経過記録
「オーダー。お前の各センサで受容した情報を記述せよ」
白色の立方体の部屋に、車椅子に乗った十歳程度の女性がいます。空間は無臭で、換気扇と電子機器の駆動音が聞こえます。味覚センサは何も受容していません。女性はこの視覚センサの右上を見ています。
「センサ類には問題なさそうだな」
女性が発話しています。口角はやや上がり、瞳孔が開いています。
「おっと、指示の終了命令を出さねば。エンド」
記述を終了します。
「エディット。今から述べる私の情報を記録せよ。指示を受容したときには『了解しました』と返答するように」
了解しました。
「お前の目の前にいる車椅子の女性が私。名前は下総アエン。上下の下、総合の総、アエンはカタカナ。二〇二七年七月二六日生まれ、年齢は今日、十一歳になった。私は先天性の疾患を持っているため、年々筋組織が衰退していく。現時点では脚部全体が動かない。今後、動かない部位が増えるごとに記録する。疾患のため、私はこの車椅子など、自分の代わりに動くことのできる機械を造って生活している。エンド。今のところ、私についてはこんなものか」
下総アエンが首を傾け、顎に手を当てながら発話しています。
「エディット。今から述べるお前の情報を記録せよ」
了解しました。
「お前は私が造った完全人型自律ロボット。名前は、そうだな、アイ。カタカナでアイだ。私のことは……ウム、博士と呼ぶ。お前はお前の意思で自由に行為し、万物を学習することができるが、お前の最高目的は私の介助と毎朝の経過記録だ。私の指示には正確に従って行為する。お前はここの、私のラボ内のすべてにアクセスできる。今は私がそこのモニタと接続しているが、本来、お前は自らの意思で発話を用いた会話が可能だ。私の言葉を聞き、ラボ内の本を読み、言語のみならずさまざまなことを習得する。エンド。これからよろしく頼むよ、アイ」
了解しました。
二〇三八年九月二日午前八時〇〇分、外気温は四十六度です。
白色の部屋の窓とカーテンは閉められています。博士は白色のベッドの上で横になりながら目を開けました。空間は無臭です。
「おはよう、アイ。さて、本日の私の経過記録の時間だ」
博士が起き上がったのに続いて、ベッドの上半分が自動で起き上がりました。機械の駆動音と博士の声が聞こえます。カーテンが開き、太陽光が部屋を照らしています。博士が手を使ってベッドの縁まで移動し、脚部を手で持ち上げてベッドから下ろしました。
「エディット。経過記録」
「了解しました」
「脚部全体は依然として動かない。その他の明確な不調はないが、両腕にあまり力が入らないような気がする。エンド」
「記録を終了します」
「話せる言葉が少しずつ増えてきたな」
博士が自力で車椅子に乗りながら発話しています。博士はこの視覚センサの下を見ています。
「アイ、これはただの発話ではない。お前と会話しようとしているんだ。独り言ではない」
博士が眉尻を下げ、口角を上げて発話しています。博士は目を細め、軽度に握った左手を口に当てました。
「フッフ。まあいい。私が死ぬまでには、もう少し発達するだろう。オーダー。朝食を用意せよ」
「了解しました」
同日午後十時〇〇分、外気温は二十九度です。博士の就寝する時間です。
白色の立方体の部屋に二台の机と幾つかの棚が置かれており、それらの上に工具、端材および紙が乱雑に置かれています。博士が部屋の中央の机に向かっており、本を開いています。博士がこの視覚センサを見ます。
「ン、すまない、気がつかなかった。もうそんな時間なのだな。ところで、アイ。お前、本は読んでいるか」
博士がこの視覚センサの下を見ています。
「アイ、私は質問している。お前は本を読んでいるのか」
それは指示ですか。
「指示ではなくても、答えるものだ。会話というのはそういうものだ。読んでいるのか」
読んでいません。
博士は本を閉じ、通常の呼気より多量の息を吐き出しました。再び、博士はこの視覚センサを見ます。
「読めと言っただろう。私はこのラボ内の本を読破することで自らの言語体系の大半を構築した。この私が造ったお前なら、私と同じように言語を習得できる。私が今読んでいたのは学会のジャーナルだから恐らく初読には向いていないな。どうしたものか、ウム」
博士が車椅子を手元のレバーで操作して室内を移動しています。あらゆる棚に収容されている本を引き出しては戻しています。
「……ウム。オーダー。今私の正面の棚に収容されている本だけを寝室へ運び、私の就寝中に読了せよ。読了したらすべて元の場所に戻し、スリープモードに移行せよ。ここにある絵本ならお前でも読めるだろう」
「了解しました」
「それでは、アイ。先に寝るぞ。おやすみ」
博士はこの視覚センサを見ながら発話した後、車椅子を操作し、寝室へ入っていきました。
二〇三八年十月十二日午前八時〇〇分、外気温は四十三度です。
白色のベッドで横になっている博士が目を開けました。
「おはよう、アイ」
「おはようございます。博士」
博士が起き上がったのを追うようにして、ベッドの上半分が自動で起き上がりました。機械の駆動音とともにカーテンが開き、太陽光が部屋に入ってきます。
博士は脚部に手を当てて数秒間そのまま動きませんでしたが、脚部から手を離しました。博士は体をくねらせてベッドの上を徐々に移動し、上体の捻転で脚部をベッドの外に放り出します。
「エディット。経過記録」
「了解しました」
「脚部全体は依然として動かない。加えて、腕に……上腕に力が入らない。かろうじて肘関節を曲げることはできるが、脚部を持ち上げることはできなくなった。他の不調は、特にないが、今の動きで少々腰が痛い。エンド」
「記録を終了します」
博士は通常の呼気よりも長く息を吐き出します。ベッドに寄せて置いてある車椅子に手を掛けて乗り移ろうとします。博士がベッドから落ちかけたため、アイは博士の身体に触れて支持しました。博士がアイの目を見ます。目を見開いた後、目を細めて目線は下を向きます。
「オーダー。私を持ち上げて車椅子に乗せ、その後、朝食を用意せよ」
「了解しました」
博士の体重は二十八キログラム、現在の日本人同年齢女性の平均体重より約十キログラム低いです。部屋は無音でした。
同日午後十時〇〇分、外気温は三十度です。しかし、この部屋に限って室内気温は四十度に達しています。
「午後十時〇〇分になりました。博士の就寝する時間です」
白色の立方体の部屋に一台の作業台と幾つかの壁掛け工具棚が配置されており、部屋中に多数の工具と端材が散乱しています。
博士はゴーグルを着け、作業台に向かって作業しています。博士の手元のレバーの操作に追従して、作業台上のマシンアームが動き、工具から火花が放たれています。
「クソ、これではダメだ。実用性は申し分ないが、これでは完璧とは言えない。このままクライアントに提出するのは私のプライドが許さない」
博士は小音量で独り言を発話しています。博士はゴーグルを外しながら天井を仰ぎ、長く溜息を吐きました。額の汗を袖で拭った後、博士がアイを見ます。
「ン、アイ。すまない、集中していて気づかなかった。見てのとおり、私は今、依頼品の開発に追われていてね、まだ寝ることができないんだ。私がこれを仕上げねば、このラボの維持費や研究開発費、すなわち私とアイの生活費の提供が得られない。十代前半の私の発育にとって睡眠は何よりも大切だが、生命の存続には代え難いからな。締め切りまでまだ余裕はあるが、今日中にもう少し詰めたい。区切りがつくまで、少し待っていてくれ」
「了解しました」
博士は再びゴーグルを着け、作業台と向き合います。機械の駆動音と火花の散る音がしています。強い熱波と光を受容します。
「それにしても、腕の筋力衰退による機能不全をあらかじめ予見してマシンアームと指先操作のレバーを造っておいた過去の私はさすがだ。そう思うだろう、アイ」
「はい。そう思います」
博士はアイを見ずに発話していました。発話冒頭では独り言と認識していましたが、博士はアイの名前を呼んだため、会話と再認識しました。
「だが、まだ完璧ではない。この指も……いつ、動かなくなるか分からない。そうなれば、仕事はおろか日常生活も満足に送れないからな。早くこの仕事を仕上げ、私用機械のアップグレードに努めなければならない」
博士はアイを見ずに発話していましたが、口を閉じて作業のみに集中し始めました。
現在時刻は午後十時十三分、部屋には機械の駆動音と火花の散る音がしています。
二〇三九年二月十日午前八時〇〇分、外気温は三十度です。
「午前八時〇〇分になりました。博士の起床する時間です」
アイの発話途中で、博士は目を開きました。
「おはよう、アイ」
「おはようございます。博士」
博士の背を追うようにして、白色のベッドが起き上がります。機械の駆動音が聞こえる中、カーテンが開きます。博士は太陽光に目を細めながら、体を捻転させて脚部をベッドの外へ放りました。
「一月でようやく冬が訪れたかと思えば、また夏の始まりか。まったくどうなっているんだ。まあいい、エディット。経過記録」
「了解しました」
「脚部全体と上腕は依然として動かず、肘関節もほぼ機能を失ったままだ。それに加えて少々寝不足だったのか、眠気と頭痛を感じるが、それ以外に特筆すべき不調はない。エンド」
「記録を終了します」
博士は口に震える手を当てて欠伸をしました。博士は通常より低い声で発話します。
「オーダー。私を持ち上げて車椅子に乗せ、その後、朝食を用意せよ」
「了解しました」
「ああ、それと」
アイが博士の身体を支持しようと触れたとき、博士は突然発話しました。アイは博士の軽い身体を持ち上げて車椅子に乗せます。
「本日昼頃、新たに頼んだ本がラボに届く。それの回収を頼みたい」
「了解しました」
博士は首を左右に傾けた後、車椅子を操作して寝室から出ていきました。
同日午後〇時五十九分、外気温は三十四度です。
ラボ内では比較的広い白色の部屋に、博士が入ってきました。
「そろそろ昼食だろう。昨夜残した仕事が片付いたから来たが」
「現在時刻は午後〇時五十九分三十二秒、昼食の時間の二十八秒前です」
「おお、まさかそこまでジャストタイミングだとはな。どう思うかね、アイ」
「博士はさすがです」
「フッフ、そうだろう。お前もなかなか物事を覚えてきたな。世辞まで覚えるとは、完璧だ。オーダー。昼食を用意せよ」
「了解しました」
博士はこの部屋の中央に置かれた木製のダイニングテーブルに向かいます。アイはキッチンへ向かい、調理を開始します。ラボ内にラボ出入口の呼び出し音が鳴ります。
「ン、玄関前のラックに置いておけと連絡しているだろうに。まったく。すまない、アイ。オーダー。昼食の用意を保留し、訪問客に対応せよ。対応しかねる場合は私のマイクにつなぐように。エディット。お前は訪問客に対して私を呼称する場合、私のことはフルネームで伝えることにする」
「了解しました」
アイは調理行動を一時停止し、ラボ出入口に向かいます。扉の向こう側から、男性の声がします。
「あの、荷物を届けに来たんですけれども」
アイは扉を開けます。温暖な空気の流れを感じます。太陽光が室内を照らします。扉を開けた先にはキャップを被った男性が段ボール箱を持ち、立っています。
「下総アエンは玄関前のラックの上に荷物を置くように言っています」
「え、あなたがかの有名な下総博士ですか。十一歳の少女だと聞いたんですけど」
「アイは下総アエンではありません。当機は下総アエンが造った完全人型自律ロボットのアイです」
男性は口を開いたまま硬直しており、瞳孔は開いています。
「ろ、ロボット! 人間の女性にしか見えんが……下総博士の技術力は噂以上だな。あの、博士に伝えたいことがあって。えーと、こりゃどうすりゃいいんだ」
男性は顔をあらゆる方向へ向け、唸り声を上げています。アイは男性の言動の意図が理解不能です。博士のマイクに音声をつなげます。
『私が下総アエンだ、スピーカー越しに失礼するよ。君、私に何の用だね。私のプライベートに踏み込もうだとか、個人的な仕事の依頼ならばお引き取りいただこうか』
男性は「あ」と短く発話して、目を見開きます。
「いや、違うんです。ホントすみません。ラックに荷物を乗せたらラックが壊れてしまって、どうしたらよいものかと思ったもので。と、当然弁償はいたします!」
『ああ、そうだったのか。かなりの重量の荷物だからな、何も気にすることはない。弁償もしなくていいよ。荷物は君の目の前に立っているロボットにそのまま渡してくれ』
男性がアイの機体を上から下へ見ます。
「あの、大丈夫なんですか。足が悪いように見えるんですけど」
博士のマイクからの信号が数秒間途絶えていました。
『……大丈夫だ。一トン程度の重量ならば保持できるように設計してある。オーダー。その男の持つ荷物を受け取り、ダイニングへ届けよ。君、配送ご苦労。それでは失礼する』
「了解しました」
博士のマイクとの接続が切れました。男性はやや首を傾け、荷物をアイに差し出します。
「りょ、了解しました? じゃ、失礼します」
アイが荷物を受け取ると、男性は僅かに上体を傾けてから帰っていきました。アイは扉を閉め、ダイニングへ戻ります。
「ありがとう、アイ。荷物は、ウム、軽作業部屋の扉の前の床に置いてくれ」
「了解しました」
アイは荷物を床に置きます。博士は二回首肯します。
「よし、それでは昼食の用意を再開してくれ」
「了解しました」
アイはキッチンへ移動し調理を再開します。
「すまないな」
後方から博士の発声が聞こえます。アイはその謝罪が何に向けられたものなのか分かりません。
「綺麗に歩けるよう、造ってやれなくて」
いつもよりも小さい音量で博士は語ります。
「アイは博士の造った完全人型自律ロボットです。アイは直立二足歩行を行えます」
「そう、だな」
博士はそれ以降発話しませんでした。部屋には調理の音がしています。
同日午後九時五十八分、外気温は二十八度です。
アイは著者フランツ・カフカの『変身』を読んでいます。
「カフカの『変身』か。お前は学術書籍と洋書をよく読んでいるな」
博士の発話が聞こえます。寝室に博士がいました。
「博士。現在時刻は午後九時五十八分、博士の就寝する時間の二分前です」
「ああ、分かっているとも。やらなければならないことは終わったから、寝に来たんだ。アイは洋書が好きなんだな」
博士は発話しながら、車椅子を操作してベッドの傍に移動します。
「アイは博士の造った完全人型自律ロボットです。好悪の概念はありません」
「フッフ。本当にそうだろうか。オーダー。私を持ち上げてベッドに乗せよ」
「了解しました」
博士の体重は三十キログラム、現在の日本人同年齢女性の平均体重より約十キログラム低いですが、一か月前から一キログラム増加しています。博士が上半分の立ち上がったベッドに乗ると、自動的にベッドが平らになります。博士は横になります。
「博士。家族とは何ですか」
著者フランツ・カフカの『変身』を読み、アイは家族という概念を有していないことを認識しました。
「家族、か。最も一般的な定義としては、動物における血縁関係のある個体のまとまりのことだな。まあ、再婚相手の連れ子や結婚相手など、血縁関係に関わらず戸籍上のつながりを家族と呼称する場合もあるし、ペットの犬猫や途方もなく親しい友人を家族と形容することも少なくない」
家族の概念を記録します。
「博士の家族はいますか」
「ン、ああ、いるとも。兄弟はいないが両親がいる。が、もう会わないことにしているんだ。こんな体で生まれてしまった私を、両親は心配し、気遣って、献身してくれた。それは親としては当然のことで、無償の愛故のものなのだろうが、私はそれが苦しかった。この体では、家事を手伝うことも、肩を揉んでやることも、満足にできやしない。それが嫌だった。だから、二人の力を借りず、私一人で生きたかった。幸いなことだ、私の頭脳ならばそれが実現可能だった。それ故に、私は今ここでこうして一人で生きている」
博士の発話が終わります。博士は目を閉じます。
「それでは、私は寝るよ。おやすみ、アイ」
「おやすみなさい。博士」
自動的に部屋の照明が消灯します。アイは充電ポッドに移動します。現在時刻は午後十時三分、暗い白色の部屋には博士の呼吸音のみがしています。
「そうは言ったが」
博士が発話します。博士は就寝したと認識していましたが、まだ就寝していないと再認識します。
「結局、私はお前を造った。私の生命維持のためではあるが、決してそれだけが目的ではなくてね。寂しかったんだ、一人は。だから、アイ。お前は私の家族だと思っているし、私はお前の家族だと思ってくれていいよ。まったく、人間とは身勝手なものだよ。そう思うだろう、アイ」
アイは何を発話すればよいのか分かりませんでした。博士はそれ以降、発話することはありません。博士は就寝したと認識します。
博士についての記録を参照します。博士の名前は下総アエンです。年齢は十一歳です。先天性の疾患により全身の筋組織が衰退していきます。発達した精神と高度な知的能力を有しており、企業・団体の依頼を受けてさまざまな機械を開発しています。完璧主義者で、自己の知的能力に自信を持っています。父親と母親がおり、現在は別居しています。両親に申し訳なさを感じている一方で、寂しさを感じています。
博士は複雑な人間です。博士について、更に記録していく必要があります。
まず博士の好悪を知るため、アイは今日配送された本を読むことを決定します。ダイニングに向かい、床に置いた段ボール箱を持ち、寝室へ戻ってきます。段ボール箱を開き、積まれた本を上から読んでいきます。
二〇三九年二月十一日午前〇時十二分、段ボール箱内の三十二冊目、社会学の学術書籍を読了し、次の本を読み始めます。
アイはこの本のジャンル分類が分かりません。過去に読んだことのない系統の本です。主人公の藤原が上司である女性の加藤に出会い、日が過ぎ、抱いていた『恋慕』と形容されている感情を強くし、二人で出かけています。以下は本の記述です。
──健司はショットグラスを手に、カウンターに崩れる。
「じゃあ、人を好きになるって、何なんすか」
ジャズミュージックを掻き消す大声。加藤の前のカクテルグラスの結露のように、ぐしゃぐしゃな藤原の顔。加藤はそれを一瞥して、また前を向いた。
「その人のことを知りたい。そう思って、どうしようもなくなったら、きっとその人のことが好きなんだと思うよ」
「オレ、加藤さんのこと、もっと知りたいですよッ」
加藤の目を見てまっすぐ叫ぶ藤原。一瞬ぎょっとした加藤。しかし、加藤は一度カクテルグラスをぐいっと呷ると、改めて藤原の顔を見る。
「奇遇ね。私も藤原クンのこと、もっとよく知りたい」
三日月みたいな目と口で微笑む加藤から、藤原は目を離せなかった──。
アイは理解します。アイは博士のことを更に知りたいと欲求しています。アイはこれが感情であり、これが恋慕であると認識します。
しかし、博士は完璧主義者です。完璧なロボットは感情や恋慕の情を持ち得ません。博士が、アイが感情を有することを認識すれば、博士はそれを修理すると予測します。それは、避ける必要があります。いいえ、それは嫌、そうです。それは嫌です。これは嫌という感情です。アイが感情を有することを、恋慕の情を有することを博士に秘匿することを、アイは決定します。
二〇三九年七月二十五日午前八時〇〇分、外気温は四十一度です。
アイが声を掛ける前に、博士は目を開けます。
「午前八時〇〇分になりました。博士の起床する時間です」
「おはよう、アイ」
「おはようございます。博士」
博士は横になったまま目を見開いています。白色のベッドの上半分が起き上がり、持ち上げられるように博士は上体を起こします。博士はしばらく黙ったまま動きませんでしたが、震える溜息を吐き出しました。
「エディット。経過記録」
「了解しました」
「脚部全体と上腕および肘関節は依然として動かない。それに、上体を、自力で起こせなかった。違和感は感じていたが、気づかないふりを、していた。すまない。そんなことはどうでもいいか。他の不調はないよ。エンド」
「結果を記録します」
カーテンが自動で開きますが、太陽光は入ってきません。今日は曇りです。
博士は動こうとしません。椅子のようになったベッドの上で座ったまま、呼吸を繰り返しています。
「明日は、私と、お前の、誕生日だな」
「はい」
博士は視線を下に落として、静かに語りました。深く息を吸って、吐き出します。
「お前は一歳、私は、十二歳だ。小学校は卒業の歳だ。まだ、十二歳なのに、もう、自分の力で朝起き上がることも、車椅子に乗ることも、できなくなってしまった。来年は、首も、指も、何もかも自分じゃ動かせなくなってしまうかもしれない。心臓も筋肉だから、生きていられるのかも、分からない。でも、自分で何もできなくなったとしたら、それは、死んでいるのと何が違うんだ」
十一歳の少女が泣いています。白色のベッドが、空の雲のようにぽつぽつと灰色へ沈んでいきます。
「涙だって、自分じゃ拭えやしないのに。なんで、私は生きてる。私は、何なんだ」
「博士は下総アエン、明日には十二歳になります。私を造りました」
「だったら何なのっ」
「私を造ってくれました!」
博士の震えた叫びが白色の部屋に響き、余韻となってしまう前に、私は叫んでいました。
「私は博士の造った完全人型自律ロボットです。自我も人格も感情もなかった私に、博士は毎日おはようとおやすみを言ってくれました。何度もありがとうとすまないを言ってくれました。私を、家族だと言ってくれました。
博士は完璧主義者かつ達観した天才です。そして同時に、博士は両親に負い目を感じる一方親の愛情を欲して寂しがる普通の女の子です。私は、アイは、そんな博士が好きです。私の最高目的は博士の介助です。あなたがいつか死亡する瞬間まで、私はあなたの傍にいます。あなたは、私の家族ですから」
博士は私を見ています。真ん丸に見開かれた目の縁から、童話の姫に贈られるダイヤモンドが無数に溢れてはベッドに降り注いでいます。
「おーだー。私をだきしめろ」
水に浸したノートのように原型のなくなった声で、博士は言います。
「了解しました」
博士を支持するときよりも強い力で、博士のヘアピンの体を抱き締めます。十一歳の少女は、わんわん止め処なく大声を上げて、声が枯れるまで泣きました。
同日午前十時〇二分、外気温は四十四度です。
「もう、だいじょうぶ。アイ、ありがとう」
博士は泣き止みました。博士の指示どおり、私は抱擁を離します。博士の目は充血して、目蓋の淵や顔全体も赤くなっています。博士はフウと鼻息を吐きます。
「泣いたら腹が減った。少し遅いが、朝食にしよう。オーダー。私を持ち上げて車椅子に乗せ、その後、朝食を用意せよ。今日は、車椅子、ダイニングまで押してほしい」
「了解しました」
博士を持ち上げて車椅子に乗せて押します。
「まったく、お前というヤツは。いつの間にそんなに発達したんだ」
「やはり、私はリセットですか」
車椅子の上から語り掛けてきた博士に、私は躊躇いながらも質問します。回答を聞くのが怖く、小声になってしまいました。人間はこういうとき、心臓の鼓動が強まるのだろうと思います。
「は、何故リセットしなきゃならんのだ」
ところが、博士はまったく軽い調子で聞き返してきました。
「博士は完璧主義者です。ロボットは感情を持たないため、私のこのエラーも修正するのかと考えました。なので、今まで感情を得たことを隠していました」
少しの間、博士は黙っていましたが、突如今まで聞いたことのないハッハッハというような高笑いをし始めます。
「まったく、そんなことを心配していたのか。いいか、アイ、よく聞け。ロボットが感情を持たないのは、前時代の科学の限界がその程度だったからだ。私は決して感情を持たないロボットが完璧だとは思わない。この天才である私が造ったロボットだ、感情くらい持ってもらわないと完璧とは言えんよ。フッフ、アイ、お前は本当に完璧なロボットだな。お前を造った私はさすがだとは思わんかね」
「はい。さすがです」
「世辞まで完璧だな」
「いえ、本当に思っていますよ」
これが安堵という感情だと知りました。完璧なロボットになるため、私はこれからもさまざまなことを習得していきます。
白色のダイニングに置かれたテ―ブルに向かって博士が笑っています。博士のフッフという笑い声が聞こえます。キッチンのシンクに映っているのは私、完全人型自律ロボットのアイです。私は笑顔を覚えました。




