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早野は心腐病に感染したので、ほとんど意識はない。それでも、柳瀬が病室に入ってくると、彼女は彼に目を向け、彼を見つめ続けた。上司から早野の付き切りの看護を命じられた看護師、深澤はそんな彼女に憐みの目を向け、実際に柳瀬の前で『可哀想に』と言ったことがある。その時、柳瀬はあんたこそ心腐病なんじゃないかと思ったが、口にはしなかった。
感情を失い、意識を内側へと向け、やがて死に至る心腐病患者の看病をする者は少ない。医者と看護師くらいだ。それでも柳瀬が早野の入院するこの病院に毎日見舞いに来るのは罪悪感からなのか。
「精神科の若い医師がね、心腐病の患者が恋人に手を握ってもらったら、病気が治ったって話があるって言ってたの」
ふと、早野の母親、りつ子は無表情のまま、淡々とした口調で柳瀬に向かって話し始めた。
「柳瀬君って、ちえと仲良かったよね。付き合ってたんじゃないの?」
「付き合ってませんよ」
「じゃあ何でちえは柳瀬君が一人で暮らしているアパートの電話番号を知ってるの?」
「そんなこと、僕に言われても……」
「八年前だったかしら、この子、あなたにだけは連絡先を教えたんじゃないの?」
「知りませんよ。ちえは誰にも何も言わずに転校していったはずです」
「そうね。でも何か臭うのよね。厭な臭いって、嗅げばすぐにわかるでしょ?便の臭いなんかがわかり易いと思うけど、それと同じよ。臭うのよ。ぷんぷんする。あんたたち、いつもそう。小さい時からこそこそ二人だけで会ってた。知らないとでも思った?残念。ちゃんと知ってるのよ。ちえは高校の卒業式の日に、私たちに『死ね』と言って家を出て行ったの。酷い子よね。おめでたい日だっていうのに、台無しよ。で、その日は中々帰って来なくてね。妙に澄んだ顔をして家の玄関を開けたのが午前の……一時頃だったかしら。その時この子の顔を見てね、私は確信したの。あぁまた会ってきたんだなって。知ってるのよ、私は。そう、確かにこの子は良い子だから誰にも引っ越し先を伝えなかった。でもね、八年ぶりに再会した幼馴染には話しちゃったんでしょうね。そして、今、一人で住んでいるところも」
りつ子は突然ガアァと奇声を上げると、つと立ち上がり、柳瀬の腕を掴んだ。一瞬のことだった。避けることはできなかった。