第十話 「落札したもの その七」
善を振り切り、清子はとにかくエレベーターには乗り込んだが、これからどうするかは考えていない。
静かな密室内、不意に押し寄せた疲労感で清子は壁にもたれかかった。
「……どうすればいいの?」
右も左も敵に見える。
普通じゃないことを正しいと信じようとした途端、清子には全てが怪しく思えてどうしようもなかった。
警察も、司法解剖なんてそれらしいことを言って、雅の体を弄んで実験をしたいだけなのかもしれない。
善は雅に起きている不思議なことを面白がっているだけ。
鈴希だって、いい人だと思っていたが善の部下だ。
おまけにわけのわからない人物まで現れた。
皆関係ないのに、なぜ雅を欲するのか。
どうして誰も助けてくれようとしないのか。
「もう、いや……」
誰か。
自分以外に雅のことだけを考えてくれる人はいないのか。
ただ純粋に、雅の復活を望んでくれる人は。
「美杏ちゃん……。そうだ、あの子なら」
もう信じられるのは自分の娘しかいない。
自分よりも確かに雅を愛し、誰よりも真っ当な涙を流してくれた。
すがるような思いで清子はスマートフォンの電源を入れ、美杏に連絡しようとすると。
そこには美杏からのメッセージが届いていた。
それだけで、中を読む前から清子の目に涙が浮かんでいた。
「美杏ちゃん……」
今すぐ会いたい。
会って、二人で雅のことを話し合わなければ。
心に温かさを取り戻しつつ、清子は美杏からのメッセージを開いた。
届いているのは、例のスクリーンショット画像だ。
雅の物語。
続きがあると思ってはいたが、いつ来るかは気にしていなかった。
清子は早速画像をタップし、拡大する。
『周りがやけに幼く見えると思ったら、俺が二一才だったことを思い出した。
これまでウィウットとして十五才でいたから、やっぱり不思議な感覚だ。
昨日、俺は中等学校を卒業した。
もし俺が伊藤雅としての記憶を戻していなければ、ちゃんと感動できたかもしれない。それが少し残念だ。
冬が終わったら大学に行く。
かといってそれまで遊ぶわけにもいかないけど。
そういえば、ムコウで成人式には出なかった。
どうせ友達もいないし行っても意味はないし、悔いはない。
俺にとって、ムコウの世界は退屈で無意味だった。
何をしても全部、つまらないと思うことばかりだ。
どうしてそんなふうに思うのかって。これは思い出そうとかそういうことじゃなく、全然わからない。
きっと小さい頃はそれなりに人生を楽しんでいたのかもしれないけど、そんなこともう覚えてもいないし。
だから、向こうでの俺の人生は退屈な記憶でいっぱいだった。いつ死んだっていいと思えるほどに。
だから、憧れていた。こうなればって、ずっと。
もしかして、この状況は俺が望んだからそうなったのかもしれない。
異世界転生なんて大概そんなものだ。
みっともなくただダラダラと生きていた俺に、神様が罰っぽく与えてくれたチャンスだと思おう。
でも。セオリーのような神様らしい存在にも会ってないし、頭に響く声みたいなものも感じた記憶はない。
異世界は思ったよりもゲーム感覚じゃないみたいだ。
それにしても、一五で改めてムコウでの記憶が蘇ったというのは、いわゆるチートと思っていいんだろうか。
飛び抜けて賢いってわけでもないしまだ楽しいとは思えないけど、やり直しだと思えば向こうよりはずっと楽しめるような気がする』
読み終えて清子の全身から力が抜け。
一粒、こぼれた涙がエレベーター内に敷かれた薄いカーペットに染みをつけた。
◯
清子の肩に流れる毛先を持ち上げるのにも苦労するくらいの弱い風が吹いている。
昨日の昼に蓄めた熱を放ちきり、今は多少澄んでいて涼しさを感じられるくらいの風だ。
空はまだ暗さを保ってはいるが、遠く立ち並ぶビル群の向こうからやってくる水色の明かりに剥がされて薄ぼやけて見える。
行き違い二車線の通りには車が一台も走っておらず、人もまだ誰も歩いていない。
すると呑気な鳥の鳴き声が数羽分聴こえ、目下のゴミ置き場にスズメが集っていた。
そこまで十メートルくらいだろうか。
思いの外近く感じられる。
清子はふと、自分のつま先に目をやった。
そこはもうすでにビルの壁の先に出ている。
おそらくあと一歩を踏み出す必要もなく、前に体重をかければ。
後戻りできなくなる。
こんな時、追い風が吹いていないことは不幸だ。全部自分で決断しなければならないから。
「…………」
ごめんなさい。
とその一言は、口が動いても声にはならなかった。
弱い風が毛先を動かすのに乗じて清子が体重を僅かに前方へ送り始めたその時。
静寂な夜明けの街に、唸るエンジン音とアスファルトを擦るタイヤの猛風のような音が響いた。
清子が驚いて重心を元に戻すと。
向こうからやって来た一台のパトカーがスズメの群れを蹴散らした。
「そうだっ……た……」
慌ててスマートフォンを取り出そうとカーディガンのポケットに手を突っ込むが、そこには何もない。
「そうだ」
思い出して清子が向けた視線の先、屋上と屋内を繋ぐ扉の前にそれは転がっていた。
清子は駆け寄り、急いでスマートフォンの電源を落とす。
だが、もう遅い。
パトカーの扉が閉まる音が二回聞こえ、その分の足音がビルに近づいてきていた。
「雅っ」
清子は急ぎ屋内へ戻り、階段を駆け下りて三階の廊下に飛び出すが、そこに置いてきたはずの雅がいない。
「雅、どこっ?」
声を殺して叫び、善のいた部屋の扉を開けようとした時。
『すいませーん。管理の方いらっしゃいますかー?』
ハツラツとした男の声が下方から響いた。
警察はもうすでに中に入ってきている。
声に続いて足音を潜め、清子が部屋の扉を開けようとするも、そこには鍵が掛けられていて開かない。
ガチャ、ガチャ、と二回。清子はノブを捻ったが、音が下にバレてはまずいと思いノブから手を引いた。
「どうしてっ。雅は……っ」
清子が廊下の遠くに視線を向けると、そこにもう一枚扉がある。
その向かい側にも扉はあるが、トイレの看板が突き出ているから違う。
だったら雅を隠しているのは向こうかもしれない。
焦る清子の思考は支離滅裂になっていた。
すると。
『事務所はまだ開けてませんよ』
善の声だ。
それが同じく下の階から聞こえる。
今の隙に。清子はもう一つの扉の前へ行き開こうとするも、そこにも鍵が掛けられていた。
下だ。
清子にはもうそれしか思いつかなかったが、二階には警察がいる。
もうどうすればよいのかもわからず。清子は再び階段へ戻り、下からもれ聞こえてくる会話に耳を澄ませた。
聞こえた始めの一言は、『こんな時間に?』という善の声だ。
『それは、ひったくりの考えることですから。私どもにはわかりませんけどね。そうなんです。それで、少しビルの中を見させてもらいたいんですがね』
『困ります。今大事な仕事の途中でして、上は廊下も資料でいっぱいですから』
『守秘義務は守りますよ、当然。見たものに関して私どもが意見することはありませんし。もちろん、口外することもありませんよ。安心してください』
『そういう問題じゃない。見られたくない、という話をしているんです』
『つまり、見られて困る?』
『もちろん。私は情報を扱う仕事をしているんでね』
『んー。もしかして、何か隠してます?』
『何を、です。こんな朝早くにひったくりする奴なんか知り合いにいませんよ』
『じゃあ、昼ならそういうことする人知り合いにいるんですね?』
『朝っぱらからくだらないこと言わないでください。私は別に犯罪行為をしてもいませんし、そんな吹っかけをされるような覚えもないんですがね』
『気分を悪くされたなら申し訳ない。でもね、一応こっちも捜査しなきゃいけないもんですんで。まあ、だからビルの中を少し見せてもらえればそれでいいんですよ』
『ダメです。それは承諾できない』
『ってことは、やっぱり見られて困るものがあるってことですね?』
『そう言ったでしょう。でもそれは人じゃないし、やばいものでもない。ただ単に私が見られたくないものなだけです。強引に調べられるような筋合いはありませんが?』
『筋合い、ね。確かにその通り。でもですね、女性を殴って逃げてるひったくり犯が近くにいるはずなんですよ。辺りに鍵開けっ放しのビルなんてお宅しかありませんでしたしね? この通りじゃ逃げ込めるような場所はないんですよ。ね? だから、いいですよね』
『困ります、と何度言ったらわかってもらえるんですか?』
『そんなこと言われてもですね。困るっている人がいるんですよ』
警察官は、全く引く気を感じさせない。
むしろ、絶対ここにひったくり犯とやらがいると決めつけているかのようだ。
そのひったくり犯がひったくり犯でなくとも。
清子は、ついさっきまでビルの向こう側に行くことを考えていたことも忘れ、スマートフォンの電源を入れてしまったことを後悔していた。
酔いと息子の本音に潰され、衝動的になってしまった。
雅を守ると決めた自分よりも、受けたショックを癒やしたい自分を優先していた。
三度美杏の声が蘇り、清子は奥歯を噛み締めた。
馬鹿な自分、愚かな自分、いつまでも何も変わらない自分。
どうせ死ぬなら、そんな自分であれば良かったのだ。
そんな自分なんて死んでしまえばいい。
悔しさで清子の目にはもう何度目か涙が滲み始めていた。と。
遠く耳鳴りのような、ブーン、と音が聞こえた気がした。
声ではない。
そこに重たいものが揺れる、ガタ、という音がこもって聞こえ。すると。
『だからいないって言ってるだろう! あんたらの大義名分で無実の人間を苦しめるのが当たり前なはずがない! 何がひったくりだ! いないといったら、いない! いい加減帰ってくれ!』
突如善が声を張り上げた。
そのあまりの迫力に驚いた清子はスマートフォンを手から落としかけたが、あわやというところで落とさずに済んだ。
ほっと息をつくのも束の間。
三階でエレベーターの扉が開く音がした。
誰かが下から上がってきたのだ。
清子にはこのビルの来客が誰かなんて想像もつかないが、それでも一人、この朝早くにも関わらず二階の事務所ではなく、一気に三階に上がってこられる人物は思いつく。
鈴希だ。
半ば確信して、階下からの怒号を無視し、清子は静かに階段を上がる。
しかし。
「だ、だれ?」
そこにいたのは、鈴希ではなかった。
それどころか、女ですらない。
大柄な黒いスーツ姿の男が二人、善の部屋の扉の前に立っていた。
一人の男の手には鍵を開けるためのものと思われる道具が、そしてもう一人には。
「えっ」
警棒が握られている。
清子が確認した時にはすでに、男は目の前に踏み込んでいた。
大きな体に視点が合わず、反射的に顔を見ようと清子の姿勢が仰け反る。
次の瞬間。
清子は頭部に強い衝撃を感じ、同時に視界が歪んだ。
何が起こったのか理解する暇もない。
追って訪れた激痛に頭を抱えようとするも、すぐさま二度目の衝撃が頭頂部に加えられ。
そのまま清子は膝をついたが。それでも体が床につかなかったのは、男が足先で清子を受け止めたからだ。
だからといって楽なことなどひとつもなく。
清子は意識こそ失っていないものの、ひどい耳鳴りと歪む視界のせいで何がなんだかわからないままだった。
ただ、部屋の扉が開き、黒い塊が入ってすぐに出てきたこと。
そして床を躙るゴムタイヤの鈍い振動の意味することだけは理解できていた。
「た……た……」
息子を求め、伸ばそうとした腕は微動だにせず。
視界に赤い濁りが垂れ始めたその後、清子の体はふわりと持ち上がり、階段の踊り場へと投げ捨てられた。




