思い出は露に籠めて
今となっては昔のこと。これは、若かりし私が勉学に励んだり友人たちと青春を謳歌している頃と時を同じくして、何処かでうまれた誰かのお話でございます。
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昔、男がおりました。
涼しげな目元が印象的である整った容姿、人を惹きつける話術を繰り出す鋭敏な頭脳、そして臣籍降下により公爵となった家の息子という高い身分、と、天から三物をも与えられた世間でも評判の人でした。
そして、この男が有名であるのにはもうひとつ理由がございました。それは、色恋にまつわる数多の噂話によるものでした。
先の天資を存分に活用して深い仲になった女は数知れず、常に違う女の影があったのです。
ただひとつ誤解なさらないでいただきたいのは、この男、断じて遊び人ではなかった、ということでございます。たしかに特定の一人と長続きすることが少なく、その結果世間からは遊んでいるように見えたのですが、男は何時でも相手の女を心底愛しておりました。誰のときも一途で、浮気をしたことなど一度もございません。ただただ、真剣に恋をしていました。そこが寧ろ、男と同年代の女たちには些か苦しかったのかも知れません。はたまた、パーティ会場は勿論、街を歩くだけでも自然と集めてしまう女性たちの視線に嫉妬してしまうのでしょうか。兎に角長続きはいたしません。それでも恋人が絶えないこの男は、つまるところ単なる恋多き男でございました。遊び人では決して、ないのです。
残暑もとうに過ぎ、身に染みるような風が吹き始めた時節のことでありました。この夜も男は、雲を纏った月の下を、とある女のもとへ向かっておりました。
その女も艶やかな黒髪や絹のように白く滑らかな肌をもち、たいそう美しいうえに、旧摂関家筋の、こちらも男と同じく公爵家という所謂良家の箱入り娘でした。そして、あの男が二年という、めずらしく長い付き合いの特別な人でありました。
だからこそこの日、男はとある決心を胸に細々とした路地裏を密かにあるいておりました。
初めから二人に幸せな結末がないことなど、男は重々わかっておりました。
そもそものはじまりは、男のほんの些細な興味心によるものでございました。
帝国大生としての夏季休暇を謳歌していた十九歳のある夜、親に無理矢理連れられて出席したパーティで男は偶然、「皇子様のお妃が内定した」という話を耳にしました。
お妃になることが内定したその人こそ、後に男と恋仲になるかの女でありました。
当時、男もその人の名前だけは知っていましたが、娘大事さに両親が女を公衆の面前に出すことは殆どなく、面識はありませんでした。
遇々会ったという人曰く、とても美人で器量良しだという話でしたので、男は一度、その女に会ってみたくなったのです。
その翌日の晩、早速男は女の屋敷を訪れました。とはいえ、未来のお妃さまに会いに来ました、と言ったところで正面から通してもらえるわけもありませんので、男はまず、大きな屋敷の周りを、散歩を装いゆったりと歩きました。そうして見つけた石垣の小さな穴を少しばかりつついて、もぞり、もぞりと潜り抜け、やっと男は門の内に入ったのでした。
すぐに、男は女を見つけました。
縁側で月光を受けるその横顔は、かぐや姫さながらの清らかさでありました。
ふと、男のほうを向いた女の瑞々しい瞳が、それはそれは大きく、驚愕に見開かれていきました。男は急いで女の口を脇から柔く塞ぎ、
「恋い焦がれた貴女にやっとお会いできたばかりの私には、今すぐにその可愛らしいお声を聴くのはどうにも勿体なく思うものでございます」
ですからどうかそのままで、と、耳元で囁きました。ところが女は、男の腕をぐい、と除けて、
「ふざけないでください。そのような戯言に私がのるとでもお思いでして?あなた、私が誰だか分かっていてこのような夜這い紛いのことをなさっているのですか」
真っ直ぐに男をキッと睨んで、そう言う女の気丈さを男は意外に思いました。それから微かに揺れている腕に気がついて、内心でほう、と感心するのでありました。
「勿論、存じております。怖がらせてしまい申し訳ありません。ですが貴女の厭うことは決して致しませんので、ご安心ください」
そうして少しばかり笑みを携えれば、女ははっとして、掴んでいた男の腕を捨てるように離しました。
「怖がってなど、おりませんわ。……では、私が厭うことはしないとおっしゃるのなら、お引き取り願えますこと?」
「ええ、ご心配なさらずに。貴女は私と居たいと思いなさるようになりますゆえ」
えっ、と怪訝そうに、それからすぐに煩わしげに女が男を見たその時、どこかの部屋の障子が敷居を滑る音が二人の耳に届きました。
音の来た方に目を遣り、おっと、と呟いた男は、再び女へ顔を向け、
「必ずや貴女に私が恋しいと思わせて差し上げますので、どうかそのおつもりで」
と、月明りを背に緩やかに笑み、風の如く先の穴をするりと抜けて去って行くのでありました。
それからというもの、男は二日と空けず屋敷に忍び込んでは障子の向こうで一向に無視を決め込んだ女へ、河原に咲いた草花の愛らしさや、世間で流行っている目新しいお菓子を手土産にそれについて話したりと、取り留めのないさまざまのことを語りました。時にはそっと訪れて恋文と一輪の花だけを残し、また静かに帰って行くこともございました。
そうして男はめげることなく、梟が鳴けば例の穴を潜り入り、たまに恋慕の告白を混ぜつつ障子へ一人語りをしては鶏の声を待たずして去る、という、百夜通いさながらの夜々を過ごし続けておりました。
これまでの十六年の殆どを屋敷のみで過ごしてきた女にとって、そこには新鮮で心くすぐられるものがあったのでしょうか、そのうちにぽつり、ぽつりと会話をするようになったのです。その次には頑なだった障子が開き、だんだんと女が笑みを咲かせる回数が増え、そして、いつしか二人は恋仲となっておりました。
世間でも有名な色男と、皇子様が勉学をお修めになり次第お妃となる女の逢瀬は、途中で女の兄たちに見つかって穴をふさがれたり、それでも懲りずに石垣を乗り越えて屋敷に侵入したり、それも見つかって女が叔母の家に引き取られたりと紆余曲折を経て、今日までの二年間続いているのでございます。
さて、細々とした路地裏を抜けた男は、目の前いっぱいにどん、と広がる真っ白な築地塀を北へ伝い、その端にある小さな木の裏戸前にしゃがみこむと、懐から引っ張り出した細い針金をちょこちょこと、慣れた手つきで鍵を弄ります。そうしてかちり、と音を立てたらば、ひとつ周囲を見回して、ゆっくりと木戸を押し、素早く塀の内へ身を滑り込ますのでありました。
中に入ると、女の部屋は枝振りの好い松を一本挟んですぐにあり、男は僅かに湿気を含む木製の雨戸をコン、コンコンコンと叩きます。これは二人で決めた、男の来訪を告げる合図でありました。すぐに注意深く錠を回す音がして、滑る雨戸の作った隙間に女の姿が現れました。男が緩やかな笑みとともに、こんばんは、と無音の挨拶を向ければ、女も微かに口角の上がった唇をいらっしゃい、と形づくりました。
部屋に入るや否や女の手を取りぐい、と引き、砂糖よりも甘い台詞を、これまた濡れた氷のように艶やかな声でさらりと耳元に溢す、というのが常であるのですが、どうにもこの夜は様子が違いました。
後ろ手に障子を閉じた後、男は二、三歩奥に進んだかと思うと、にわかに腰を下ろし、燭台の仄かな明りの中に座った女の方を向いて居住まいを正しました。
「あら、そんなしゃんとなさって。どうなさいましたの?」
おかしな人、と笑いを漏らす女に、
「私とともにお逃げください」
と静かに言いました。一間か二間空いてから、
「今、何とおっしゃいましたの?」
と、女が確かめるように聞き返せば、
「ですから、私とともにお逃げください」
駆け落ちいたしましょう、と男は再び、やはり静かにそう告げるのでございます。
男の決心とはこの、決して手に入らない幸福な将来を強引に得るための事を起こすことでありました。
男はまだ若くて些か血気盛んなうえに、先のとおり一途な性質でありますから、どうにかしてこの女を手中に収めたいと常々思っておりました。たとえそれが己の身を亡ぼす禁忌の恋だとしても、この想いを心の底に閉じ込めるなど、到底できることではございませんでした。加えて、あと半年もすれば皇子様が学生生活を終えられるために、最早二人に残された時間もそう多くはなかったのです。
女はたいそう驚いたようで、橙色が揺れる清んだ瞳をそれはそれは見事な丸にして、
「なんてことをおっしゃいますの!」
と小さく叫ぶと、それから少し迷うように目を逸らし、しかしすぐに意を決した様子で真っ直ぐに男を見ました。
「私はいずれ皇子様のもとに嫁ぐ身でございます。未来の天皇陛下の妻となるのです。そのようなことはできませんわ」
その言葉に、男の目はゆっくりと伏せられていきました。
「では、私とは遊びで、交わした愛は全て、嘘であったと、そうおっしゃるのですか」
「違いますわ!私は本当に貴方を――」
間髪を入れず返しかけた言葉に、女ははっとして口を噤み、そのまま俯いてしまうのでありました。
りーん、りーんと軽やかに響く鈴虫の声の中で、先に再び口を開いたのは男でした。
「……貴女が私に愛想を尽かしていらっしゃったのならば、私も仕方がないと思っておりました。ですが貴女がご自分に嘘を吐かれているのであるのなら、私は退くつもりはございません。もうこれ以外に、私たちが共に居られる術はありませんので」
優しく諭すように、されど意思を曲げるつもりのない強硬さは残して、男はそう言いました。またしても訪れた沈黙に、音になりきらない女の吐息が混ざりました。何だろうかと男が不思議に思うと、俯いていた女がばっ、と顔をあげました。
「仕方ないではありませんか!!もし、もし駆け落ちなどして私たちの仲が世間に知れることでもあれば、貴方の将来も、家の名にも傷がつきますのよ!」
女の目には、ほんの少し風が吹けば零れてしまいそうなほどの涙が浮かんでおりました。その姿に、男はますます女を自分だけのものにしたいと思いました。
「もとより全て捨てる覚悟でございます。私にはただ、貴女がいてくださればそれでよいのです」
男は女の目元を人差指でそっとなぞり、それから女の前に自らの右手を差し出しました。
「さあ、行きましょう」
そろり、そろりと、二人の手が重なりました。
女を背負った男は、これまでにないほど必死に走りました。特別行く宛があるわけではありませんでしたが、誰かに見つかって連れ戻されることのないように、兎に角遠くへ行かなければなりませんでした。
やがて芥川に出たので、男は月も照らさぬその畔を下流へ向かうことにしました。穏やかに流れる水音と、湿った草を踏むしたり、したりという音のほかには何も聞こえず、肌寒いような静けさでありました。
「まあ、なんて綺麗なの。あれは何です?真珠かしら?」
雲が途切れた折、差し込んだ月光を受ける草露が目に入ったのでしょう、そんな女の声が背中越しに投げかけられました。
蝶よ花よと育てられ、籠の鳥のように生きてきた女には、このように人の手の入っていない場所は未知の世界であり、目に映るもの全てが新鮮であるようでした。しかもこの女、慣れたらば元来は明朗な性質ですので、この時分にはどこか逃避行を楽しんでいる節があったのです。
「後でいくらでもお答えいたしますから。今はご勘弁ください」
一方でこの通り、男には女の問いに答える余裕すらございませんでした。
夜更けも近づくこの頃、既に屋敷を出てから随分と時は経っており、いつ追手が来てもおかしくありませんでした。さらに悪いことに、朝から空を覆っていた雲がとうとう愚図りはじめたために足元は覚束無くなり、思うように進めないもどかしさを抱えていたのでございました。
ますます雨脚は強まり、ついに草木をも叩き起こすような雷が鳴りはじめました。いよいよ男の足も亀の歩みになりました。されどまだ続く長い道のりに、二人は少し先に見えた崩れかけの蔵で夜明けを待つことにしました。
男は女を蔵の中に隠れさせ、自分は転がっていた木刀ほどの長い木の枝を手に、閉めた戸口の前に座り込みました。
真っ暗闇の中で男は一人、降りしきる雨とけたたましく轟く雷鳴に、天すら味方しない己の身を嘆きました。思いがけず落ちた恋は決して報われるものではありません。この駆け落ちも、成功率がかなり低いことなど、男だって本当はよくわかっていました。それでも女との幸せを願ってしまうこの男は、愚かなのでしょうか。
「ああ、早く夜が明けてはくれないものかな……」
冷えた腕をさすりながら、ひたすらにそう願いました。
男は知りませんでした。この時、すでに女は蔵の中にはいなかったのです。
男は後に知ったのですが、実は、男が女を背負い屋敷を出て行くところを侍女が目撃していたのです。混乱して泣きながら、彼女は女の叔母や兄たちに知らせました。そうして事の顛末を聞いた二人の兄が自ら女を取り戻すことを決めました。いろいろと探し回っているうちに、長兄があの蔵に入っていく二人の姿を見つけて、男が見落とした蔵の裏戸を力ずくで開け、泣き喚く女を無理矢理に担いで足早にその場を去ったのでありました。男の名を呼び、泣いた女の声は、お怒りの雷様のお声に掻き消され、ついに男に届くことはなかったのです。
雨も止み、再び静けさを取り戻した暁の頃、そろそろ出発しようと蔵を覗いた男はようやく女の姿がないことに気がつきました。何処をどれだけ探しても、もう女はおりません。
すぐに、きっと女の兄たちの仕業だと思いました。男は大変悔しがり地団駄を踏んでいましたが、終いにふらふらと外に出て、雨も乾ききらない草の上に座り込んでしまいました。愛しい人ひとりも守れない自分の情けなさに溢れた涙は、露と混じり合いながら草を滑り、土の中へと消えてゆきました。
「貴女があれは真珠ですかと尋ねなさったときに、きちんと露ですと答えてさしあげればよかった。そうして私もこの露のように消えてしまえたなら、こんなにも苦しい思いをせずにすんだのでしょうね……」
泣き続ける男の上で、小鳥たちのさえずりが風とともに芥川を流れておりました。
***
それから二人はどうしたか、ですか。そうですねぇ。
女はそれから半年後に予定通り皇子様と結婚なさり、皆が嫉妬してしまうほどにご寵愛を受けて幸せな日々をお送りになりました。
男の方も傷心を抱えて全国をふらふらと彷徨った後、前を向くべく再び大学に通い、卒業後は官吏として順調に昇進していきました。
つまり二人はそれぞれの道をしっかりと歩いたわけでございます。しかし――
「あ!母上さま!」
物語に聞き入っていらした實智親王が、嬉しそうに笑顔を咲かせて部屋の入り口へと走って行かれた。見ればその先には、韓紅の着物をお召しになった晶子皇后がいらした。
「あらあら。實智、お部屋の中は走ってはいけませんよ」
叱りつつも實智親王の御髪を梳きなさるご様子は、とてもお優しい。
「皇后様。どうかなさいましたか」
「いえ、ちょうどお部屋の前を通ったので實智の様子を見に伺っただけですわ」
「母上さま聞いてください!今宗孝に物語を聞いていたのですが、とても面白かったのですよ!」
小さな手を握ってはしゃぎながらそうおっしゃるお言葉に、晶子皇后が私の方を見なさって、
「あら、宗孝さん、今はこの子にお勉強を教える時間じゃあなくって?」
お仕事はきちんとしてくださるかしら、と口角だけをきゅっとあげなさった。
「いえいえ、先程まで實智様がお勉強をとても頑張っていらしたので少々休憩していたのですよ。さ、實智様。そろそろお勉強を再開いたしましょう」
そう申し上げれば、もっとお話聞きたかったのに、と目に見えて肩を落としなさった。そんな實智親王の愛らしいお姿に、私と晶子皇后は顔を見合わせ、それから小さく笑った。
――つまり二人はそれぞれの道をしっかりと歩いたわけでございます。しかし十数年後、宮中で再会することとなったのです。昔のような仲ではもうありませんが、二人は今なお、良好な関係を築いているのでございました。
いかがでしたでしょうか?このような作品を書くのは初めてで拙いところが多くありましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたのなら私としても嬉しい限りです。
以下、自己満足な補足ですが、気になるというお方はよろしければご覧になってください。
○時代は明治末期から大正初期あたり
○「男」について
・佐野宗孝
・語りの中の時は東京帝国大学生
・ラストシーンでは宮内庁(当時は違う名称ですが)勤め。實智の教育係
・ナルシスト気味
・モデルは在原業平
※臣籍降下による公爵家は制度的にはあり得たのですが、実際にそのような経緯の公爵家は存在しないそうです
○「女」について
・池宮晶子
・モデルは藤原高子
・最初の夜から無意識に宗孝に惹かれていた(障子は開かないものの、雨戸は閉めなかったし、男を追い出すこともしなかったから)
○實智親王
・十歳
・勉強は嫌い
・やんちゃ
・モデルは陽成天皇
ここまで読んでくださりありがとうございました。