸じゃマズいと思って、途中買ってきたんです。サイズはよくわからないんから一番大きいやつにしたんで大丈夫だと思います」
こっちの準備しておくんで、着替えさせてやってください。
そう言うなり鈴希はさっさと自分の車に戻ってしまって、清子が言った礼の言葉は聞こえていないようだった。
「お金、返さなくちゃ」
そんなことを呟きながら、清子は後部座席に回り裸だった雅に服を着せる。
鈴希が用意してきたのは、下着に長袖のボタンシャツと長ズボン、ベルト、靴下、それから靴まであった。そのどれもが黒で統一されていたのは、雅の事情を知った上での配慮だろうか。
もう何十年ぶりに息子に服を着せる清子は、やはり幼い頃を思い出して手際よくやるつもりだったが、思うようにはいかなかった。
大きくなっている。
それは雅が高校に入る前からわかっていたことだが、実感できたのは今になってだった。
「終わりました?」
不意に背後から声を掛けられ、清子は慌てて目元を拭った。
そして、二人力を合わせ雅を鈴希の車に乗せ換えた。
最中、鈴希は雅の体を見て、「本当だ……」と感慨深げに呟いた。
それから鈴希に続いて清子も助手席に乗り込むと、早速鈴希は車を発進させる。
「よーし、順調。こうなっちゃえば警察も追っかけづらいですよね。信じてくれてありがとうございます。っていうか、車、いいですよね?」
「それは承知の上ですので。というか、その……助けてくれてありがとうございます」
恐縮して言う清子に対し、鈴希は「どーいたしましてー」とあっけらかんとしている。
電話越しでも彼女の明朗闊達さは伝わっていたものだが、こうして目の当たりにすると気圧されそうなほど彼女は眩しい。
きっと好きなことをして生きている人なんだ、と清子は感じた。
「それで、一応雅くんの状況聞いておきたいんですけど。いいですか?」
「はい」
清子は、自分が雅を発見した時からその前日のこと、様子など警察に伝えたことと同じ内容を話し。
それから二時間ほど前に雅の左手の甲に現れた傷のことを話した。
「え? 傷って消失するって聞いたんですけど。消えてない?」
「はい。私も最初はそういうものだって見ていたんですけど、さっき浮かんだ傷だけは残っているんです。それと、指先にも小さな傷が消えずにあって」
清子が言うと、鈴希は「ふーむ」と唸った。
「つまりそれって、雅くんの体はなんでもすっきり治すってわけじゃないってことですよね。小さいものは消せるけど、大きいものはなくせないっていうか。どういう意味なんだろ……」
「わかりません。そもそも、心臓も呼吸も止まっているのに勝手に怪我をするっていうことから、もう……」
「ですよね。例えばですけど、小さい頃の傷がまた浮かんでるってことじゃありません?」
「それは、私も考えてみました。でも、左手の甲の傷には覚えがないんです。小さいものも覚えていないんですけど……」
また過去を思い出そうとして項垂れる清子だが、鈴希はそんなことを気に留める様子もない。
「わけわからんですね。けど、体が反応するってことは生きてる証じゃないですか。もしかしたら意識を戻す方法もあるかもしれない。一緒に考えましょ」
相変わらずのハキハキとした声で言うと、鈴希は清子に向けて親指を立ててみせた。
「大丈夫。なんとかなりますよ」
「ありがとう……ございます……」
声を詰まらせ、清子は泣いていた。
見ず知らずの、これまでなんの関わりもなかった人が自分を手伝ってくれようとしている。
単に鈴希がこの件に興味をもって近づいてきただけだとしても、嬉しかったのだ。
やっぱり彼女を信じてよかった。
清子には、この鈴希という人間が自らを救ってくれる女神のようにさえ見え。きっとこの人についていけば大丈夫だと、そう思えた。
だからだろう。
清子はこの人に全てを伝えるべきだと感じ、ついさっき開きかけた美杏からのメッセージのことを伝えることにした。
「娘からきたメッセージなんです。見てもらえますか?」
「え? いや、でも今運転中なんで。どんなものか口で言ってもらっていいですか?」
「はい」
清子はそこで一度は最新の画像を見てみようとしたが、思い直し、添付された画像の一番古い物までスクロールしてそれを読むことにした。
何回か画面を指先でなぞると、清子の目には『これ、読んで』という美杏からのメッセージが映り込んだ。
二時間前、海を眺めていた頃のメッセージだ。
見逃していたことを若干悔いながら、その一番最初に添付された画像を拡大する。
やはり一方的に送られている文章は改行されていないために、読みづらい。
「娘が誰かとメッセージのやり取りをしている画像です。相手は……」
と、その上部に書かれた送信者の名前を見て、清子は眉を寄せた。
「雅……です」