39.良薬は口に苦いし酸っぱいし
特訓の開始は、いつものあの感覚が教えてくれる。
魔力探知が攻撃の侵入を告げるのよりも幾許か早く脳裏を走るその感覚に従い、ポルテジオの発現の準備を整え、魔力探知から得られる情報を基に的確な位置へと発現させる。
――やはり自分はこの感覚が好きだ。
最初の頃はただがむしゃらに防御していたために特に他の事を考える余裕などなかったが、ほんの少し慣れてきた今ならば色々と感じる事ができる。
――ただ一つの事に集中する没入感。
周囲で巻き起こる魔力の爆発の音も今では一切気にならない。
――周りで起きる事象の全てを脳内で把握し、一歩たりとも動くことなくその全てに対応できているという高揚感。
一応目を開けてはいるが、この調子なら視覚情報すらも必要ないかもしれない。
――じりじりと何かの神経が高負荷によって圧迫されていく緊迫感。
こんな言い方をするとまたキュウに勘違いされるかもしれないが、スリルが楽しいとでも言うのだろうか。
だんだんと脳が熱を帯びていく様なこの感覚がたまらない。
――そして、確と自分は成長していると感じられる愉悦感。
今では、生まれた余裕を使い跳弾させた魔力を別の魔力にあてて爆発させ、手の空いたポルテジオを他の魔力へと回すなんて芸当すら出来る様になっている。
そうして生まれた更なる余裕を使って防御を最適化していくのだ。
止める、弾く、無視する、受け流す。
その内一つとて判断をミスしてはならないという緊張感も、また良い物だと感じ始める。
たった十秒程度の出来事ではあるが、これほど充実した時間もなかなかないだろう。
もうすぐこの感覚が終わってしまうのが残念だとすら感じる。
――十秒間しか安全に対応していられない自分の能力が口惜しいくらいだ。
そんな余裕をぶっこいていた自分の目には、リオナさんの意味深げな笑みが映っていた。
―――――――――――――――――――――――――――――
「…………」
自分は今、倒れているのだろうか。
攻撃されている感覚が消えたのは確認したが、それから後の自分の状態がさっぱりわからない。
というより、呼吸は出来ているのだろうか。
「――!? ――!」
「――」
誰かの話す声は辛うじて聞こえるのだが、自分の呼吸音が聞こえない気がするのだ。
いや、正直思考がぼんやりして話している内容もいまいち理解ができないのだが。
頬に何かしっとりした物が当たる。
キュウが舐めているのだろうか。
不安そうにしている気がするので、安心させるために撫でてやりたいのだが、腕を動かせる気が全くしない。
というより、全身動かせる気がしないのだ。
体があるのはわかるのだが、動けという信号が全く送信されない。
「――? ――!?」
誰かの声が近くでする。
いつの間にか隣に誰か来ていた様だ。
誰なのか確認したいが、顔を動かす事も出来なければ、視界もぼやけてきている。
こんなにも自分の思い通りにならないことばかりなのに、心は不思議とまるで微睡みの中にいるかのように穏やかだ。
(何だか……だんだん……思考が……)
ふと、左手に何かが触れ、そこから何かが流れ込んでくるのを感じる。
その何かが左腕を駆け上がって自分の顔に到達すると、口が勝手に開いた。
続いて口の中に何かが侵入してきたかと思うと奥歯に何かを挟まれた。
(……?)
何が何やらわからないまま、されるがままにされていると、口が強制的に閉じられた。
――瞬間、口内から衝撃が広がる。
「ッ――!?」
果てしなく苦い物と途轍もなく酸っぱい物を混ぜてひたすら煮詰めたうえで長期間放置して腐らせた物を天日干しした後に再びどぶの水で練り直した物の様な臭いと味がする。
自分でもわけがわからないが本当にそんな風味なのだ。
沈みかけていた意識が一気に浮上し、全力をもってその口の中にある物を吐き出そうとするが、万力に固定されたかのように口が堅く閉ざされておりそれは叶わない。
大暴れしたいが、相も変わらず体は言う事を聞かず――いや、何故か少しずつ、本当に少しずつ動き始めている。
暴れようとしている間に口の中にあったものは喉を通って胃の中まで下ってしまっているが、口内は相も変わらず地獄の様相を呈している。
水でもなんでもいいからとりあえず口に含んで洗い流したい。
全身に力を籠めようと拳を握る。
(あれ……? すんなり握れる……?)
その事実に気が付いた瞬間、万力に固定されていた口が開き、とりあえず口内にたまった悪臭を吐き出そうと――はせず、全力で息を吸い込んでいた。
酸素を追い求める様に、ひたすらに深い呼吸を繰り返す。
冷や汗はとめどなく流れ落ち、自制を無くしたかの様な口元にも遠慮なく入ってくるが、それを拭うのさえ忘れてひたすらに呼吸する。
「ぷはっ……ゲホッ……おぇ……」
「はぁ……良かった……。ほら、これを飲んで……」
呼吸が幾分か落ち着き、少し嘔吐き出した所で、傍にいる女性から水筒を差し出された。
「おぶぇ、ありばぼうぼぼ、ぶぉふ」
お礼を言おうとする意識と、早く水分を得ようとする肉体とがせめぎ合い、浴びるように飲んだ水が口元から溢れ出して垂れ落ちる。
「い、いいから、ゆっくり飲んで……!」
気を使ってくれたのかそんな言葉をかけてくれた。
お言葉に甘えて飲むのに集中をする。
「う、うっぷ……。ありがとうございま……あっ……」
全部飲み干した所で失態に気が付く。
いや、失態と言えば先ほどからの一連の全てが失態なのだが。
(なに人の物を全部飲み干してんだ僕は……!?)
厚意に甘えるままに全部飲み干してしまったという事実に再び冷や汗を流していると、その女性は少し抑揚の少なめな声で話しかけてきた。
「ふふっ……気にしなくていいよ。まだ余分に持ってきてるから」
「す、すみません……。ってあれ?」
ここに来てようやく気が付いたのだが、先ほどから自分を介抱してくれていたその女性は、ハルカさんであった。
「……?」
「あ、いえ、何でもないです。水、ありがとうございます」
自分の反応に不思議そうにするハルカさんに、とりあえず水のお礼を言う。
いや、そもそもこの空間には自分以外にはリオナさんとハルカさんしかいないので、リオナさんでないならばハルカさんでしかありえない。
(でも、何だかさっきと印象が違う様な……? 微妙に話し方に抑揚がついたというか、感情が籠っているというか……?)
自分が戸惑っていると、この空間にいるもう一人であるところのリオナさんが話しかけてくる。
「いやぁ良かった良かった。ありがとうねハルカちゃん♪」
「軽すぎですリオナ先生。処置が遅れていれば死んでいたかもしれないんですよ?」
「えっ!? しっ、死!?」
突然の事実宣告に驚愕を隠し切れない。
「ごめんねぇ。何だか余裕がありそうだったからちょっと長めにやってみようって思ったらやりすぎちゃったみたいで」
リオナさんは「テヘッ♪」とでも擬音が付きそうな態度で謝罪してくる。
それを聞いて、だんだんと記憶が蘇ってきた。
「た、確かに十秒たってもなかなか終わらなくって……」
突然の事態に焦りつつも、少しでも防御を失敗して体勢を崩そうものなら数百単位の魔法の波に晒される事になるので、自分は本当に死に物狂いで防御に徹していた。
しかし、自分の処理能力は本来あの攻撃に十秒程度耐えられる程度にしかない。
長引けば長引くほど負荷は蓄積していき、最後の方は恐らく殆ど意識も無く防御していたのではないだろうか。
「なんだかんだちゃんと防御出来てたから感心してたんだけどね。流石に三十秒くらい経った所で様子がおかしいなって私も気が付いて、魔法を消したらその途端タケル君倒れちゃって……」
(さ、三十秒もやっていたのか……!?)
サキトの帰還を喜んでいた時のあの愛ある姿に、自分はまるで聖母の様だとすら感じていたのに、今は少しばかり悪魔の様だとすら感じてしまう。
なぜ今自分がこうしてまともな思考をしていられるのかがわからないまである。
「……私の見た限りだと、たぶん彼は最後の十秒程は既に意識がありませんでしたよ。首が据わってないみたいに俯いてましたし……」
ハルカさんが衝撃的な事を言ってのける。
無意識に防いでいたのだとすれば凄い事だが、裏を返せば無意識に防げていなければ十秒間で約五百発の魔法に滅多打ちにされていたという事だ、
そうなっていた場合は流石に魔法を消してくれてはいたと思うが、それでも恐ろしい事に変わりはない。
『武……だいじょうぶなの?』
「う、うん……たぶん……」
キュウが心配そうに頬を舐めてくる。
「すっごく集中してるのかと思っちゃって……ごめんねタケル君?」
「いや、まあ無事だったので良いですけど……」
「い、いいのね……」
ハルカさんが表情の乏しいその顔を若干引き攣らせている。
無事でなければ、つまりは死んでいたという事なので、そもそも許す許さないの話ではないが、そもそもこちらがお願いしてこの特訓をしてもらっているのだ。
多少の手違いはあるだろう。
命あっての物種である。
「そういえば、あの凄まじい……おぞましい風味のやつは何ですか……?」
そう、死にかけた事よりも今気になるのはこれである。
いや、死にかけた事も十分重大な事態ではあるのだが、そちらはある程度理解できたから一先ずいいのだ。
「ああ、あれは私の家に伝わる……まあ気付け薬みたいなものよ」
自分の質問に答えたのはハルカさんであった。
確かに気付け薬と言われてみれば、しっくりと来ない事も無い。
あの風味なら死人すら気付けされそうだ。
「意識がなくなったせいか呼吸も殆どしてなかったらしいから、ハルカちゃんが慌てて食べさせたのよ。でも、本当に凄い効き目ねぇ」
通常意識は無くなっても呼吸はするはずなのだが、三十秒にも渡る悪魔の所業はどうやら自律神経にまでも影響を与えてしまった様だ。
「ああ、だから意識戻ってからも吐き出したいのに口が開かなかったりしたんですかね……」
神経がおかしくなって信号が届かなかったのなら、まるで万力に固定されたかの様に感じたのも納得だ。
「いや、それは……私がちゃんと効果が出るまで開かないようにしてたからで……」
「へ?」
しかし自分の予想ははずれた様で、ハルカさんは自身が抑えていたのだと申告してくる。
「いや、でも触られてた感覚ありませんでしたし……あれ? でも神経が麻痺してたなら触られててもわからないか……。いや、でもキュウが舐めてきてたのは感じたし……あれ?」
自分でも言っていてよくわからなくなってしまい目を白黒とさせていると、その答えはハルカさん自身が与えてくれた。
「その、私のシエラが『力を操る』ってもの、で、その……それで動かないように固定してたの……。その……勝手にあなたの体を操作しちゃって、ご、ごめんなさいっ……!」
何だかとても後ろめたそうに謝罪をしてくる。
何を言っているんだこの人は――
「いや、そうしてくれなかったらちゃんと効果でなかったんですよね?」
「う、うん……。たぶん、そもそも、気付け薬を噛み砕けなかったっていうか……。でも、他人に体を操られるのって、気持ち悪いと思うし……」
「いや、命救われて文句あるわけないじゃないですか! 気付け薬にびっくりはしましたけど、やってくださった事には感謝しかないですよ! 本当にありがとうございます!」
「そ、そっか……。うん、ありがと」
「なんで先輩がお礼言ってるんですか……?」
おかしな人である。
「うふふ、何だかキーくんがタケル君と仲良くなった理由が分かった気がするわ」
「へ? サキトがどうかしたんですか?」
「うんうん、別に何でもないわ♪ あなたたちが似てるなぁって思っただけよ♪」
今回の件の元凶が何か上機嫌に言っているようだが、まあいいだろう。
「それじゃあ改めまして……。この春からこの学院に通わせてもらう事になった須藤武って言います。今回は本当にありがとうございましたハルカ先輩!」
命の恩人である。
最大限の礼をもって、先輩として敬っていこう。
「は、はい、よろしくね――」
そこまで言った所で、ハルカ先輩は何か思い出した様な素振りを見せ、一度咳払いをしてから自己紹介をし始めた。
「私は『ハルカ・オシウミ』、あなたの一年先輩になるわね。まあこの"特化魔力制御学"の講義は殆ど私だけしか受けてない様なものだったから、あなたも受ける様になるならよく会う事になるでしょうけど、あなたのシエラとは系統がだいぶ違う様だから、力になれる事は少ないと思うわ」
何だかまた最初の様な、感情の乏しい抑揚の無い話し方に戻ってしまった。
最後の方など何だか突き放されている様な印象さえ受けるが、何か気に障る事でも言ってしまっただろうか。
恩人に失礼な事を言ってしまったかと気を揉んでいると、どこか遠慮がちにハルカ先輩は再び口を開く。
「そ、そんなに落ち込まなくても――ま、まあ多少なら教えられる事もあるかもしれない……から……」
また表情から感情が駄々洩れになっていたのだろうか。
しかしこれは別に突き放したわけではないという事ではないか。
「はい! 僕ちょっとわけあって知らない事だらけなので、たぶん色々教えてもらう事になると思いますけど、よろしくお願いします!」
「う、うん……よろしく、ね」
何やら微妙な反応なのが気になるが、ハルカ先輩からは嫌悪感などではなく、どちらかと言うと申し訳なさそうな雰囲気を感じる。
いったいどういう事なのであろうか。
「ちょっとハルカちゃん! その言い方だとまるで私の講義が『いつも閑古鳥が鳴いている需要皆無の無駄講義』みたいじゃないの!」
悩む自分を余所にリオナさんがハルカ先輩に抗議の弁を述べているが、そこまでは言っていないのではないだろうか。
「そ、そこまでは言ってないですよ。需要はあるけど、この講義を学ぶレベルに達している人が少ないだけです」
「本当にぃ?」
やっぱりそこまでは言ってなかった様だ。
というより、この特訓は講義の一環だったのか。
入学前に体験できるとは、何だかちょっと得をした気分である。
そんな感想を抱いていると、再び鉦の音が鳴る。
「あ、エレベーターが来た」
「エレベーター? あれは『モートゥス』よ?」
「あ、モートゥスって言うんですね。あははは……」
リオナさんの言から正式名称はモートゥスである事がわかったが、なんだそれは。
笑って誤魔化したが正直納得がいかない。
『ビル』は『ビル』のままだったりするに、一緒だったり一緒じゃなかったりするのは何なのであろうか。
(いや、そもそも一緒な方がおかしいのか……? というか今の言い方だとエレベーターも存在してるっぽいな……。いやそもそも――)
よく考えれば確かにエレベーターでは無いという事実に思い至った辺りで、モートゥスとやらからティストさんが降りてきた。
「よう、ボウズ。生きてっか~?」
死ぬ直前まで痛めつける事を許可していった張本人が、本当に殺されかけたという事実を知らずに呑気に話しかけてきた。
「呆れた姉弟子だ。生かして置けぬ!」
「おぉん? やるかぁ?」
「じょ、冗談ですよ……。本当にさっき死にかけてたんだから勘弁してください」
「まあどうせこの後やるけどな」
「えぇっ!?」
冗談のつもりで煽っただけなのだが、どうやらそもそも決定事項だった様だ。
リオナさんが昼頃までしか出来ないと言っていた理由はこれか。
「おっと、言っとくがこいつが勝手に姉弟子って呼んでるだけだから気にすんな」
ティストさんが唐突にリオナさんとハルカ先輩に向けてそんな事を言い出す。
不思議に思っていると、ティストさんが耳打ちをしてきた。
「――私が姉弟子だって事になったらジジイとお前が関係あるって事が無駄に広まるだろうが。ちったぁジジイの配慮を汲めアホボウズが」
なるほど。
すっかりおじいちゃんから言われていた事を忘れていた。
確かに不用意であったと反省する。
「まあとりあえず昼飯にすっか。食ったら夕方までしこたま特訓だからしっかり休憩しとけよ」
「……はい」
まさか休憩無しでやるつもりではなかろうか。
そんな不安を抱きつつ、ティストさんの持ってきた昼食へとありつくのであった。
神タイトルだと思いました(小並感)




