第3章。黄昏の帰路た、繋がった未来。
第3章:黄昏の帰路と、繋がった未来
それから、長い長い年月が流れた。
病弱だった息子は、主治医の先生の熱心な治療と、あの「大きな手」に守られるようにして、奇跡的に健康を取り戻していった。
すくすくと成長した息子は、今では見上げるほど背が高く、頼もしい青年に育っていた。けれど、それと引き換えにするようにして、夫の体は限界を迎えていた。
いくつもの仕事を掛け持ちし、私の知らないところで必死に家族を支え続けてくれた夫。彼は自分の命を削るようにして、息子の高い医療費を稼ぎ、親の強欲な思惑からも私たちをずっと守り続けてくれていたのだ。
「ありがとうな。お前と結婚できて、本当によかった」
病床でそう言い残し、夫は静かに息を引き取った。
葬儀の最中、夫の生前の苦労や本当の想いを知った私は、涙が枯れるほどに泣いた。
かつてすれ違い、優しさが消えてしまったと私が嘆いていたあの時期、私はどれほど彼の心を傷つけてしまっていただろうか。
後悔と喪失感で、私の心は引き裂かれそうだった。
お葬式を終えた帰り道。
私は、息子が運転する車の助手席に乗っていた。
疲れ果てた私を気遣うように、息子は静かに車を走らせていた。
ふと窓の外を見ると、車は偶然にも、あの三十年以上前に夫がプロポーズをしてくれた、あの海岸沿いの直線道路を走っていた。
その時、フロントガラスの向こう側に、息をのむような光景が広がった。
あの日と全く同じ海の向こうの地平線に、こぼれ落ちそうなほど巨大な、圧倒的な茜色の夕日が現れたのだ。
空一面が燃え上がるようなオレンジ色に染まり、車内の運転する息子の横顔を真っ赤に照らし出していく。
その瞬間、私の頭の奥で、引き裂かれた記憶の箱がパチンと開いた。
まだ二人が付き合っていた頃、夜のドライブで彼が不器用な声で語ってくれた、大切な約束の思い出が蘇る。
『もしも将来、俺たちが夫婦喧嘩をしたり、俺に愛想を尽かして別れようと思うようなことがあったら、どうかこれだけは覚えておいて。……ヴィヴァルディの「四季」。入学式や卒業式、人生の節目に、ことあるごとに街で流れるあの曲。もしあの曲が聞こえたら、それが、お前と子どもたちと、俺が確かにここに存在している証だから』
あぁ、そうだった。
息子の付き添い看病で疲れ果て、彼と激しい喧嘩ばかりを繰り返していたあの地獄のような日々。
病院のロビーで、テレビの向こうの入学式のニュースから流れていたのは、確かにあの曲だった。
私が孤独の暗闇に押しつぶされそうになっていたあの時も、彼はあの曲の調べに乗せて、「俺はここにいるよ、お前たちを愛しているよ」と、ずっとシグナルを送り続けてくれていたのだ。
私が彼の不器用な愛に気づけなかっただけで、彼は一瞬たりとも、私たちを一人にしたことはなかった。
その時、タイミングを合わせたかのように、車のラジオから、あの懐かしいヴィヴァルディの『四季』の旋律が静かに流れ込んできた。
弾むようなヴァイオリンの音が、夕日に染まる車内を満たしていく。
「あぁ、あなた……。本当に、あなたの言った通りになったよ……」
胸が締め付けられるような愛おしさと哀しみで、視界が激しく涙で滲む。
すると、バックミラーに映る夕日の光を背負いながら、運転席の息子が、前を向いたまま静かに、けれど確かな声で言った。
「これからは、俺が親父の代わりに、お袋を守っていくからね」
あまりの偶然に、私は息が止まりそうになった。言葉が何も出てこなかった。息子のその言葉、その声、放置してハンドルを握るゴツゴツとした大きな手。
(……そうだったんだ。そういうことだったんだ、神様)
涙が止めどなく溢れてくる。あの日、夫が夕日の前で幻視した未来の景色は、まさに「今、車内で息子に守られている私の姿」だったのだ。
夕日の光が時間を歪め、夫にその未来を見せていた。
そして何より、四歳のあの高熱の夜。
私の手を力強く握りしめ、
「死ぬまでお前を守ろう」と誓ってくれた『名無しの権兵衛(神様)』。
あの大きくて温かい手の正体は、他でもない、生涯をかけて私を愛し抜き、死後に魂となって幼い私を救いにいってくれた、年老いた夫自身の姿だったのか…、
神様が用意してくれた、二人の許嫁。
一人は(主治医)になって、私の一番大切な息子の命を救ってくれた。
もう一人は旦那になって、私にこんなにも優しい息子を遺し、本当に死ぬその瞬間まで、私を守り抜いてくれた。
「……うん。ありがとう」
私はそう絞り出すと、息子の大きな、温かい手をそっと握り返した。
窓の外では、大きな夕日がすべてを優しく包み込むように輝いている。
耳元では、夫の愛の証である『四季』の調べが優しく鳴り響いている。夫の不器用な愛も、先生の温かい宿命も、すべてがこの夕日の光と音楽の中に溶けて、今の私を守ってくれている。
私はもう、何も怖くなかった。夫が遺してくれた新しい未来へと、私は息子と共に、確かな一歩を踏み出した。(完)




