◆6 カウンセリング
「早く帰りたいだろうけど…ゴメンね。
残業つけるからね。タイムカードはコレが終わった後に押して下さい」
「あ…はい。ありがとうございます」
朝7時15分。
夜勤明けの酒山は、防災センター内にある施設長の執務室に居た。
早朝勤務の佐々井・山野辺警備員と交代し、着替えて帰ろうとしていた時、突然、酒山は拝島に呼び止められ、彼の部屋に招かれた。
「あ…あの、僕、何かしてしまいましたか?」
小さな流しでお湯を用意している拝島の背中。それを上目遣いで追う酒山。
彼は客用の立派な椅子に座らされ、所在なさげに背中を丸め、組んだ手の指をしきりに動かしている。
「ん?…ああ!違う違う。そうじゃない……」
軽く手を振りながら戸棚を開け、ティーセットを取り出す拝島。
「紅茶は好きか?…それとも、コーヒー?」
拝島の質問に少し狼狽えた後、酒山はコーヒーと呟いた。
「コーヒーか!コーヒーなら良いのがあるぞ。…ドリップバッグだけどね」
挽きマメじゃなくてゴメンね…と苦笑いしながら、慣れた手つきでお湯を注ぐ。
「はい。どうぞ」
酒山の前にそれを差し出し、自分は向かいの席に座った。
「…どうぞ?
まだ熱いかも知れないから、気を付けて」
コーヒーを見下ろしたまま動かない酒山を見て、再度勧める拝島。
「あ…い、いただきます!」
酒山が口をつけるのを見て、ニコニコと微笑みながら見つめている。
手に持ったカップを受け皿に戻し、酒山は顔を上げた。
「そ…それで、お話とは…?」
少しだけ緊張の解れた様子で、口を開いた。
「お話というか、単なるカウンセリングだよ。
定期的に行ってる…福利厚生の一環だね」
此処に勤める設備技能士や警備員達全員を担当するのが私なんだ…と、拝島は付け加えた。
「困ってる事は無いかな?
仕事中にされて嫌だった事や気になった事、何でも良いよ」
そう言って、ニコリと笑った。
◆
拝島の『気になる事』という言葉に、酒山は僅かに反応した。
少し口を開いたが、言葉にするのを躊躇し、視線を彷徨わせるだけだった。
「何でも良いんだよ?
例えば、北階段の異音に関する事でも、深夜発報でも…何でも」
酒山は困った様に頬を搔いた。
「…スミマセン。
中神先輩も書き込んでるし、何度も何度も同じ事を書き込むのは…ご迷惑だとは思ったのですが…」
いつまで経っても問題が解決しない…その様に愚痴っている様に見えたかも知れない。
施設設備全般の統括責任者である拝島に向けて、嫌味として受け取られたかもしれない。
…と、酒山は恐縮しながら呟いた。
「…そんな事を心配してたのか?」
軽く首を傾げながら、拝島は答えた。
「まぁ…確かに。
いつまでも壁内の異音を止められないのは、私の力不足の所為ではある」
そう言って頭を下げた。
「施設長を責めてる訳では…!」
慌てて拝島の謝罪を止める。
「原因は…判っているんだけどね」
彼の発した言葉に驚き、酒山は目を見開いた。
◆
「ウォーターハンマー現象って知ってる?」
拝島の質問に、酒山は首を横に振って答えた。
拝島は、机にあったメモ帳とペンを手に取る。
「水道管の内圧が急激に変化する事で、管内から大きな音が鳴る…そんな現象があってね…」
そう言って、メモ帳に簡単な絵を描いていく。
漫画の様にコマ割りを描き、水道管の中から音が鳴る仕組みを理解り易く説明した。
酒山は彼の描いた絵を見つつ、何度も首を縦に振った。
「…と、こんな原理で音が鳴る」
そう言って、拝島はペンを置いた。
「しかし、何故階段で音が鳴るのですか?」
授業を受けている生徒の様に、酒山は質問した。
拝島は再度ペンを取り、今度は建物の見取り図を描いた。
拝島の図には、北階段と従業員用通路、それに併設されている客用女子トイレが描かれている。
「ほら…ここだ。隣接しているだろう?」
そう言って、拝島は北階段と客用女子トイレを隔てる壁をペンでなぞる。
「そして、こちらも」
今度は、客用女子トイレと従業員用女子トイレの壁をなぞった。
「通路を通って行くと遠回りになるので、意外と知らない人が多いんだが……」
客用女子トイレ、従業員用女子トイレ、北階段。
全て隣接していた。
「君達がノック音を聞いたと言っている所が此処だね」
そう言いながら、両方の女子トイレと北階段の間の壁を指差す。
「ここ…壁に見えるけど、この中には大きな配管用のスペースがあってね」
北側水回りの全てが、北階段の異音のする壁の中に収まっている…と拝島は説明した。
「閉店作業の間、清掃員が従業員用トイレの掃除に入るのだけれどね。その時に大量の水を使うので、その所為で配管内の圧力が変化してね…」
それで壁の中からノック音が鳴るんだよ…と、拝島は解説を終えてペンを置いた。
「成る程…。理解れば大した事では無いのですね」
酒山は、憑き物が落ちた様なスッキリとした顔で拝島を見た。
その顔を見て、拝島は少し困った様に笑い返した。
「じゃあ…深夜発報の原因も判っているのですか?」
続けて酒山は、毎晩定時に鳴るセンサーに関して訊ねた。
「…まあね。
ただアレは、判っている…と言うより、恐らくは『そう』なのだろうな…と言う程度の事なんだ」
曖昧な答えに、酒山は首を傾げた。
拝島は三度ペンを持ち、今度は電気配線の図を書き出した。
簡単に描いた配線図。それを、先程描いた三階女子トイレ図面に重ね合わせる。
「ほら…此処にセンサーが来てる…。
その配線が此処を通って……」
ペン先で、センサーが感知した熱源情報を防災センターの警報盤まで届ける配線をなぞる。
「恐らく、この辺りの配線が混在しているあたり…。
此処に各種タイマー配線を纏めてあるボックスがあるのだけれど…」
そう言いながらパイプスペースの辺りを指差した。
「此処をネズミか何かが齧った所為で被覆が剥がれ……つまり、電気信号が混線している…のだろう」
そう言ってペンを置いた。
「成る程…。タイマーで決められた時間に送られた信号をセンサーの配線が拾って…と、言う事ですね」
酒山は何度も頷きながら、拝島の描いた配線図を見返した。
「そうそう。理解が早いね。
鷹梨さん達が『優秀な新人』だ…と褒めるだけの事はある!」
拝島はニコニコしながら膝を叩く。
酒山は少し照れながら頬を掻いた。
「でも…其処まで原因が判っていて、なんで修理しないのですか?
ウォーターハンマーの原因も、配線の混線も…」
酒山は当然の疑問をぶつけた。
拝島は、難しい顔をしながら腕を組む。
「…この事は、外部の人には絶対に秘密にして欲しいんだけどね…」
静かに息を吐いた後、小声で話し始めた。
◆
「防火界壁…って、知ってる?」
酒山は、フロア天井に垂れ下がってる透明板の事ですか…と、訊ねた。
「それは防煙垂れ壁だね。
防火界壁っていうのは、天井裏等の見えない場所に建てる防火壁の事。延焼防止に必須の設備なんだよ」
そう言って、部屋の天井を見上げた。
「実は…件の女子トイレの天井裏。そこに施工不良があってね…」
拝島は深く溜息を吐いた。
「まさか、その界壁が無い…とか?」
酒山の問に拝島は首を振る。
「逆だ。必要の無い位置に界壁を設けてしまった…」
酒山は首を傾げた。
延焼防止の為の設備。『無い』のは問題。でも、『在る』なら悪い事ではないのでは…?と。
「他の場所なら、在っても困る事じゃ無いのは…その通り。
ただ、あの場所に『在る』のは…非常に困るんだ」
酒山は黙ったまま。拝島が続けるのを待った。
「重要な上下水道や電気配線…天井裏や壁内に隠した各種設備…それらを纏めたパイプスペース。…そこにアクセスする為のルート上なんだ。
その余計な界壁の造られた場所が…ね」
そう言って、再度、深く溜息を吐いた。
酒山は事態を把握し、拝島と同じ様に頭を抱えた。
「じゃ…じゃあ、15年間も…メンテしてない…?」
「あくまで、この場所だけだからね」
拝島は自分の描いた図面に指を置く。
他の場所は毎年やってるよ?…と付け加えた。
「恐らく…配線を齧ったのはネズミかハクビシン。
断線しなかっただけ良かったと言うべきか…」
拝島は苛立ちを隠さず、図面をトントン…と指で叩いた。
「ウォーターハンマー現象も、実は配管にダメージを与えるから直した方が良いのだけれど…」
「界壁の所為で配管に触れないから…。
壁を壊して…ってのはダメなんですか?」
酒山は界壁部分を指差しながら訊ねる。
「上申がね…通らないんだ」
不貞腐れたような顔で、拝島は視線を落とした。
「ウォーターハンマー現象も配線の混線も、あくまで、私の予想でしかない。
メンテナンス出来てなくても、今、問題が無ければ良いじゃないか…と…」
上役に言われたらしい。
「実際、鉄筋コンクリートで造られてしまった界壁を、営業時間以外の短時間で破壊するのは…ね…」
工場見積書を見て、経営陣は首を振ったそう。
拝島は困った顔で酒山を見た。
「なので、ノック音も深夜発報もそのまま…」
私ではどうしようもない…と言って、肩をすくめた。
「そういう理由で、悪いんだが…」
「そういう理由なら仕方ありませんね」
酒山は納得したとして、首を縦に振った。
「ワンピースの女性も、見間違いか、本当にただ其処に居ただけ…。目を離した隙に退店していた…程度の笑い話でしょうね。
ノック音も深夜発報も、原因が理解れば…全然怖くはありません」
酒山は顔を上げた。
「肩の荷が下りました!」
そう言って、ニカッと笑った。
◆
執務室を出ようと荷物を持った酒山は、あっ…と言って立ち止まった。
「中神先輩には、どの様に説明すれば…?」
中神警備員も、北階段のノック音には大層まいっているらしい。
自分の語彙力では、拝島が行った様に上手く説明出来る自信が無い…と、酒山は困った顔で拝島を見た。
「君から伝えなくても大丈夫。
今晩、黒山君が中神君のカウンセリングを行う予定なんだ」
拝島は、シフト表を酒山に見せながら答えた。
『昼〜遅番』に黒山主任、酒山と中神と鷹梨が『夜番』となっていた。
今晩は少し早く、中神を呼び出しているらしい。
勤務引継ぎ前にカウンセリングを行うそうだ。
「原因さえ判れば、ノック音も女性も『枯れ尾花』。
すぐに笑い話に成るさ」
拝島は力強く頷く。
ただ、酒山には思う所がある様で、ウーンと唸っていた。
「実は先輩…最近少しノイローゼ気味でして…」
酒山は、近頃の中神の言動を拝島に話した。




