9-B.交差地点への道のり
9話Bパートになります。
日の陰りを感じふと空を見ると、周りより幾分か分厚い雲が太陽の前を横切り、温かな春陽を独り占めしていた。
しかしそれもつかの間、順番待ちの行列から苦情でも入ったのかそそくさと次のものに場所を譲っている。
結果的に太陽と自分の間にあるのは薄い雲のみとなり、そんな雲が空全体に広がっているのだが、白い霞は陽光を程よく遮るにとどまっているため、不思議と暗いとは感じない。
(いわゆる花曇りというやつかな……)
この世界に来たばかりの頃に見た深く青い、寒々とした空と比べると季節が移り変わったのだということが実感できた。
「もう半年くらいになるのか……」
「キュウ?」
「いや、キュウやテッチやおじいちゃんと暮らし初めてからもう結構な時間が経ったんだなって思ってね。よしキュウ、そろそろ行こうか」
「キュウッ♪」
あちらの世界に居た頃が初冬だったため、てっきり転移したこちらも同じく初冬だと思っていたが、おじいちゃんに尋ねると秋の始めだというから驚いたものだ。
なぜなら――
(本当に冬が寒かったよな……)
秋であの刺すような寒さだということは、冬の寒さはとんでもないということだからである。
(家に居れば結界の中は春だから気にしなくても良かったけど、外に出るとどうしても辛かったよなあ……)
おじいちゃんとの特訓や食糧の調達は花畑の結界の外でやることになるので、多機能ジャージのおかげで体は暖かいのだが、顔や手が寒くて本当に辛かったのだ。
本来ならばキュウが居れば周りを暖かくしてくれて寒さはどうにかなるはずなのであるが、雪をめっぽう気に入ったキュウは、溶かしたくないからと暖かくしてくれなかったのである。
最近はようやく春らしくなってきたようで、先程もキュウと共に、程よい陽光と心地よい風に誘われてついつい日向ぼっこをしてしまっていた。
しかし、時刻は既に三時も半ばと言った所であり、日の入りは刻一刻と近づいている。
まだ今日の晩御飯の食材を調達出来ていないのだ。
「春になったとは言え、まだ日が陰るのはそこそこ早いからね。さっさと調達しちゃおう」
「キュウ」
そう言って、寝転がっていた大きな切り株から立ち上がる。
今日はおじいちゃんが帰ってくる日なのだ。
おじいちゃんは普段からこの森を探索していて、だいたい三日間探索をしては数日を自分と過ごし、また探索に出かけるということを繰り返していた。
探索は初日の朝早くから出かけて、三日目の日が沈んでしばらく経った頃に帰ってくるというのがだいたいいつものサイクルである。
おじいちゃんが帰ってくるまでには晩御飯の準備を済ませておいてあげたい。
転移当時は例の多機能ジャージしか無かったが、最近ではおじいちゃんがカジュアルな服も作ってくれるため、色々と着回している。
そう、おじいちゃんは洋裁もできるのである。
(年の功ってやつなのかな?)
現在自分が着ている服は、上はミリタリーシャツと呼ばれるようなしっかりとした生地で作られたシンプルなデザインの服を第一ボタン以外を留めて着ていて、下はやたら伸縮性の良いジーンズだ。
もちろんこれらにもおじいちゃんは魔方陣魔法を施してくれている。
(ジャージの時も思ったけど、別に中世っぽい雰囲気ではないのかもなあ……)
ファンタジーと言えば中世というような固定概念が自分の中にはあったのだが、別段そういうこともないようだ。
そんな事を考えながら地面に手をつき魔力探知を開始する。
魔力探知とは拡散した魔力を介して周りの状況を把握する技術である。
もっぱら魔物を探知するために使われるが、精度を上げることで物の形や、その者の持つ魔力の色などを感知することができるのだ。
広げた魔力は制御している限り使用者の周りに追従するため、移動しながらの探知にも向いている。
自分の持つ"攻撃を感知する能力"と似ているが、精度が落ちる代わりにより広範囲を調べられるという利点がある。
自分の中にある魔力へと意識を集中し、掌から微弱な魔力を地面の表面に伝え、周囲へと満遍なく円を広げるように拡散していく。
拡散する魔力に色は無い。
理由はよくわからないが、意識して魔力の色を消すようにと教えられたのだ。
そうして拡散した距離が百メートルを過ぎたところでまず最初の反応を見つけた。
(こいつは小型種の魔物だな……)
広げた微弱な魔力が対象の表面を伝って行き、それを"補食"される感覚から、魔物の反応だと断定する。
この技術のおかげで魔物を避けて行動することができるようになっていた。
戦闘できるだけの"力"は手に入れたが、進んで戦いたくは無かったのだ。
そのまま魔力を広げていき、魔物の反応を四つ通り過ぎ、拡散距離が五百メートル付近に達したところで一度拡散を止める。
「近くには魔物しか居ないみたいだな……」
これ以上の距離をこのまま調べようとすると、今の自分の魔力制御の練度では魔力を維持できなくなってしまう。
感覚的には、五百メートルより先に魔力を送ろうとすると"放出している根元から魔力が崩壊する"という感じだろうか。
使う魔力は増えるが、要は自分から五百メートル以内なら良いわけだから、球状に探知も出来るわけだ。
ひょっとしたら、球状に広げると視界を悪くするから色を消すのかもしれない。
そんなことを考えながらも、次の工程へと移る。
「よっと……」
五百メートル付近まで拡散させた自分の魔力を使ってシエラを発動させた。
遠すぎて目視はできないが、五百メートル先ではオレンジ色――ではなくアポロ色の正六角形の薄壁が出現しているだろう。
最初の頃こそ発動に強い意志を必要としていたが、今ではもうすんなりと発動させることができるようになっていた。
シエラを使いこなすための第一歩として"真名"と呼ばれるシエラの名前を知ることが必要らしいのだが、自分は未だにシエラの真名を知らないでいる。
おじいちゃん曰く、使っていくうちに"心"で理解出来る日が来るということらしいので、普段の生活の中でも積極的に使うようにしているが、未だにその感覚は訪れない。
また、特訓の過程で知り得た事だが自分のシエラは魔力を放出することが出来るようなのだ。
つまり、シエラを魔力の中継地点として魔法を発動することもできたりするのだ。
とは言っても、魔力制御の特訓ばかりしていたため、しっかりと原理の考えられた"名付き"の魔法と呼ばれる魔法は一つとして習得していない。
最初にした風の範囲や強弱を操る魔法のような、ただ各属性の魔法を放出する魔法しか使えないのだ。
その点、魔力探知は必要最低限の魔力を広げられるだけ広げるだけなので現在の自分との相性が非常に良かった。
シエラからさらに五百メートル魔力を広げて、それをレーダーのように最初に広げた魔力の外周でぐるりと回す。
こうすれば魔力探知範囲は半径千メートルまで広がるのだ。
「居ないな……。魔物は相変わらずいっぱい居るけど」
魔力探知を修得してから気が付いたことであるが、この森は魔物だらけだ。
何故転移してから五日も歩き続けて、あの大土竜にしか遭遇しなかったのかが本当に疑問であるほどに多く、森全体に魔物が点在している。
「香木くんの御守り効果のおかげってことにしとこう」
本当にそんな気がしなくもないので、いつもおじいちゃんから貰ったマジックバッグにピカレスの枝の残りを入れて持ち歩いているのであった。
マジックバッグとは、魔方陣魔法で内部空間を拡張された、いわゆる"魔道具"で、"意思のあるもの"以外なら何でも入る便利な袋だ。
魔道具とは魔方陣魔法を刻み込むことで特有の効果を発揮させる道具のことで、おじいちゃんから貰った服や、ピカレスの木の触媒もその一種らしい。
専ら狩りをして仕留めた動物を持ち帰るのに使っている。
というよりそれ以外に使い道がないのだ。
「ここでのおじいちゃんとの生活も悪くないけど、せっかく異世界に来たんだから色々見てみたいよな」
「キュ?」
「いや、まだ森しか見てないからさ。おじいちゃんの話だと街とかもあるみたいだから見てみたいなってね」
「キュ~?」
キュウはよくわからないといった感じだ。
確かに季節によって移り変わる森の景色も、常に春爛漫といった感じの花畑も、見ていて飽きは来ない。
しかし、やはり新しいものや景色、場所などとの出会いは特別なのだ。
「キュウは初めて雪見たとき楽しかっただろ? そういうものが世界にはきっといっぱいあるんだ。見てみたいって思わないか?」
「キュ! キュウキュウッ!」
雪の事を思い出したのか、キュウは激しく同意を示し始めた。
「今度おじいちゃんに帝都とかいう所に連れていってもらおうかな……」
「キュウッ♪」
キュウは今から楽しみなのか尻尾を振りまくっていて、後頭部がベシベシと叩かれる。
(まだ行けるかはわからないんだけどな……。まあさっさと見つけるか)
そう言って千メートル先の魔力を使ってさらにシエラを発動させる。
この半年間の特訓で身につけた魔力制御の力は、同時に十のシエラを展開する事を可能にしていた。
つまり自分の魔力探知、並びに魔法の最大射程は五千五百メートルというわけだ。
時間もないため、さっさと獲物を仕留めて帰りたい。
五百メートル魔力を広げては、シエラを展開し、また魔力を広げる。
それをひたすら繰り返し、最大まで魔力探知を広げる。
(正直これ気持ち悪いからあんまりやりたくないんだよな……)
入ってくる情報量が尋常ではないのだ。
半径五千五百メートル分の周囲の情報がいっきに脳に入ってくる感覚は、まるで不可視の力に脳内をかき混ぜられているかのようなのだ。
一向に慣れることの出来そうの無い感覚に、額に脂汗が浮かぶ。
しかし、無理をした甲斐があってか無事に複数の獲物を発見出来た。
一番近い場所は三千二百メートル付近。
今の自分には対象の形まで魔力探知で把握するのは千メートルまでが限界であるため、対象が何なのかは判別出来ない。
脳への負荷が高いため、探知範囲を五百メートルまで縮め、獲物の居た方角を向いた。
「猪か兎なら良いんだけど……」
おじいちゃんにかつて聞いた森の出口側に魔力探知を向けた時、終端付近でやたら多くの動物が動いていたのも気になる所ではあるが、獲物が多いに越したことはないと判断し、全身に身体強化を施す。
身体強化とはその名の通り、魔力で身体を強化する技術であり、使用することで様々な効果が得られる。
単純に筋力を上げることも出来れば、皮膚や骨を硬くすることも出来るし、視力を上げたりもできる便利な技術なのだ。
魔力探知や身体強化は"名付き"の魔法ではないのかと疑問に思い、おじいちゃんに聞いたことがあったが、魔力をそのまま運用することは"技術"という括りで扱われるらしく、"名付き"の魔法にはカウントされないらしい。
(色々と難しいよな……。いつかその辺もちゃんと勉強したいな)
そんなことを思い出していると、移動の準備が整ったのを感じ取ったキュウがシャツの中に潜り込み、顔を出す。
開いている第一ボタンの場所から前足と頭だけ出すのが最近のキュウのお気に入りのポジションなのだ。
紐を通して首からさげたピカレスの触媒が鳩尾付近にあり、この体勢だとちょうどキュウの背中辺りにあるので、魔力の補充もしやすいのだろう。
キュウのポジション取りが整ったのを確認して、獲物の居た方向に向けて走りだす。
初速からトップスピードに乗り、風を置いていく。
障害物に躓かないように、シエラを足場として地面から数メートル上を駆け抜ける。
シエラは足裏と常に水平に発生させ、掛かる力の一切を無駄なく推進力に換えるのが、空中を駆ける時のポイントだ。
走っている最中におじいちゃんがかつて言っていた事を思い出した。
――『魔法は"人の営みを加速させるもの"である』
(本当に言い得て妙だな。人間の足がこんなに速くなるんだもんな……)
そんな事を考えている間もひたすら走り続ける。
急いで行かねば獲物が移動してしまうかもしれないからだ。
障害物などを感知するために半径五百メートルの球状の魔力探知を展開して絶やさず、油断なく進む。
油断なくとは言えど、自分の居る辺りは背の高くて幹の太い木が多いため、木と木の間が広く、走行を遮るものは少ない。
走ること三分程で、魔力探知が対象を捉えた。
「鹿か……おじいちゃんは猪の方が好きなんだけどな……」
そう言いながらシエラを前方に展開してそれに着地する。
その際、シエラを進行方向に動かす事で高速での移動後の着地の衝撃を軽減して、尚且つ常に垂直方向に力が働くようにゆっくりと角度を調整する。
以前一度、そのまま地面に着地をして足の骨に罅を入れたことがあるのだ。
「失敗は成功の元ってね……」
「キュイ……」
キュウが「よく言うよ……」という感じにジト目を向けてくる。
何を隠そう自分が骨にひびが入った痛みで転げまわっている様を一番近くで見ていたのはキュウであるし、その後何度もこのシエラによる着地を失敗して、その度に転げまわっているところも見ているからである。
おじいちゃん曰く、骨が折れるのは「強化の仕方に斑があるから」ということらしいが、未だにその感覚が掴めずにいた。
「こ、今回でもう四回連続での成功だぞ! もう失敗しないって! ほ、ほら、獲物がいたぞ」
「キュイ……」
「本当に大丈夫なのか……」というキュウの声が聞こえてきそうである。
そんなキュウの声を聞き流し、着地したシエラにそのまま乗って空中にとどまる。
シエラに乗って空中を移動することもできなくはないのだが、このシエラの表面は氷のようなもので、垂直方向以外の力をほとんど受け流してしまうのだ。
自分が何度も着地に失敗したのもこれが原因である。
上手く垂直に踏んだり着地できたりするようになるまで、幾度となく吹っ飛んだり滑ったりしていたのだ。
その姿を傍から見ていたら、さぞ滑稽であったことだろう。
「七十キロくらいはありそうだな……しばらくはお肉に困らないかな」
獲物の方を見るとそこには短い角を携えて、灰褐色の毛は所々に茶色の毛が混じり始めている毛変わり途中といった感じの一頭の牡鹿がいた。
地面に生えているシダを食べるのに夢中なようで全く上に居る自分たちに気が付いた様子はない。
鹿の足元の地面と胸元にシエラを展開させる。
無音で現れたそれに鹿が気が付くはずもない。
「ごめんね……」
そう一言呟いて、鹿の心臓を目掛けて風の刃を一突きすると同時に地面に落とし穴を作る。
悲鳴を上げながら鹿が穴へと嵌った。
「……はぁ」
穴の中でもがく鹿を見ながら胸は締め付けられるような感覚に苛まれる。
――この作業は何度やっても慣れない。
「……さて、下処理するか」
「キュウ」
キュウは自分の心情を理解しているためか、深くは触れず返事だけを返した。
穴を広げて固め、水を張る。
血を抜いて肉を冷やすのだ。
赤く染まっていく水を眺めていると、つい物思いに耽ってしまう。
自分が食べて生きていくためだということはわかっているが、やはり直接"命を奪う"という行為はどうしても考えさせらるものがあるのだ。
初めて狩猟をした時の感覚は今も脳裏に焼き付いている。
おじいちゃんに手渡されたナイフで、今と同じように獲物の胸元を一突きしたのだ。
手から伝わる生々しい感触に、当時は吐きそうになったものだ。
心臓が動き、刺した場所から血が出るたびに獲物の目から生気が失われていく。
それを見つめていると、申し訳なさや、果たして自分のやったことは本当に必要なことだったのかなどという思考が頭の中を駆け巡り、涙を止めることができなくなっていた。
解体をしている間も涙は止まることは無くなかなか作業が進まなかった。
しかし、解体が終わるまでおじいちゃんが手を貸すことは一切無かった。
それだけ泣いて、申し訳なさで心が張り裂けそうであったはずなのに、薄情なもので調理をして食べるとやはり「おいしい」と感じてしまうのだ。
そして"自分が生きていて、生かされている"ということを強く感じたのだ。
おじいちゃんはそれを、「忘れてはいけないことだ」と語った。
前の世界では狩猟などとは無縁に暮らしていた自分にとってはどこか蔑ろにしていた感覚であった。
もちろん頭では、そうやって食材を提供してくれている人たちがいて、そうやって死んでいく命があって、それに感謝しながら食べるのが当然だということは理解していた。
だが自分はこの世界でそれを"心"で理解させられたのだ。
「キュウッ!」
「え……? ああ、ありがとう」
キュウの鳴き声で思考の世界から戻された。
「思ったより長いこと考え込んでたのか……。キュウももっと早く教えてくれたらいいのに……」
そんなことをキュウに言いながら、少し水に浸けすぎてしまった鹿を引き上げて、水気をきってからマジックバッグへと入れる。
「キュキュウ、キュウキュウ」
「え? 『何か大事そうなこと考えてたから、じっくり考えさせてた』って? まあ確かに大事なことではあるけど……」
普通にキュウとの会話が成り立っていることは、既に疑問を持たないようになっている。
キュウの力なのか自分の力なのかはよくわからないが、なんとなくキュウの考えていることがわかってしまうのだ。
おじいちゃん曰く、精霊使いや精霊術師には程度の差はあれど、パートナーの思考がわかるというのはままあることらしい。
血抜きをした水たまりの処理も終わり、家に向けて出発しようと思った時、一昨日の朝におじいちゃんから言われていたことを思い出した。
「あ、そういえば『ヴォルジェント』の試作品の試験頼まれてたんだった……」
「キュッ!?」
キュウも忘れていたようで、「忘れてたっ!?」というような反応をしている。
『ヴォルジェント』というのはおじいちゃんの作った"飛翔魔法"の魔道具の名称である。
『飛翔魔法』とはおじいちゃんが自分の意見をもとに作り上げようとしている"空を飛び回る"ための魔法だ。
この世界には既に『飛行魔法』というものは存在しているらしいのだが、そちらは本当にただ浮いてゆっくりと移動するだけで、"空を飛び回る"というにはほど遠いらしい。
半年かけてやっと形になってきたようで、一昨日の朝におじいちゃんから試作品を渡されていたのであった。
「明日でもいいだろうけど、せっかくだからちょっと使ってみようかな……」
そう言ってマジックバッグから渡されていた試作品を取り出して、おじいちゃんから聞いた使い方を思い出す。
「確かそのまま足につけるんだっけ……」
それは流動的に煌めく銀色の金属の輪であった。
どことなくおじいちゃんのシエラである『銀鬼灯』に似ている。
繋ぎ目などはなく、常に時計回りに動いているようにも見えるが、手のひらには動いてるような感覚は伝わらない。
まるで液体のようにも見えるが、固体としての確かな硬さと金属としての確かな重さを感じる。
分解も出来そうにないそれをどうつけるのかと言うと、まさに"そのまま"である。
輪を足にそのまま近づけるのだ。
裾を少し引き上げ、恐る恐ると足首に輪を近づけると、端が足首に触れた瞬間銀の輪は形を保ったまま液体化して、肌に吸いついていく。
「うわっ」
驚いて手を放してしまったが、銀の輪はそのまま吸い付いていき、最終的に足首にぴったりとフィットしたアンクレットとなった。
「こういうの見ると、本当に魔法の世界って感じだよなぁ」
もう片足にもヴォルジェントをつけて、次の段階へと進む。
「次は確か、魔道具に魔力を流して魔法陣を展開するんだったよな」
両足のヴォルジェントに魔力を流すと、微量の魔力を消費して、靴の裏に直径十五センチほどの緑色の魔法陣が展開される。
「よし。それじゃあ発動して……って危ない危ない。おいで、キュウ」
「キュウッ!」
キュウがお気に入りのポジションへと入ってくる。
キュウを呼んだのは、別に置いていくところだったからなどではない。
「じゃあ使ってる間は一応魔力の供給をしてくれよ」
「キュキュウッ!」
おじいちゃんの作り上げた飛翔魔法は、風を生み出す魔法の反作用の部分を生み出して、"魔法そのもの"である風などの部分を削ることで魔力の消費を極力抑えた魔法らしい。
しかしそれでも、通常稼働で三分ごとに上級魔法並の魔力を消費してしまうくらいには燃費が悪いのだ。
現在の自分の保持魔力量は良くて上級魔法一発分というところなので、ピカレスの触媒があるとはいえ、キュウに支援してもらうに越したことは無いというわけだ。
「よし。じゃあ稼働させるぞ」
よくわからない緊張感を抱きながら、魔法を発動させる。
「うおっ……!」
音も無く体が持ち上がる感覚は何とも不思議なものであった。
少しバランスを崩してしまったが、身体強化をして何とか踏ん張った。
(飛翔中は身体強化を絶やさない方が良いかもしれないな)
そうしている間もヴォルジェントが体からぐいぐいと魔力を吸い取っては、ピカレスの触媒を通してキュウから魔力が補充されている。
確か「ヴォルジェント」とは、こちらの言葉で「銀の飛翔」という意味であっただろうか。
名前の考案の際に安直に『フライヤー』という案を出したが、揚げ物でも出来そうだからという理由で却下されたのは良い思い出だ。
「まあこの程度の魔力消費なら全然問題ないな」
バランスを崩した際に下を見たが、地面は全く風などの影響を受けていなかった。
本当に風が出ていないようだ。
そのまま地上十五メートル付近まで上昇しては下降するというのを繰り返して、反作用の出力の調整にまず慣れる。
「キュッキュウッ!」
体験したことのない高さからの景色に興味津々なようで、キュウは胸元から若干身を乗り出して、しきりに辺りを見回している。
「音も無いし、足の裏に反作用を受けてる感覚もないから上手く調整しづらいなぁ……これは改良のポイントだな」
しばらく練習すると出力の調整にも慣れてきたので、次は地上十五メートルほどの場所で前後左右にゆっくりと移動をしてみる。
やってみると思っていたよりも滑らかな軌道を描けて、ただ前後左右に数メートル動いているだけなのに、もうすでに自由に飛んでいる感覚が沸々と湧いてきた。
「それにしても、高所恐怖症じゃないみたいで良かったよ」
「キュウ?」
「いや、高いところが怖かったら試験どころの話じゃなかったなってね」
「キュイ……」
キュウが「こんなに楽しいのに……」なんて言っているが、怖い人には怖いものなのだ。
周辺の木々は幹が太く、根が広いためか一つ一つの木の間隔が広いので、飛翔の練習をする空間は十分に確保されている。
そのまましばらく少し速度を調整したりしながら周辺を飛び回ってみたが、空を飛ぶというのはなかなか心地が良いものだ。
だんだんとテンションが上がってくる。
「よし。もっと高い場所を飛んでみるか!」
「キュウッ!」
キュウの同意も得たところで、ヴォルジェントの出力を上げて、木の上を目指す。
先ほど幹が太いと言ったが、そもそもこの周辺の木は幹だけでなく木自体が大きいのだ。
杉のような見た目の木だが、高さは七十メートルほどもある。
上の方にしか枝が付いていないため、そこまでは進路を遮るものは何もない。
ぐんぐんと速度を上げていくが、空気抵抗を感じることは無い。
どうやらその辺りに関しても魔道具の方で対応してくれているようだ。
数秒もすれば目の前に枝が近づいてきたため、次々と掻い潜りながら上を目指す。
一本、二本、三本、四本――十本を超えたところで葉の幕を突き抜けて、ついに森の上へと飛び出した。
しばらく上昇して眼下を眺めると――
「――綺麗だ」
「キュウッ♪」
絶景が広がっていた。
夕日に赤く染められた葉っぱの絨毯は地平線の如く広がり、所々に生えた広葉樹の広い葉がそよ風に揺られる度に陽光をきらきらと反射させて輝いている。
普段は側面が照らされている様子しか見たことがなかったが、上空からだとこんなにも綺麗にみえるとは思ってもみなかった。
そんな景色を見てしまったからだろうか。
ニヤリと笑いながら胸元のキュウに問いかける。
「――なあ、この景色の中を風を切りながら飛んだら気持ちいいと思わないか?」
キュウも自分を真似したのか、ニヤリとした感じの顔で答える。
「キュウッ!」
「おじいちゃんには少し悪いけど晩御飯は一緒に作るってことにして、もう少し『ヴォルジェント』の試験データを集めるとしようか」
「キュキュウッ♪」
傍から見れば、きっといたずらを思いついた子供のような笑顔に見えただろう。
(まああながち間違いってわけでもないんだけどね)
「じゃあ行くぞキュウ! ちゃんと掴まってろよ!」
「キュウッ♪」
夕暮れの森の遊覧飛行と行こうではないか!
―――――――――――――――――――――――――――――
三十分程森の上や森の中を飛び回ったであろうか。
「いやぁ、楽しかったなキュウ。これは昼間に飛んだらまた違った感じに楽しいぞきっと」
ヴォルジェントの出力を抑えてその場に停滞しながらキュウに話しかける。
辺りは既に暗闇に包まれ始めており、流石にそろそろ家に帰らねばならない。
そこで違和感に気が付いた。
キュウからの反応が無いのだ。
不思議に思い、飛翔の途中から肩に乗っていたキュウを見ると、どこか別の方を見つめたまま動かない。
「キュウ? どうしたんだ?」
声をかけるとようやく気が付いたのかこちらに振り向くと同時に懇願するような表情でこちらに何か語り掛けてくる
「キュウッ! キュキュウキュウッ!」
キュウが何を言っているのかが上手く伝わってこない。
こんな中途半端な感覚は初めてだ。
ただ、何か使命感とも義務感とも違うが、「あちらに行かなければならない」という意思だけは伝わってくる。
「落ち着いて、キュウ。あっちに何か向かわないといけない理由があるんだな?」
「キュウッ! キュウッ!」
キュウは力強く頷いている。
キュウがこんな態度を示すのは初めてだ。きっと何か緊急事態が起きているのだろう。
「全速力で行くぞ! 服の中に入ってるんだ!」
「キュウッ!」
キュウが服の中に入ったのを確認するなり、魔力探知を千メートルまでそれぞれ球状に広げる。
魔力探知をそれだけしか広げないのには二つほど理由がある。
まず一つ目は、十のシエラを同時に展開できるようにはなったが、実際のところ自分の意思で自由に操作できるのは三つで、他の七つはただその場所に展開するだけか、操作できる三つに追従させるかでしか扱えないということだ。
いざという時に自由に扱えるシエラがあった方が良いのだ。
もう一つは、というかほぼこれが理由なのだが、単純に自分のキャパシティ的に移動しながらの魔力探知はこの範囲が限界なのだ。
魔力探知の準備が終わったところで、身体強化をより強力にする。
辺りはもう暗いため、障害物の回避は魔力探知頼りになる。
出来る限り反応速度を高めるのだ。
準備は整った。
ヴォルジェントをフルパワーで稼働させる。
魔法陣が強く輝くと同時に超常的な加速を生み出し、"凄まじい空気抵抗が発生した"。
たまらずシエラを前方に展開することで空気抵抗から身を護る。
「びっくりした……。一定の速度を超えたりしたら空気抵抗の対策も無効化されちゃうのかもな……。これもおじいちゃんに伝えておかないと」
帰った時に家に居てあげられないのは申し訳ないが、事情を話せばきっと理解してくれるだろう。
体を地面とほとんど水平にして空気抵抗を減らし、出力をできる限り効率的に推進力に換える。
その体勢のまま迫りくる木々を左右に避けてキュウの示した先へひたすら全速力で飛翔する。
ヴォルジェントが凄まじい勢いで魔力を消費しているが、まだまだキュウの魔力には余裕があるようだ。
木を避けながら、森の上を飛んでいけばこの回避動作がいらなかったということに気が付いたと同時に、魔力探知に反応を捉えた。
「この三つの魔力は……人か? 何かに囲まれてるのか?」
弱々しい翡翠と蒼と空色の魔力が、九つの何かに迫られている。
五百メートルほど離れたところにも何かの反応があるがよくわからないので一先ず捨て置く。
九つの反応のうちの、自分と三人の間にいる一つは魔力を捕食しているからきっと魔物であろう。
そんな風に状況を認識していると、魔物が黒色の魔力を展開して凝縮しはじめた。
――あれはまずい。
(なんだあの禍々しい魔力はっ!? そもそも魔物が魔法使うなんて聞いたこと――)
突然だった。
"心"に何かが流れ込んでくる。
――諦念
――切望
――自責
なんだこの感情は。
心が締め付けられる。
あの場にいる三人の感情なのだろうか。
ひょっとしたらキュウはこの感情を読み取ったのかもしれない。
「――助けなきゃ」
あの場に居るのがどこの誰だかなんてわからない。
使命感でも義務感でもない。
だが助けなければならないのだ。
誰かを護れるような生き方をするのだと、再び自分に誓ったのも「助けたい」という意志を生み出した一つの要因であることは確かだ。
だがそれ以上に――
(――こんな感情を抱いたまま、死にたくないっ……!)
自分の感情ではないはずなのに、心に流れ込んでくる感情がそう錯覚させる。
しかし向かう先に居るのは魔物だ。
あの場に飛び込めば戦闘は免れないだろう。
魔力の捕食をされないが、状況からして他の八つの反応も魔物なのではなかろうか。
かつて大土竜の魔物に植え付けられた恐怖は今もまだ自分の中に深く根付いている。
抉られた体の痛みも忘れることなんてできるはずもない。
――だからどうした。
「また目の前の命を見捨てることの方が! 生きる意味を失う方が怖いに決まってる!」
――魔物が黒色の魔力を発射した。
右手を伸ばし、感情のままに――魂のままに力を集約させる。
「――だから助けるんだ! 護れ! 『――――』!」
叫ぶように放たれた決意と共に集約された力は護りたい者たちの眼前に形を成し『――――』として顕現した。
魔物の魔法と『――――』が衝突し、衝撃が広がる。
『――――』との繋がりから伝わる、あまりにも強い圧力に一瞬怯みそうになるが、心に何か確信めいた想いが広がる。
――大丈夫。
――こんな攻撃どうってことないさ。
想いを糧に耐え続けて数秒、破壊の意思を凝縮したかの様な圧力が収まった。
自分の魂は、確と力との繋がりを感じることができている。
あの禍々しい魔力による魔法を耐えきったのだ。
この魂の力は。
「はっ……ははっ……」
圧力から解放された安心感と、耐えきったという達成感の混ざった驚きから渇いた笑いが口から漏れる。
もう大丈夫だろうとシエラを消したところで、ふと疑問が湧いてきた。
(あれ? 僕は今シエラを使う時になんて言ったっけ――)
意識をそんな思考に持っていかれていたためか、気が付いた時には――目の前に大木が迫っていた。
「ッ!?」
慌てて全力で体を捻って回避行動をとると、前方に展開していたシエラがかすったようで大木の一部が削れるが、何とか避けることが出来た。
しかし、ヴォルジェントをフルパワーで稼働させている状態で体を捻ればどうなるかは火を見るよりも明らかで――
「うわあぁぁあぁ――」
バランスを崩して体がめちゃくちゃに回転する。
集中が乱れたせいでシエラや魔力探知が解けるが、そんなことを気にしている間もない。
ヴォルジェントの稼働を一旦停止させ、両腕を振り回したり空気抵抗を利用したりして何とか体勢を整えていく。
傍から見たら相当慌てているように見えたであろう。
「おわっ! あわわわっ!?」
そうやって体勢がある程度整ったタイミングで、嫌に明るく、そして開けた場所へと出た。
眼下には蜂のような魔物や大土竜がそれぞれ複数いて、三人の人が囲まれているのが見える。
(このまま落ちたら三人にぶつかるっ!?)
体の向きを捻って逆向きにして脚を開き、ヴォルジェントを稼働させて飛距離を抑える。
そのまま前のめりに地面を削りながら着地してなんとか止まった。
着地したのを確認したのか、キュウがシャツから飛び出して地面に降り、そのままとんぼ返りのように戻ってきて肩の上に乗ってきた。
「おお、大丈夫だったかキュウ?」
さっきバランスを崩した時に恐らくキュウは服の中でミキサー状態だったと思うのだが大丈夫だっただろうか。
「キュウッ♪」
「え? 楽しかった? ――って、そうじゃなくって!」
慌てて後ろを振り向くと、二人の少女と一人の少年がこちらを呆気に取られた様子で見ていた。
三人とも倒れていたり、座り込んでいたりするが、どうやら無事のようだ。
「良かった。間に合ったみたいだ」
呆気に取られていた少女らのうち、翡翠色の髪の少女が口を開く。
「えっと……あの、ッ!? 危ない!」
少女の顔が焦燥と恐怖が入り交じったような表情に歪む。
よく見れば三人とも同じような表情をしている。
恐らく自分たちを取り囲んで攻撃しようとしている魔物たちに気が付いたのであろう。
――この感情を僕は知っている。
(どうしようもない恐怖に駆られた時の感情を)
――そこから救い出してくれた存在のくれた、温かな感情を。
(自分の無力を呪いそうになった時の心境を)
――その状況を一撃で変えてくれた、あの大きな背中が与えてくれた安心感を。
自分の貰った温かな感情は、きっと多くの人々が感じるべきものだ。
だからお裾分けするのだ。
自分が与えてもらったように。
(キュウみたいに誰かを癒すことも、おじいちゃんみたいに背中だけで安心感を与えるなんてことも僕には出来ないかもしれない)
だからこそ、行動で示すのだ。
目の前で恐怖に駆られる彼女らが、もう辛い思いをせずにすむように。
「大丈夫、安心して」
救いを求める誰かが目の前の状況に絶望して、希望を失うなんていうことがないように。
そんな人々を助けられるような存在になるんだ。
この魂の力と共に。
「絶対に助けるから」
先ほど感じたものと同じ何かが胸の内に広がる。
なるほど、"心"で理解できるというのはこういうことか。
八方向から攻撃が来ている事を感覚がうるさく告げている。
だが、何を恐れることがあるだろうか。
自分には頼れる力がある。
――それがお前の名前か。
真名と共に力を開放する。
「『ポルテジオ』」
半年の月日を経てようやく名を知ることの出来たその力は、迫りくる攻撃の全てを退けてなお、そのアポロ色の輝きを強くする。
後ろを振り向き、目の前で自分の力が難なく受け止めている、かつての自分の恐怖の象徴"だった"大土竜を見据える。
――何も恐怖することなんてないだろ? だってこの力は――
心に広がるその"声"を、より深く刻み込むために言葉として発する。
「"護るために手に入れた力"だ」
「――綺麗……」
背後で翡翠色の髪を持つ少女が呟く。
少しでも恐怖が薄れたのならばそれは重畳である。
だが、伝わってくる感情からはまだ恐怖や不安を拭いきれていないのがわかる。
肩に乗る相棒に声をかけ、気合を入れる。
「さて、護るぞ。キュウ!」
「キュウッ!」
(キュウの時は護りきれなかったからな)
今度こそ"護る"のだ。この力と共に。
こうして、リベンジマッチの火蓋は切られた。




