5.【圧倒的恐怖】
ズキズキと痛む頰に手をやり、まだ生きている事に驚いた。
あの冷たい殺意と、鉄拳は、自分を殺しても何ら不思議ではなかった。
流れ出す血液が、べっとりと頰に張り付いていた。固まった血の不快感、けられた頰の鈍痛。確保できない視界と、冷たい空気。考えられるのは、監禁だろうか。
「起きたか。」
奥から聞こえたその声は、先ほどの男で間違いなかった。自分で結界を飛び出して。湧き上がってくるのは、罪悪感と、あの男への恐怖。
「頭が冷えたようで良かった。」
「・・・・・・。」
「どうかしたか?」
首をかしげる男。自分から見れば、相手の輪郭を捉えるのがやっとだというのに、彼は抱いた疑問を細かい表情で見抜いた。凄まじい洞察力。膠着状態を脱するため、隠しても無駄だと悟り、疑問を伝える。
「殺さないのか?」
「ほう。」
「あんだけ殺意剥き出しで喰らい付いてきたのに、監禁なのか。」
「上から、圧力が来た。」
思ったより簡単に答えたのと、この男の上に誰か居るというのが驚きだった。あの男は、国を恨んでいた。俺と同じ、強くなろうとしない怠慢。つまり、この男の上という事は、この男より強いということだ。竜をも下した竜伐に、傷を負わず勝利した戦闘力。そして、それを超える親玉。ただでさえこの男を『倒す』ことができないのにも関わらず、そんな化け物がいれば、この森で自分は沈む。
「く・・・」
この男を、この森で『倒す』ことは、絶対にない。そして、垣間見える強大な戦力。
「圧力っていうのは・・・?」
「お前は貴重だから殺すな。それだけだ。」
貴重。その言葉が、やけに気になった。ただ、今そんな事に思考を割いている暇はない。
今の言葉で確信に変わった。殺すなと言われたなら、どうして監禁した。こんな面倒をするならば、捨て置けば楽なはずだ。
「どうして・・・監禁している。」
「・・・・・・」
恐る恐る、声を震わせながら問いかけた。自分の分かっていて、わかりたくない可能性を否定して欲しくて。このまま、穏便にすませたくて、
「ああ」
納得したように頷き、男が笑う。
「そんなことか。」
「・・・・・・」
「貴重だから拷問、いや矯正するのさ」
「・・・は」
「敵意を忠誠心に。」
一瞬で、脳を警鐘が駆け巡った。体が震え、歯が噛み合わない。
簡単なことだった。そのまま離して復讐なんてされれば、この男も困るだろう。だから、改変するのだ。矯正するのだ。ぶち殺すという醜い殺意を、創り上げられた、いかれた忠誠心に。
ーーーやばい、やばい、やばい。
「きょ、矯正!?」
「ああ。」
取り乱し、震える声で問いかけた。聞き違いだとか、幻聴だとか、甘い感情を持って。それを、いとも簡単に、冷淡に、ぶち壊した。何をされる。急速に目眩を感じ、指先の感覚が麻痺し始めた。
爪を剥がされる?痛みに絶叫し、滂沱する自分を押さえつけ、ひたすら爪を抉り取られる?
窒息させられる?酸素の無さに足掻き、水中で無呼吸の地獄を延々と見せられる?
指を切られる?溢れ出す血液に見向きもせず、涙の枯れるまで痛覚の限界を刻まれる?
この時だけは、自分の想像力が嫌になった。数秒で最悪の未来を導きだし、それを脳内で再生する想像力に。
「なに、そんなにビビるな」
ビビるな?無理だ。こんな時に冷静な奴なんて、もはや狂っている。人間の感情は、いつも正常から始まる。産まれたばかりの赤子は、純白の心を持つように。怖いものを怖いと思えないのは、精神が壊れている証なのだ。
「貴重な存在。ツキっていうんだがな。お前はそれだ。」
「ツ、ツキ?」
「ああ。だからお前は生かされている。」
生かされている。その言葉で、自身の命がこの男の手のひらの上にあると再確認した。
いつ殺されるか分からない恐怖と、いつ始まるか分からない拷問の2つに精神が揺さぶられ、摩擦してゆく。
「まあ、雑談はこれくらいにして、始めようか。」
「い、いや、ま、待てよ」
震える役に立たない足を叱咤して、どうにかしようと一歩踏み出した。バカでアホな危機管理能力と、ミジンコの心臓が、その最悪とも言える決断をさせた。
「動いていいなんて、俺は言ったか?」
パンッという破裂音が鼓膜に届き、硬い感覚が肩を押した。バキバキという振動に、遅れて膨大な空気の圧力が右肩から俺の体を石壁に叩き付けた。打撃に壁がひび割れて、石の刃が血を浴びる。
痛み、ではない。目で追うことすら敵わぬ指弾の威力に、圧倒され、恐怖した。
ーーー何て恵まれていない異世界召喚なのだ。
「やっと見つけた。」
金麗の声音が、重い空気を霧散させた気がした。
やっと1章が本格的に、始まります。次回もよろしくお願いします。