表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

第3章。黄昏の帰路た、繋がった未来。

第3章:黄昏の帰路と、繋がった未来


それから、長い長い年月が流れた。

病弱だった息子は、主治医の先生の熱心な治療と、あの「大きな手」に守られるようにして、奇跡的に健康を取り戻していった。

すくすくと成長した息子は、今では見上げるほど背が高く、頼もしい青年に育っていた。けれど、それと引き換えにするようにして、夫の体は限界を迎えていた。

いくつもの仕事を掛け持ちし、私の知らないところで必死に家族を支え続けてくれた夫。彼は自分の命を削るようにして、息子の高い医療費を稼ぎ、親の強欲な思惑からも私たちをずっと守り続けてくれていたのだ。


「ありがとうな。お前と結婚できて、本当によかった」

病床でそう言い残し、夫は静かに息を引き取った。


葬儀の最中、夫の生前の苦労や本当の想いを知った私は、涙が枯れるほどに泣いた。

かつてすれ違い、優しさが消えてしまったと私が嘆いていたあの時期、私はどれほど彼の心を傷つけてしまっていただろうか。

後悔と喪失感で、私の心は引き裂かれそうだった。


お葬式を終えた帰り道。


私は、息子が運転する車の助手席に乗っていた。

疲れ果てた私を気遣うように、息子は静かに車を走らせていた。

ふと窓の外を見ると、車は偶然にも、あの三十年以上前に夫がプロポーズをしてくれた、あの海岸沿いの直線道路を走っていた。

その時、フロントガラスの向こう側に、息をのむような光景が広がった。

あの日と全く同じ海の向こうの地平線に、こぼれ落ちそうなほど巨大な、圧倒的な茜色の夕日が現れたのだ。


空一面が燃え上がるようなオレンジ色に染まり、車内の運転する息子の横顔を真っ赤に照らし出していく。


その瞬間、私の頭の奥で、引き裂かれた記憶の箱がパチンと開いた。

まだ二人が付き合っていた頃、夜のドライブで彼が不器用な声で語ってくれた、大切な約束の思い出が蘇る。


『もしも将来、俺たちが夫婦喧嘩をしたり、俺に愛想を尽かして別れようと思うようなことがあったら、どうかこれだけは覚えておいて。……ヴィヴァルディの「四季」。入学式や卒業式、人生の節目に、ことあるごとに街で流れるあの曲。もしあの曲が聞こえたら、それが、お前と子どもたちと、俺が確かにここに存在している証だから』


あぁ、そうだった。

息子の付き添い看病で疲れ果て、彼と激しい喧嘩ばかりを繰り返していたあの地獄のような日々。

病院のロビーで、テレビの向こうの入学式のニュースから流れていたのは、確かにあの曲だった。

私が孤独の暗闇に押しつぶされそうになっていたあの時も、彼はあの曲の調べに乗せて、「俺はここにいるよ、お前たちを愛しているよ」と、ずっとシグナルを送り続けてくれていたのだ。

私が彼の不器用な愛に気づけなかっただけで、彼は一瞬たりとも、私たちを一人にしたことはなかった。


その時、タイミングを合わせたかのように、車のラジオから、あの懐かしいヴィヴァルディの『四季』の旋律が静かに流れ込んできた。

弾むようなヴァイオリンの音が、夕日に染まる車内を満たしていく。


「あぁ、あなた……。本当に、あなたの言った通りになったよ……」


胸が締め付けられるような愛おしさと哀しみで、視界が激しく涙で滲む。


すると、バックミラーに映る夕日の光を背負いながら、運転席の息子が、前を向いたまま静かに、けれど確かな声で言った。


「これからは、俺が親父の代わりに、お袋を守っていくからね」


あまりの偶然に、私は息が止まりそうになった。言葉が何も出てこなかった。息子のその言葉、その声、放置してハンドルを握るゴツゴツとした大きな手。


(……そうだったんだ。そういうことだったんだ、神様)


涙が止めどなく溢れてくる。あの日、夫が夕日の前で幻視した未来の景色は、まさに「今、車内で息子に守られている私の姿」だったのだ。


夕日の光が時間を歪め、夫にその未来を見せていた。

そして何より、四歳のあの高熱の夜。

私の手を力強く握りしめ、


「死ぬまでお前を守ろう」と誓ってくれた『名無しの権兵衛(神様)』。


あの大きくて温かい手の正体は、他でもない、生涯をかけて私を愛し抜き、死後に魂となって幼い私を救いにいってくれた、年老いた夫自身の姿だったのか…、


神様が用意してくれた、二人の許嫁。


一人は(主治医)になって、私の一番大切な息子の命を救ってくれた。


もう一人は旦那になって、私にこんなにも優しい息子を遺し、本当に死ぬその瞬間まで、私を守り抜いてくれた。


「……うん。ありがとう」


私はそう絞り出すと、息子の大きな、温かい手をそっと握り返した。


窓の外では、大きな夕日がすべてを優しく包み込むように輝いている。

耳元では、夫の愛の証である『四季』の調べが優しく鳴り響いている。夫の不器用な愛も、先生の温かい宿命も、すべてがこの夕日の光と音楽の中に溶けて、今の私を守ってくれている。


私はもう、何も怖くなかった。夫が遺してくれた新しい未来へと、私は息子と共に、確かな一歩を踏み出した。(完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ