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私のものを何でも欲しがる妹が、顔だけが取り柄の私の婚約者に懸想しているので、熨斗(膨大な借金)をつけて差し上げます

作者: 唯乃
掲載日:2026/03/27

 妹が私の婚約者を欲しいと言い出したのは、秋の夜会の帰り道だった。

 馬車の中で、レティシアは頬に両手を当て、とろけるような笑みを浮かべていた。窓の外を流れる街灯の光が、彼女の巻き毛を金色に染めている。私はひざの上の帳面から目を上げなかった。今季の仕入れ原価と販売見込みの差分を頭の中で処理しながら、「そう」とだけ答えた。


「顔が良い人って、それだけで得よね。お姉様みたいに頭が良くなくても、ああやって皆に囲まれて」


 レティシアの言葉には棘がなかった。棘がない分、始末に負えない。悪意があれば、こちらも処理のしようがある。しかし彼女は空が青いとか、今日は風が冷たいとか、そういうことと同じ軽さで、彼女は「お姉様は地味」と言う。


 私は帳面に数字を書き足した。


 エドワード・クロフォード伯爵子息。確かに顔は良い。社交界の令嬢たちが黄色い声を上げるのも理解できる。黄金の髪、青い目、彫刻のような輪郭。造形だけを取り出せば、芸術品と言っても差し支えない。


 ただしそれだけだ。


 エドワードの家が我がセジウィック商会から最初に借り入れを行ったのは七年前のことで、当初の目的は領地の灌漑工事だった。返済計画は父が立てた。甘い計画だと思ったが、当時の私はまだ十三歳で、商会の帳簿に触れる立場ではなかった。


 結果は予想通りだった。


 工事は途中で頓挫し、資金は底をついた。追加融資の申請が来たのは翌年の春。父は通した。私は何も言わなかった。それからも同じことが繰り返された。三年後に父が病に倒れ、私が商会を引き継いだとき、クロフォード家の債務残高はすでに取り返しのつかない水準に達していた。


 現在の合計は――私は脳内の数字を一度確認した――王国の中規模都市一つの年間税収に相当する。


 父がエドワードとの婚約を取り付けてきたとき、私は三秒で計算を終えた。断れば商会の社会的信用に傷がつく。受ければ債権が回収不能になる。どちらも損だ。


 しかし、たった今、第三の選択肢が現れた。


「レティシア」


「なに、お姉様?」


「エドワード様のことが好きなの?」


 妹はぱっと顔を輝かせた。


「好き、というか……ねえ、お姉様。お姉様はお仕事ばかりで夜会にもろくに出ないし、エドワード様がかわいそうじゃない」


「そうね」


「だったら、私に譲ってくれてもいいんじゃないかしら」


 私は窓の外を見た。秋の夜、街灯の炎が石畳に揺れている。


「考えておくわ」と言った。


 考えるまでもなかったが。





 振り返れば、レティシアはずっと欲しがりな子供だった。


 私の人形を欲しがり、私のリボンを欲しがり、私が読んでいる本を欲しがった。私が食べかけのタルトを欲しがったこともあった。私が口をつける前のものより、私がすでに手にしているものの方が魅力的に見えるらしかった。


 母はいつも言った。「お姉ちゃんなんだから」と。


 私はいつも譲った。人形も、リボンも、本も。

 父も同じだった。「レティシアは繊細な子だから」と言って、何でも与えた。

私には「おまえは強い子だから」と言った。強い子は我慢ができて当然だ、という意味だと気づいたのは、何年も後のことだ。


 商会を任されたのも、その論理の延長だった。レティシアは繊細だから、帳簿など見せられない。強い私が担う。

 文句を言う気にもならなかった。数字は嘘をつかないし、取引は感情で動かない。商会の仕事は、家族の中で唯一、私を正当に扱ってくれる場所だった。


 だから、エドワードを譲ることに、何の感傷もなかった。

 ただ、それで終わりにするつもりもなかった。






 三日後、エドワードが私の執務室に来た。

 「話がある」と言う顔に、後ろめたさの色はなかった。良心の呵責がある人間は、交渉の余地を残す。彼にはそれがない。扱いやすい。


「クロフォード子息、どうぞ」


「単刀直入に言う」


エドワードは立ったまま、顎を上げた。


「レティシア嬢と真剣に向き合いたいと思っている。婚約の解消を申し入れる」


 私は羽根ペンを置いた。


「真実の愛、ですか」


「笑いたければ笑えばいい。だが俺は本気だ」


 彼は続けた。私が地味で、商売のことしか頭にない女で、レティシアのような輝きが自分には必要で、生涯を共にするなら心が通じ合える人間でなければならない、と。


ごちゃごちゃ言ってたが、要は顔の良い俺に地味な女は釣り合わない、と言いたいのだろう。


 私は一度だけ、彼の顔を正面から見た。

 確かに彼の造形は凄く良い。惜しいとすら思う。これほどの容姿に、何かが一つでも伴っていれば。


「わかりました」と言った。


 エドワードが目を丸くした。


「……いいのか?」


「条件が一つあります」


 私は引き出しから一通の書類を取り出した。事前に作成しておいたものだ。法務を担当する顧問に三度確認させ、抜け穴がないことを確かめてある。


「姉妹の情として、婚約を喜んで譲ります。ただし、この書類にサインをいただきたい」


 エドワードは書類を受け取り、ざっと目を走らせた。最初の一ページだけ。


「財産の移転契約……?」


「セジウィック商会が貴家に対して保有する債権と、商会に付随する一切の債務を、レティシアが個人として継承する、という内容です。姉妹間の資産整理ですから、難しい話ではありません」


「ああ、要するに結婚後の財産関係を整理するということか」


「ええ」


 エドワードはそれ以上読まなかった。書類の四ページ目以降に、債務の明細が添付されていることも、合計額が国家予算の三分の一に相当することも、連帯保証の条項が明記されていることも、確認しなかった。


 書類を読まない人間というのは、一定数いる。私には理解できないが、事実としてそういう人間がいる。自分に不利な内容が書かれているとは考えない。相手が自分を騙すはずがないと思っている。あるいは単純に、細かい文字を読む習慣がないだけか。

 エドワードはおそらく、その三つ全てだった。


 彼はサインした。

 私は書類を受け取り、引き出しに戻した。


「おめでとうございます」と言った。


「よいご縁になると良いですね」


 エドワードは多少居心地悪そうな顔をしたが、すぐに表情を明るくした。目に見えて安堵している。これほど簡単に話が通ると思っていなかったのだろう。

 私は彼が出ていくのを見届けてから、引き出しを開けた。書類をもう一度確認した。

 不備はない。

 私は引き出しを閉め、次の仕事に取りかかった。





 レティシアを呼んだのは翌朝だった。

 彼女は応接室に入ってくるなり、勝ち誇った顔をしていた。エドワードから話を聞いたのだろう。頬が上気して、目が輝いている。


「お姉様が話を受けてくれたって、エドワード様から聞いたわ! 嬉しい! やっぱりお姉様は物わかりが良いのね」


「書類を確認してほしいの」


 私は同じ書類の写しをテーブルに置いた。


「難しいことはわかんなーい。お姉様が良いって言うなら良いんでしょう?」


 私はレティシアを見た。

 この言葉を、彼女はこれまで何百回言っただろう。学校の課題も、家の帳簿も、父との取り決めも、全て「難しいことはわからない」で済ませてきた。そのたびに誰かが代わりに処理した。たいていは私が。


 無知は罪ではない。本当にそう思う。

 ただし、無知を盾にして、知る努力を放棄し続けることは、別の話だ。


「そうね」と私は言った。


 レティシアはサインした。

 私は書類を片付け、お茶を一口飲んだ。


「結婚式、楽しみにしているわ」





 式は盛大だった。

 王都で指折りの式場だった。白薔薇が山のように飾られ、シャンデリアの光が床の大理石に反射して、会場全体が白く輝いていた。招待客は二百人を超えていた。

 クロフォード家の最後の見栄だと、私はわかっていたが、それを言う必要もない。


 レティシアのドレスは白と金だった。三ヶ月分の職人の賃金に相当するそれを、彼女は誰かが用意してくれるものだと思っていたのだろう。実際、その代金もクロフォード家の借り入れに上乗せされていた。

 エドワードは燕尾服で、確かに美しかった。祭壇の前で並ぶ二人は、絵画の一場面のようだった。


 目の前に広がる光景を、私は仕事をするときと同じ目で見ていた。計算の終わった数字を確認するような、静かな視線で。

 感慨はなかった。怒りも、悲しみも、今更何もない。あるのはただ、これから起こることの正確な見通しだけだ。


 神父が誓いの言葉を読み上げる声が、高い天井に響いた。


 エドワードが誓った。

 レティシアが誓った。

 指輪が交わされた。


 ここに契約は完了した。結婚という契約だけでなく、もう一つの契約も。連帯保証人としての地位が、法的に確定した。


 レティシアが振り返った。祭壇から会場を見渡す目が、私を見つけた。

 笑みは優しくなかった。


「お姉様、どんな気持ち?」


 式の途中で招待客に話しかけるという無神経さも、いつもの彼女らしかった。周囲が少しざわついたが、彼女は気にしない。いつだって気にしない。


「おめでとう」と私は言った。


「それだけ? 負け惜しみはないの?」


レティシアの声は弾んでいた。


「これからは私が伯爵夫人として、あなたの稼いだお金で贅沢するのよ。商会も、全部私のものになるんだから」


 会場がしんと静まった。招待客たちが息を飲む気配がした。

 私は立ち上がった。

 二百人の視線が集まる中、祭壇へと歩いた。靴音が大理石の床に響く。誰も何も言わなかった。


「一つ言っておくことがあったわ」


「なに?」


「先月、セジウィック商会の経営権をすべて売却したの」


 レティシアの笑みが、止まった。


「……何を言っているの」


「優良資産だけを切り分けて、別の名義の会社に移転済みよ。法務的には問題なく完了しているわ」


「それがどうしたの?」


「あなたとエドワード様が継承したのは」と私は続けた。


「商会の名前と、クロフォード伯爵家の現在の債務残高です」


 私は会場全体に向けて、はっきりと告げた。


「総額は、この王国の国家歳入の三分の一に相当します。現在の金利で試算すると、孫の代まで利子しか返済できない計算になります」


 会場が凍った。

 次の瞬間、式場の扉が開いた。

 入ってきたのは、黒服の男たちだ。数人ではない。きっちり十二人。全員、表情のない顔をしていた。先頭の男が分厚い書類の束を抱えている。

 彼らは迷いなく祭壇へと歩いた。白薔薇の間を、シャンデリアの光の下を、二百人の招待客の視線の中を。


「クロフォード・エドワード様、レティシア様」


先頭の男が書類を差し出した。


「債権回収のご通知です。ご確認をお願いいたします」


 エドワードが書類を受け取った。

 彼の顔から血の気が引くのを、私は正面から見ていた。


 そうだ、これが正確な数字だ。私が帳簿を引き継いで以来、七年かけて積み上げてきた数字。父が甘い計算で見逃し続けた利子の累積。エドワードが浪費し続けた追加融資の合計。全部、ここに記載されている。


「これは」エドワードの声が裏返った。


「これは何だ、どういうことだ」


「契約書に記載の通りです」と私は言った。


「お読みにならなかったかもしれませんが、四ページ目以降に明細がございます」


「読んだ、読んだが――こんな額は」


「孫の代まで利子しか返せない計算になります。先ほども申し上げました通り」


 エドワードの膝が折れた。

 黄金の髪が乱れた。燕尾服の膝が大理石の床についた。青い目から涙が溢れ、彫刻のような顔が歪んだ。泣き声は、子供のそれと区別がつかなかった。

 それでも顔は良かった。泣いていても美しいというのは、ある種の才能だと思う。ただし、それ以外に何もない。


 レティシアが私に縋り付いた。白と金のドレスが揺れた。


「お姉様、お姉様、助けて、こんなの聞いてない、私は何も知らなかった、契約書なんて難しくて読めなかった、お姉様!」


「契約書に書いてあったわ」


「でも難しくてわからなかったの!」


「無知は罪ではないわ」と私は言った。


「ただし、無知の結果は自分で引き受けるものよ」


 レティシアの目が揺れた。私が今まで一度も見せなかった何かを、彼女はそこに見つけたのかもしれない。温度のない目。七年分の計算が終わった後の、静かな目。


「お姉様、あなた――」


「そのドレスも担保資産の目録に含まれております」


 黒服の男の一人が、丁寧に、しかし有無を言わさぬ声で言った。


「ご着用のまま退場されますと差し押さえが複雑になりますので、今この場でお脱ぎいただくことをお勧めします」


 会場がざわめいた。

 レティシアが悲鳴を上げた。


 私はその声を背中で聞きながら、式場の出口に向かった。靴音が響く。白薔薇の香りが濃かった。二百人の視線が私を追っていたが、それはもう関係のないことだった。


 扉を開けると、秋の光が差し込んできた。空気が冷たくて、清々しかった。

 後ろで、エドワードが泣き喚いていた。レティシアが何かを叫んでいた。黒服の男たちが淡々と仕事を進めている気配がした。

 私は振り返らなかった。

 振り返る理由がなかった。





新しい会社の広告が、王都の主要な通りに掲げられたのは、翌年の春のことだ。

 青空の下、白い看板に黒い文字で社名が刻まれていた。その脇に、小さく私の名前がある。

 私はその看板を見上げなかった。もう知っている内容だから。

 ただ、後から聞いた話では、泥水のように薄いスープを飲みながら、王都の外れの長屋でその看板を眺めている夫婦がいるらしい。黄金の髪をした男と、かつて白いドレスを着ていた女。

 彼らが何を思っているかは、私には関係のないことだった。

 帳面を開いて、次の数字を書いた。

 数字は嘘をつかない。いつだって、そうだ。

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― 新着の感想 ―
両親も貧乏老後生活なのかな?まぁ婚約破棄どころか財産委譲とかクズ契約認めたからなぁ。長娘の人生を棒に振ろうとして、自分の人生を棒に振りましたね。
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