46.正体不明の感情
「……」
三つの月の柔らかな光に照らされる美しい庭園の中、ぽつんと置かれた滑らかな大石を背もたれにして座り込む。
「ッ――すぅ……はぁ……」
漏れ出しそうになった嗚咽を飲み込んで、荒くなった呼吸を整えるために深呼吸をする。
澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、淀んだ空気を吐き出せば、胸を満たしていた重く暗い感情も幾分か吐き出せた様な気がした。
『もう大丈夫になった?』
「……うん、大分マシになったかな」
こめかみを伝うじっとりとした汗をハンカチで拭い、心配そうに自分の顔をのぞき込むキュウの頭を撫でる。
こうしてキュウを撫でるだけでも、随分と心が落ち着いてくるものだ。
余裕が出来たためか、広い庭園のどこかから細流の様な音も聞こえてきた。
自然に包まれて居るような気分になって思わず安心してしまう。
「……キュウは強いな。お前も同じ様なものを感じたんだろ?」
『ううん、キュウは嫌だって思ったら知らんぷりできるから大丈夫なんだよ。……でもひょっとしたら、キュウが知らんぷりしたから武に行っちゃったのかも……』
「そっか、まあそれでお前に被害が出ないならそれでいいさ」
『でも……』
「良いんだよ。そもそも本当にそれが原因かもわかんないんだから、キュウがあんなもの感じる必要は無いさ」
未だにどこか不満げではあるが、キュウ自身も明確な解決策が無いのはわかっているようで、頬を少し膨らませながらも話を変えた。
『……パーティーってあんまり楽しくないね』
「ああ、ちょっと思っていたのとは違ったな」
少なくとも自分やキュウがかつて想像していた華やかで上品な楽しい場所というイメージは覆された。
いや、外面だけならば確かにイメージ通りだっただろう。
ソフィアに話しかける人々は誰も彼もが服装は煌びやかで所作からは気品が感じられた。
しかし自分たちは、その貼り付けた様な笑顔の裏に隠されたどす黒い思惑が透けて見えてしまったのだ。
ソフィアの合格を祝うための席であるはずなのに、周りからはその意思が一切感じられず、誰もが地位と名誉を求め、嫉妬し、他者を蹴り落とし這い上がろうとしていた。
他者の失態や弱点を探り出そうと――いや、寧ろ引きだそうとする様な感情で溢れかえっていたのだ。
苦しかった。
ただ、苦しかった。
同じ人間であるはずの彼らが、何故そうまで他者の不幸を願うのかがわからなかった。
目の前で話す人々の言葉と感情の乖離に翻弄され、流れ込んでくる陰湿で険悪な汚らしい感情から目を逸らしたいのに、どこを向いても同じ性質の感情が流れ込んでくるという状態に目眩と吐き気すら覚えた。
あの空間そのものが、一つの悪意の様に感じられたのだ。
それに堪えられず、またどうする事も出来ない自分はあの会場を飛び出し、偶然辿り着いたこの場所に落ち着いているわけだ。
ソフィアたちはあの場所で堪えているというのに――
「……なんで、あんな風になるのかな……?」
他者の不幸を幸福と感じてしまうという状態の人がいる事実が、何だかたまらなく悲しくなる。
それを感じた空間が、友人を祝うためのはずの場所であるという事実を思えば、尚一層辛い。
『みんながいっぱい笑ってるの見る方が、キュウは好きなの……』
「……うん、僕もそうだよ。誰かの苦しむ姿なんて、見てて辛いだけだ……」
「そんな所でなに当然の事を言ってるんですの……?」
「え……?」
突然頭上から降りかかる声に驚いて俯けていた顔を上げると、目の前にはソフィアと同じ翡翠色の髪を持つ少女――メアリーがいた。
「私と違ってあなたはパーティーに参加してるはずでは――ななななっ、何で泣いてるんですの!?」
「え? ああ、うん。大丈夫、何でも無いよ」
頬を伝っていた涙をハンカチで拭って気丈に振る舞う。
「何でも無いのにあなたは涙を流すんですの?」
「あはは……まあ、そういう事もあるかな?」
「……相変わらず変な人ですわね」
戯ける自分に怪訝そうな表情でメアリーはそう言うが、発言から察するにパーティーに参加していないメアリーに、大好きな姉であるソフィアが今も悪意に晒されているのに、自分は堪えられず何もせず逃げてきたなんて情けない事を言えるわけは無かった。
「というか、本当になんでそんな所に座ってるんですの?」
「え、いや、ちょうど良さそうだったから思わず……」
「いくら座りやすそうでも、地面に直接座ったらせっかくの上等なスーツが汚れるじゃありませんの?」
「ああ、確かに……」
「そんな事にも気がつかないなんて、上等なのはスーツだけですの? まったく、お姉様のパーティーに招待されたという事がどれほどの事なのか自覚がありまして?」
冗談めかしてメアリーはそう口にする。
誰かに叱責して欲しい今の自分には、特に悪意のこもっていない皮肉だとはわかっていても、メアリーの辛口が少し心地良かった。
「……うん、そうだね、本当に……」
「ちょ、ちょっと!? 少しは反論してくださいまし! 私が本気で嫌みな事を言ってるみたいじゃありませんの!?」
自分が今の言葉で凹んでいると思ったらしいメアリーが慌ててそう口にする。
優しい子だ。
「ふふっ、ありがとうねメアリーちゃん」
「な、なんで皮肉られてお礼を言ってるんですの!? はっ!? まさかそういう性癖……?」
とんでもない解釈の仕方をされたようだ。
というか十一歳の女の子が何を言っているのだろうか。
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「良いんですのよ別に、趣味趣向は人それぞれ、世の中には一定数そういう方々が存在するのは存じ上げておりますの。ただしお姉様にはその欲望を向けるんじゃありませんのよ!」
自分の反論を許す事無くメアリーはからかう様にそう口にする。
(ほう……)
礼儀正しい生真面目な子だと思っていたのだが、こういうやり取りも出来るのだと感心する。
しかしやられっぱなしなのも癪なので、ここらで反撃をしてみよう。
「メアリーちゃんはおませさんだなぁ」
「ちょっ!? おませさんとはなんですの! 失礼ですわよ失礼! 私はもう立派なレディーですの!」
そう胸を張って言ってはいるが、その姿はティストさんとどっこいどっこい――
(ん? どっこいどっこいならレディーでも問題はないのか?)
本人に聞かれたらまず間違いなく半殺しにされる様な失礼な事を考えていると、メアリーは人差し指を立てながらまるで教えでも説くかの様に続けて話す。
「だいたい、私はともかくとしましても、貴族にそんな失礼な事を言っていますと、そのうちに痛い目に遭いますわよ?」
そういえばメアリーもソフィアの妹なのだから貴族であった。
貴族と話す際には礼儀を忘れずというのは最近何度も意識している事ではあるが、今のところまともに会話をした事のある貴族というのがソフィアとディムロイさんとメアリーだけなせいで、油断していると失態を犯しそうな気がしてならない。
まあそれはともかくとして――
「忠告ありがとう。やっぱり優しいねメアリーちゃんは」
「ッ――あなたに褒められても別に全然これっぽっちも嬉しくなんてないですの!」
自分の感謝の言葉に顔を赤くするメアリーを見ていると、先ほどまで泣いてしまう程辛い気持ちだった事が嘘の様に感じる。
思い違いかもしれないが、自分が泣いていた理由を深く聞かなかったのも、その後冗談の応酬をしてくれたのも、元気づけるためにしてくれたのではないだろうか。
まあ仮に思い違いであったとしても、無意識で人を元気づけられるのだから、やっぱりメアリーは優しい子なのだろう。
「まったく! 何が楽しくってあなたとこんな所で立ち話しなきゃならないんですの!」
「そう? 僕は結構楽しかったけど?」
恐らく照れ隠しに発せられたその言葉に素直な感想を返すと、メアリーはさらに顔を真っ赤にさせる。
「ッ――私は立つのが疲れたからそこに座るって言ってるのですわ!」
そう言ってメアリーが指さした先には、ちょっとしたお茶でも出来そうなテーブルと椅子があった。
というより余裕が無かったとはいえ、こんな近くに椅子があるのに、自分は気がつかなかったのか。
確かにこの状況ならば、地面に直接座る自分を不思議に思うのも仕方が無いだろう。
(いや、まあそれよりも……)
言葉の真意に気がついた自分はメアリーへと問いかける。
「じゃあ、そこに座ってお話しようか?」
「別に私はこれっぽっちも楽しくないですけど、あなたがどうしてもと言うのならばしてあげないこともないですわ! ほら、さっさと座るですの!」
やっぱり、優しい子だ。
(ちょっと素直じゃないけどね)
促されるまま椅子に座るとメアリーが両手を差し出してくる。
「……どうしたの?」
「察しが悪いですわね。お話に付き合ってあげるのですから、その可愛らしい子の毛並みを御礼として堪能させようとは思いませんの?」
「いや、それを察するのはちょっと無理が……まあ別に良いけどさ……」
察しの良さの要求レベルが高すぎる気がするが、キュウの毛並みの価値に気が付くとは実にお目が高い。
キュウに目配せをして確認をとろうとしたが、それより先に自発的にメアリーの目の前へと移動して背中を撫でろと言わんばかりに伏せた。
「あら、お利口さんですわね。うふふ、思った通りツヤツヤのモフモフ……」
キュウを撫でるメアリーの満足げなうっとりとした表情を見ていると、こちらまで誇らしい気持ちになってくる。
(というより、絵になるなぁ)
小さい子が小動物と戯れるというのは、見ていて実に癒される無邪気な光景だ。
(さっきは子ども扱いするなって言ってたけど、こうしてる分には年相応って感じだよなぁ)
多少棘があったりはするが人とはしっかりと敬語で接し、自分に非があると思えばしっかりと謝罪ができる。
いわゆる『大人な対応』という奴だ。
それもきっと、欲望の渦巻くあのパーティーの様な場で隙を見せないために必要な事なのだろう。
貴族だからという理由で、そうやって振る舞うように教育された結果なのだろう。
それはきっとソフィアにも言える事で、メアリーはその上に合宿と称して泊りがけで――つまり家族と離れて過ごしたりもするわけだ。
それだけ期待をかけられて、プレッシャーも相当なものだというのは想像に難くない。
他所の家庭の事情に口出しなんてできる立場ではないし、親からの期待による重圧なんてものを自分は知らない。
(それでも――楽じゃない事くらいはわかる)
楽し気にキュウを撫で続けるメアリーへと問いかける。
「どう? 可愛いでしょ?」
「ま、まあ、及第点といった所ですわね!」
「"キュウ"だけに?」
「……何を言っているんですの?」
「あっ、いや、そいつの名前キュウっていってね……それで……」
「……」
「……」
場を沈黙が支配する。
風流極まる細流も、この場においてはただ冷え切った空気を誇張するだけだ。
気まずいったらありゃしない。
いったい誰だこんな空気にしたのは。
けしからん。
「……今、どんな気持ちだと思いますの?」
メアリーのジト目が精神をダイレクトに攻撃してくる。
これはどうにか場を温めねば――
「――ぼ、僕の渾身のネタに"及第点"を与えたい気持ち……とか?」
「……今、どんな気持ちですの?」
ぐうの音も出ないといった感じの気持ちである。
キュウまでジト目を向けるのはやめていただきたい。
余計にいたたまれなくなってしまうではないか。
「……くだらないネタを聞かせた代償として、もうしばらくこの子を堪能させていただきますわね」
「ど、どうぞ……」
再び場を沈黙が支配する。
しかし何故だろうか。
正直悪い気はしないのだ。
(ああ、そうか……)
自分は誰かとこうした何の気兼ねもないくだらない会話をしてみたいとずっと思っていたのだ。
なんというか、こういった何の意味も無い様なくだらない会話はソフィアたちとは出来なかったのだ。
別に遠慮があるわけではないのだが、どちらかというと気恥ずかしさのせいだろうか。
でもそれならば、何故メアリーだと良いのであろうか。
正直、ソフィアからあの様なジト目を向けられるのは――
(――あれ? 想像するとなんだか……いや、気のせいだな……)
それより先を考えるのは危険な気がしたので思考を元に戻し、依然として楽し気にキュウを撫でているメアリーへと目を向ける。
(楽しんで……くれてるのかな?)
キュウを撫でるのをではない。
自分との会話を、だ。
普通なら素気無くあしらわれている時点で解は出ていると思うものだが、どうにもそうは思えない自分がいるのだ。
自分と同じように、皮肉ったり冗談を言い合ったりするのを楽しんでくれているのではないかと感じるのだ。
希望的観測だと笑われるかもしれない。
実際の所、希望的観測だと考える方が自然だろう。
だとしたら、何故自分はそんな希望的観測を抱いたのだろうか。
(いや、そもそも会話がつまらないとは思われたくないものだけど……)
「――ょっと!」
(うーん……わかりそうでわからない……)
「――ちょっと! 聞いてますの!?」
突然大声が鼓膜を震わす。
「ん? なんかデジャブ……?」
「また人の話を聞いてませんでしたのね!? というか喧嘩を売ってるんですの!?」
デジャブを感じて当然である。
つい数日前にも似たような状況があったのだ。
どうやらまた思考にのめり込んでしまい話を聞き逃していたようだ。
「わわわ、ご、ごめんね!? そ、それで、何の話かな?」
「それはこちらの台詞ですわ! あなたがお話しようと言ったんですのよ! 今度はどんなくだらない事を言い出すのかと楽し――ではなく待っていたといいますのに、何も喋り出しませんから不思議に思って見てみれば、人の顔を見ながらニヤニヤして! まったく気持ち悪いったらありゃしませんですわ!」
なるほど、確かに自分はここに座って話をしようと言ったのであった。
しかしやはり、気持ち悪いと言われたわりにそれ程悪い気はしないし、メアリーもどこか楽し気にしているように感じてしまう。
これはもうある種の病気なのかもしれない。
「それで、何のお話をするんですの? というより今更ですけれど、その鳥を肩に乗せているという事は……お姉様だけでなく曾おじい様まで誑かしたのですわね」
まさかのメアリーの方からの話題提供である。
やっぱりそれなりに自分との会話を楽しんでくれているのだろうか。
それにしても――
「た、誑かしただなんて人聞きが悪いなぁ……」
確かに嘘をついている事や言っていない事はあるが、悪意は一切無いのだ。
「せめて『丸め込んだ』って言って欲しい……いや、これも何だか人聞きが悪いような……」
そもそもディムロイさんに関しては自分の行動によって信用を勝ち取ったわけではないので、丸め込んだと言うのもおかしい気がする。
いや、ソフィアにしても別に丸め込んだつもりはないのだが。
「その上ティスト様にまで手を出してるだなんて……見境がありませんわね」
「へ? いや、ティストさんにはどちらかと言うと手を出されてるんだけど……」
特訓の際は基本的に自分は一方的に攻撃されているだけだ。
こちらから手を出す余裕なんて殆ど無い。
「ててててっ、手を出されてる!? てぃ、ティスト様がそんな事するわけないじゃありませんの!」
「え? めちゃくちゃ手出してくるけど……?」
特訓という名目の上で、ストレス発散のために嵐のような暴力を向けてくるのだが――
「ああ、メアリーちゃんはティストさんの本性知らないのか。ソフィアが知ってるからてっきり知ってるかと……」
「お、お姉様が知ってる!? という事は本当にティスト様は年下の軟弱男が好みなんですの……?」
「ん? 好み……? メアリーちゃん何の話をして――」
「いえ、ティスト様のように高潔でお強い方ほど柔な者に惹かれてしまうのかもしれませんね……」
何だか凄い勢いで貶されている気がしなくもないが、とりあえずそれは良いだろう。
「ねえメアリーちゃん、何か勘違いしてない?」
「ふえ? 何がですの?」
「いや、『手を出されてる』っていうのは暴力を振るわれているっていう意味なんだけど……」
「……」
予想通り勘違いをしていた様で、メアリーは徐々に顔を赤くしていく。
「やっぱりメアリーちゃんはおませさんだなぁ」
「まっ、また『おませさん』って言いましたわね!? そもそも勘違いしてしまうような言い方をするあなたが悪いんですの! それにあのティスト様が無闇に暴力を振るうだなんて信じられませんの! はっ!? まさかあなたティスト様にまでそんな失礼な事を言って怒らせているんじゃ……」
確かに自分の言い方が悪いというのは一理ある。
現に「暴力を振るわれている」なんて言い方をしてしまったせいで、ティストさんがチンピラだと言っているみたいになってしまっている。
確かにティストさんは言動はチンピラみたいに粗暴な所があるが、別に理不尽に暴力を振るう様な人ではないのだ。
「いや、僕がティストさんにお願いしてやってもらってるんだよ。メアリーちゃんの言ってる通り無闇に暴力振るう人じゃないから安心して!」
確か以前サキトがティストさんは人気者的な事を言っていたはずだ。
口ぶりからしてメアリーもきっと憧れているのだろう。
夢を壊してはならないと思い、慌てて誤解を解こうとそう訂正したのだが――
「わざわざ頼んで暴力を振るってもらってるんです……の……?」
メアリーが表情を引きつらせている。
誤解を解こうとしてさらに誤解を生み出すとは、なんと末恐ろしい才能だろうか。
「い、いや、違うんだよ。ただお願いして特訓をつけてもらってるだけでね……?」
「ま、まあ、そういう事にしておきますの……」
どうしよう、誤解が解けていない気がする。
「そ、それより、あなたはパーティーの方に戻らなくてもよろしいんですの?」
しかもメアリーが気を遣って話を変えてしまった。
とりあえず今誤解を解くのはもう無理そうなので、質問に答える。
「ああ、ちょっと今すぐには戻れないかなぁ……」
「どうしてですの? まさか何かやらかしたんですの?」
「尻尾を巻いて逃げてきた」と素直に答えられる勇気を、自分は持ち合わせていない。
「いや、別にそういう訳じゃ無いんだけど……ぼ、僕の事なんかよりも――メアリーちゃんはどうして参加してないんだい?」
そうしてただ話題をそらすだけのつもりでとっさに紡いだ言葉が、失言であるという事に自分が気がつけたのは、既に全てを言いきった後であった。
自分の知る情報など微々たるものであるが、この子が大好きな姉であるソフィアの祝い事に自ら望んで参加しないなんて事があるわけが無いという事くらいはわかる。
「……」
「ご、ごめん、別に言いたくなければ言わなくてもいい……よ?」
十一歳の女の子が俯いて押し黙る姿にビクビクしている自分の姿は、傍から見れば情けない事この上ないだろう。
何故こんなご機嫌取りみたいな態度を自分は取っているのだろうか。
もちろん、出来るだけ人に嫌われずに生きてはいきたいものだが、それだけでは説明のつかない衝動的な感情に先ほどから苛まれているのだ。
このまま口を聞いてもらえないかもしれないと思うと、胸の奥の方が不規則に揺らぐ。
この感情を人は『不安』と呼ぶのかもしれない。
だからこそ、メアリーは沈黙を破った瞬間の表情を自分が見逃す事は無かった。
その表情は、地雷を踏んだかもしれないと危惧していた自分の予想とは裏腹に、随分と悲しげで――
「別に、言えない事というわけではありませんわ……。ただ、お姉様に参加を禁止されただけ……毎度の事ですわ……」
あのソフィアが、意地悪で参加を禁止しているなんていう事は万に一つもありえない。
絶対にメアリーを想っての行動のはずだ。
だとすれば、自分の拙い経験と知識から予想するに、あの欲望渦巻く空間にメアリーを晒したくないのではなかろうか。
「メアリーちゃん、多分ソフィアは君の事を想って――」
姉妹のすれ違いを解消すべく、口をついて飛び出したその言葉を――
「そんな事わかってますわ」
――そんな予想外な言葉が遮った。
「貴族の集まり事というものが、決して快いものでは無いという事くらい私でも知っておりますし、お姉様が私にそれを体験させたくないという事もわかっております。馬鹿にしないでくださいまし!」
「じゃ、じゃあなんで……」
そんな悲しげな表情をしているのかと、そう自分が口にする事をわかっているかのようにメアリーは答える。
「それでも……大切な人のお祝い事にはちゃんと参加したいですし、私の代わりにお姉様が害を被っているというのに、私はその害がどれほどのものなのかも知らず、その上どうする事も出来ないというのは……悔しいし情けないのですわ……」
逃げ出した自分には、耳の痛くなる話だった。
「いや……それで終わらしちゃ駄目だよな……」
大切な人の下に行きたくとも行けぬと、助けになりたくともなれぬと、目の前で十一歳の女の子が言っている。
その想いを前にして、いつまでも悪意に怯えている訳にはいかない気がしたのだ。
第一、そのメアリーにとっての大切な人は、自分にとっても大切な友人だ。
尚更、いつまでも逃げている訳にはいかない。
「どうしたんですの急に……?」
「ん? いや、メアリーちゃんのおかげで少し勇気が出たってだけだよ。ありがとうね」
「なんで私の情けない話を聞いて勇気を出してるんですの!? お礼を言われても全く嬉しくないですわ!」
また何か誤解を産んでいる気がするが、まあ別にもういいだろう。
「やっぱり僕はそろそろパーティーに戻るよ。お話に付き合ってくれてありがとね」
「な、何だか納得いきませんけど……あなたは貴族でも何でも無いのですから、まあせいぜい楽しめばいいですわ!」
本当に気遣いの出来る優しい子である。
きっと自分はあのパーティーを楽しめないというのが少し申し訳ないが、その言葉だけでも救われるものだ。
「また今度お話しようね」
「ふん! 気が向いたらしてあげてもいいですわ!」
そんな相変わらず少し棘のある物言いに不思議な心地よさを感じながら、キュウと共に庭園を後にし、パーティー会場へと戻ったのであった。




