俺の勘違い
真山さんが走り去った方を俺は呆然と眺める。
『き、北上君…ま、まさか今の会話聞こえて、た…?』
…ごめん、聞いてたんだ。
そう言えなかったのは、真山さんの後を付けてたなんて知られたくなかったのと、あまりにその顔が動揺していたから。
『今日お前ん家行くから』
『え、本当?分かった、準備して待っているね』
名前で呼び合う上に、家に行き来するほどの仲。
保健室前で耳に入ったその1フレーズだけで俺の頭はパンク寸前だ。
俺の反応をうかがう真山さんの様子は異常だった。
顔を真っ青にして、何かがバレることを恐れる姿。
何よりもリアルだった。
…そりゃ、教師との恋がバレたら動揺するよな。
激しく間違った方向に解釈していることなど知らず、俺はがくりと肩を落とす。
失恋確定。
まぁ、そりゃ最初から望みなんて薄かったんだけどさ。
それでも実際にその瞬間に立ち会うのと、想像の中で失恋するのとでは段違いにショックが違う。
心臓が締め付けられるほど痛いだなんて、自分の精神の軟弱さに嘲笑すら出てきそうな勢いだ。
「…おい、そんなとこで何突っ立ってんだアホ」
知ったばかりの事実に打ちのめされていると、ドアの向こう側から今最も聞きたくない声が響く。
それでも反応しないわけにはいかず、視線を声のした方に向ける。
そうすると目に入ったのは、心底呆れた顔で俺を見つめる森崎。
…なんで動揺してないんだよ、この人は。
内心で毒づいてしまうのは仕方ないだろう。
教師と生徒の恋が御法度なのはどこの世界だって共通だ。
そんなリスクを真山さんに冒させといて平然としていることに多少腹も立っていた。
完全に私欲の部分ではあったが。
なので挑むような気持でズカズカと保健室に足を踏み入れる俺。
「北上、お前そろそろ自制って言葉覚えろよ。ストーカーは犯罪だぞ」
ドアをぴったりと閉めた後、低い声で森崎がそう言った。
確かに正論は正論だが、今の俺にはこの人に何を言われても逆効果だ。
「自制なんて言葉、あんたに言われたくないですよ」
生徒に手出してるくせに。
言外にそんな意味を滲ませて嫌みたっぷりに言い返せば、森崎は一瞬「は?」と声をあげた。
…白々しい。
八つ当たりなのは重々承知で、それでもイライラを抑えられない俺はギッと森崎を睨みつけた。
「…ふざけんじゃねえよ、ボケが」
しかし、黙って睨まれててくれるような相手ではなかったらしい。
高校生活1年半を過ぎて十分理解していたはずなのに、そんなことを今さら思い出す。
自分から喧嘩を売ったようなもんなのに、過去最高に低くなった声が耳に入った瞬間肩が震えた。
ああ俺のアホ、チキンのくせして八つ当たりなんてするから。
早くもどこかで後悔し始める俺。
そんなことなどお構いなしに森崎はガッと俺の頭を鷲掴みにした。
おいおい、教師がそれしちゃまずいだろなんて言葉は言える雰囲気じゃなかったから無理やり飲み込んだ。
「どいつもこいつも俺の仕事増やすなっつってんだろが。なんで俺がこんなバカみてえな茶番に付き合わなきゃなんねえんだよ」
「は?何言ってるんですか、あんた」
「てめえの胸に手当てて1から10までよく考えてみろっつってんだよ。全部てめえらがヘタれてる自業自得だろが、馬鹿野郎」
全く訳のわからない怒りを向けられている気がする。
のに、本気で気分を害しているらしい森崎はピリピリとしたオーラを隠しもせずため息をついた。
…怖えよ。
なんで真山さんはこんな怖くて態度悪い奴に惹かれてんだ。
「で、何の用だおい」
「いや、別に」
「あ?」
「す、すみません」
本当は事実を問い詰めたい気持ちではあったが、聞くには本人の威圧感が半端ない。
口籠もっていると、さらに冷えたオーラで俺を見つめてくる森崎。
その強面も相まって尚更怖い。
本当よりによって何でこんな怖いのとスリル満載な恋愛してるんだよ。
真山さんの好みはこういうワイルド系なのか?
悶々と悩みながら、しかしやっぱり聞けないチキンな俺はそのまま回れ右で部屋を後にする。
衝撃と恐怖で支配された俺の頭では、あるひとつの大事な事実をすっかり忘れ去っていた。
そう、保健室に潜んで森崎と真山さんの関係を真っ先に俺に知らせてきた弟の存在だ。
「で、“陽菜に良く似た北上の彼女”に心当たりはあるか?あるよなあ、灯里」
「いや、はは、まさかそっちで来たかって感じで、いや、冗談のつもりだったんだけど…」
「あ?何だって?」
「うわー!!まじごめんって!まさか“陽菜ちゃん”にしわ寄せがくるなんて思ってなかったんだって!明良からかってたきつけようと思っただけで」
「どうすんだよ、お前。事態ややこしくなってんだろが。俺はなあ、いい加減あいつらの相手すんのうざいんだよ」
「うわ、仁くん本当それ教師のセリフじゃない」
「誰のせいだ、ボケ」
「だからごめんって!ちゃんと責任取りますってー!…めんどいけど」
「あ?」
「な、なんでもないっす」
…俺の去った保健室で、森崎と弟がそんな会話を繰り広げていただなんてもちろん知らなかった。