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六月、高円寺駅近くのアパートで、一人の大学生が老婆に刃物で背中などを刺され、殺害された時、その大学生と親しかった女は病室で夢を見ていた。
夢の中、早野ちえはまだ中学生で、幼馴染の柳瀬と、通っていた中学校で話をしていた。
『ちえは将来の夢ってある?』
柳瀬は階段を降りながら、少し後ろを歩く早野に訊いた。
『う、うん。私は看護師になりたい』
話しながら早野は一回に着かないでと、思った。
『へぇ、そうなんだ。大変そうだね』
『うん。でも頑張るよ』
えへへと笑い、早野は柳瀬の横顔を盗み見る。と、柳瀬も早野と同じように笑っていた。
『かずあきは?かずあきの将来の夢って何?』
『僕は……』と言って、柳瀬は黙り込んだ。というより、突然、早野には柳瀬の声が聞こえなくなった。死角に入り、見えなくなった柳瀬を追いかけようと、二段ずつ飛ばして階段を駆け下り、向きを変え、覗き込むようにして階下に拡がる下駄箱の近くに、彼の姿がないか早野は必死に探した。しかし、柳瀬の姿はどこにも見当たらない。慌ててどこにいるかわからない彼を追いかけようとして、早野は足を踏み外した……。
夢の中、早野はもうこの世界にはいない少年を探し続けた。
心腐病を移された娘が、娘の幼馴染によって命を救われたと知った時、早野りつ子は強い罪悪感に襲われた。
もっと優しくしてあげることもできたのにどうして私はあの子をずっと避けてしまったのかしらでも私はあの子を嫌っていなかったそうでしょだって私はあの時だって本気で心腐病を移そうと思っていた訳ではないしそうよ私はあの子を嫌ってなかった嫌っていたのはあの子のほうでしょ私は悪くないあの子が悪いの悪いのは全てあの子よ。
受話器を片手に握り締めたまま、りつ子は罪悪感から逃れる為に、娘の幼馴染を否定し続けた。
ある元心腐病患者の女が病院の出入口から外に出ていく時、その女の看護を担当していた看護師は、外の世界に少しばかり憧れを抱いた。
看護師の深澤は生まれた時、医師に先天性心腐病と診断され、親の顔を見ることなく、同類の者たちを集めた施設へと送られた。そこではまず、心腐病の他者への感染を防ぐ為。薬物療法が始まる。そして、心腐病が移る心配がないと医師に判断された者は二十歳になるまでトイレ、ベッド、机と教材しかない狭い個室で生活することを強いられる。午後十二時から五時の間にしか、個室を出て屋外運動場へと向かうことができない先天性心腐病患者たちがすることと言えば、睡眠か勉強くらいしかなかった。それでも、そこでは拷問まがいの治療も洗脳もなく、感情のない彼等にはその生活が苦痛と感じることもなく、まだ子どもだった頃の深澤は、今の生活こそが本当の幸せなのではないかと思っていたのだが……。
病院を出て行く若い女の後ろ姿を見つめながら、少しの間深澤は、いつか心を壊してしまう病が全てなくなりますようにと、純粋な気持で願い続けた。
そうすれば、この世界が変わるのではないかと思っているかのように。




