160.【立ち上る血は輝きを食む】
「絶対バレた・・・。なんであんな大声出したんだ!」
紅く、禍々しい球体。海龍月界の中に揺れるその球体の内側で、息を荒げて震える少女が少年に詰め寄る。狭い球体の中のため、顔が近くなっていることに気付いて慌てて元の位置に戻る赤い少女。
「そりゃ、隠れてたらいきなり海になったんだから、ビビるに決まってるだろ!」
そんな少女の詰問に、未だかつてないほど上から目線でなんの悪びれもなく答える少年。それこそ、最弱と名高いミカミ・アキトその人である。そして、そんな少年に仕方ないか、なんていう表情を向けている少女が、孤独の吸血姫アイリスフィニカである。
死雨の爆撃からなんとか逃れ、逃げていくうちにどういう不運かライラ達の元へと辿り着いてしまったという訳である。無論、海龍が本気を出した場面にも直面したわけで、その海に誘われたアキトはそのヘタレ具合を存分に発揮したのだった。
「でもまぁ・・・悪かった。連れ出したのは俺だったのに・・・」
「う・・・ホント、そういう所・・・ずるい・・・」
すっと顔を背ける少女は、赤面して頰を膨らませるという非常に愛らしい表情を見せていた。今のアキトにそんな心情が読み取れるはずがなく、可愛さに頭を撫でることで終わる。
ちなみに、この海水からアキト達を守っている球体は、アイリスフィニカが作り出した血で出来たものである。
アイリスフィニカがこれを創り出す前に目があった時、ライラには敵意がなかった。つまりは、取り敢えず正体不明の化け物狩りに専念してくれるということだ。ここは安全圏内、のはずだ。
「でも、好都合だな。あれ、龍・・・だよな?」
「ああ。アイが見えたのはほんの一部だったけど。間違いない。アキトの国を襲いにいく龍だろうな。」
確認までに聞いたつもりではあったが、そんな敵を目前にして、またいつもの感覚が襲ってきた。自分より強い敵と戦う時の、緊張とも高揚とも不安とも取れる、その感情の揺れを。と言っても、アキトは自分より弱い敵になんて会ったことはないのだが、ここまで生きてこられたのは奇跡と言えるはずだ。
そんな奇跡が巡り巡ってこの少女を救うことにつながり、そのせいでウドガラドを危険に晒している。こんな状況ではあるがファルナとの邂逅を思い出した。開口一番自分でも気にしていたカーミフス戦での不手際を指摘され、罵倒の嵐にあったのだ。そう忘れられることはあるまい。シャリキアからの情報がなければ、アキトの苦手な人リストにファルナが加わっていたであろう。ちなみにヴィネガルナと怠惰悪魔は既に手遅れである。
「っと、そんなこと考えてる暇じゃなかった。」
「やるのか?」
「ああ。あのレベルの攻撃をドカドカ放たれちまったら、興都ぐらいすぐに滅ぶ。」
「ここで倒した方が安全・・・か。」
無言で頷く。ここで自信満々にそうだと宣言し、アイリスフィニカに心強い事をアピールしたいところではあったが、残念無念、最弱にそんな力はない。緊張をほぐしほぐされる為にアイリスフィニカの頭を撫でるのが精一杯だ。気づかれていないが毎回の如く赤面し、嬉しさ半分恥ずかしさ半分でアワアワしている少女は、上で待っているあの水色の少女と変わらないのではないだろうか。
置かれた状況が最悪なだけで。
「アイリス。」
「許さないからな・・・・」
「?」
「アイを置いて死んだりしたら、許さないからな。折角寂しく無くなったのに、アキトがいなくなるなんて、嫌だ・・・」
脳裏に焼き付いた。悲しい少女の泣き顔。アミリスタの面影が、そっと寄り添った。
「馬鹿野郎。俺を自殺志願者みたいに言うな。死なないし1人にしない。」
「本当だな?」
「ああそうだ。それに、お前と一緒にここを出たい。俺だって、そう思ってる。いや、思い始めたってとこかな。」
徐々に変わっていく思考。アキトが落としてきてしまった心を全て直すことはできないのだけれど、そのアイリスフィニカの存在によって、アキトの心の穴が、ほんの少しでも埋まったことは事実。
死んでもいいからアイリスフィニカを救う。から、アイリスフィニカを上の世界で幸せにさせる。そういう考えに変わってきている。
そっと息を吐いて、アキトはその『海』へと進んでいった。
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急な環境変化によって生じた僅かな隙。そこに、強烈な一撃が叩き込まれた。
通常、月界はそれによって能力を底上げしたり、変則的に強化させる事を行うものだ。しかし、そんな特殊効果を持たない代わりに、この月界は水という実体を持った存在を一瞬で張りめぐらせるという反則的な月界だ。逆に言えば、ただそれだけの月界だ。
なぜ、この月界を使う特性をユルカナミシスが持っているのか。それは、その龍の能力に大きく依存した特性だからだ。
体内タンクに蓄えられた水を操作して射出したり、全方位拡散放出で攻撃の勢いを削ったり、様々な水操作の力で海龍は攻撃、防御をこなしている。つまり、この海を創り出すだけの海龍月界は、ユルカナミシスの体内に入ることと、そう変わらない事象を起こすわけだ。
水操作によって突き立てられた水流の奔流が、鋭い槍のような切れ味を伴ってライラに突貫した。
水の中で水流が視認できるはずもなく、魔力を使っていないその操作に痕跡があるはずもなく。拒絶結界を発動する暇もなく腹部に貫通した水は、方向を変えて体内を巡る。
「い・・・!」
全身が張り裂けるような痛みと、全身がはち切れるという現実が、刹那の時間も許さずに少女に襲いかかった。
ただの一少女に負わせるには深すぎる。慈悲のない一撃。
立ち上る血煙は止まらない。