2.7th Trigger
「寒くなってきたなぁ……」
すっかり暗くなった公園の畔を歩きながら、防寒具を着込んだ武は独り呟いた。
街灯が少ない道の中、歩道を一人で歩く武は踏みしめる足の感触とたまに通りすぎる車のライトに照らされた部分から、歩道には落ち葉が積もっているのだろうと理解する。
昼間降った雨を落ち葉がまだ下に確保しているのか、空気はどことなく湿っており、冷たい空気と相まって一層寒々しい。
辺りには静寂が広がり、湿った枯葉を踏む足音しか聞こえないため、たまに通る車の音がなければ森の中に居ると錯覚してしまいそうである。
今もまた遠く後ろの方からする車の音が武の意識を引き戻したところだ。
大学からの帰り道、今日の武はいつもはあまりしない居残り勉強なるものをしていたために時刻は夜八時を少し過ぎていた。
普段と違う事をしたというちょっとした気分の高揚からか、遠回りをして帰ってみようという考えに至ってしまった十五分ほど前の自身を少し恨みながら白い息を吐き出す武は、ふと何か気になったようで公園の中に視線を巡らせた。
(まあ、こんな時間に人なんて居ないわな)
事実、人なんて居なかったわけだが、結果的にこの行為が武の運命を決定付けた。
(ッ!?)
唐突になったトラウマを駆り立てる音。
トラックのエアブレーキ特有の空気の抜ける音が武の耳を貫く。
「うおっ……」
公園の方に向けていた顔を反射的に後ろに向けたため、無理に捻ってしまった武の体は足場の悪さも相まっていとも簡単にバランスを崩してしまった。
なんとか踏ん張ろうとする足は二度ほど地面を捉えたが、無情にも湿った落ち葉で滑ってしまう。
むしろ捉えてしまったがためにある程度の推進力を得てしまった体は、何かに引っ張られるように道路へと飛び出してしまった。
(あぁ……これは死んだな……)
耳にはけたましいクラクションの音を、目には眼前に迫るトラックの眩いライトの光を感じながら、そんな場違いな程に冷静な思考を浮かべ、武はゆっくりと目を閉じるのだった。
―――――――――――――――――――――――――――――
――ごめんね……。
そんな誰かの声を聞いた気がした。
―――――――――――――――――――――――――――――
「んぅ…………ん?」
目を閉じてから体感として数秒が経過していた。
左半身には枯れ葉の落ちた地面の感触を感じ、まぶた越しに感じる光は多少柔らかくなったように思う。
肌には幾分か暖かみを感じ、何よりあのけたましいクラクションの音とトラックのエンジン音が聞こえなくなったと理解した辺りで流石に疑問に思い目を開けた。
「…………え?」
自分の周り五メートルほどには枯れ葉が広がり、その先にはまだいくらか枯れ葉を携えた木が、見える限りどこまでも立ち並び、広がっている。
どうやら自分が今いるのは森の中で、木々の間のちょうど枝の重なりの少ない場所のようだ。
陽気も非常に心地よく、日向ぼっこにはもってこいの場所だろう。
「…………昼だ」
そう、自分の頭上には燦々と太陽が輝いているのである。
(どういうことだ……? と、トラックは!? てかここどこだよっ!?)
答えの出ない問いが頭の中を巡る。
(待て、まずは落ち着いて深呼吸だ……よし)
焦って慌てていても現状は変わらないどころか、寧ろ時間を無駄にして状況悪くしてしまうだけだ。
澄んだ森の空気を胸一杯に吸い込んでは吐くという動作を何度か繰り返し、落ち着いたと思ったところで再び思考を開始する。
(取り敢えずまずはここがどこなのか把握しないとだよな……。そのためには道路に出ないと……。実は轢かれた衝撃で気絶した僕をトラックの運転手が死んだと思って山中に遺棄したのかもしれないし)
冷静になったつもりでいたが、そう簡単にこの不可思議な状況下では冷静になれないようで、突拍子も無い思考がさらに頭の中を掻き乱す。
後から思えば、自分の体に痛みが無いという事実にまず気が付くべきであっただろう。
「道路……どっちかな? 携帯は……圏外だし……」
辺りを見回しても、もうあまり葉のついていない木々が存在しているばかりで、一向に手がかりが掴めない。
そんな時、一点に定まることのない自分の視野に一本の折れた枝が飛び込んできた。
「原始的だけど、わりと真っ直ぐだしこいつの倒れた方に進むか。……なんかいい匂いするなこれ」
枝は自分の身長よりも少し高いくらいには長さがあり、重心がどこにあるのかもよくわからず、均等に倒れるかはわからない。
しかし、そんなことを気にしている余裕もないため、早速枝を地面に垂直に立てて手を離してみた。
「……右か」
倒れた枝を拾いなおし、側面についた土や枯れ葉を払い落とす。
今一度枝の倒れた先を見据えるが、見えるのはただ枯れ葉を幾分か携えた木が立ち並んでいる風景だけだ。
「まあもう運に身を任せるしかないか……」
こうして宛もなく香木の枝一本をお供に歩き始めたのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――
(……全然道路に出ないんですけども)
歩き始めて二時間ほど経っただろうか。
自分はまだ何の手がかりも得られないままでいた。
太陽はまだ高い位置にはあるが若干傾いてきているうえに、なによりも――
(歩いてると暑かったから上着を脱いだけど……普通に気温下がってきてるよな……)
そう、このままもし道路を見つけられなければ、すなわち森の中で野宿なのである。
以前にテレビで「夜の森は冷える」という話を聞いたことがあるうえに、季節は初冬と言ったところだ。
そんな森の中での野宿など絶対に避けたい。
何度か別の方向に向かおうかとも思ったが、そもそもこの森のなかを真っ直ぐ進めているのかすら危ういため、きっと抜けられると信じてひたすらに進む他になかった。
「野宿になんてなったら本当にヤバいぞ……。食料なんて鞄に入ってるカロリーでメイトなあいつと飲みかけのお茶くらいしかないし……。香木くんは流石に食べられないよな……?」
見知らぬ土地での一人旅という不安を紛らわせるために香木の枝を『香木くん』などと名付けてみたのだが、これがなかなか効果があるようで不思議と不安が和らぐのだ。
しかし不安が和らいだところで歩き続ける以外に出来ることは無いため、小休止を挟みつつ気の紛らわしにすっかり旅のお供と化した香木の枝の折れ目から仄かに香る匂いを嗅ぎながら歩き続けるのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――
歩き始めてから五時間ほど経ったであろうか。
日は傾き辺りが薄暗くなってきている。
散々歩き続けたが一向に道路は見えてこないどころか、人の入った気配も感じられない。
暗い中進むのは自分には無理だろうと、本格的に野宿の覚悟を決め始めていた頃だった。
(ッッッッッ!?)
視界の端に何か映るのと、凄まじい悪寒がはしるのはほぼ同時であった。
特にそんな訓練を受けた覚えもない自分が瞬時に近くの木に身を隠す程度には凄まじい悪寒であった。
(何なんだ……今のは……?)
おおよそ経験したことの無い感覚に、そもそも不安と疲れから僅かに起きていた動悸が更に速まる。
身を隠して十数秒、意を決して恐る恐ると視界の端に映った者がいた方を覗き見た。
「ウッ……!?」
絶句であった。
十秒ほども歩けば辿り着くような場所に、目測で体長二メートルほどの巨大な土竜がいたのである。
いや、土竜のような何かだ。
あれほど大きく禍々しい土竜なんて見たことも聞いたことも無い。
さしずめ"大土竜"と言ったところだろうか。
全身を紫の体毛に覆われ、顔とおぼしき部分はこの距離からでも眼の位置が判別できない。
そこだけ体毛に覆われていない突き出た鼻のような部分をしきりにひくつかせ、だらしなく開かれた口からは鋭い牙が覗き、粘度の高そうな唾液が滴り落ちていた。
何より特徴的なのはその体長のわりに短い手の先についている五十センチはあろう長く禍禍しい爪である。
そうやって爪を観察していたためであろうか。
「ッ!?」
恐ろしい顔が――大土竜の顔がこちらに向いているのに気が付くのが遅れた。
瞬時に顔を引っ込めたがきっとあの大土竜に見られたであろう。
あまりの恐怖に腰を抜かしてしまったのか足が言うことを聞かず木にもたれ掛かるしかない。
手で這ってでもその場から抜け出したいが、香木の枝を握る手が硬直して動かせない。
(逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げな――)
そんな思考を遮るように、何か乾いた音が鼓膜を震わす。
――地面を擦る音だろうか。
半ばパニック状態の自分にはその程度しか理解が及ばなかった。
何か硬質な物を擦り合わすような音もする。ただ一つ確かに言えるのはそれは"こちらに近づいてきていた"。
「ンッーー…………」
恐怖で漏れそうになる声をなんとか押し込める。
――一歩
――また一歩と
――確実にこちらに近づいている。
そんな思考を何度繰り返しただろうか。
音が自分のいる木の裏付近まで来た。
今にも叫び出したい気分だったがどうにか堪え、口を閉ざし、ただ前を見つめていた。
そのままどれ程の時間が経過したであろうか。
恐らく極々短い、ほんの数秒間程度であっただろう。
しかしある種の極限状態にある自分には永遠のように長く感じられた。
(音が……止んだ……?)
静寂の広がる森の中でただ自分の恐怖に染められた、止めきれずに途切れ途切れとなった呼吸の音だけが耳に届く。
――いや、違う。
――他にも聞こえる。
――何か空気を吸い込むような感じの……。
隣を見ると木の影から鼻が飛び出ていた。
大土竜の鼻が。
大小様々な薄汚れたイボがヒクヒクと空気を吸う度に脈動している。
触っただけで手を溶かされるのではと想像してしまうほどに気味の悪い光景だった。
(ああ、死んだな)
そう思ったのもつかの間、大土竜はそのまま鼻を引っ込めて、また足音を響かせながら遠ざかっていった。
こうして、自分自身もよくわからないままに九死に一生を得たのであった。
―――――――――――――――――――――――――――――
「…………はぁ」
大木の根と地面の間に出来た人一人分のスペースに入って踞りながら、白い息を吐いた。
化け物の去った後の事は正直よく覚えていない。
ただがむしゃらに走って、あの場から離れようとしていたことは覚えている。
走って、走って、転んで、走って、そうして走り疲れて辿り着いた場所がここだ。
辺りは既に暗闇に包まれ、風に揺れる木の音や時折聞こえる動物の鳴き声が冷たい空気を切り裂く。
気温は低く、かじかんだ手は死人のように冷たく、何も感じられない。
「実は既に死んでたりしてな……」
そんな冗談でも言っていないと心が壊れてしまいそうなのだ。
いやが上にも理解してしまっていた。
この森が恐らく自分の知っている類いの"森"ではないことを。
そして、この森が"危険"であるということを。
(いったい何だったんだあいつは……)
必死に忘れようとしても頭からは離れてはくれなかった。
――あの鼻は既に自分を探しだしているのではないか。
――あの爪に貫かれた自分は人としての形を保っていられるのだろうか。
――あの牙は自分の頭蓋をいとも容易く噛み砕くのではないだろうか。
次に見つかった時が自分の最期なのだという、そんな想像で脳内は埋め尽くされていた。
「――お腹、減ったな……」
捕食される姿からの連想で自分の空腹に思い至るなど、不本意極まりないが、一度気が付いてしまえば如何ともし難いその欲求から鞄の中に手を伸ばしかけ、止まる。
「……いや、駄目だな」
これから何があるかわからないのだ。
そんな状況でわずかな食料を食べ尽くしてしまわない程度には、まだ自分は冷静であった。
刺すような寒さや広大な森にひとりぼっちだという心細さと、生きて帰れるのかという不安やあの化け物がもし襲ってきたらという恐怖に苛まれ、正直なところ精神は擦りきれてしまいそうだ。
何か音がする度にさっきの大土竜が来たのではないかと、そうやって自分の心が疲弊していくのをまざまざと意識させられる現状に堪らなくなっていた。
ここまで一緒に旅をしてきた香木の枝の匂いも、鼻が慣れてしまったためか、あまり効力を発揮してはくれない。
(もしかしたら、これが報いなのかもな)
そんな考えが頭をよぎる。だが、
(だからって……この状況に耐えられるわけじゃない……)
もしこれが報いだって言うのならば――
――いっそ……
――報いとして受け入れて……
――死んでしまえば……
――キュウッ♪
――楽に……
(……ん? キュウ?)
そこで始めて、自分の左足の辺りに何か温かい白桃色に淡く光る毛玉が当たっていることに気が付く。
つい先程まで小さな物音一つにビクビクするほど敏感になっていたはずだ。
触れられても気が付かないほど思考の渦にのみ込まれていたというのだろうか。
「なんだ……おまえ?」
先程までの恐怖や不安はどこにいったのか、気が付くと何の躊躇も無しにその毛玉へと指を伸ばしていた。
顔を後ろに向けていたために毛玉にしか見えなかったそれは、指が近づいてくるのに気が付くと、顔をこちらに向けて指に擦りついてきた。
「キュウッ♪」
耳の間を撫でてみる。
「キュウキュウッ♪」
顎の下をくすぐってみる。
「キュキュキュウッ♪」
「……ふっ……ははっ……かわいいなおまえ」
それはフェネックに似た小動物であった。
大きさは二十センチくらいで、耳が大きくてクリクリとした黒目が愛らしい。
色が白桃色で淡く光っていることを除けば、ほぼほぼフェネックだ。
「まあ淡く光ってる時点で色々おかしいんだけど……。フェネックって実は発光したりするのかな……?」
そう言いながら撫でているとその小動物は、完全に旅のお供と化した香木の枝の匂いを嗅ぎ始め、体を擦り付けだした。
「お! お前も香木くんを気に入ったか。なんか安心するよなそれ!」
「キュキュウッ!」
なんとなく同意を示してくれているような気がした。
そんなやり取りの中、自分の身に起こった変化にはたと気が付く。
「あれ? 寒くないぞ……」
先程まで自分をあれほどまでに苦しめていたあの刺すような寒さが無くなっているのだ。
根拠は無いが、何となく自身にこの温もりを与えてくれている相手に心当たりはある。
というよりそれ以外考えられない。
「お前の……おかげか?」
「キュウンッ♪」
「フフン♪ どうだ!」とでも言うかのように鼻をならしている。
そのまま肩へ飛び乗り、今度は顔を小さな舌で舐めてきた。
本当にそう思っているのかはわからない。
ただ、その小動物が言っているように感じたのだ。
――「元気をだして」と。
――「負けるな! 頑張れ!」と。
なんだこの小動物は。
心細さと恐怖で押し潰されそうな自分の前にタイミング良く現れ、温もりと癒しを与えていく。
狙ってやっているのだろうか。
こういう心の隙につけ込んでくる手法は新手の詐欺の常套手段だと聞いたことがある。
だが、そう考えると同時にこうも思ったのだ――
(まあ、よしんば詐欺だったとしても――)
――「これになら騙されても良いや」と。
「こいつめこいつめ! まったくかわいい奴だなおまえはぁ!」
「キュキュキュウッ♪」
両の手で撫で回して、頬擦りをして、一緒になって転げ回ったりして、目一杯じゃれあった。
――――
一通りじゃれあった後、一息ついて座り直し、先程の事を思い出す。
(こんなに笑えたの……いつぶりだろう……)
胡座をかいた脚の内側で丸まっている小動物を撫でながらそんな思考に耽っていると、小動物が突然立ちあがり、胸に前足をつけて顔を近づけてくる。
犬のように鼻でも舐めてくるのかと思い顔を近づけてみると、右の目尻を舐めてきた。
それと同時に左の頬を何かがつたうのを感じる。
「あれ……なんで、僕、泣いて……」
瞳からはこれまで堪えていた分が堰を切ったかのように、とめどなく涙が溢れ出してきていた。
「おかしいな、あれ、どこも痛くないのに、悲しくもないのに、おかしいな……」
拭っても拭っても、涙が止まることはなかった。
右の目尻から溢れる涙を小動物が何度も何度も舐めとってくれる。
まるで溢れ出る涙を少しでも止めようとしてくれているようだ。
そんな姿を見ると、胸の内に何かが込み上げてきて、鼻の奥がツンとしてくる。
「ありがとう……。ありが、どう゛……な゛」
「キュ?」
込み上げる想いを言葉にしきれないまま、その小さな温もりを抱きしめ、その日は眠りに落ちた。
もう、寂しさはなかった。