第一話 「その死体は」
平成三十年八月九日、午前八時頃。都内某マンションの一室。
発見された遺体の氏名は伊藤雅。二十一歳、男性。
彼は、鍵の掛けられた自室の中で絶命しているところを発見された。
発見者は彼の母親で伊藤清子。四十四歳。
鍵が掛けられた扉を破壊してでも息子の部屋に侵入したのは、前日八月八日の昼から何も食べていないからだった。
伊藤雅は、高校一年の秋頃から不登校であり、それからまともに自室から出てくることはなかったが、毎朝昼晩と母親が部屋の扉の前に用意する食事だけは必ず完食して食器を元の場所に戻していた。それは、前日の朝食までは同様。
だから、昨日昼の時点で清子には嫌な予感がしていた。
清子が部屋に入ると、雅は椅子に座ったままの状態だった。
両腕は放り投げられており、背もたれに身を預け天上を見上げるような格好だった。時点で清子は雅の異変に気づいていた。
声をかけるも、応答はなし。
接近して雅の正面に回り、背後から見た通り彼の肌が"薄黒く染まっている"ことをはっきりと確認した。
明らかに異常だったが、久しぶりに見る子どもの顔はまるで眠っているようにしか見えなかった。
再度声がけを行うも無反応。
清子は雅の口元に手をかざし呼吸を確認するが、そこに息がかかる感触はなかった。
続いて頸動脈にて心拍を図るも、指先に脈動を感じられなかった。
そこで初めて母親は息子の死を感じた。
当日は平日で、専業主婦の清子一人しか家にはおらず、相談する者もいないため、清子は即座に警察へ通報した。
通報を受け、間もなくして警察官二名が到着。ただちに伊東清子への聴取が行われた。
警察官二名が現場に入ると、出入り口の扉は清子の言う通り補助錠ごと破壊された形跡があり、窓には施錠、また室内に荒らされた様子はなく、雅には外傷らしいものも見られなかった。
そこでも雅に対し再度死亡確認が行われ、死亡と判断。しかし雅に死後硬直はみられず、体温も感じられた。
伊藤雅死亡が未知の事態と確認。警察官は本庁へ連絡し、検視の出動を要請した。
二十分後、検視官二名と救急車一台が現場に到着。検視官により現場の調査を行われることとなったが。検視は、現場に入ってすぐに伊藤雅の異変に気づき、現場である雅の部屋を即時封鎖。
雅の肌に見られる薄黒色は全体的なものだが、特に指先や顔のような末端では黒色が濃く。それをペストによる感染症の可能性と判断し、検視官一名が清子と警察官二名から、もう一名が雅からの採血を行った。
その際、清子自身の証言によれば、雅は前日の朝食である、焼き魚、コロッケ、味噌汁、白米それぞれ一人前程度を完食しているはずであり。また、警察官の報告ではそれを捨てた形跡は雅の室内にはなかった。
もしも雅がペストに感染しているのであれば、前日は死亡時期であり末期症状だったため、それだけの量の食事を完食し、食器を扉の外に戻すなど不可能。
伊藤雅のペスト感染による死亡の可能性は薄くなったが、肌にみられる黒色は、また別の感染症かもしくは薬物による中毒死の可能性を示唆していた。
時点で清子と警察官二名の採血にあたっていた検視官は本庁へ追加連絡。未知の感染症の可能性をもって、現場の厳重な保管を要請。清子と警察官二名搬送のための救急車三台も追加で要請した。
その時、雅の採血を行っていた検視官が雅に対光反射停止、心拍停止、呼吸停止の兆候を確認。当人の死亡を判断するとともに、雅の血液が通常ではありえない完全な黒色であることを報告。
薬物死よりも未知の感染症の疑いをもって、検視官一名は現場の保管を待たずただちに伊藤雅の遺体を病院へ搬送する。
追って到着した救急車三台により、清子と警察官二名も搬送。
さらに後、検視官からの要請を受け到着した警察及び科捜研により現場は保管された。
そして救急車内、同乗していた検視官と救急隊員一名が雅の体に突如傷が浮かび上がりすぐ見えなくなるという異変を目撃する。
その傷は、切創、挫傷、裂創、擦過傷、咬創、火傷のそれらと思われる複数種類と多岐に及び。また、傷は一箇所に限らず複数箇所に出現することもあり、大きさも一定ではなく大きくてニ、三センチほどのものがみられた。
そのため傷は、背中や脇の下など表面的ではないところにも小さな傷も発生していた可能性がある。
傷が現れてから見えなくなるまでの時間は平均で二秒から三秒程度の間、出血は見られず。出現から見えなくなるまでが早すぎるためか現れた傷に治癒の過程があったのかを目視では確認できなかったため、これは消失ともいえる。
また、傷は連続的に現れるが数秒間現れないこともあった。
感染症と思しき症状であり、体内には黒色の血液、死後硬直がみられず、しかし兆候は死亡状態であり、にも関わらず体には傷が発生し数秒で消失するという細胞の活動らしき現象が生じている。伊藤雅にみられる状態は通常ではない。
これをもって伊藤雅は、前代未聞の死亡状態とみなされた。
◯
「いつか、こうなることは目に見えていた。雅が部屋に引きこもってから六年だ。むしろ、やっと、ってところだな……」
辛辣な文博の言葉を聞き、清子は思わず息を飲んだ。
「とにかく、さっさと葬儀の手配をしてしまうぞ。これ以上はもう、あれのために頭を悩ませるのも時間の無駄だ」
俺は疲れた、帰りはお前が運転しろ。
文博はそう言って清子に車の鍵を渡し、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、早速葬儀屋を検索し始めた。
「で、でも文博さん。警察の方は、雅は普通じゃないって。だから、すぐには……」
「だからどうした。俺は親だぞ。異常かなにか知らんが、好きにできるはずだ」
「でも……」
「うるさいな、お前は黙っていろ! じゃあなんだ、あのバカ息子がこんな原因で死んだとか自殺だったとか、聞きたいのか!?」
俺はもう嫌だ。
清子を怒鳴りつけ、文博は今しがた見つけた適当な葬儀屋に電話を始める。
「もしもし。お尋ねしたいのですが……」
葬儀屋相手に文博が会話を始めた瞬間。
「待って!」
清子が声を上げ、文博のスマートフォンを取り上げた。
「返せ!」
「ダメです。まだ、わからないから……」
「清子っ!」
怒り、強引に自身のスマートフォンを取り上げようとする文博だが、それよりも早く清子はスマートフォンの電源を切ってしまった。
「お前は、何がしたい! まだあれのために飯を作りたいのか!? もういいだろ! 六年もやったんだ! もうやめろ!」
「そ、そうじゃない。そうじゃないんです。雅は普通じゃないから……」
「それだって今に始まったことじゃない! 引きこもりだぞ! もう普通じゃない! 普通なら、不登校になんかならないし、六年間も顔もほとんど見せないなんてことになるわけない!」
「違うの、文博さん……」
「黙れっ!」
文博が激高し、今にも清子に手を上げようというその時だった。
「もう止めなよ、みっともない」
ソファに腰掛けてスマートフォンをいじっていた美杏が口を挟む。
そして徐にその画面を二人に向けた。
「いくら親だからって、不審死した遺体を勝手にできないよ。まさか、法律相手にもそういう啖呵切るつもり?」
「美杏……っ」
悔しげに呟き、文博は娘を睨みつけた。そして、乱暴にスーツのジャケットを直すと鼻息荒く病院の廊下をどこかへと歩いていった。
そんな父親の背中を眺め、美杏は「はっ」と短く笑った。
「バッカみたい。ああやって騒いで、自分の正当性ばっか口にして。何が親だよ。自分の子どもが死んだのに、涙のひとつも流さないでさ……」
そう言う美杏の瞼は赤く腫れている。
「美杏ちゃん……」
そっと呟き、美杏に近づく清子。だが。
「あんたもだよ。だーくんが死んだのに、どうしてそんな平然としてるわけ? 見つけたのはあんたでしょ? それなのに……っ」
唇を噛みしめる美杏の目が潤む。
清子は知っていた。時折、夜中になると兄の部屋の前に座り、返事のない兄へ語りかける妹の姿を。
だから、美杏が涙をこぼす理由はあるのだ。
美杏は、少なくとも家族の中で唯一雅を愛していた。
それを黙認し、それでも清子は何もしなかった。
雅が部屋に引きこもるようになって以降、文博に怒鳴られている時も、雅が部屋に鍵を付けそれを文博が壊してまた怒鳴り散らしている時も。ただそれを遠くで見ていただけだった。
罪悪感が今さらになってこみ上げ、清子にも涙が溢れてくる。
すると。
「それって、なんで泣いてるの? 違うでしょ。あんたは、自分のためにしか何もできない。そんなふうにして……。ご飯だって、ただの罪滅ぼしだよ! どうせ何もできない自分のために、地獄に落ちないようにするためにやっただけだよ!」
美杏の言葉に清子は何も言えなかった。
ただ、涙を流す自分が惨めで、それが止められないことが情けなくて、次々と涙が溢れてくる。
「もうやめて!」
絶叫するように叫び、美杏はどこかへと走り去っていった。
一人残された清子は、そこでどうしようもなく。呆然と涙をこぼしながらソファに座り込んだ。
そこに一人の男性警察官がやってくる。
「あの、いいですか?」
申し訳なさそうに言い、警察官は帽子を取った。
「現状、雅さんの死因は確かではないのですが、一応死亡は確認されていますし。他殺でなければ自殺もしくは病死とか中毒死ということで、雅さんの遺体は警察が預かることになります。
それで。検査の結果も問題ありませんでしたし、聴取も済んでいますし。ご家族の方には後日再聴取することがあると思いますけど、今日のところはご自宅……というかホテルに戻られても結構ですよ」
淡々と話す警察官を清子が見つめると、「では、失礼します」と帽子を被り直し清子に背を向けた。
「あの、雅は……どうなるんですか?」
清子の声に警察官が振り返る。
「そうですね。検視では雅さんの死因もわかりませんでしたし、薬物の可能性もあるので、司法解剖に回されると思います」
「か、解剖ってそれじゃあ雅は本当に……」
清子の言っている意味がわからないのか、警察官は首を傾げた。
「そうですね。雅さんの状況はいわゆる不自然死ですので」
警察官は言うと小さく会釈し、再び清子に背を向けたが。
「待ってください! 解剖だけは、どうか……っ」
「いや、でも。法でそう定められていますから」
「い、嫌なんです! どうしても!」
「そんなこといわれても……」
たじろぐ警察官に清子は床を這ってすがりつく。
「お願いします!」
「いや。だから、無理なんですよ。これは国が決めていることなんです。遺体に事件性が疑われる場合は司法解剖されます。そうでなくても、不自然死なら解剖は仕方のないことなんです」
「でも、そうしたら雅は本当に死んでしまう!」
清子の発言に警察官は思わずといった様子で「は?」と声をもらした。
「いや、お子さんはもう……」
言い掛けて何かを察したようにハッと言葉を飲み、警察官はゆっくりとしゃがみこんで清子に目線を合わせた。
「あのね、お母さん。悲しいのはわかります、でも。受け入れてください。突然子どもを亡くした方が混乱するのは、よくわかります。僕はいくつも現場を見てきましたから。
でもね、お母さん。どんな理由にせよ、お子さんは幸せだったはずなんです。生まれてすぐに不幸だなんて思う子どもはいないでしょう?
だからね。お母さんは幸せだった頃のお子さんを想って、その記憶を大切にしましょう。ね?」
悩んでいた子のことを想っても誰も救われませんよ。
そう言って警察官は優しく微笑んだ。
「そうじゃなくて!」
説得に応じず食い下がる清子。
「お母さんっ、しっかりして。気持ちはわかりますけど、変になっちゃだめです。気を強く持って。ね? 娘さんもいるんですから。しっかり」
「違う……違うんです……」
それでも諦めない清子にしびれを切らしたのか、警察官は立ち上がり、「とにかく、ご自分もご家族も大事にしましょう」と最後の一言を残し、その場を小走りに去っていった。
そうしてまた一人になってしまった清子は、地面に崩れたまま美杏の言っていたことを思い出していた。
六年間欠かさず続けた雅への食事は、罪滅ぼしのためだったのか。
この涙は、自分が地獄に落ちないためにやっていることなのか。
本当の涙はどうすれば。
「雅の、幸せだった頃……」
きっとそこに自分が流せる本当の涙の理由があるはずだった。だが。
「なにも……思い出せない……」
清子には、雅が幸せだった頃のことが思い浮かばなかった。
自分が初めて産んだ子。初めて触れた我が子。
夜泣きが酷かった、おねしょをよくした、高熱で死にかけた、天井でくるくる回るおもちゃが好きだった、カエルのおもちゃが好きだった、離乳食が嫌いでしばらく粉ミルクを飲んでいた。雅は、よく笑っていた。
でも。
「違う……違う、ちがう……ちがうっ」
清子が思い出したいのはそういうことではない。
それは、自分が幸せだった頃の記憶だ。幼い我が子をただ一方的に愛でていた瞬間の数々。
「違うの、私は……そうじゃない……!」
いったいいつ、雅は幸せだっただろう。
雅の人生をすぐそばで眺めていたはずなのに、清子には赤ん坊の頃から今朝までのその間のことが浮かばなかった。
「私は……何もしていない……」
気がついてしまった。いや、とうに気がついていた。
いくら思い出そうとしても何も浮かばないのは、清子には雅と共に生きた記憶がなかったからだ。
「雅……」
自分の愚かさともう戻れない過去に絶望し、清子の体から力が抜けていく。その時だった。
どこからともなく雄叫びが聞こえた。
「た、ただし……?」
ただの風の音かもしれない。
だが、清子には確かに息子の声のように聞こえた。
「雅っ!」
昼過ぎにも関わらず誰も通らない空の廊下に清子の声が響く。
雄叫びは返ってこなかった。それでも、自ずと立ち上がっていた。
今聞こえた雄叫びが息子の声だと信じたからこそ、清子は走り出す。




