159.【何百年かの沈黙】
『チスニプリウム』から放たれる風が刃を飛ばし、ユルカナミシスの顔面に叩き込まれる。仰け反る巨体の鼻っ柱から血潮を撒き晒すその醜態に鼻を鳴らし、背後に移る闇に輝く聖剣を構える。下ろす精霊は、炎を司る精霊。刃から一粒の火種が立ち上り、刹那、更にその何倍もの質量を持って、その剣に炎が巻き起こる。
ノータイム。避ける暇など与えさせない。闇を駆ける炎の流星がきらめき、続く少女の声に呼応するように、振り切られた『チスニプリウム』がユルカナミシスを両断した。
燃える龍に軽蔑の目線を送り、炎圏内からバックステップで退避する。
「どうしてあいつ、ここまでしてるのに死なないの?」
『海龍の力だろうナ。斬撃だろうと魔法だろうと、あの水柱のスピードで撃墜されたんじゃ、届いたって威力は削がれるだろウ。』
あの超細だからこそあそこまでのスピードと破壊力を得ている死雨を降らせられているが、質量と面積が増えれば速度も威力も下がる。しかし、例えそうだとしても、アキトが余裕で死に続けられるほどの水圧で叩きつけられる。それが攻撃からほぼ殺傷性を奪っている。
全身から全方位に拡散される水のバリア。つまり、そこから破壊を続けてダメージを与えなければ、倒すことは無理だ。
『安心しロ。拒絶結界が壊れるなんて、神話級の武器でしか無理だ。』
「ユルカナミシスは神話級じゃないの?」
『あの水柱に至っては違うナ。通常攻撃と大差なイ。』
神話級といっても差し支えない龍ではあるが、その水柱のレーザー雨に至っては通常攻撃。ジャブである。一度力を交えあったレヴィアタンならば知っているのだろう。その『海龍』の真髄を。
凝縮された水柱のレーザーが大きさを変え、ライラを包み込んでしまう程大きくなった一筋の光を打ち流し、拒絶結界で弾ける水を叩き割る。
「それじゃあ、あいつの本当の力って、なんなの?」
続々と撃ち続けられるユルカナミシスの致死性十分と一撃が、たった一つのかけらも残さず消え失せる。冗談のように無くなる自身の力の痕跡を見て、ユルカナミシスがゆっくりと頭をもたげる。
『見せてくれるようじゃねぇカ。』
すっかり縮んでしまったユルカナミシスの腹部の膜。なにかを蓄えていた、十中八九水であろうそれらは既に無く、簡単に言えば弾切れという状態だろう。このまま攻めれば死雨もバリアも使えないその害獣に、少女が苦戦することはないだろう。
そう、そのままならば。考えずともわかることであろう。四大龍とも呼ばれている一角のユルカナミシスが、そんな簡単に倒せるはずがない、と。
縮みきっていたその膜の内側が湧き出し、グツグツと煮えたぎるように膨れ始める。弱々しくぼんやりと輝いていたその膜には、先程からは考えられないような輝きが溢れており、一目見ただけで危険だと分かる。
『奴は、数百万の悪魔が四方から襲ってくる中、たった7匹しか逃さなかったんダ。分かるだろウ?』
「月界・・・!」
『使用できる奴は数えられるほド。そして、あいつの月界は更にタチが悪イ。』
使用者が無条件で強者と言っていい月界術師の中で、タチの悪いと大罪悪魔に言わせるほどの力。そして、それは薄々ライラも気付いていた。
『干渉月界。能力の補助、向上のための月界じゃなく、純粋な実体として殴りつけてくるとんでもない月界。』
それこそ、ユルカナミシスの真髄とも言える場所。その害獣が、いや、『海龍』が、それを使うに値すると理解したという証拠。何が変わろうと変わらない。月界の力。
身構えるライラとは対照的に、その『海龍』はゆっくりと全身から力を抜いていく。依然輝きが消えることはないが、その巨体からゆっくりと何かの行動をする力が無くなっていくのはわかった。
浮遊することすらやめて、跡を引く翼のついた先の見えない尾。渦巻きながら落下していく。何を意味するのか。それは、ユルカナミシスが無防備に地面に落下していくという事を表している。
「なっ!?」
『構えロ!』
驚愕に漏らす声に止まるのも一瞬。かけられた声に反射的に反応し、自分でも気付かぬ間に劔をかまえる。
堕ちていく海龍の目先、精巧なバルバロスの地面に叩きつけられようかという時。一粒の雫が舞った。
『海龍月界、『ユルカナム・アイオラ』・・・!』
地面に現れた水色の奔流の数々が、ユルカナミシスを包み込み、まるでそこに海があったかのように姿を隠す。
気付いた時。
既に、そこには海が広がっていた。
色とりどりの魚が泳ぎまわり、煌めく光の粒子たちが暗闇を照らす。岩場や砂。奈落のような大穴まで。おおよそ海と呼ばれて差し支えない見た目のその中に、ライラはいた。
しっかりと、水の感触がある。服を濡らす気持ち悪い感触も。舌で感じる塩辛い味覚も。
全ての物に愛されるライラにとっては、空気のほうから呼吸をさせてくれる。呼吸困難で死ぬことはない。しかし、初めて見た月界『海龍月界』の能力の全容も分からない。
「ごぼっ!やばび!じぶ!」
「ちょっと!大声出さないで!」
その時、くぐもった声と本当に死んでしまいそうな呻き声が聞こえた。それこそ、ライラにとって、何百年振りかに聞いた、人と呼ばれるものの声だった。