甘く苦いモルヒネ
カウンセラーと少女の病みと相互救済の物語
甘く苦いモルヒネ 1柚木
プロローグ
チャイムが鳴った。昼休みの開始のチャイムだ。
その音はついこの前までは穏やかな夕焼けの萌芽、それくらい暖かなものだった。
中学三年生の私は学校の中ではミジンコのように小さなクラスに怯え、今、机と相対して濃厚なキスを交わしている。
そんな時、ふと誰かが私の身を机から強引に引きはがした。
「ねぇ花江さんのお父さん元気かしら!」
そのけたましい声の正体は柳田さんだった。
「あんたのクソ親父が先週の運動会で私を殴って以来、全てが揉みくちゃになったんだけど!」
私は床になぎ倒され、チョークの粉を顔から盛大に被せられた。
「どう責任取ってくれんの!」
「本当にごめんなさい。ごめんなさい。何でもします!何でもします!」
「あんたがのうのうと毎日毎日このクラスで呆然としているのが憎たらしいのよ!」
クラスメイトは笑っていた。私は腹部を数人から踏みつけられた。
「あんた、さっき何でもするって言ったわよね。なら消えてくれるかしら?」
「はい。もう来ません。もうクラスには来ません。」
「クラスだけでなく、この世からよ。あんたの父親とあんたはどっちもいらないのよ!
私に何をしたかも理解せずに、当然のように私と同じ空気を吸い、空気を汚すのよ!」
「とにかく消えて頂戴!」
クラスの教卓の前で見世物のように私はうつ伏せにひれ伏している。
終わったようだった。これで三回目だ。ひどく痛い。
そんな時、私にある何かが芽生えたようだった。閃光?いや衝動のようなものみたいであった。
私は出どころのわからない力に奮い起こされた。そして、立ち上がった。
私は彼女、柳田さんを殺したい。殺したい。
そうして殴った。 ようだった。
九月二十四日狭苦しい自分の部屋の窓から見える朝日は、私の健康と運動を助長しているように見えた。二階からリビングに降りた。白い運動ソックスと体操着をだらしない物干し竿からむさぼるように取ってみた。何だかスッキリした。
両親は両方ともぐうぐうといびきをかき眠っている。
普段はほとんど何も用意されていないテーブルには、菓子パンのスティックパンとヨーグルトが無造作に置かれていた。
私はそれらを無感情に平らげ、今日の運動会のために体操着と白いソックスを快調に身に着けた。
両親は昨日午後の部から運動会を見に行くと言っていた。その時の彼らの体裁は義務的であり、冷淡であった。
おそらく、両親は運動会において私を見るために行くのではなく、私を見に行く自分達を見せにいくのであろう。
正直そんなことはどうでもよかった。普段から常習的に手を下し、罵詈雑言をぶつける両親には甚だもう愛情とやらは求めていなかった。
何よりも今日は運動会だ。私はそれを人並み以上に待ち望んでいる。
私はある程度、いや、かなり足が速かった。みんなは足が速い私を肯定し尊重してくれていた。
彼らの肯定は私が私を肯定するきっかけになった。両親は私を否定する。私は私を肯定する。
それで十分であった。
そろそろ家を出る時間だ。私の両足は高らかに玄関を飛び出した。
玉入れ、借り物競争、他学年の様々な競技がとんとん拍子で終わっていった。午前の部、それは私にとって正直どうでもよかった。
「ねぇ花江さん!今日のリレー頑張ってね!私、誰よりも花江さんのこと応援してるのよ。
他のクラスなんて絶対打ち負かしちゃってよね。じゃあお昼ご飯の後。またね!」
「うん。応援ありがと!またね!」
柳田さんはいつも足が速い私を応援してくれていた。学級委員に推薦してくれたのも柳田さんであった。
私はそんな柳田さんが大好きだった。彼女が世界で一番私を肯定し、私の存在意義を明るく照らし上げてくれるようだった。
「兄ちゃんのこと応援してるよ!」
「あんたのために色々作ってきたんだから、もっと食べなさい!」
辺りは賑やかだった。運動会を控える家族の暖かな会話が飛び交っている。そろそろお昼の時間のようだ。
私は普段とは異なる偽りの花江家という劇場に足を運んで行った。
両親から人前では円満な家族を装えと日頃から口うるさく言われていた。
おそらく今日という日もその対象だろう。
「花江ちゃん。お疲れ様!午後のリレーに出るんでしょう。隣のクラスの子達も花江ちゃんのこと応援してるって言ってたわよ。」
母が放つその第一声、表情それらは私に他の家庭とは全く異なるものを私に伝えていた。
それから、長々と父と母はかりそめの会話を私にぶつけていた。頭の中は茫然としていたが、
傍から見える形相は親と仲つつまじい娘に見えるのであろう。
「あ!花江ちゃんの場所ここだったんだ!」
柳田さんが来たようだった。彼女の姿はこのまがいものの劇場から脱却させてくれる唯一の光のように私には見えた。
「あなたが柳田さん!家の子がいつも仲良くさせてもらっていてありがとうね~」
「はい!いつも花江ちゃんにはいろいろやってもらっているし、感謝しています!」
「あら、家の子、そんなに頼りがいあるかしらね?」
母は笑っていた。もちろん心から笑っているわけがない。
そもそも私は柳田さんについて、家で語ったことなど一度もなかった。
私にとって内の無感情な母は真実であるが、外の母は全くの異であり、ある意味外の母というものは私が夢想していたものなのかもしれない。いや、もうどうでもいい。
そんな頃であった。それは突然に起こった。
不意に柳田さんは立ち上がった。そして、柳田さんは足を踏み外した。
左手に持っていた缶ジュースは私の父の上半身に豪快に降りかかった。
その時の父の顔は私に対する狂気とは異なる恐ろしいものを含んでいた。
「あぁごめんなさい。ごめんなさい。親に言ってきて何とかします。」
「はぁ。」
父はしばらく口を閉ざしたようであった。そして、明らかにいきり立っていた。
柳田さんは何度も頭を下げて、両親の方へ向かうために背を向けて、子供なりにこの状況を冷静に対処しようとしているようだった。
そんな時だった。我が家の怒れる金槌が柳田さんを打ち付けたのである。
それから、柳田さんは号泣し、精を失っているかに見えた。
我が家の周りはもちろんのことひどく騒然としていた。グランドはどどめ色に青ざめていた。
柳田さんの家族がやって来た。何を私たち家族に言い放っていたかは詳しくは覚えていない。
パトカーがやって来た。父の行為は多くの人に見られていたらしかった。要するに証人がたくさんいたようだった。
そして、父はどこかへ送られた。周りの大人と同級生たちは、私をのけ者かのように凝視したかと思えば、そっぽを向き他人と会話した。それの繰り返しだ。
私に対する父の暴力、それはただの日常に過ぎなかった。
今宵の暴力、それはこんなにも大きいものであった。
この二つの何が異なるのだろうか。そんなことを思っていると私は啞然とし消失した。
この日、私は運動会には出場しなかった。いや、できなかった。
次の日の朝はは冷たく大粒な雨がグランドに降りかかった。
今日は運動会の後清掃である。私たち生徒が清掃に取り掛かる頃には雨はすっかり止んでいた。
誰にも話しかけなかった。遠くからは私の名前を小声で他者に発するくせに、面とむかっては誰からも話しかけらなかった。
清掃が終わった。授業も終わった。ホームルームも終わった。私の肯定の全てが終わった。
帰り道、一人目指したくない場所に歩いて行った。
雨は止んでも、曇は私にとって冷たく見えた。
あぁ居場所ってやつは何なのであろうか。
そんなことを思い私は家のドアをゆっくりと開けた。
CHAPTER 1
1Hazuki
十月四日
程よい温度のお湯の入った自前のキャラクター柄のマグカップにティーパックを入れた。
カウンセラー室の外からは無邪気な子供たちの笑みが溢れかえっている。勤めてから、三か月ほど経ったが、私にはこの仕事が適所なのかもしれない。
思い返せば大学時代の頃からたくさんの人間の相談を聞いていた気がする。恋愛、就職、口に出せないようなシリアスなもの様々だった。
しかし、それらには間違いなく共通点があるようだった。カウンセリング、相談事というものは相談をする側と聞く側の二者が存在する限り、結果的に解決まではいかないものの、必然的に極端な例外を除いてマイナスな結果になるということはありえない。
私はだからこの仕事を選んだのかもしれない。私は人のためになるのが何よりも好きならしかった。
たとえ、一度で解決されなくとも回数は人の心を徐々に癒していく。私はこの三か月でたくさんの子供たちの話をゆっくりと聞いて、ゆっくりと寄り添った。子供たちの悩みも大体は好転に向かい私自身も安堵していた。
そんな中、先日中学三年生の女子生徒が同じクラス内の女子生徒を殴るという学校内では大きな事件が起こったらしかった。
幸い大怪我には至らなかったみたいだが、こんなことはそうそう起こって来やしない。
何故殴ってしまったのだろうか?担任含む学校内の会議ではいじめなどではなく、その生徒の一方的なものだと結論づけられ、話は終わったらしい。
私は殴られる側よりも殴った側の女子生徒の心うちが気がかりだった。
そんなことを思い紅茶を嚥下してみるとそれは心なしか渋いようであった。
「失礼します。三年三組の花江です。」
花江、それは最近聞き覚えがある名前であった。あの例の子だ!
「こんにちは、私の名前は葉月って言うの。わざわざこの場所に来てくれてありがとう!
ほら、まず座って!何か飲み物入れてあげるわね。」
花江という少女はこれまでカウンセリングしてきた子供たちとは、ほのかに異なる形容しがたい何かをまとっているようだった。
「はい!カルピスね。好きかしら?」
「はい。ありがとうございます。」
「喜んでくれて良かったわ!あ!そうえば花江ちゃんて中学三年生よね。国語に出てくる故郷のやんおばさんって知っている?」
「はい!知ってます。あの足がコンパスみたいな面白いおばさんですよね!」
「そうそう!私、中学生時の国語なんてほとんど覚えていないんだけど、やんおばさんだけは強烈に覚えてるのよ。」
花江ちゃんは心なしか安心して喜んでいるようだった。それはまるで不安な新学期で始めて居場所を見つけた過去の私のようにも見えた。いや、もっと切実なものが彼女にはあるのかもしれない。
それから、私と彼女はあらかじめストックしてある私の過去の笑い話や世間話など。小一時間ほど楽しく会話を重ねていった。
彼女、花江ちゃんは人を安易に殴るような少女では間違いなくなかった。
たった一日でもそれは私の中で確証に近かった。
彼女は何かを抱えているのかもしれない。彼女はまた明日この場所にやって来る。
私は精一杯彼女に寄り添いたい、そう思った。
2Hanae
十月四日
夏の終わり、つい先週まで暑く感じた窓から伝わってくる太陽の光もあっという間に私にとっては少し肌寒く感じた。
私は昨日の朝、いつも通り家を出た。しかし、学校には行かなかった。私はどこに行ったのだろうか。どこにも行っていない。ただ歩いていた。なぜなら居場所などないから。
今日の私の額には、治りかけの青なじみと昨日の夜できた出来立ての青なじみがあるようだった。どちらも思い出すと吐き気がするようだった。
そう思っていると私は家の玄関の前にいた。なぜだろう?
それから、歩き歩いて歩き続けた。すると公園に着いた。
中学三年生である私はあと半年ほどで中学生を卒業する。今の私には何の支えもなかった。
この世の全てが私を否定した。きっとこれからの私もそうなるのであろう。
私の太陽だった柳田さんはもうこの世界にはおらず、正反対のものしかそこにはいなかった。
私は人を殴ってしまった。憎しみからだろうか。裏切りからだろうか。いや、どちらでもない。
私自身が変わってしまった。そして、もともと生きづらかったこの世界もますます生きづらくなった。
そう思っていると私は公園の水道の蛇口を精いっぱいに回していた。水は空高く無鉄砲に飛び立っていく。
私はその様をただ茫然と見ている。
水が打ち付く音、ひぐらし、車の音、それら全ては何故か私の耳には無慈悲で残酷に聞こえた。
私はそれから、逃げた。とても恐ろしかった。
走る私、襲う街、私はどうかしてしまったのだろうか。
目の前に学校が見えるようだった。
私はその場所を拒絶したが、足は何故だか肯定し、歩み寄っていった。
校内はいつもの混雑する朝とは違い授業が始まったからなのか、閑散としていた。
誰もいない下駄箱、薄暗くも暖かな渡り廊下、それらは私を肯定しているようだった。
相談室、それは私の目の前に突然に飛び込んできた。
部屋の中からほのかに紅茶の匂いが漂っていた。その匂いは私を心なしか安心させた。
私はドアを開けた。光は明るかった。私の心も少し照らされた。
2Hatzuki
十月十一日
六限目のチャイムが鳴った。私の仕事ももうじき終わるころだ。
花江ちゃんが始めてこの部屋に来てくれた日からちょうど一週間が経った。
先週花江ちゃんは毎日この部屋に顔を出してくれた。
しかし、今日というこの日は顔を出さなかった。
次の日、私は中学二年生子の恋愛相談と三年生の子の進路相談を熱心に聞き優しく彼らにアドバイスを諭した。お昼は久しぶりにお母さんが私の家に泊まりに来て朝早く作ってくれた、学生だった頃の懐かしのランチボックスだった。それから、お昼休みには普段よく相談に来る生徒とそのお友達が遊びに来てくれた。この日の昼ご飯はいつもより遥かに暖かで、思いやりに溢れていた。しかし、来なかった。花江ちゃんは来なかった。
私は普段五時ぴったりに退勤する。今日はほんの少し待ってみた。しばらくしても花江ちゃんは来なかった。
相談室のドアを閉めた。廊下ですれ違う教育達と当たり障りない挨拶を何回か交わし、私は下駄箱を抜けた。家はほんの少し遠かった。外は肌寒かった。私はたらたらと退勤後の無機質なサラリーマン達に抗い道路を歩いている。
正直言って学校の教育たちは私に冷たかった。それは、廊下ですれ違うたびそれはひしひしと感じるのであった。先日の学校の職員そうでのレクリエーションにも私は誘われなかった。
なぜだろうか?わからない。そう言えば母は今朝帰ってしまったのであった。
昨日の母がいた私の家はいつもと違った。今日は誰もいない。私は寂しかった。
そんな頃だった。どこか待ち望んでいた声が唐突に私の耳に入ってくるようだった。
「葉月先生、葉月先生。」
その声は花江ちゃんだった。泣いているようだった。顔があざだらけのようだつた。
私は即座に理解した。花江ちゃんが宿す醜悪な重荷を。
「花江ちゃん。久しぶり。今日はちょっと肌寒いわね。ところで、今から先生とちょと何か食べないかしら?今日は相談室ではなくて、特別に駅前のお店よ!」
それを聞いた花江ちゃんは静かに笑い、静かに涙を流しているようだった。
私は花江ちゃんの肩にゆっくりと手を当てた。冷たかった。
しかし、その冷たさは私の冷たさと違った。
「先生、先生。私。。。」
「いいのよ。口に出さないで。今はとにかく私と美味しいものを食べるの。そのことだけ考えて。」
私はそのまま花江ちゃんの肩に手を当て、ほのかに薄暗い道路を共に歩いて行った。
2 Hanae
十月十一日
ほのかに薄暗い空、冷え切った私の心、隣にいる葉月先生、街は相変わらずいつも通り息を吸っていた。私も変わらず息をしていた。隣の葉月先生も必死に息をしていた。
そうえば、昨日の朝、家に残された私と母は何をしたのであろうか?
母は泣き叫んでいた。父がいなくなったからだ。母は私と一緒で父から日々ありったけの暴力を浴びせられていた。でも、母は愛していた。父だけは。
正直、泣き叫ぶ母は耳ざわりだった。私の頭の中は少し煮えたぎっていた。
その瞬間だった。あの日の衝動がまた再来したようである。
私は母を思いっきり殴った。母は後ろに倒れ伏した。
数秒後、私の腕はまた主人の言うことを聞いたようだった。
それから、母は喚き散らしながら立ち上がり、私を玩具で狂人の如く全身を殴打した。
私は抵抗しなかった。する気がなかった。
それから、家の中で起きた一粒のミサイルと小さな棘の豪雨が止んだ後、私と母は静寂の中散りさって行った。
昨日はよく眠れたようだった。そのまま目覚めたくはなかった。
私の衝動は身体の全身を蠢き侵食するかのように感じた。
「もう少しで着くわよ。花江ちゃん!お腹はペコペコ?私はペコペコ。」
葉月先生の声は私の中の全てを打ち消してくれるように感じた。その時の私の口は思うように言うことを聞かず、葉月先生からの受け答えに対し、私は軽く会釈することしかできなかった。
目的地の店に着いたようだった。店はよくあるファミリーレストランらしかった。
思い返すと中学二年生の教育旅行の際にこの店でお昼を取った気がする。もちろん普段から外食なんてありえないが、その時の記憶は鮮明に覚えていた。
店内は異様に明るかった。こんなに明るい場所は久しぶりに見た気がした。
「花江ちゃん、高いやつ選んだら許さないんだからね!」
「はい。わかりました。」
「冗談だよ。冗談!何でも選んでいいわよ。私意外とお金持ちなんだから!」
葉月先生は全力で私に寄り添ってくれている。この感覚はいつぶりだったろうか。
それから、私は一人前の定食を気が付けば二つ頼んでいた。そう、私は気が狂う程腹が減っていたのである。見たことのない程の鮮やか料理を目の前にし、私はおひとやかに食べようにも胃袋はいうことを聞かなった。
必死に料理を食べる私の姿を葉月先生は優しく見守っていた。いつまでもそうして欲しかった。
「柳田さん。」
私は不意にその言葉を葉月先生にこぼしてしまった。
その言葉を聞いた葉月先生は何かを悟り、すこし物憂げなようだった。
「花江ちゃん。花江ちゃんにとって柳田さんってどんな人?突然だけど落ちついて話してみてくれるかしら?」
私はそれを聞いて何だか解放された気がした。私は最愛の人からの裏切りと悔恨を誰にも打ち明けず、日々。自らの殻の内に猛獣を閉じ込めるようにして一人もがき苦しんでいたようだった。
それから、私は柳田さん、母親、これまでの父親からの暴力、私自身のあの衝動、これからのぼんやりとした不安などそれ以外にも数え切れない程の邪魔者をゆっくりと吐くようにして葉月先生に振りかけてしまった。
「花江ちゃん。打ち明けてくれてありがとう。正直、私うれしいわ。打ち明けてくれたってことは大きい第一歩なの。」
気が付けば料理はとっくの前に平らげられていた。あたりも店に入った時と比べて、静かだった。先生の顔は依然として笑顔だった。
「先生。ごめんなさい。何も考えないでこんな話を長々としてしまって。」
「気にしないで、これが私の仕事だもの。人の話を聞き楽になってもらう。それが私の義務であり、生きがいよ!」
葉月先生、それは私にとって唯一の救いだった。先週の私は辛うじて生を実感していた。
そして、また私は生を再び取り戻している。
そうして私と先生は穏やかな足取りで店を後にした。
「先生。本当にありがとうございました。なんてお礼をしたらいいのか。」
「花江ちゃん。今日、私も花江ちゃんに感謝しているの。花江ちゃんは本当に立派だし、この世にあなたを求めているような人はこれからいっぱい現れると思うの。とにかく、辛い時でも私はいるから。どんな時でも花江ちゃんを全力で助けるからね!」
心から人に必要とされる、それは今日が始めてなのかもしれない。今思えば、クラスメイトからの肯定は見せかけであり、くだらないものに思えてきた。
今この瞬間、私に内在する窮屈な琴線はほのかに溶け出していった。身体に住まうケダモノは僅かに削ぎ落とされた。軽かった。心地よかった。
それから、私は誠心誠意の感謝を先生に伝えて、駅前のネオンを横切っていった。
ピーポーピーポー救急車のけたましい音さえも私を肯定する。また、パトカーすらも肯定した。
「さっき、そこの駅で飛び込んだやつがいたらしいよ。」
「物騒ね、夏の終わりは毎年、こんな有り様な気がするわ。」
私が悠々と歩く一方、近くではまた一つの生が旅っていったようだった。
しかし、私は生きる。とにかく、生けるのだ。これからのことだけを渇望し。
足は舞い踊っていた。街の風景はもちろんのこと、どよめいていたが私はそれに逆らい、夜風を闊歩していった。
家が見えてきた、何も怖くなかった。
「ん?」
数台のパトカーが視界に入る。新聞記者と野次馬が興味津々に我が家を垣間見る。
家の前に着いた。
すると、突然警官が額に汗を目一杯に携えて、私に妙なことを聞いてきた。
「佐々木さんのお子さんですか?」
「はい。そうですけど。」
「とにかく、署に来てくれるかな。」
あぁ理解した。私は理解した。理解していたのかもしれない。先程から、いや昨日の朝から。
そして、私の身体はさらに軽くなったみたいだ。
私は一日という短い間に宝玉を手に入れ、邪根を抜き取った。そんな感覚だ。
なぜだろう。それはなぜだろう。
あぁ何を隠そう母が死んだんだ。駅のホームで一生を終えて何も残さずに。
そして、私は初めて母から肯定された気がした。
CHAPTER2
1Hazuki
十二月二十四日
私の仕事ももう少しでひと段落する。なぜなら冬休みだからだ。もちろん長期休暇の際も週に何回かはこの相談室を開ける。だが、正直、私はこの休みを少し待ち望んでいたのかもしれない。悩み事を聞く、カウンセリングそれは当たり前だが、私の職務であり、適職だ。
しかし、何カ月もそれをしていると私自身が失われ、悩む生徒達の切実な思いを無感情に工程の如くこなす自動ロボットなるものになってしまうそんな危惧が私の中に芽生えた。
私にはいくらかの休符が必要らしかった。
そんな頃、相談室のドアは軽やかに開いたらしかった。
「先生!志望校の過去問、合格ライン初めて超えました!」
「あら、ホント!九月からどんどん上がってついにいったのね!」
「そう!この時期ですごいでしょ!」
花江ちゃんはとても元気溌剌だった。みんなが目指す受験という共通目標に彼女も乗り出すことが叶ったのである。それは当たり前のことでは決してない。
夏から彼女は保健室登校をしていた。彼女はお母さんのこともあり、今は祖母の家から学校に通っているようだった。祖母との関係も良好だと彼女の口からも聞いている。彼女を縛っていた計り知れないほど大きなつるの根はある日を境に根絶された。彼女は自由に自らと向き合っている。そんな彼女が私は依然よりも増して大好きだった。
「ねぇ花江ちゃんって将来何になりたいの?」
「私ですか?何だろう。まだ明確に決まってないけど、とにかく人を助け続ける人になりたいです。だから、目指している高校も福祉系なんです。正直、先生の影響もあるかもしれませんね!」
「ホントに!すごく嬉しいわ!」
「先生が毎日カウンセリングして、生徒達が救われる姿は本当に私の憧れです。でも、カウンセラーになりたい訳じゃありませんね!ただ人を何かしらで救える人間になりたいだけです。」
「はぁー幻滅したわよ!」
こんなことを言っていても内心、私は心の底から嬉しかった。私の存在で救われるだけでなく憧れる子までもがこの学校に居てくれている。それは、私にとってこれ以上ない程仕事に対してのやりがいと人生においてもこの上ない生きがいを感じさせるものだった。
「でも、先生とのんびり過ごせるのもあと少しなんでしょ。私、それがすごく不安で堪らないし、とても寂しいんです。」
「私も寂しいわ。でも、今の花江ちゃんならどんな所でも間違いなくうまくやっていけるわ!花江ちゃんは変わったのよ。今の花江ちゃんは自由で人のために誰よりもたくさんのことを思いやれる。そんな、花江ちゃんよ。現に私も花江ちゃんの思いやりに何度も救われたのよ!」
私の言葉を受け取った花江ちゃんの表情は特別なものに見えた。また、この瞬間花江ちゃんの変化を強く痛感した。
「先生。ありがとうございます。後、少しわがまま言ってもいいですか?」
「何かしら?何でも言って!」
「この後、夏の終わりのあの時みたいにどこか二人で行きません?」
「ふふふ!特別よ!思い出を噛みしめないとね。」
そうえば、今日はクリスマスイブであった。外もきっと賑やかに違いない。
私たちのこれから作る儚くも太陽のように明るい思い出も今日という日ときっと結ばれ、華やかなものになるに違いない。
相談室の窓からは雪の結晶も白髭のサンタクロースももちろんのこといるはずがなかった。
花江ちゃんとの思い出に区切れがつく、そんなことを思うと胸はごくわずかに締め付けられる。だが、花江ちゃんの笑顔を見ると胸の手綱は優雅に解け散った。
とにかく、これからが楽しみだった。花江ちゃんの行く先、そして、私が築く自らの行く先が。
それから、学校の終わりのチャイムが鳴りやんだ後、私と花江ちゃんは学校を後にした。
空から、微かだが、小さな雪が舞い降りてきた。雪は手に乗った途端に私の中に沈み込んでいった。
「さぁ行きましょう!先生!」
「はい!行きましょう!私の車でドライブに!」
1Hanae
十二月二十四日
先生と一緒に学校から出た途端に下界から、雪達が私達を出迎えてくれた。
きっと今日は特別なものになる。そう私は強く思った。
先生の家までは案外近いようだった。しかし、少しの家までの旅路でも、街に散見するクリスマスの装飾とライトアップは煌びやかだった。
「なんか、悪いことしてるみたいですね。学校の外にいるのにこうして先生と楽しく過ごせているのって!」
「悪いことじゃないわよ。これもカウンセリングの一貫ってことにしてしまえばね。」
「私、今、病んでませんよ~」
その時、私はほんの少し過去という名の亡者に足を引っ張られた気がした。
「でも、私、先生と過ごしたあの夏のことほとんど覚えてないんです。たくさんのことが一気に襲い掛かかってきたみたいで。」
先生の顔は至って真剣だった。そう言えば、先生は私の母について触れたことなかったし、
私も同様だった。
「そうね。花江ちゃん。明日を見るのよ。もちろん、花江ちゃんの過去も捨ててはならないし、残り続けるものよ。でもね、今は前を向いていなさい。過去、特に花江ちゃんの過去みたいなものに向き合うのはまだまだ先でいいと思うの。」
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
私は少し涙を流していたみたいだった。
「ほら、花江ちゃん着いたわよ。」
先生の家に着いたみたいだった。それから、私は家のドアの前に少したたずみ、数分後
クマのストラップの付いた車のカギを持った先生が悠々と出てきたみたいだった。
車の中は先生と不似合いな嗅いだことのないタバコの匂いといつもの優しい先生の匂いが充満していた。
「ところで、どこにドライブするんですか?ドライブに行くって言い始めたのも先生ですし。」
「そうね。花江ちゃんに見せたいものがあるの。それは見てからのお楽しみ!」
「じゃあ、出発するわね!」
「はい!」
先生はとても楽しそうだった。負けじと私も楽しそうだった。
車は颯爽とクリスマスの街並みを通り抜け、この日を謳歌する人々に逆なでているようだった。
しばらくして、車は高速道路に乗り出していった。高速はそこまで混んでいなかった。
車から見える景色は目まぐるしく変化していった。
しばらくして、景色は夜の大都会の摩天楼へと移り変わっていった。
私はこのような景色を見るのは初めてだった。
「とても、綺麗ですね!」
「そうでしょ!実は花江ちゃんに見せたかったのはこの夜の首都高速道路なのよ!」
「そうなんですか!ただただ、綺麗です!」
先生は誇らしげであり、とても嬉しそうだった。
「花江ちゃん。この、日本、世界はこの光みたいにいろんな人がいて成り立っているのよ。
花江ちゃんもこの光の一つだし、きっとこれからも輝けるし、現に今も輝いているわ。
だからね。とにかく、希望の光を持ってこれからを生きてね!」
希望、それは過去の私と相反するものだ。外は美しかった。美しかった。
でも、なぜだろう。この光り輝く美しさを目に入れる程、過去の私が脳裏によぎるようだった。
そんなことを思っていると私は癇癪を起こした。先生のハンドルは強く乱れた。
それから、車は高速道路のガードレールに力強く衝突した。 みたいだった。
2Hazuki
一月八日
年が明けてからちょうど一週間が経ったらしかった。
クリスマスのあの日、今でも私はあの日の存在自体を否定し、現実を深く疑った。
幸い二人に怪我はなかった。車の傷も大したことはなかった。
しかし、私の心の傷は深々と根本に食い込んでいた。きっと花江ちゃんはもっとなのであろう。
花江ちゃんは祖母と一緒に病院に行ったみたいだった。診断は精神分裂病、パニック障害、てんかんなど様々であった。しかし、花江ちゃんにとって、その病名を受け止める事は彼女をますます苦しめるものになってしまう。そして、花江ちゃんはそれ以来病院には行かなかった。診断書も破り捨てた。彼女な彼女自身で自らと向き合うようだった。
こんな状況でも、もうじきで、花江ちゃんには受験は容赦なく迫りくる。
私はそんなことを思っていると生きている心地がしなかった。
また、明日から学校は始まってしまう。今のこんな私にカウンセリングが務まるだろうか?
私は現実から逃げたかった。学校での居場所は相談室だけだった。
私にとって花江ちゃんが相談室であり、日常が花江ちゃんであった。
寂しいけれども花江ちゃんは生まれ変わって、この相談室を旅立っていく。それだけが、私の唯一の心の支えであった。私がドライブに誘ってしまったからだ。しかし、私のせいで、全てが台無しになった。
ベランダで大きく息を吸って、小さく息を吐いてみた。
心地良かった。希望などあるはずないのに、突如として見せかけの虚像である、快楽が私の下に舞い降りてきた。
心は拒絶しても、頭に自然と快楽が染み渡る。やはり、こいつは異常であった。
私と快楽は果敢に馬にしがみつき、荒涼とした荒野を駆けている。
虚無と夢想を断ち切るかの如く。時には、熱き戦友のように。時には怨み深い親殺しと敵討ちのように。
しばらく経って、私の目から刹那に快楽は消え伏せた。そして、私も煙臭い部屋の中で地に伏せて行った。
自分が馬鹿らしかった。私は相談室にあるポスターの裏切り者だった。
こんな人間である私が何がカウンセリングだ。ふざけるな!
そう思った。
閉め忘れた風呂の蛇口は独り言のように何かを呟いていた。隣から、男女が奏でる交響曲が微かに壁から溢れ出ていた。
私は酒を飲み明日に備えた。 みたいだった。
2 Hanae
一月九日
私はなんてことをしてしまったのだろうか。先生からの有り余る程の恩を奈落の底に放り投げてしまったのだ。
窓を開けて獣の雄叫びのように自分の愚かさを吐露したい。あぁ叫びたい。そう思った。
私というものは何なのだろうか。これまで、私の衝動は怒りや不条理に呼応していた。
しかし、あの日は全く異なっていた。あの摩天楼の光、先生への胸いっぱいの感謝、私は確かに心の底から感嘆し、身体全体が色あせていた。しかし、瞬く間に私の光は過去に打ちひしがれて、私は何も出来なかった。
これから、私のことを大切にしてくれる祖母にも同じものを下してしまうのだろうか?
私は恐れおののき、自分の無力さに憤慨した。
あの日の衝動が収まった後、先生は泣き叫んで、私をなだめていた。それから、警官が工程のようにことを済まして、入れ違いのように祖母が私を迎えに来てくれた。それからのことはよく覚えていない。確か、先生がひたすら頭を下げていた気がする。あの日の後、祖母は私にいつも通り接してくれていた。あんな事が起ころうとも、祖母は先生と私を信じてくれていた。
そして、何より私は先生に謝罪も何もしていない。何て愚かな人間だ!
そんな時、慣れてきた自分の部屋の外から、祖母の声が聞こえてきた。
「花江ちゃん。朝ごはんよ!」
私はその声を聞いて固くある決心をした。今、私には私を大切にしてくれる人達が少なからずいる。彼らに恩を返し、改めて自分自身と向き合わねばならない。
そのために今すぐ先生のところに行かねば。
それから、私は祖母に学校に行って来るとだけ言って外を駆けて行った。
それを聞いた祖母は穏やかに私を送り届けてくれた。
私は恵まれている。これまでとは大違いだ。
後輩たちが憂鬱そうに通学路に溢れかえっている。私は道を進めるごとに足のスピードを緩めていった。幼稚園の子供たち、サラリーマン、街に溢れかえる人々は実にありきたりでそれぞれが異なる何かを抱え、強く生きている。きっと私も同じだ。私は特別じゃないし、ありきたりだ。私は永い間大きな勘違いをしていたようだった。私とそれ以外、世界の在り方はそんなものだと思っていた。しかし、実際は私含めてこの世界なのである。いや、過去も未来も含めてこの世界だ。
それから、学校まで私はいつもと異なるペースで街を横切って行った。私の視界に学校が入って来たようだった。それは、前とは違った学校だった。これが本来のものなのかもしれない。
三年生の下駄箱は一つ残さず空虚だった。廊下に降り立つ私の左足の筋肉はいっぱいに詰まっていた。職員室のドアの前で生徒達と先生が和気あいあいと話していた。この光景こそが学校なのである。私はこれまで事柄を自らと比較し、嫉妬していた。それこそが悪手であり、負の根源なのである。
気がつくと相談室の横顔がふっと顔を出したようだった。ドアを開けると紅茶と生暖かい暖房の熱が漂っていた。
「先生。」
先生は枯れそうな木の葉のように私をイスから見上げて、目が少し潤っていた。
「先生。本当にごめんなさい。私、先生の厚意を踏みにじったんです。あんな事をしておいて、先生と顔を合わせる権利なんて本来はどこににもありやしないと思います。でも、ただ、謝りたい。そして、先生に高校生の私を見せて安心してもらいたい。それだけを強く思っています。」
「花江ちゃん。もう謝らないで!誰のせいでもないし、誰のせいにもしたくはない。それよりも私はずっと花江ちゃんが心配だった。このまま一人で全てを抱え込んで行ってしまうのではないかって。でも、こうして、普段通りの花江ちゃんがまたこの相談室に来てくれた。それが本当に嬉しくて私は安心しているの。」
私は泣いていた。先生への感情を正直に吐露したからなのか。先生への謝罪ができた安堵からか。そして、先生も私と共に泣いていた。私以上に泣いていたかもしれない。
それから、私たちは互いに肩を寄せ合い、熱を交換し合った。
相談室のドアが少し開いたかと思えば、バタッとまた閉まるようだった。おそらくそこには他の生徒がいたのであろう。
傍から見ればこの光景は異質なものである。しかし、今この瞬間、私の過去は剝き出しになり、ある意味自由に帰り咲いたのかもしれない。
「先生。高校生になってもずっと先生でいてくれる?」
私は何を言っているのだろうか。自由の反動から生じたのか、何なのかは分からない。
しかし、それを聞いた先生は私以上に少女のようであり自由だった。
ドアの向こう側はどよめいている。微かに開いている窓からやって来る隙間風と暖房から吹き荒れるぬるい風。
どれも普段はむさくるしいものであった。だが、私たちが織りなす抱擁はそれらも無差別におおらかに包み込んでいった。
人生の終着点は目の前にあり、終わりなき旅のようなものでもある。私はその人生を強く生き抜き傍にいる大切な人達を忘れられないで生きてゆく。そう、強固に思った。
過去を剝き出しにして、未来を果敢に受け入れるそれが私の生き方だ。
いや、在り方なのかもしれない。 きっとそうだ。 そう思った。
CHPTER3
1Hazuki
三月一日
もうじきカウンセラーとして一つの学年を送り出す、そんな時期だった。
冬はある程度は終わったが、未だ春の兆しは全然やってこなかった。
もの寂しいベランダに荒れ切ったリビング、そんな、光景もすっかり私の日常だ。
私はあと数十分で休日の朝から珍しく家を出る。大切な発表のため。
そして、私の心中は掻き乱れている。やはり、人間というものは自からに関してよりも特別な他者に抱く激情的感情の方が強靭なのであろう。親心がいい例だ。
今日は珍しく、朝から軽く瞑想をしてみた。目を閉じて、知覚の放浪を嗜んでみた。
私の一年間、つまらなく取るに足らない過去、快楽への渇望、どれも今となっては少しばかり愛らしかった。連想、回想、夢想、私はいつまでこの連鎖を続けるのであろうか。
そんな時、それらは霧のように消え去った。蒼く、おぼろげに。
今日は花江ちゃんの高校の合格発表だ。彼女は様々な不条理な障壁と芽生えた始めた希望と共に学生生活の晩期を乗り越えたのである。
私の瞑想のためのあぐらは無秩序に崩れ去った。手だけが執拗に動きたがっているようだった。それから、私は強く願った。花江ちゃんの努力の成就を。何より合格を!
隣のアパートの下から、猫たちの小競り合いの音が私の耳に鳴り響いた。
私はふと我に返り、時計を凝視した。
もうすぐ時間だった。
私は、何分瞑想をしていたのだろうか。私の朝は一服から始まる。
しかし、今日は違った。なぜなら、今日という日だからであった。
私は急いでコートを羽織り、ジーンズを履いた。それから、ドアに突っ込んだ。
外に出てから腕時計を見てみると、意外にも時間には余裕があった。
空は蒼く白かった。帰り道の私の心もあの空のように澄んで清らかなものでありたいと思った。
そして、何より私はもう二度と花江ちゃんが悲しむ顔を拝みたくはなかった。
私は足を進めた。青年期のグランドを駆ける私のように、また、彼女が過ごしたひたむきな三ヶ月のように。
2Hanae
三月一日
「先生!わざわざ来てくれて本当にありがとうございます。あれだけ、大丈夫って言ったのに。」
この特別な瞬間の食前酒、私の周りには大切な二人が居てくれる。なんて、嬉しい限りだろうか。あともう少しで、合格の紙はホワイトボードに張り出される。
私はこれまでもこれからもこのホワイトボードに強い視線を送る機会は二度とないことであろう。
「花江ちゃん。今まで本当によく頑張ったわね。花江ちゃんがこうしてこの場所にいる。それだけで私は本当に大切なものだと思うの。」
祖母も先生と共に私を強く肯定し、とても感傷的なように見えた。
「なんですかその言い方!それ落ちた人にするセリフですよ。」
「ごめんなさい。正直な私の心打ちを伝えただけよ。花江ちゃんはきっと絶対受かっているわ。
花江ちゃんは努力出来る子だもの。それは当たり前のことじゃないし、それが出来た人が勝ち抜いていくの。」
私はこの瞬間、何故だか安心した。先生の言葉があるからなのか。
いや、それは違った。私自身の自信がそうさせたのであった。私は今、自分では信じられない程に前を向いている。
緊張と胸の高鳴りからか手足は微かに動き回っている。
そうしているうちに、ホワイトボードは希望と羨望のローブを身に着けていた。
その場にいた生徒たち一向は恐る恐るボードに近づいていった。
一方、私は悠々と歩き彼らを百獣の王の如く、道を搔き分けて、ボードに目をやった。
無下限の数の羅列、両隣の生徒からの強い執着。そんな、状況による数探しは中々難儀なものだった。
その時、先生から甲高い叫び声が聞こえた。祖母もそれに呼応する。
要するに受かっていた。私は合格を勝ち取ったのである。
肩の力がほっと抜けた気がした。
「花江ちゃん。」
「花江。」
祝福されている。私は祝福されている。先生、祖母、そしてこの世界に。
そして、何より私は自分自身を有り余る程、祝福してやりたい。
今、私のもう少しで入りそうだったラムネのビー玉のようなものは滑らかなに転げ落ちたようだった。それは私の生が受け居られるようなものだった。いや、受け入れたのだ。私はこの世界に生ける自分の生を。
合格を勝ち取った帰り道、もちろん空は呆れる程、蒼く、澄んでいた。
祖母も先生も澄んでいた。
今日という日、息を吸えば、肺は洗われる。そして、息を吐けば純白の霜霧がスッと私の前に顕れる。
そんな、日常が愛おしい。きっとこれからも永遠に尽きることなく。
そんな気がする。 次第だった。
2Hazuki
某日
カチャと音がなる。ライターに火が付いた。ピコッと音が鳴る。テレビに灯が付いた。
「さぁ今夜も夜会にようこそ。どうも、MCの堺です。今夜もライブで現代人の悩みをスカッと解決いたしましょう。そして、今夜は特別なゲストが二人来ていらしゃています。」
うるさい登場BGMだ。フー。フー。
「コメンテーターの桜井さんです。」
「どうも、こんばんは。」
「女優の柚木さんです。」
「よろしくお願いします!」
「さて、ゲストも揃ったことだし、今日の夜会のトピックを視聴者の皆様にお伝えします。
お、まず、神奈川県A市からの佐々木さんからのお便りです。
私は30代の何の変哲もないありきたりな子持ちの主婦でございます。
しかしながら、最近ある悩みがあるのです。私はある何かが、芽生えてしまったのです。
私は夫と結ばれるまで、男の人と手も繋いだことのないような生粋の処女でありました。
そんな中、私は当たり前のように九年程前から夫と子作りに励みました。
正直、今、振り返ると私はその行為に微塵も何の感情も抱いておりませんでした。
私は他の家庭のように、当たり前の家庭を築く。そんなことばかりで、前など何も見えておりませんでした。
正直に端的に私の心打ちを明かします。
私は自分の娘に家族愛とは異なる愛を明らかに抱いてしまったのです。そして、夫に性的感情を抱いていない。
おっと。ううん。」
「おい、大丈夫すかディレクター!」
「おい、一旦とにかくコマーシャル入れろ!」
「や、彼女の気持ちも分かります。彼女は何も悪いことはしていない。きっと夫への申し訳なさとこれまでの食い違いがそうさせてしまったのでしょう。彼女はずっと苦しんでいたんです。」
「ちょと。柚木さん!」
カチャ。
「情報専門学校、光眼舎!」
ピコッ。テレビの光は止んだ。
こいつはやっぱりうまかった。
あと、昨日初めて打ったやつはもっとやばかったけ。
なんか、甘くて苦い感じだったな。
あぁそろそろ死んじゃおうかしら。
2Hanae
四月二十一日
ホームルームの終わりのチャイムが鳴った。中学の頃と心成しか音が変わった気がした。
「あの、首席の花江さんですよね。」
「え、いえいえ、そんな大したことないですよ。あ、そうです。花江美月です。
よろしくお願いします。」
久しぶりに同級生と話した。しかも、異性の子だ。かなり、声がかじかんだ。
「どうも、菊地亮太です。入学式の時、主席として前に居ましたもんね~。
まさか、そんな立派な方と隣だなんて僕も驚きです!馬鹿ですが、大目に見てください。」
「そんなことないですって、私の方こそよろしくお願いします!」
私は少し安堵した。正直、このクラスという空間、クラスメイトという概念、それらは私にとって過去ではあるが、完全な畏怖、禁忌のようなものであり、先ほどまでの私はそれらに怯えたじろぐ子ウサギのようだった。
菊地くん。彼は柳田さんでも葉月先生でもない、男の子だ。
しかし、彼は、私の始まったばかりの高校生活という名の航海の舵を頼もしく取ってくれる気が私にした。
それから、彼と軽い談笑をした後、私は軽い足取りでトイレへ向かった。
渡り廊下の壁、生徒達の話す内容、この学校にある全ては以前と比べて成熟している。
私も確かに自らの奮起と大切な人からの奉仕で以前の私とは異なる人間へと成り上がった。
しかしながら、それはおそらく成熟ではなく言うなれば変貌であろう。
精神の成熟、年齢による成熟、この世には様々な成熟があるであろう。
私は前者はあらかた果たせたつもりであるが、後者は未だに未熟の何物でもないであろう。
私の中学三年生間は外部による障害から身を守るため、自我とアイデンティティーを保つために精いっぱいだった。
私は余裕というものは成熟にとって不可欠なものだと思う。私には余裕が欠落していた。
「あ、花江ちゃんよね。よろしく!」
「よろしくお願いします。」
「主席って、すごいわね。ところで、さっき菊池くんとどんなこと話したのー?」
「え、軽い自己紹介程度しかまだ、、、」
「あーそう。菊地くんかっこいいよね。私は楠木ミカ。これからよろしく!」
女子トイレを出た後、ミカちゃんは他の女子達とこちらを見合ってこそこそ何かを呟いていた。
その光景は私の苦い過去とほんの僅かだか近似性があった気がした。
私はそれから、淡々と残りの一日のカリキュラムを器用にこなしていった。
その合間には、菊池君との談笑がいくつかあるようだった。霧のような不安を優しく打ち消してくれる。彼は確かに私にとってまだ一日だが、そのような印象を強く感じさせた。
しかし、彼がいくら、不安という火の粉を消すために風を送ろうと火の粉はより一層強まるようにも私は感じた。
グランドの周りには桜が咲き誇る。そして、我ら新入生は桜と共に新たな人生の活路を爽やかなに駆け出していく。きっと誰もがそうであろう。
しかし、今日の私にとってそのようなレトリックは少しばかり不似合いな気がする。
そんな次第だった。
六月二十一日
私が高校生になって昨日でちょうど二ヶ月が経った。
私は初めてこのクラスに足を踏み入れた日から、家で祖母に高校での真新しい日々を語って、安心してもらうのが放課後の日課になっていた。
しかし、ここ最近、祖母に本当のことを喋っている自分はそこにはいなかった。
昨日も葉月先生から、電話があった。私は適当な作り話しで先生を安心させた。
電話越しだが先生が喜んでいる姿が、鮮明に浮かんだ。
私が今まで築き上げた巨塔もあと少しで崩れ去ってしまう。そんな気がした。
正直、これと言ってサイアクなことは私の身の周りには起きていない。
しかし、日を追うごとにクラスでの私の存在というものは見えない何者かに練りまわされ、私の進むべく道を妨げ、私を狡猾に惑わしていった。
会話の中でのあいづち、毎朝の挨拶それらは私にとって何故だか頭に鮮明な光景が映らない。
もちろん、人にもこの茫然をうまく話すことなんてもってのほかだった。
そう言えば、今このクラスは生物の授業の真っ最中だった。
血小板、赤血球そんなことどうでもいい。今の私の頭の中はただ茫然と出所の分からない違和感達に苛まれている。
そうしている内にチャイムが鳴った。入学当初は大げさかもしれないが、新たな学生生活の息吹を喝采するファンファーレの如く特別に感じたこの音も、今になれば少し耳障りだった。
「やべ。写生画の提出今日じゃん。」
「マジかよ。厳しすぎんだろ。あの野郎。」
次は美術か。最近の私は日々の中で決まっている出来事と進み続ける時間間隔が食い違う。そのようなものが
起こっている気がした。元に私は彼らの美術教師への不満の捨て台詞を受動的に取り込むまで次に起こるイベントを把握していなかった。
時間軸は悠久に川の流れのように進み続ける。しかし、それだけだ。日常の出来事は微かな霧に覆われて視認出来ない。なぜだろうか。
そして、気が付くと私は大きなクラスの中でわけもなく立ち尽くしていた。
次は移動教室だ。私が前を歩けば、辺りは霞のように薄らいでいく。
私が会話に参加すれば辺りは人魂のように、禍々しく揺らいでいった。
ついさっきの休み時間もそうだった。菊池君もそうだった。
そんなことより、とにかく、授業が始まってしまう。急がなきゃ!
私は目一杯に早歩きを試みてみた。しかし、廊下を少し進むとすぐにクラスメイトの姿が目に入った。
私はそのまま、遠くから彼らの足取りに歩幅を合わせて、自然に美術室のドアをゆっくりと開けた。
「ねぇ。菊池君。写生画、今日提出できそう?」
「あぁ。できそうだよ。それより先生もう来るから静かにしようか。」
チャイムが鳴った。授業始めのやつだ。菊池君は最近、何故だか変わってしまった。
そう言えば、ミカちゃんとよく居る機会が多い気がした。
バタ。ドアが力強く開いたみたいだった。
「少し、遅れたね。さぁ始めようか。」
「起立!気をつけ。礼。」
「お願いします。」
美術の先生はみんなからあまり好かれてはいない。でも、私はそこまでだった。
年は五十そこらで、気も弱く頼りない。でも、真面目で熱心だし、質問にも親身に答えてくれる。
何がみんなの彼に対しての嫌悪を抱かせているのだろうか。
話は変わるが、私はみんなに人気の若い女の数学教師が大嫌いだった。
彼女は美術の先生と何から何まで相反していた。
精神と体躯の若々しさ、仕事に対する志向観念、正に全てが。
「はい、お願いします。さて、今日は写生画の締め切り日でしたね。今日の授業はそれぞれの作品も完成したと思うので、みんなの作品を鑑賞し、評価し合う鑑賞会にしようと思います。終わっていない人はまさかいないと思いますが、万が一いた場合はみんなからの評価の対象外になってしまうのでご留意を。」
鑑賞会?その言葉を聞いて私は何故か少しの自信が微かに体から沸き立った。
私は元来、絵が上手いほうだった。それは身勝手な自信なわけでもなく、何度か表彰される程
のものだった。
沸き立った自信は自らの絵描きとしての腕では決してない。私がこのクラスの存在証明の一途になる。私はそれを深く懇願し、実現すると密かに確信していた。
私はこのクラス内での存在証明とクラスメイトかの快い肯定をかねてから求めていた。
菊池君との仲が少し薄れてから、私の学生生活はただ時間だけがおぼろげに漂っているそんな気がした。
今それを自らの絵描きという秘めていた力で打破できる。私はそう思った。
「早速ですが鑑賞会を始めましょう。自分の席から離れて鑑賞して、先程配った鑑賞シートに心に残った作品を軽い批評を添えて五人ほど記してください。」
「そして、一番記された数が多かった人は優秀賞として成績に大きく加点しようと思います。」
その時のクラスメイトの数人の顔はしかめっ面だった。おそらく、絵が未だ完成していないのであろう。
私の作品は机に引き伸ばされた他の絵と見るからに一線を画していた。
「では、今から三十分、自由に鑑賞しあって下さい。」
鑑賞会は始まった。開始から一分も経たない内に私の作品の周りに生徒達が群がっていた。
私は優越と安堵でとろけだしてしまいそうだっった。
「花江ちゃんってこんなに絵上手いのね!私なんてまだちょっと塗ってない所あるし、間違いなく優秀賞は花江ちゃんのものね。」
声をかけてきたのはミカちゃんだった。面と向かって口を聞いたのは久しぶりな気がした。
彼女も私の作品、私を認めてくれたのかもしれない。
「ありがとう。ミカちゃんの絵も私素敵だと思うよ!」
その言葉を聞いたミカちゃんは確かに笑顔だった。しかしながら、私はミカちゃんから異様な雰囲気をひしひしと感じ取った。今となって見れば、あの時のミカちゃんは喜びや称賛といった純白たるものは私に微塵も感じていない。
やはり、彼女は彼女だったのだ。振り返ると彼女は私の学生生活を惑わした張本人なのかもしれない。とにかく、私が憎く、菊池君の存在がそれを肥大化させ、微かな嫌悪を殺気目くほど強大なものに決定づけてしまったのであろう。
それから鑑賞会は何事もなく終わり、私は皆の注目と優秀賞を無事勝ち取ったのである。
いや、何事もない、それは大きな間違いだ。何故なら私はこの日を契機にしばらく眠っていたかつての衝動を呼び起こし、人殺しに成り下がってしまったのだから。
Hanae某日
都心に埋もれた悠久の廃屋、耽美で朽ち果てた古時計、私の頭にはそんなものばかりが脳裏の中で飛び交っている頃合いである。
鑑賞会を機に、私はある程度のクラス内での存在意義を会得した。
人間というものはある契機により色彩や大気の如く、一瞬にして粉が散り去るように変貌を遂げる。また、それは集団においても同義、それ以上である。
負あるいは正の事象においても、一輪の火の粉が花開いた時には、ドミノのように火の手は広がり続ける。それが集団、人間だ。
人間は情報が集積した思考回路ロボットでも何でもない。強いて例えるとすれば情動と欲求に基づいて駆動する馬車とでも言っておこうか。
私は、その複雑かつ単調な人間生活を何とか生き抜いて見せたのである。
菊池君もまた私と入学当初のように気軽に話せる間柄に自然となった気がした。そして、私にはクラスでの時間を共有し、嚙みしめ合う輪の一端が与えられた。もちろん、私もその一端であるが、その輪こそが私の精神の安寧の象徴なのだ。
そう言えば、私の輪の火付け役はミカちゃんだった。
私のことを勝手に先生と呼び、昼休みに絵の教えを乞うて、熱心に私の絵と私自身を見てくれた。
彼女が私に与えた接近は、他のクラスメイトからの接近を呼応させ瞬く間に連鎖した。
あぁ。改めて私はホットした。
冬に流れる冷たい水流の濁流。それが今までの私の色彩だった。
ついさっきまで交わしたみんなとの何気ない会話群。それはまるで、片田舎の山吹色の田園地帯を駆け抜ける高速鉄道のようだった。
話は変わるが私は今、思い出深い美術室にのんびりとした足取りで向かっている。
何故かって?
実は私の絵は学校外のコンクールに送り出されるみたいだった。
しばらく、私の救世主とも言える絵にも顔を合わせる事はできないであろう。
だから、最後に彼に感謝を今一度伝えたかった。
それが、今の私の何気ない美術室への闊歩の動機である。
この絵のおかげで美術の先生は私を認めてくれた。クラスのみんなだって担任の先生だって私を認めてくれた。
その肯定の出どころが自分の絵であっても何でも、私は正直、どうでもよかった。
きっとみんなもそんなものであろう。顔の良し悪し、気配り上手、それらと私の絵は間違いなく同義なはずだ。
とにかく、私は今この瞬間、学園生活をそれなりに咀嚼し謳歌している。
それだけで十分そう強く思い、美術室のドアをゆっくりと開けた。
「ミカちゃん?何してるの?」
私は余りの突然の状況の状況に思わず小声で言葉を発してしまった。
静寂しきった美術室の中、ミカちゃんは私の絵の前でたたずみ、何らかの動作を熱心にしているみたいだった。
「ミカちゃん!」
その言葉を聞いたミカちゃんはすぐにこちらを向いた後、慌てふためいた。
しかし、彼女の緊張のスコールは忽然と止んでしまった。
それから、刹那にして、いやらしいペテン師のほくそ笑み。そんな映像体が私の前に映りさった。
そして、彼女の後ろには彫刻刀でずたずたに引き裂かれた私の絵が垂れ下がっていた。
あれ?美しい。その光景は呆れる程美しかった。私の分身体とも言える我が作品は親愛なる友達によって無に帰したのだ。
私が絵に残した鮮やかな色彩と鮮やかな学生生活は干上がり、カラカラに崩れ去った。
先は永い。先は遠い。先はやっと見えたかと思えば、また迷走する。毎回こうだったな。
母親、父親、柳田さん、ミカちゃんもか。
あぁ。結局繰り返すんだ。私は私を繰り返すんだ。
葉月先生。おばあちゃん。私は正直に生きようと思います。もう先何てどうでもいい。
私の頭は錯綜した。しかし、一連のピースはすぐにまとまりを見せた。
「ミカちゃん。ありがとう!私のことそんなに気に掛けてくれてたんだね。
私ね。どんなに卑屈な思いや醜い思いでも私のことを頭に入れてくれているってだけですっごく嬉しいの。」
「はぁ?私が何したか分かって言ってんの?やっぱりあんたおかしいのよ。
ホントにおかしい。それだから入学当初からみんなと馴染めなかったのよ。私はねあんたが大切なこの絵をズタズタにして、あんたをこの絵以上にズタズタにしてやろうと思ったのよ。」
ミカちゃんはミカちゃんだった。これがありのままのミカちゃんなんだ。
私と親友だったミカちゃんは虚像に過ぎないし、それに付随するみんなも虚像だったんだ。
「あんたはおかしいくせに首席!あんたはおかしいくせして菊池君に好かれてる!私がいくら、菊池君に吹き込んでも結局この絵のせいで逆戻りよ!」
ミカちゃんは叫んでいた。教室の外からも段々と人の気配が浮かび上がってきた。
「ミカちゃん!私もミカちゃんに恩返ししてもいい?」
「はぁ?何言って。。。」
私はまず手始めに彼女を押し倒してみた。あれ、丁度いい所に鋭利な彫刻刀があるではないか。それから、私を切り去った彫刻刀で彼女の首を裂きたくった。数刻後、辺り一面にどす黒く深紅な薔薇が耽美に咲きたくった。彼女の雄叫びはすぐに止み去った。
そうしてる内に、美術室のドアから、大勢の烏合の衆が押しかけてきたようだった。
裂かれた私の絵と私の心。裂かれたミカちゃんの首元。この二者の調和はまるで彼女で過ごした和やかな虚像の日々と似ている気がした。
私は生まれて初めて、暴力の末の境地の殺人を今犯した。元来、私の日々は暴力で染め上がっていた。
衝動により殴られ、衝動により殴ったりもした。例えば母親、柳田さんとかであろうか。
しかし、私は先の殺害から、ある事がはっきりとした。
今までの暴虐も先の暴虐も断じて衝動によりものでも何でもない。
ただの私の意思決定からくるものであったのだ!
恐らく私は、自らが持つ異常性を包み隠すために衝動やらなんやらにすがっていたのであろう。
あぁ。私はこうして自らの意思決定により自らの道に終止符を打つことができるのだ。
いや、これしかなかった。私のこの異常性をこのままこの世界に生かしておくことは到底、不可能であろう。
私は今、たくさんの大人に取り押さえられ、地に伏せている。抵抗、憤怒、狼狽、そんな言葉は今の私には無縁である。
ミカちゃんはもうこの世にはいない。一人の未来ある少女を私は殺め、無下にしてしまった。
もう私は生きるための営為をミカちゃんの命と一緒に置いていくつもりだった。
学校中は震撼し、これから世間も震撼することであろう。しかし、そんなことは全くもってどうでもいい。
だが、私は何より先生と祖母だけが心残りだった。
「ごめんなさい。」
そう思っていると思わずその言葉が私の口から洩れ去った。 そんな頃合いだ。
CHPUTER4
1Hazuki
七月十四日
「ねぇ先生!熊のプーさんとスペインの闘牛さん達が草津温泉の湯畑の中で西部劇みたいに撃ち合いしているみたいですよ!」
「そうね。今日はうるう年の慶長四年の日食前夜だもの。そうなるわよ。」
「あははhh。そうですね!ほんと身体のそこまで逝っちゃいそうですよ!」
「私もおなじだわww!」
数秒後。私の頭は真っ逆さまに転げ落ち、暗転し反転し横転した。
場面は変わる。 みたいだった。
「おい。葉月!おまえは自発性がないんだよ。いっつも台本通りに無感情に演じるだけ。こんな事、猿だって誰でもできるぞ!」
「おまえ。この劇団入って何年目だよ!」
「四年目です。」
「もう。やめちまえよ。それはお前のためでもあるからな。」
四方八方から、おぞましい言葉が吐露される。
「やめちまえよ!」 「やめちまえよ!」 「やめちまえよ! 」
あれ、今度は私の実家?
「葉月先ちゃんは人の気持ちが誰よりも分かる子ね!」
「お母さん。あなたがいるだけで家事でも父さんの事だって何でも頑張れちゃうわ!」
「ママ。私で元気になれるの?」
「うん!そうよ!」
あれ。これっていつの記憶かしら。
床は少しの涙がキラリ☆それとハチミツみたいなよだれが少し垂れてるみたいだな。
あぁ。そう言えばさっきの草津みたいなとこでスピッツ、ライブしてたんだっけ。
やっぱりハチミツはたまらんね。
「やめちまえよ!」 「先生!」 「葉月ちゃん!」 「hhh」 「www」
あー! 苦しい 頭が苦しい ループする。
呼吸がはちきれそうだ! 空間?空間?宇宙?
苦しい!苦しい!苦しい!苦しい!
死んじゃう。このままだと。
呼ばないと!119!119!
「はい。119です。どうされました?」
「苦しい!苦しい!」
「はい?大丈夫ですか?大丈夫ですか?」
ガタ!
落とした携帯から熱心な隊員の懸命な掛け声が薄ら聞こえだがはっきりと私の耳に入ってきた。
私は何分前だか、何日前だか分からないが合法薬物を一人寂しく吸引した。
効能はLSD、マジックマッシュルームそんな所だ。
もちろん最初は気持ち良かった。でも、それからついはさっきの事が噓みたいに私を苦しめ、弄び、翻弄した。
私はこれまでも何個かヤクに手を染めている。しかし、こっち系統は初経験だった。
振り返ると私はやっぱりモルヒネが一番だったな。
ドンドン!ドンドン!ドアが鳴り響く。
「救急です!」
それから、もっと大きい音がした。
「患者の意識は未明。応答もない。突入だ!」
「はい!」
何人来たんだろう?足音からして結構だな。
「患者確認!意識はあるみたいです!」
「あぁ。おい待てよ。この匂い。」
「はぁ。もしやもしやでありましたがそうでしたか。先輩。あの吸引器。図星ですね。」
「僕、要請の内容聞いた時から、薄々そうじゃないかと思ってましたよ。」
「あぁ。ここ何年か。こうゆうので持ち切りだよ。」
この人たちの私を見る目。それはとても緊急の患者を果敢に救い果たすものでは甚だなかった。
私はそれから、迷惑客を相手にするかの如く猥雑に病院まで搬送され医者から無感情な厳重注意を被った。
今の私の日々、その色彩はどす黒く灰色でパリパリに乾燥した絵の具そんな感じだった。
私は花江ちゃんを救えなかったんだ。花江ちゃんはきっと抱えこんでたんだ。
私はそれに気づくどころか、空高々に彼女を送り出してしまった。
カウンセラー?私はカウンセラーの資格はもうサラサラない。
全部、私の責任だ。
もう、生る意味なんてない。
そんな事を思う薄暗い帰り道。 みたいだった。
2
七月二十一日
煙いっぱいの部屋の中、ついこの前まで身に就けていた誇りある肩書を失った私は息をする。
七月七日 七夕 晴れのち曇り スマートフォンがそんなことをほざいている。
画面は移り変わる。
台風4号今朝マリアナ諸島付近で発生! 十一日には本州に上流の予報
あぁ吹き飛ばしてくれないかしら。 そして私はまた息をする。
ピンポーン 鳴ったみたいだ。 だが、どうってことない 今の私にとって外部からの無条件の直接的な刺激は無下に等しかった。今朝もこのスマートフォンからも、こざかしいうめき声が引き散らかっていた。
「葉月! 葉月! 居るの。ねぇ返事して! 母さんよ! 葉月!!」
ドアの向こう側から毒虫が、私を刺し殺そうと針を剝き出しにしているようだ。
「葉月! 葉月! ハズキ! はずき。。」
私は深く呼吸をした。私は自分の腹をシャツを破り去るかの如く、粉砕したかった。
母は泣いている。徐々に廃れかけるうめき声と共に。
そうして、私はドアをゆっくりと開けた。
「葉月。葉月。」
崩れ去った母は私を着飾れたマネキンを身体の端から端まで吟味するように私を凝視した。
「よかった。よかった。葉月。葉月」
同じ言葉を連呼する母、それはまるで無垢で赤子のような風体であった。
そして、私はただ、その光景を直視する。そんな事しか今の私には成し得ることが出来なかった。
「母さん。私。母さん。」
そんな時だった。私がどもるようにその言葉を発した瞬間、赤子だった彼女は確実に正反対のもの、いや、それ以上の何かに変貌を遂げたのであった。
「葉月。母さんはあなたが生き生きとしてくれる。それだけが私の生きがいなのよ。」
母は私をゆっくりと深く私を抱擁した。
先程までのこの場所で息をする二者の関係性は刹那に逆転した。要するに私が赤子になり、母は聖母になったのである。
そして、私は淡く朗らかな秋のような過去に連れ戻された。そこは心地良かった。
幼少期のあどけない街への冒険記、万物が初々しく感じる実りある日々、そんなイメージ達が私の脳内でたなびいている。
そして、私は私であるための私をそよ風に任せて捨て去った。風に乗って、煙たいまがい物の優越は霧のように透けていく。
風は私たちを優しく貫きドアの向こう側にも到達した。部屋に立ちこむ負の砂ぼこり達は空けっぱなしの窓から逃げるように退散していった。
「母さん。母さん。本当にごめんなさい。私、母さんになんてことを!」
「葉月。」
「親孝行もろくにしないで、心配ばっかりかけて、しまいにはこんなことを!」
「葉月。」
それから、私たちはドアを後にして、部屋に入って、また、ドアを後にした。
この三度の行程は私を完全に浄化し、私を解放した。
翌日、私は母と一緒に朗らかな足取りで警察署に向かった。その日の一連の出来事は幼少期の冒険記によく似通っていた。
端的に言うと私は出頭した。私は自らと久しぶりに向き合えた気がした。
今日、母は私に聖ガブリエルがヨハネに福音を授けるように私に自らの解放の便りを携え、かと思えば、当世に執行される葬り、つまり絞死刑における他者から執り行われる意思決定の極地を果たしたのである。
私はある意味死んでしまったようである。しかし、この死は決して醜悪なものでもなんでもなかった。
私は今一度、楼に身を起き、一から生を全うするのである。赤子のように、そして、水滴る、青年期のように!
しかし、不意に私は生暖かい南風に生臭い溜息を吐き捨てた。
その溜息の中身というと何であろうか。私には分からない。だが、明日には、いや数刻後には理解が及ぶかもしれない。
とにかく、今の私は身の回りが錯綜し、無に帰してしまった。
そんな頃合いだった。
1Hanae
七月二十日
チャイムが鳴った。
今、私の周りをはびこっているこの音色たちはこれまでのチャイムとは一線を画している。
「朝礼!まず今週の代表の麻川から始め!」
「はい!今日は昨日学習した分野の復習と学習が終わり次第、来月の奉仕活動での寸劇の練習に励みたいと思います!」
今週から代表は麻川さんか。私の番までは後、三人くらいか。
それから、似たような各自の朝礼が続いた。
「よし!次、花江!」
「はい!今日は昨日、清掃時に失敗してしまった箇所を訂正して、他人に迷惑のかけぬように努めようと思います!」
「よし!失敗は決して悪いことではない!次回の時までに正す事を心掛けてれば、何も問題はないことだ!」
「最後に改めて、今日という貴重な日を清く過ごすために、元気よく挨拶!」
「おはようございます!」
「おはようございます!」
女子だけだと甲高くて、うるさいな。
「これで朝礼終わり!各自、担当の清掃を取り掛かるように!」
「はい!」
朝礼、今、私が身を置くこの少年院での朝礼というものは正直、中学でのものと差して変わらなかった。
私はあの人間としての最上の悪行を犯し、この少年院に入ってから今日でちょうど三週間が経とうとしていた。
少年院。それは私にとって生の終着点、すなわち死のようなものを不思議と連想させていた。
しかし、いざ入って見るとそれは真っ赤な幻想に過ぎなかったようであった。
ここはあくまで人間の更生を主としたものであり、罪の償いとはある意味相反しているものであった。
起床、食事、清掃、入浴、就寝。ここでは人間としての当たり前が確実に担保され、確実に強制される。
それは、私にとって有り余る程の優越を何故か感じさせたようであった。
何故かって?
私は、これまで両親からありったけの放任を浴び続け、ある意味自我というものを培い過ぎ、自我を失ってしまった。しかし、私は先生と出会い始めて真の自我というものを獲得し、自我を外部に振り立っていた。だが、今の私にとって自我なんてものは、不必要に等しかった。
よって、活動の強制は私を辛うじて生き長らえさせる唯一の特効薬と成りえたのである。
とにかく、今の私は何の穢れもない純白の真珠であり、また、生きる気の失せた冥界の住人でもあった。
それは何を表すだろうか?確固たる命題はただ一つである。無だ。時間の収束だ。ただ、それだけだ。
「花江さん。大丈夫ですか?分からない事があったら遠慮なく言ってくれていいですからね!」
「あ、はい。」
声をかけてくれたのは麻川さんだった。私は今、汚れてもいない廊下の隅を執拗に執拗に練りまわしている。その姿は立場こそは逆であるが、私が身をもって受けてきた、無慈悲な悪態と暴虐に似通っているかもしれない。
まぁ要するに傍から見れば極めて異常者であり、変態であろう。
麻川さんは私がここに入ってからも、私に対し幾度も慈悲たる嘲笑を浴びせ続けてきていた。
だが、もしかするとその一連の行為は麻川さんが有する純然たる奉仕から来るのかもしれない。そんな事を近じか思う頃合いだった。
それから、清掃は終わり、学習は終わり、食事を終えた。私たちに残されたのは、心なしかの遊戯と睡眠だけだった。
この二つを手に取って息をする若き少女達は年相応の無邪気な笑顔が萌芽する。
私はもちろんその例外であったが、どうやら麻川さんは私に何らかの熱い無邪気な視線を送っているようだった。
「花江さん!ねぇ花江さん!」
「あ、はい。」
ちなみに現在の私の外界に対する感度は極めて微小である。
「やっと気が付いた!疲れているんですね。」
「いえ全然。」
「どうですか?ここには慣れてきましたか?ちなみに私は一生慣れる気がしませんが、ここでは私結構先輩の方なんですよ!」
私と春の陽光のように言葉を交わす彼女は一体、私に何を求め、何を知覚しようとしているのだろうか?私にはそれが分からなかった。分かりたくもなかった。裏切り、見せかけの信頼、私の目と耳からはそれらで充満し溢れかえる。
そして、私は私と決別する兆しは一切合切ありはしなかった。 はずだった。
「花江さん。花江さんはナニをやってここに来たの?」
その言葉を聞いた私は、彼女に禍々しく、紅い嫌悪を抱く。 はずだった。
「いいのよ。無理に答えなくて。ごめんなさいね。ただ、私は自分が愚物である、存在証明と存在開示がしたいだけだから。」
正直、何を言っているか分からなかった。彼女への、こぼれかけた信頼もこぼれきった嫌悪に成り下がっていく。しかし、次の瞬間、放たれた一連の言霊、熱発のような強固たるものは私の数刻前を打ちひしがった。
「ここにはね、少年院って言うけど、みんなヤッタことはたいしたことないのよ。
ヤクをやったって言ったて、彼女たちは更生できるし、出てしまえば、きっと生きられる。」
「でもね。花江さん。私は違うの。私はやってしまったのよ。殺めることを。」
私はおぼつかなかった。そして、純情であり、奈落の底でふためいていた。
しかし、彼女、麻川さんはそれらを少し変質させた。 のかもしれない。
「葉月さん。あなたってもしかして、私と同じ?」
「。。。」
私は何一つ彼女に発散しなかった。声帯による音源隊のアウトプット。第六感で感じ取れるであろうフェロモン。
一方で、私の内部は背離していた。理性はあった。そして、食い止めようとした。
何を?正体不明の劣情を!
結果は勝てなかった。私に、いや彼女に。
負けた暁に、私は彼女からのイカレタ命題に微かな会釈を果たしてしまった。
それから、私たちは心ゆくまで同調し共感し合った。
何をって?分からないであろう。人間は経験して学ぶ生き物であるから。
我ながらイカレタ肯定だった。
何を肯定し合っているのか?そんな強い懐疑に胸を何度もえぐられそうになった。
しかし、止められなった。止まるはずがなかった。
私は何を犯そうとも、結局は情動で駆動する列記とした生き物だ。
そして、彼女も同類だ。 そんな頃合いだった。
「花江さんって、ここに入りたての頃の私とそっくりだったの。だから、こんな事もいきなり、聞いてしまって。」
「いいんです。いいんです。私も私の愚物の証明と開示したかったので。」
「私の愚物?花江さんは愚物を持っているの?」
「はい!でも、きっと麻川さんと私は違う人種です。でも、少なくともここ少年院、この世界では、同じ住人みたいなものですね!」
「そうね!」
私と麻川さんは何に笑い、何故に笑い合っているのであろうか?
あろうか? あろうか? もうどうでもいいか。
ただ、今という時間軸を麻川さんと享受し合う私は何よりも心地良い。 それだけだった。
2Hanae
十月二十四日 午後二十二時
アジの塩焼き、高野豆腐、ほうれん草の味噌汁、それが私たちの夕飯だった。
それは、私たちに有り余る程の献立だった。
夕飯の後、私は麻川さんを含む、数人と八時のバラエティー番組を添えて至福のゴールデンタイムを過ごした。
それから、入浴、洗顔、慣れ切った当たり前の日常を淡々とこなし、私は悪くないベッドに向かおうとしている。
「花江ちゃん!一緒に寝室行きましょう!」
「はい。でも、麻川さん歯磨き粉、口についてますよ。」
「あれ。恥ずかしいわ。」
「もう、今年で二十歳なんだからしっかりしてくださいよ」
「うるさいわよ!五歳近く違うんだから、口を慎みなさい!」
そんな談笑を交わしていると、無機質でありながら、温かいべッドはすでに私たちを出迎えていた。
ここ少年院のベッドは二段型だった。そして、その住人は一階に私、二階に麻川さん、そんな住まいであった。
住人である私たちは、毎晩寝る前にほんの有意義なおしゃべりを交わす、それが、私、麻川さんの一日の最後の娯楽であり、日課であった。
そして、私は今日もその日課を心待ちにしている。そして、私は小寒い寝袋に身体を委ねてみた。
「花江ちゃん!おやすみ。なんて言わないわよね。」
「寝ましょうよ。怒られますよ。教頭に。」
もちろん、言葉に反して、私の胸はほのかに高鳴っていた。
「まぁいいから。あ!そうねー今日は私の過去についてちょっぴり喋っちゃおうかしら。」
「重そうで嫌ですよ。眠れなくなりますよ。」
そんな時だった。彼女が自分の住居を放棄し、私の住居に押し入っきたのだった。
「何やってるんですか!早く降りて下さい!」
こんな真似をしたら、普段では、もう一棟のベッドの住人がただではいないであろう。
しかし、今、二棟のベッドを収容したこの一室には私と麻川さんしかいない。
他の一人はつい一週間前にここ、少年院を後にした。
「花江ちゃん。今日はゆっくり話を聞いて欲しいの。だから、許してくれないかしら。」
私は彼女を拒絶する素振りを刹那に執り行っていた。しかし、ダメだった。
私の内在する何かが克明に呼応してしまったようだった。
「麻川さん。過去の話しってどんななんですか?」
「え?聞いてくれるの!嬉しい!」
シーツに被さる私たちは顔を見せ合い、生暖かい息を交わし合っている。
そんな光景は私を何故だか、酷く高揚させた。
「花江ちゃん。私ね。男の子じゃなくて、女の子にときめいちゃうの。」
「花江ちゃんはどうかしら?」
「そんな事聞いても意味ないわよね。答えは決まってる。。」
耳を澄ますと、私たちの外からは夏とは打って変わって、秋の情緒ある虫々が静かに音を奏でている。
私は更に耳を澄まして、みたようだった。
微かに耳に入り浸る、教官たちの談笑、そして、もちろん、ここの子供たちの談笑もふと私の耳々に入るようだった。
話は変わるが、私の耳は紅く染まっているようだった。
「私ね。愛する人を殺してしまったの。もちろん、女の子よ。」
「その愛した女の子は私にとって元々幼馴染みたいな間柄よ。」
「私だってある程度のころまでは他のみんなと同じで私とハンタイの男の子を愛していた。
でもね。そんなものは、ただの友愛に過ぎなかった。私は外部の環境に踊らされていた。ただ、それだけだったの。」
彼女のハナシを聞く私はふと嗅覚を鋭敏にしたみたいだった。
ほんの僅かに開けられた部屋の窓々から、秋の生命力溢れ、繫る、万緑の香りが漂ってきたみたいだった。
私は眼の下を更に研ぎ澄ます。
生肉から香る野生的、食欲の象徴の薫香、万物と似通う紺碧の大海が放つ衝動の塩っぽい爽香、新緑の安泰爆ぜる芳香、人間から放たれる、匂いたる根源的悪臭、
今の私の嗅覚はそんなものをいとも簡単に淘汰した。
しかし、そんな時、彼女の生暖く、なまめかしい吐息が私を酷く惑わした。
狼狽した。そして、混沌の渦に飲まれそうだ。だが、何と言っても私は高揚している!
「ところで、私の乙女心がいつから目移りしたか、知りたいかしら?」
「ねぇ答えてよ!やっぱり花江ちゃんはヒドク可愛いわね。」
「話は変わるけど、私はね。結局のところやっぱり人間の欲なんてものは肉欲に尽きると思うの。
私の引き金も元にそうだったようにね。」
「私だって薄々、違和感は感じていても、自分の性なんて知りたくもなかった。
でも、この世界で生きる以上それは避けられなかった。
まず、私はプールの着替えで、一人寂しく赤面し、欲情してしまった。
そして、家に帰って浴室で、毎日のように自らの裸体に欲情し続けた。
泣きたくなるわよ。誰だって自分に欲情したい奴なんて居やしないわ!」
「麻川さん。」
「何?」
「なんでもないです。」
私は何故、今言葉を発してしまったのか?
その命題は決して説かれなかった。
そして、彼女の過去の話もまだ、折り返し地点にもついていないようだった。
「私が明確に女の子への意識を抱き始めたのは確か、高校生になってから。それくらいかしら。
そして、真の私の恋慕も彼女が始まりであり、彼女で終わりにしたかった。
私が自分の体躯に欲情してきたころ、彼女にボーイフレンドができたのよ。」
「でも。私は自らを自制して、とにかく、耐えた。耐えに耐え抜いたわ。
それで、しばらくして、幼馴染の彼女とボーイフレンドの男の子は大学受験を契機にきっぱり別れちゃったのよ。
その時の私はたまらなく嬉しかった。彼女との関係が変わるわけではないけど、只々嬉しかったわ。」
「そこでね。私は大学生になったら、彼女に正直に気持ちを伝えよう。そう強く決心したの。
もちろん、うまくいくわけない。そんな事は私にも重々分かっていた。でも、伝えることが大事。そう強く思っていた。。。」
「でもね。」
今、私とシーツを掛け合い、儚げに言葉を吐き捨てる麻川さんはとても小さく見えたかと思えば、おぞましいハイエナのようにも見えた。
「私とその子がお互いに、ある程度希望の進路に行く事が決まった、穏やかな春休み。
私はその子にいつも通りの遊びの約束を取り付けた。私はその日の別れ際に爽やかに彼女に気持ちを伝えて、華々しく散り去るつもりだった。」
「でも、彼女は。」
「麻川さん。もう大丈夫です。麻川さんは素敵な方だし、悪いのは麻川さんじゃなくて、この不条理な世の中です。私は麻川さんの味方です。」
「花江ちゃん。花江ちゃん。今ね。私の胸の中はなぜだか、いっぱいなの。花江ちゃんの方は?」
保安球の微かな光に彼女は照らされている。照らされた彼女は私に更なる接近を試みた。
一方で、私はというと、彼女からの甘く苦い接吻を受け止めるしか出来なかった。
「ねぇ。どうなのってば!私の味方なんじゃないの。」
その言葉を発した彼女は生暖かい吐息と共に私を当惑させた。いや、支配した。
それから、気が付けば私は彼女に未熟な仕返しをしていたようだった。
「花江ちゃん。」
「麻川さん。」
胸の鼓動は高鳴るばかり、二人の熱も滴るばかり、夜は紅く蒼く彩られる。
「愛してます。麻川さん。」
その言葉を放った途端、彼女の顔は可愛げにはにかんだ。
「。。。。。。。。。。」
受けた。受け返した。いたわった。いたわられた。抱き寄せた。抱き寄せられた。
交わった。交わりあった。愛した。ついには、愛し合った。
そして、私たちは互いの傷を舐め合った。
「私もよ。花江ちゃん。あなたを見た時から、ずっとそうよ。」
「麻川さん。」
「もう、その呼び方は止めて。こんな事してるんだから。」
「わかりました。華蓮ちゃん。愛してます。」
「すっごく嬉しい!」
はたまた、彼女から繰り出されたはにかみ笑顔はこの上なく可愛いらしかった。
それから、彼女の笑顔と共に私の処女は喪失を遂げた。
私は何者なのだろうか?私はそんな事に懐疑し続けて、この不条理な世を歩き回っていた。
しかし、麻川さん。彼女の存在は私の全てを覆した。
彼女は私の暴力の出どころと私自身の性を優しく受け入れ、滅多打ちにした。
今、思えば、私はこれまでの人生の中で様々な女性たちに恋焦がれていたのかもしれない。
葉月先生、柳田さん、ミカちゃん、きっとそうだ。
私は彼女らに、弄ばれ、かと思えば、救われた。
少なくとも、私の人生の中の変革者たちの性別の色は間違いなく紅かった。
それだけは間違いない。
なぜそうなったか?父親の暴力?歪んだ私の衝動の副産物?
そんな事を知る必要は全く思ってない。性的衝動の起因など存在しないのだ。
私は私と同じ者たちを愛する。ただ、それだけだ。
そんなことを今、私は思っている。
あぁ気持ちがいい。彼女からの攻撃が。
あぁ。心地良い。しかし、快楽と同時に私は酷い眠気にかられたようだった。
それでも、私は性について熟考し、性により達せられている。
考えて、生ける今の私の居場所が夢か現実か白昼夢か。それは分からない。
しかし、何処からでも、彼女の声と体躯はいつまでも私を包み込んでくれる気がした。
そして、私はどこからかは分からないが、ある場所から脱出を遂げたようだった。
外は明るい。私の意識は青白い。そして、彼女の寝顔は美しい。
そう、何を隠そう私と華蓮ちゃんの夜は今明けた。 ようだった。
CHAPTER5
1Hazuki
二年後、初冬
「東シナ海北部海底から未知の巨大遺跡発見」 「マサセッチュー工科大学のケルビン氏が旧来の半導体の三倍の効率の新型半導体ネオセミコンダクター発見」 「ネオセミコンダクターにより各国の経済バランスに多大な動揺!」
私が世の中から隔絶されている間に色んな事があったみたいだった。
いや、大したことないか。きっと、茫然と金を稼いでは落とし込む、陳腐な生活をしていてもおそらくそんな事どうってことない。
日本が戦争にでも巻き込まれない限り、どうでもいい。
そう。深々と私は思った。
ちなみに、今、隣にいる母からすると、私の二年間は決して無下なものではなかったらしかった。
しかし、私はというと、その命題に答える気も頭も更々なかった。
「葉月。本当にごめんなさい。母さんは二年前、あなたにどう頑張っても寄り添うことが出来なかった。
挙句の果てに、母さんはあなたをただ、刑務所に放り投げる。そんな、残酷なことしか出来なかった。
でも、私は葉月を誰よりも思う母親として最上の決断をした。そう、思うわ。」
母の言葉と刑務所からの帰路につく、冷淡なからっ風は私の古時計をかき鳴らした。
暗黒の丑三つ時を指していた時計の針は母の切なげな語幹により密かに高鳴った。
そよ風は湾曲し交差する。そして、私をゆっくりと押し上げた。針も呼応した。
飾り毛のない朝焼けの街にかっこうは優美に吠える。どこかの家の鶏もはたまた鳴く。
皆が鳴く。それは暖かくほのかに。
そう。私の古時計の針は突き動かされたのだ。
「母さん。謝らないで!」
「葉月。」
「私は母さんに迷惑しかかけていない。こんな最低な娘、どこにもありやしない。
でも、母さんはこんな私のために、何度も私の下に来てくれて、励ましてくれた。
私を戻してくれたのは、紛れもなく母さんだよ。」
「だから、謝らないで!」
閑散とした住宅街、母のゆっくりとした足取りに刹那に終止符が打たれた。
そして、抱きしめた。私を。
母の身体は温もりでいっぱいであった。しかし、額は冷たかった。
その額を私は温めた。涙というものは負と正から繰り出されるものではあるが、どんな涙でさえも最初は暖かい。
結果として、私も母も熱を帯びたのだ。全体として。
今、私の視界に入る者たちは温もりであふれている。
外気の冷気、人々の謎めいた視線。それらも決して例外ではない。
そう。それが私の人生であり、人生。 そんな、頃合いだ。
2Hazuki
十二月一日
一年前に新しく建ったショッピングモールの遥か下、数匹の猫が戯れかえっている。
その隣では、老婆がわけもなく花壇で黄昏に浸っている。
こんなありきたりと真新しさで、溢れる今日の街も確かに蒼く生きていた。
私はというとどちらも相手にしなかった。
再びこの街、この社会で生けるためには、ありきたりも真新しさも必要なかった。
今、私は彼らの隣に根を下ろす、こじんまりした洋服店に足を運ぼうとしている。
それは、吟味のためでも着衣のためでも決してなかった。
では何であろうか?それは私にも分からない。
「あら。いらっしゃい。」
親しみやすい見知らぬ顔が私に話しかけてきたらしかった。
「。。。。。」
私は均等にかけられた衣服の間に挟まれ、茫然と忽然する。
「お客さん。初めての人よね!何をお探しで?」
また話しかけてきた。いや、くれたのか。
そんな時だった。彼女の声に誘われた私は無造作に書かれた、ある紙を目に入れる。
「お客さん。大丈夫?お茶でも持ってこようか?」
「あの。」
「え?」
「ここで、働きたいです!」
繰り出されたその言葉は極めて突発的であり、乱雑だった。
「えぇ!外に貼ってある募集の紙を見てきて、来てくれたのかしら?」
「はい。」
もう一度言うが、この意思決定は極めて、唐突なものである。
「でも、律儀な方ね。電話する前に直接ここに来てくれるなんて。」
「あぁ。そうそう。もちろん採用よ!一年前から、たった一人のバイトの子が抜けてしまってずっと困っていたとこなのよ。」
「なら。良かったです。」
「正直ね。仕事云々よりも一人で店をやっていくのが結構辛くてね。ただでさえお客が少ないものだから、単純に寂しいのよね。五年前に一緒にやっていた主人もいなくなっちゃたしね。」
私は年が二まわり以上も違う、彼女に鮮烈な親近感と懐かしさを感じたようだった。
「あ、私の名前は木原です。よろしくお願いね!」
そして、もちろん、私も呼応する。
「よろしくね!葉月。いい名前わね。これから、葉月さんでいいかしら?」
「はい。ちなみにシフトですが、いつでも入れます。」
「あら。嬉しいわ!これから毎日楽しくなりそうね。」
「とにかく、相談役が欲しくてね。だから葉月さんは私のカウンセラーね!」
カウンセラー?私はその言葉を今一度聞くことはまさかないと思った。
そして、その言葉にただらならぬ重圧と憎悪を感じ続けていた。
しかし、彼女から放たれた瞬間、その言葉は何故だか、柔和に見えるようであった。
「じゃあ、葉月さん。明日からよろしくお願いね!」
「はい!よろしくお願いします。」
私は久しぶりの笑顔を交わしあい、店を快活に出ていった。
ちなみに言うと、街の蒼は紅みがかった山吹色に変色していた。
さらに言うと、老婆と猫たちは去りて、その地には、若手の選挙立候補者が少ない群衆に対して、熱心に演説をしている。
そして、私は話を説いてる彼にほんの少しの感銘を受けた。
立ち止まりて、聞く私も彼に心なしかの感銘を与えたようだ。
そう、これこそが私のありきたりでも真新しさでもないもの。
日常だ。
1Hanae
某日
私はようやく隔絶から逃れたようだった。
それはつい、昨日のことだった。
しかし、私に帰る場所などありやしなかった。
今の私はより、隔絶されている。
私はもう来年で、十八歳にもなってしまう。
いや、それは当たり前のことか。
私は今、肉体が付随する情愛を知っている。
儚く、溶け出してしまったが。
「おーい花江ちゃん。もう少しで着くよ。」
「はい。」
そう言えば、私が今乗車する軽自動車は徐々に低速している。
「間もなく五十メートル先、目的地です。運転お疲れ様でした」
私はカーナビゲーションを聞くとあの摩天楼の陰影が姿を現した。
「じゃあ、行こうか。」
私が降り立った場所には南国を思わせる木々が何個か、そして、他の頼りない広葉樹が何個か、そんな所だ。
歩く道は生暖かい砂利と石ころにあふれかえっている。
そして、自動ドアが開いた。
「こんにちは!」
「こんにちは!かねてから連絡させていただいていた、佐々木です。明日から、この前まで、院にいた花江をどうぞよろしくお願いいたします。」
私も隣の佐々木さん、いや、教官に続いて会釈した。
「はい。話はよく聞いております。佐々木さんからもずっと花江さんのことはよく教えて下さっているので。」
「ほら、花江。そろそろ俺とはお別れだぞ。」
「花江。お前は本当に責任感もあって、思慮深い心を持ってる立派な人間だ。花江はきっとこれからも輝けるぞ!」
「ありがとうございます。教官。」
教官はなんかんや、最初から最後まで私の面倒を見てくれた。
そして、彼の瞳孔は微かに潤いでいる。
おそらく、それの出どころというものは、私との惜別の別れでも、教師としての教え子を送り出す達成感からでもないだろう。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
彼の涙ぐむ捨て台詞と共に自動ドアはまた、開きだした。
「花江ちゃん。改めて、よろしくね!ここの一番偉い人の根本です。」
根本さんの笑顔を経て、私の償いは終わったらしかった。
しかし、何だろう。この感情は何だろう。
償いからの解放、そんなものただの形だけに過ぎない。
私の犯したものは未だ脳裏に煮えたぎっている。
その行為に対して、後悔と憎悪で私の魂は埋め尽くされているが、また、あの美術室と同様の感情を突き付けられた暁には、私は再び同じ行為を犯すだろう。
これまで、私の殺戮衝動と性的衝動は幾度となく、見違える変質を繰り返してきた。
しかし、それらはもう完成されてしまった。
この二つの言わば悪習は、いかなる場面形態でも私を鋼鉄の要塞の如く、阻害し、眠れる私のことをサキュバスのように惑わし、骨抜きにするであろう。
あぁ要するに手遅れなのだ。
私はこの児童養護施設で、見かけ上はささやかな一年間を過ごすことだろう。
だが、笑える限りである。
ささやか一年などという、恵の雨など私に降りかかるわけがない。
完全無欠の殺戮衝動、あるいは成熟された性的衝動。
それらも確かに、私にとっては大きな障壁だ。
だが、何よりも私の大きな障壁、いや悲しみは祖母と麻川さんの死であろう。
祖母の病死により、私の居住的かつ精神的拠り所は失われた。
麻川の自殺により、私の肉体的かつ恋慕的拠り所は失われた。
前者の悲劇により私は受動的な権利を失い、後者の悲劇により、能動的な意思を失った。
要するに、帰る場所と、働く動的エネルギー。そんなところであろうか。
「これからよろしくお願いします。花江です。」
そして、私は笑った。 そんな頃合いだ。
2Hanae
[ねぇ。あなた、そろそろ家出ないと遅れちゃうわよ。]
「ちょっと待ってくれよ。葉月ちゃん。あと髭剃りだけだから。」
今日も買ってから一年建った念願のマイホームは、すれ違いばかりの私たちを柔和に包み込んでくれる。
間違いなく、一個前の駅近おんぼろアパートの時よりも私たちのすれ違いは格段に丸くなった。
「早くしてくださーい。」
「終わった。終わったから。じゃあ、行こうか!」
「待たせてるのに、何を偉そうに!」
「悪い。悪かった。旅行先で、たくさん買ってあげるから。」
「当たり前よ!今日は結婚五年目の記念日なんだからね!」
相変わらず、葉月ちゃんは強情だった。
外の天気は昨日までの、雨模様の予報に反して、快晴だった。
きっと、この日本晴れも今日という日を彩る、一要素として、大きく寄与してくれるのであろう。
「あれ、あなた車のカギは?」
「あ。悪い。取ってくる。」
「もー今日は私が主役の記念日よー!」
私は急いで、いつ買ったかは忘れてしまったクマちゃんが垂れ下がっている車のカギを棚から、むさぼった。
「待たせたな。」
「あれ、なんか車の中、煙たくないか?そう言えば、昨日の夜葉月ちゃんが車、使ったんだよな?」
「そうだけど、煙たいかしら?私はそうは感じないけどね。まぁとにかく、出発!出発!
ほんとに遅れちゃうわよ!」
「あぁ。じゃあ、出るぞ。」
カーナビゲーションが甲高い声で、一方的に喋り腐っている。
ちなみに、私は何度聞いても、この無機質な女性の声に好感を持つことは出来なかった。
そんなことよりも、さっきの車内の煙のくだりは今日が決して初めてではなかった。
口に出していないだけで、葉月と煙との相関性は、我が家に散見しているようだった。
彼女は、俺と出会った数年で煙草との関係は断ち切っている。
しかし、我が家の煙というものは決して、煙草が醸し出すものとは、まるで違っていた。
それは、私自身がどちらも経験しているから、強く断言できる。
前者はもちろん、ヘビーだったが、後ろの方はほんの一度きりの出来心だ。
その煙の出どころが彼女の職業からか知らん男にそそのかされてなのか、彼女自身の誤りからなのかは私には分からない。
しかしながら、私はとにかく、彼女、葉月が心配だ!
近頃の私の日々は、煙で覆いつくされている。
それは、現実世界ではなく、私の脳に流れ込んでいるものだった。
蒼霧のように。そして、時には排水口に流れ込むグロテスクな血泥のように。
「あなた!」
「あぁ!」
そんなことを思っていると私はブレーキとアクセルの区別が曖昧になった。
「あなた。痛い。痛い。足が痛いわ。。。。」
「葉月。」
端的に言う。今、私たちの出会いたての努力の結晶のような、マイカーは派手に宙ぶらりんと横転した。
そして、二人とも身体は張り裂けている。
「愛してるよ。葉月ちゃん。」
「もちろん、私もよ。」
あぁ。突然の滑稽な発作が私と彼女を亡き者にしてしまうようだった。
あれ、ところで私は何者だ。
私?俺?
何を言っているだろう。私は私だった。
霧は霞がかかっていく。痛みは無に帰していく。彼女の紅も失われていく。
これは夢だ。間違いなく夢だった。
私は今、我が夢の渦中の中で、一人自らの夢に気付きを見出したのだった。
葉月先生、クマちゃんの車のカギ、そして、未だに印象深い先生と煙の交わり。
極めつけは、車の横転。であろうか。
夢は人の無意識下の悔恨や期待。要するに、正と負の感情隊がカオスに拡散し合い、分散する。
それは、どんなに逸脱した頭脳を持つ天才科学者でも解明することは現時点では不可能であろう。
ましては、私が男になって、愛する過去の遺物と結婚をしているというのだ!
一体、どうしたらそんな着想が浮かぶであろうか。
まぁ。冷静になってみれば、今日の夢というものも今の私にとっては極めて妥当なモノなのかもしれない。
性別への懐疑と完成されてゆえの臨界。きっとそんなところだ。
試しに全ての事象を敷衍するとしたら、私の全て。それが正解だ。
だが、最後にこの白昼夢を抜ける前に私の中で、一つ確固たるものが発見された。
それは葉月先生だ。とにかく、先生に会いたい。ただ、それだけだ。
「花江ちゃん!朝よ!」
「あ、おはようございます!根本さん。」
「今日の朝ごはんはみんな大好きフレンチトーストよ!」
「はい!楽しみです!」
「じゃあ。中央ホールで待っているわね。」
最後に、私は混沌を抜けたばかりの余韻に強く抗い、根本さんの優しい笑顔に会釈した。
3Hazuki
十二月二十四日
「葉月さん。今日もよろしくね!」
「よろしくお願いします!」
「世間がクリスマスで賑わっていも、うちは変わらず平常運転ね。でも去年に比べたら、葉月さんもいるし、全然寂しくないわ!」
クリスマス、私にとってのクリスマスはどんなものであったろうか。
両親と過ごした一年で何よりも明るくて幸せな日、少し大人になってクリスマスに対して、初めて興ざめしてしまった日、そして、自分の無力さを突き付けられてしまったかのように虚無感に入り浸る日。そして、そして、あの摩天楼での悲劇の日。
このように、私のクリスマスは日を重ねるごとに憂いを帯びて、黒い深淵に沈んで行ってしまったようだった。
「本当に誰も来ないわね。私たちみたいな、古い店は、こういうイベントの日は普段より増して暇になってしまうのよ。」
「そうですね。あ、そうだ木原さん。こんな時はまた木原さんの昔の話聞かせて下さいよ!」
「そうね、特別な日だし、盛大に話しちゃおうかしら」
木原さんが昔の話を語る姿。それは、まるで少女のようであり、彼女の記憶の中では、その少女は元気溌剌に生き続けているのだろう。
今日というこの日も、普段と変わらず、今は亡き木原さんの旦那様との朗らかなエピソードの断片集、それから、彼女が長年培っていたクリスマスのクスッと笑える小話群。
「はぁ。今日も相変わらず、仕事しないで、私が喋ってすっきりしただけじゃない。」
「いいんですよ。私も木原さんの話聞くの好きですし。」
「今日はあと、三十分くらいであがっていいわよ。」
「え?いつもより随分早いじゃないですか。」
その瞬間、彼女の顔にかすかな霧が降りかかっていった。
「実は今日はあの人の命日なの。」
「クリスマスが命日なんて、ほんとあの人らしいわよね。私っておバカさんだから、クリスマスが復活祭だから、私にとって神様みたいだったあの人もしれっとこの店に帰ってきてくれるかなって思って、毎年店を開けているの。」
やはり、彼女の姿は少女のようであっった。
「ねぇ葉月さん。最後の三十分、もう少し私の話に付き合ってくれるかしら?」
「。。。。。。。。」
私は無言で少女の応対に対して、同意を果たす。
「夫はとにかく優しくて、誰に対しても利他的な人だった。優秀な大学も出ていて、一緒にこの店を切り盛りしていく前は、大学の准教授をしていたくらいで、こんな店務めなんて、もったいないくらいの人だった。」
「でも、夫は一つだけ大きな障壁を抱えていたの。」
「今思えば、その障壁は私とあの人が出会ってから、お別れするまでずっと私たちを妨げていた気がするわ。」
店内から、見える外のサンタシルエットのライトアップは悠々と一人でに輝いている。
それに比べ、私たちは境界のはざまで何色かは分からない殻に閉じこもっているようだ。
「あの人はね。九九パーセントはあの人なんだけど、残りの一パーセントはまるであの人じゃないみたいなのね。」
「葉月さん。てんかんって知っているかしら?」
その言葉を聞いた私は、猛烈な過去の遺影に飲み込まれたようだった。
「はい。知っています。」
「知ってるわよね。」
「夫はね、ちょうど十年前くらいに病状の悪化で大学の仕事が続けられなくなってしまったの。」
「そこで、夫の療養を含めて、お互い大好きな服屋さんを始めることにしてみたの。
でもね、そううまくはいかなかった。いくら、暖かい光景を二人で紡いでいっても、障壁は唐突に私たちを打ち壊してしまう。」
「正直、夫が亡くなる前までの五年間は私も地獄だったわ。あの人の一パーセントが私を執拗に傷つけ続け、彼自身をさらに苦しめ続けた。」
私の目には木原さんが少女から、老婆にどんどん変質していった。
そんな、木原さんを見るのも私は胸が痛かった。
しかし、彼女の言霊を最後まで聞き遂げる。それが私の責務であり、生き方なのだ。
「最後の一年間、私と夫は藁半紙のようにボロボロだった。しかし、彼はいつでも私の幸せを願い続け、前向きに生きようとしていた。」
「でも、手遅れだったの。いくら、彼が前に進もうとも、引きずりだされてしまう。
そして、彼は私を傷けるのが何よりも憎らしかった。」
「私を傷つける。それが彼の暗雲の全てだった。彼は憎悪の対象を彼自身に向けることしか、答えを見いだせなかったの。」
もう少しで、退勤の三十分のかっこうの掛け時計は鳴り響くようだった。
「夫は自らの手で死んでしまった! 私は夫を助けられなかった!」
彼女は泣いている。只々泣いている。 少女のように。 そして、老婆のように。
どうやら、私と木原さんは似た者同士であったようだった。
彼女は五年間、この報われない大切な人からの善意に疑問を抱き、一人苦しみ続けたのであろう。
私も間違いなく、彼女が言う障壁というものに折り合いをつけていない。
私は薬に逃げて、あえなく散り去り、その後も時間の集積により、赤子になろうかと思ったが、そんな事はもうやめだ
私は人間として、聞くに堪えない程の愚か者である。
だが、しかし、私という一人の生ける人間として、過去を野ざらしにするわけにはいかない。
「木原さん。私が、木原さんに出来ることはあなたの話を聞き、あなたに言葉を交わさず無言で寄り添う、そんな、ことしか出来ません。」
「木原さんと旦那さんとの過去について、私は同意することも否定することもできないと思います。現に私自身もどちらの感情も抱いてない、いや抱くことができない。」
「でも、木原さん、木原さんはこれからも、ずっと普段みたいに笑って生き続けて下さい。きっと旦那さんもそれだけを望んで、逝ってしまったんです。」
「葉月さん。」
ふと、その時、店のかっこうは純情に鳴り響いたようだった。
店の外にあるサンタシルエットのライトアップは何故だか心なしか消えかかっている。
そうして、私のクリスマスは多分終わったようだった。
突然だが、この世というものはこんなにも、人々の各々の繊細かつ苦心で溢れるかえるものなのであろうか。
私は今、そんな、この世が人為的に作られた小説か、あるいわ誰かさんの一夜の夢想なのではないかと常々に思いふけった。
しかし、どんなにこの世が残酷であろうと、私は私としての責務に相対していくつもりだ。
「080 3841 4052」
ふと、私の脳内にその文字列が飛び込んできたらしかった。
私は牢屋に入ってから、その文字列を抹消し、逃げ伏せていた。
「葉月さん。ありがとう。本当にありがとう。あなたは私を深い記憶の中から、私を優しく引きずり出してくれた。とにかく、今日は帰って。明日からまた、いつも通りの陽気な木原さんに戻るから!」
「はい!お疲れ様です!」
FINAL CHAPTER
某惑星真空 地球時間 十一月 二十日
「jiasjsnxin@npaian;@.paain」
[manoaos@;xosm@som]
「外敵生命体、地球人に対して録音を開始するために変換システムを開始する。」
「レコード開始、日本語」
「地球における、大陸等級、一級の亜米利加、大陸等級、二級、三級、中国、露西亜、これらの三国はかねてから私たちと定期的な交渉と協議を入念に繰り返し、柔和な仲を取り持ってきたつもりである。」
「これらの三国は同盟を三十年前に締結しており、世界の熾烈な経済争いとは、裏腹に極めて平和的な連携を果たしてきた。しかしながら、この十年間、貴様ら三国は唐突にそちら側の連携どころか、私たちとの応対をも疎かにしていた。」
「私たちは貴様らに、様々なモノを隠して、貴様らと接触、いや交信してきた。私たちを侮ってしまったことは貴様らにとって大きな誤算となるだろう。
最後に貴様らが犯した罪に対して、私たちからの慈悲という名の選択肢をもたらしてやろうではないか。」
「今から、十日後の十二月八日に、イギリス南部のストーンヘンジに各国から、IQ150以上で20歳以下の人間一万人を集め上げて、こちらに差し出す。
その条件を果たさなかった場合は無条件で、地球ごと貴様らを吹っ飛してしまう予定である。
ストーンヘンジというものは我々と地球人との接触の起源とも言える場所である。」
「さぁ地球人。始まりの場所から、また、改めて我々と友好な関係を紡いでいこうではないか。
正直、貴様らの遺伝子も技術的産出能力も私たちにとって、琴線を弾ませるものでもなんでもない。
しかしながら、同じ、この世界の種である時点で私たちは、同義の存在であり、出来る限り、無慈悲な種の根絶というものは避けたいのである。」
「ちなみに、この地球における幾度の隕石も本来は私たちの有意義な実験による産物から、生じたものである。要するに私たちはそれ程全能なのである。」
「最後にもう一度、十日後に貴様ら、地球人にとって最良の決断をそれぞれの国々が決断することを強く願っている。」
「レコード 終了 内閣 地球外政策へ通達」
2柚木
某人気番組 収録 一時間前
「フガァ スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー」
「フガァ スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー」
「フガァ スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー」
「フガァ スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー スーハー」
1Hanae
十二月二十八日
「朝よーー!」
今日もこの施設、いや家では根本さんの甲高い目覚まし時計から、始まるようであった。
「おはよう!みいちゃん」
「おはよう。ハナエッチ。」
毎朝、起きれば私よりひとまわも違う子供たちが、私を出迎えてくれた。
ここでの生活はとにかく、暖かみに溢れかえっていた。
私は今まで、自らを傷つけ続けて、他者にも傷つけられ、他者から、愛されたり、ほんの少しだが、愛したりもしてみた。
最後の能動的な愛、その愛とやらは未だ、私自身満足いくほど体現したことがまるでなかった。
ここで、子供たち、根本さんから、愛を交わし合う度に私の友愛は満たされていく。
しかしながら、友愛が満たされていくと同時に私の私における別種の愛、特別な愛、最初で最後の純情な恋心は再燃し、暴れふためいていった。
端的に言うとその愛の正体はまごうことなく葉月先生であった。
日々過ぎてゆくここでの単調かつ穏便な私にとってのモラトリアム。
あと、半年もすれば、私は社会に放流され、万人と共にそれなりに人生を謳歌するのであろうか?
しかし、私の人生にとって先生は不可欠であり、必然であった。
私の携帯電話には、今までも先生の文字列と数字列はどっしりと生き続けている。
だが、私はそれに接触することはいつになっても果たせなかった。
私が先生にしたことはこの上ない裏切りであり、先生の心を裂き去る最上の行為であることは間違いなかった。
「ねぇ。花江ちゃん。何だか顔色悪いわよ。」
「ほんとだ。いつもだけど、きょうとくにわるいよーハナエッチ。」
「いえいえ、何とも。」
「きょうは、ハナエッチが好きなとらさんのチョコ味のシリアルだよー。」
ちなみに、私は好きと言った覚えはない。
そんな時、朝ごはんが乗った長机を取り囲む根本さんが少し真剣になった。
「花江ちゃん。ここでの一番のルール。何だか覚えてる?」
「悩み事は何でも打ち明ける。」
「はい。そうです。ここではみんな家族なんだから!みんなで助け合うのよ。」
根本さんは間違いなくここでは、みんなにとって立派な母親だった。
「あ、根本さん、今日は夜の七時から、バイトのシフト入ってるので、夕飯は大丈夫です!」
「あら、そう。寂しいわね。花江ちゃんとみんながこうしてご飯食べられるのも後、半年だものね。明日は大丈夫なのよね?」
「はい!」
私はぬくもりを感じている。この、空気から、そして、言葉から。
今日食べた、とらがパッケージのシリアルも幼少期に一人嚙み砕いたものとはまるで違う味がしたようだった。
朝食を食べ終えた私は小さな自分の部屋に戻り、教官があそこを出るときに買ってくれたウォークマンに耳を傾けてみた。
私のウォークマンには、スピッツのアルバムが何個かと、ヴィバルディやらリストと言ったクラシックのアルバムが何個かというところだった。
どちらも、教官が急いで私のためにレコーディングしてくれたものである。
貰ったばかりの頃、スピッツは日中のバイトまでの電車に揺れながら、そして、読書に耽りながら、クラシックは夜の寝る前のひと時にと言ったところであったが、今はもっぱら四六時中スピッツに入り浸っていた。
今、ロビンソンは私の人生を穏やかに回想し、私のこれからをメランコリーに暗示している。
十七歳の私は日常に於いて唯物であるスピッツによって奏られる十七歳の音楽で自己の形を辛うじて取り繕っている。
もう少しで、アルバムの最後の[君と暮らせたら]が終わる頃合いだった。
歌詞を聞くたびに、葉月先生が付きまとった。
振り返ってみれば、私は昨日、いや、一昨日もこの、行為を果たして、この感情に垂れ込んでいる。
もう少しで、唄は終わり、私の健気な夢想もゆっくりと終わりを告げる。 はずだった。
最後の哀愁漂うアウトロが、憂麗に鳴り響く中、ウォークマン越しから、聞きなれない携帯電話の着信音が聞こえたようだった。
「葉月先生」
私は夢を見ているのだろうか?
その泣きたくなる程感慨深く、見慣れた文字列は私にとって、待ち焦がれていたアラビア王子様からの恋文のようなものだった。
私の眼の下は神経伝達よりも早く、涙であふれかえりて、私の左手は羽虫を振り払うかの如く、耳にしがみついていたウォークマンを剝ぎ取り、代わりに携帯電話を刹那に耳に摺り寄せた。
「花江ちゃん?花江ちゃんよね。花江ちゃん。」
声、デジタル入力の集合体である声、様々な障壁を経たであろう重厚な声。
今、私が聞き入っている声はそんな印象と言った所であろうか。
しかし、やっぱり先生の声は先生であった。
「先生!先生。先生。」
この時の私たちは脈絡のある会話がまるで出来ないようであった。
「先生。先生。会いたいです。会いたい。そして、何より謝りたい。」
「花江ちゃん。私もよ。正直、ずっと会いたかった。」
「先生。」
吐息は電波を超えて交わり、鼓動は地波を伝って高鳴り合っている。
「ところで、花江ちゃんは今、何処にいるの?」
「私ですか?私に居場所なんてないんです。あったとしても、また、いつもみたいに直ぐに崩れ去ってしまう。それが私なんです。」
「そんな事言わないで!」
受話器越しに、葉月先生の発火音は私の胸に風穴を開けた。
「先生。居場所が欲しいんです。私は一人では生きられない。そして、どんなに辛く暖かい出来事を歩んでも、結局は先生しか私のそばには居なかったんです。私は先生を愛してるんです。」
小さな部屋で一人、語らう私は自分のありように深々と驚嘆した。
私は孤独であり、平野にて彷徨う子ウサギのようなものであったのだ。
私が有する内在における二つの悪習も寂しさの渇きを癒す、ただの代替手段に過ぎなかったのかもしれない。
おそらく、いや間違いなく両者には自我なんて大層なものは持ち合わせていなかったのである。
端的に言うと、私は執拗に悠然と孤独を忌避して、安定した愛と床を追い求める、まるで冥界にて彷徨うオルフェウスのような人間であった。
「花江ちゃん。とにかく、私はあなたに今すぐでも会いにいかなくてはならないみたい。
実は私も花江ちゃんを愛しているわ。それも女の子としてね。
でも、まず、愛す前に花江ちゃんをカウンセラーとしてまた救わなければならない。私は最近、気が付いたのよ。やっぱり私は、カウンセリングをすることが生きがいであり、私の生き方なんだなって。」
私の脳内では、気が遠くなる程、煮詰めてきた先生に対する、純情であり、熱情的な恋慕、いわゆる偶像的な葉月先生という肖像とあの時の頼りがいのあるカウンセラーとしての感覚的な先生としての肖像がたゆとい合い、頭の中がまるで完結しないようであった。
「花江ちゃん。とにかく、近いうちに私は花江ちゃんの下に行くからね。」
「先生。私今、豊橋の児童養護施設にいます。」
「花江ちゃん。。。。花江ちゃん。分かったわ。今日はこれくらいにしておこうね。
とにかく、私はいつでも花江ちゃんの味方だからね。」
「はい。先生。本当に嬉しいです。もう二度と先生と交われないと私はずっと思っていて。」
「大丈夫。これからはきっと全てが上手くいくんだから!」
「じゃあね。花江ちゃん!」
「はい!先生。」
「ちなみに、私は今もあの町に住んでいるから、いつか一緒にあの時みたいに町を歩きましょうね!じゃあね!」
受話器はするりと鳴り止んだ。
それから、私はまたもや、するりとバイト先に電話をしてみた。
私の住んでいた街はここからざっくり、電車で一時間とちょっとと言った所だ。
私は高鳴っている。
もうじき本来、バイトのために施設を出る頃合いだ。
もう一度言うが私は高鳴っている。
私は財布と携帯電話を手提げに据え置き、ゆっくりとした足取りで、自分の部屋を出た。
「根本さん。ちょっと早いけど、行ってくるね!」
「うん。分かったわ。気を付けてね!」
そうして私は施設のドアをするりと明け切った。
背の低い針葉樹たちは冬の空っ風にそそのかされ、荒涼とたなびいている。
そして、私の肌も少しばかりだが、干上がっている。
そんな中だが、最後にもう一度だけ言っておこう。
今の私の胸というものは酷く、高鳴っている。 ようだった。
2Hazuki
十二月二十八日
「今週は平年に比べてとても肌寒い一週間でしたね。」
「はい!でも火曜日には女優の柚木さんと映画監督の夢野中也さん、木曜日にはアーティストの春香さんと俳優の平野海さんがそれぞれご結婚され、一週間に二組ものカップルが出来るというめでたい週でもありましたね!」
「そうですね!思い返せば今年は芸能人のカップルがたくさん出来上がった年でもありますね。」
「はい!今年も残すところ三日、テレビの前の皆様も、最後までおめでたい年になることを願っています!
では、また来年もサンデーチューニングをよろしくお願いします!」
バチ!
私はテレビを止めた。
時刻はというと正午、午前十二時
天気はというと肌寒いが、太陽は照り輝いている。
そして、今日という日曜日、木原さんの店も閉まっていて、普段ならこんな時間になろうともベッドで怠惰の余暇に入り浸る私であるが、今宵はもちろんその例外である。
どうにも、私が有する身体が静止を拒むらしかった。
心に内在する圧倒的な感動と多幸感は私に一体何を使途するのであろうか?
答えは簡単だ。
感動に必要な物、それはその事実を着飾る装飾物であり、端的に言えば、宴に必要な豪華絢爛なご馳走たちだった。
そうして、私はボトムスだけを外着に着飾り、雑に玄関の前の茶色いジャンパーを身に覆いて、外を飛び出した。
外を歩くと、見慣れた食欲を注ぎたてる大層な店の看板が散見していた。
こじんまりした和食店、真昼にうってつけのバーガーチェーン。
他のどんな店々も私を同様に搔き立てたが、やはり、あの輩には叶わなかった。
ひとりぼっちの日曜日、しかし、それにこの上ない積年の愛への渇望と酩酊、こんな風な言葉たちに一体、何が相応しき饗宴であろうか。
それは、もちろん丸く薫るピザというやつだった。
私は値段など気にせず、最高にワイルドな一品を注文した。
丸型に国境のように分断された四つのユートピア。
一つは肉の羅列、二つは過度なおフランス節の塊 後の二つもそれに劣らない様相であった。
「ありがとうございました!」
私は初恋に似たはにかみ笑顔を満面に浮かべ、店の自動ドアをくぐり抜けた。
照り輝く太陽は私を照らし、香ばしく焼かれたあいつをさらにしつこく炙るようであった。
そんな時だった。
どこか懐かしく少女のようであり、初恋の桃色の彼女であるかのような、声色が私を包み込んだようだった。
「あの、先生。葉月先生。」
私から約75度左にある小さなバスの停留所はあっけらかんと言った次第である。
一方で、右斜め30度にあるフランス語で書かれた洒落た居酒屋の看板はむっつりとしていた。
「花江ちゃん!?」
「先生。。。私、会いに来ちゃいました。」
トラックは私たちを颯爽と通り過ぎる。 乾いた風が私たちを通り過ぎる。 ロックに乗っているそのトラックの運転手の少し上がった口角もまたもや私たちを通り過ぎた。
「花江ちゃん。花江ちゃんは本当に花江ちゃんなんだから。」
「先生!私、待ちきれなかったんです。先生の声を聞いたら、今まで溜め込んでたものが、スルッと抜け落ちちゃった気がして。」
気が遠くなる程の月日を経て、私の目の前に飛び込んで来た花江ちゃんの姿は、どこか奇妙かと思えば、はっきりとしっくり来るものがあるようだった。
「私、つい、さっきまで先生のことをずっと探していたんです。でも、なかなか見当たらなくて、落ち込んでいたら、ふと先生と食べたあのファミリーレストランのことを思い出したんです。」
ちなみに、そのレストランとピザ屋はご近所どおしである。
「花江ちゃん。詳しい話は後でいいから。そんな薄着でここらをさまよっていたんでしょ。とにかく、一回暖かい私の家に帰りましょう。」
長年培ってきた花江ちゃんに対する叶わない崖の上の少女への恋慕は、今、再び、カウンセラーだったあの頃のいわゆる庇護欲のようなものに再帰していくようだった。
「先生。歩くの早いよー。」
「だって、花江ちゃんの手、すごく冷たいわよ。早く帰らないと風邪ひいちゃうわよ。」
照り輝く太陽の下を私たちはせっせっと横断していった。
横で凍えそうに白い吐息を吹きかける花江ちゃんはとても幼く、私の目には映った。
「先生のお家って今、どこらへんなんですか?」
「もう、目と鼻の先よ。」
その言葉を聞いた花江ちゃんは、はにかんだ。
そして、その笑顔は先程よりも増して幼いようだった。
「はい。到着。」
「先生の部屋ってこんなに綺麗だったんですね。てっきりもっと荒れてるかと思いましたよ。」
確かに、数年前の私はというと、自らの心と同じく、身の回りも酷く荒れていた。
しかし、今は違う。私はこうして彼女と再会して、私というものをもう一度やり直してゆく、そう心に決めた。
そんな時だった。
「先生。葉月先生。」
甘い言葉でそう呟いた彼女は私を深淵に抱擁したようだった。
「花江ちゃん?!」
「先生。私、先生のこと大好き。もう抑えられない。」
妖美、艶やか、その時の花江ちゃんは先の幼い花江ちゃんとはまるで別人であった。
「ごめんなさい。まだ、こんな時間ですもんね。私、朝から何も食べていないんだった。
先生のせいで、お腹がペコペコだったこと、すっかり忘れちゃてましたよ。」
そうして、再び彼女はまた幼い花江ちゃんに戻ってしまったみたいだった。
「先生。テレビつけてもいい?」
「もうつけてるじゃない。」
テレビに映った光景は現代における子供たちへのネグレクトの象徴と言っても良い、教育番組であった。
色とりどりで稚拙な文字列が奇妙にひらりふらりと踊り合う。
それは、普段の私にはとても見るに堪えない程、退屈なものだった。
しかし、花江ちゃんはソレを凝視する。
そして、なぜだか私も続いてソレを凝視する。
お空のお空のお天道様、今日もお膝に微笑むむ。
お空のお空のお天道様、今日もお目目を開けてる。
喜ぶ喜ぶあたしたち、お米をたくさんお食べなされ。
喜ぶ喜ぶあたしたち、お唄と踊りをしましょしょ。
眠れる眠れる、小判ちゃん、今日も明日も大騒ぎ。
眠れる眠れる、あいつたち、今日も昨日もから騒ぎ。
お空のお空のお天道様、今日もお膝にむっつりリ。
お空のお空のお天道様、ついにはついにお怒りか。
喜ぶ喜ぶあたしたち、あいつもこいつも、殴り合い。
喜ぶ喜ぶあたしたち、わたしもあなたも死んじゃった。
「何これ!こんな不吉な唄、真昼に子供に聞かせているの!」
「確かにね。これはひどいかも。花江ちゃんが子供の頃もこんな感じだった?」
「そんな訳ないですよ。」
それから、花江ちゃんと私は楽しい談笑を交わし合い、真ん丸のピザを気ずかぬ内に平らげた。
味も話も最高だった。 そして、花江ちゃんはぐっすりと私の隣で眠っている。
何だか、私のぽっかりと開いた心の穴がすっかり埋まってしまったみたいだつた。
私はやっぱり花江ちゃんのことが大好きみたいだった。
その愛の出どころは庇護、夢想、偶像、様々だ。
しかし、やはり、私はとにかく、花江ちゃんを愛している。
それは純情にそして、執拗に。 そんなことを思う次第であった。
Hazuki and Hanae
十二月二十八日 夜
私たちが住まうこの街では様々な人達が生けるようだった。
クリスマスが終わったのに、ポッケの懐にクリスマスのプレイリストが目一杯に孕んでいる、いい歳したOL。
ありったけの金はあるものの、名声も女も何も持ち合わせていない、かさぶただらけの中年。
もちろん、無垢で可愛らしい子供たちの姿もそこには存在している。
しかしながら、今宵のこの街の主役と言ったら間違いなく、花の名前を持つ二人の悲劇のヒロインたちが相応しいであろう。
「あら、もうこんな時間!花江ちゃん!花江ちゃん!起きて花江ちゃん!」
働いてもいないのに、大人は少女と共に寝過ごしたようだった。
「あれ、先生。私、結構寝ちゃたみたい。え!もうこんな時間!」
「どうするのよー。私も寝ちゃたから、何も言えないけど、今から帰ったら、とてもじゃないけど危ないじゃない。」
「ごめんなさい。でも、こうなったら、どうしょもありませんね。」
花江ちゃんの顔はまた可愛らしく、幼く変質した。
「先生。今日からずっとここに居ちゃダメですか?」
「は?ずっと。花江ちゃんは何を言ってるの!」
「何も変なことは言ってませんよ。」
こんな、冷静な態度をしていながら、二人の鼓動はメキメキと高鳴っていくようだった。
「分かったわ。今日だけは特別よ。今日、このまま帰らせちゃたら、心配でとても眠れないわよ。」
「ありがとう。先生。」
現在時刻八時十五分
神戸の風見鶏は鳴いているであろうか?
もちろんのこと、鳴いているわけはない。
しかし、神戸からうんと北東にある意味では生ける、この街の洋服店の風見鶏は負けじと十五分前にも阿吽を響かせていたのであろう。
この、世界は鳴いている。いや、鳴いていた。誰もが夜泣き寝入り、そして、早朝には母親か、風見鶏に叩き起こされ、日々に揉まれていくのであろう。
そんな中であるが、この物語の主人公である二人の少女たちのお腹も、中々の生の鼓動を奏でているようだった。
「先生。お腹空いちゃいました。」
「あんなに、食べたのに、育ち盛りの女の子はすぐ、お腹が空っぽになっちゃうんだから。」
「家にある具材的に、チャーハンしか作れないけどそれで大丈夫?」
「全然、大丈夫です!」
やはり、普段から、料理に奥手の彼女の食料庫には、卵、ハム、キャベツといった簡素なものしか持ち合わせていないのであろうか。
それから、彼女らの床には豊かな咀嚼音が響き渡り、また、しばらくすれば浴室の水濁音と共に、感情豊かな鼻のせせらぎが天井へと滴っていったようだった。
眠り、わずかに転がり、深化し、また転がる。
はたまた他方では、自ずと鼻を用いて、乱雑な唄を発散していった。
そうして、彼女らの感動の再会の日は意外にも、日常溢れる、ものとなっていった。
明日という日は彼女らにとって、この上なく素晴らしい日になることであろう。
彼女らの残された使命はただ前進する。たったそれだけだ。
それは、楽観に、時にはたくましく、そして、時には悠然と。
十二月二十九日 朝
「葉月ちゃんっていつも優しいよね!」
「そう?どんなところがー?」
「え?いっつもクラスのみんなの言いなりみたいで、女神様みたいだよ。」
「そんなことないよ。他のみんなが優しくしてくれるから、恩返ししてるだけだから。」
「でも、もちろん、葉月ちゃんはすごいと思うけど、私は絶対葉月ちゃんみたいにはなりたくないな。」
「なんで?」
「だって、傍から見たら、葉月ちゃん、みんなから貧乏くじ引かされてるだけだよ。」
「いや、違うか。それが葉月ちゃんだもんね。あ、そう言えば、今日も算数と国語の私の分の宿題、やっといてね!」
「うん!」
私は確かに、嬉しかった。でも、それ以上にもっと疲弊していた。
どんなに辛かろうと、きっといつか誰かが、ありったけの見返りをしてくれる。
どんな時もそう、信じ続けてこれまで生きてきた。
結局、私は利他的な人間なんだ。
自分自身が誰かから、好かれるために、それを遂行し続けてきた。
小学校卒業と同時に劇団に入ったのも、母親の娘を女優にする一方的な夢想のためであった。
私はそんなもの、はなから興味などなかった。しかし、断れなかった。断わることができなかった。
それは、決しては母からの強制的な押し付けでも、なんでもなかった。
だが、もちろん、動機が陳腐な利他的感情だけで、演劇が務まるはずがない。
才能だけでなく確固たる動機も持ち合わせていなかった私は即座に蹴落とされ、隔絶された。
思い返せば、私が劇団にいた頃のあだ名と言ったらロボットだったであろうか。
そのあだ名の所以は内側の他者からすれば、演技がロボットみたいだとか無感情であるといったところであろうが、それは、間違っている。
私自身がロボットなのである。
要するに私に自我は欠落していた。
利他は自我ではない。 ただの他者への一直線の硬質な矢印に過ぎない。
希望の大学も母親からの意向を真っ向から受け取った。
そして、大学に入っても、玉石混淆な愚痴話や相談事を浴びせら続けた。
しかしながら、転換というものは不意にやって来たものだった。
それの火付け役というものはもちろん花江ちゃんである。
私が花江ちゃんの事を思い続けてきたものは間違いなく、以前までとはまるで異なるものだった。
もちろん、利他も庇護もそれには付随している。
だが、しかし、私は花江ちゃんに関わる度に胸が満たされ、自らの抜け落ちた穴がみるみる補填されていった。
端的に言うと愛であろう。
愛というもの決して利他だけで片付くものではない。
自らのために、他者を愛する、それが愛なのだ。
花江ちゃん。とにかく、あなたは私のメシアであり、私の内在する感情の一端である、それくらい大切なものなんだ。
とにかく、いつまでも、離れたくないそう思う、夢の残存の余韻に浸っている、穏やかな朝の訪れだった。
「先生。そろそろ起きてよ!」
「あ、おはよう。今って何時かしら?」
「九時四十分です!」
ちなみに、木本さんの服屋の開店時間は十時といったところである。
仕事を控える彼女は、今、この空間の感じたことのない充足感と先ほどの夢から来る窮屈かつ繊細な余韻により、少し頭のネジが外れてしまったようだった。
「相変わらず、たくさん寝ちゃたわね。」
「先生って今日、お仕事とかある感じですか?」
「日曜日と月曜日はお休みなの。」
「そうなんですか!じゃあ、今日もたくさん一緒にいられますね。」
「そうね。でも、三時くらいにはあっちに帰らないとだめだからね。」
小さいリビングに敷かれた二つの布団にまたがる、ヒロインたちの胸はある程度、高まっていた。
しかし、施設に帰らねばならない少女の胸の高まりは別種の薄暗い高鳴りに刹那に変色してしまったようだった。
「帰りたくない。先生、私、帰りたくないです。」
「花江ちゃん。今のあなたはまだ、一人で自立している人間じゃないのよ。 あなたが帰らなければ、きっと施設の方達は花江ちゃんに対して、この上ない心配を抱くはずよ。」
「先生。私、もうこれ以上苦しみたくないんです。」
「もう、私は今までの人生で十分苦しみました。だから、もう自由でいたいんです。」
少女の額と頬には塩っぽい水滴は何一つとしてついていない。しかしながら、何よりも彼女の五臓六腑は間違いなく泣き叫んでいるようだった。
「私は家族、学校のクラス、少年院、どんなところで精一杯生きても、待ち受けているのは全部、最悪なシナリオでした。」[でも、葉月先生の相談室だけはいつでも、私を肯定してくれた。」
「花江ちゃん。」
「施設に戻っても、結局はまた負が繰り返される。」
「でも、先生だけは絶対そうならないって信じれるんです!」
彼女の口から放たれた感嘆符は相対する彼女に猛進した。
それと同時に外からは焼き芋屋の鬱陶しくも暖かい、重低音が二人に鳴り響く。
「分かったわ。花江ちゃん。取りあえず、朝ごはんに焼き芋でも食べないかしら?」
「はい。先生。」
ヒロインたちは懇ろに頷き合った。
片方はというといつも通りであるが、もう一方の少女の様相はというと少しばかり超然としているようだった。
端的に言えば、その風貌はまるで円熟した淑女のようでありながら無垢な幼女のようであった。
いや、その見解は少し間違いなのかもしれない。
今宵と先日の悲しむ彼女の変質、言わば、風体の入れ替わり、その光景のせいで、円熟と無垢という二つの枠組みに知覚を閉じ込めてしまったのかもしれない。
要するに、今、進行する時間軸での彼女を説明するのに等しき、レトリックと言ったら、それは花江ちゃんという本来の姿というものが相応しいであろう。
長くなってしまったが、つまり、少女の風体と体躯はあの時、言わば二人のヒロインたちの再開の時に戻ったのである。
それから、部屋に黄色く紫色の温もりがもたらされた後、時は程なくして、夕刻色に染まりあがっていたようだった。
見上げる空にはメランコリーやらディストピアという無全たる黒は何一つ偏在しなかった。
だが、二人のヒロインたちの過去にはその精神世界たちは確かに、間違いなく、遍在していたようであった。
だが、安心なことに彼女たちにそのような漆黒たるクロが降りかかることはもう断じてないであろう。
その事だけは真実であり、普遍物である。
ちなみに、降りかかるとしてもその色は今、今宵の空と同色の橙色であろう。
「花江ちゃん。今日という日はとても幸せね!」
「そうですね。先生!」
「そんなところでなんだけど、花江ちゃん。色んな道を歩んできた私たちだけど、今日みたいな素晴らしい日にメインディッシュと言ってはなんだけど、一緒に散歩でもどうかしら?」
「いいですね!」
「ずっと私、先生ともう一度、私を救ってくれたあの日みたいに一緒にこの街を歩きたかったんです。」
「あの日って?」
正直、彼女はその日とやらが何者かはという命題に対して、ある程度の確かな結論を持ち合わせているようだった。
「あ、初めて一緒にご飯を食べたあの日ですよ。」
「やっぱりそうね。思い返せば、あの日も一緒にお散歩したみたいだったわね。」
「空の色も同じ感じでしたよね。」
この街を覆い尽くす橙色の夕焼けは彼女たちを心から歓迎して、外部の如何なるものも寄せ付けないようであった。
一方で、施設の空と言ったら少しばかり紫模様、また、私たちの正反対に位置する踊りの国と言えば、澄んだ紺碧の青空だった。
しかし、どれも不似合だ。
今日という日はこの色が何よりも相応しいであろう。
そんな頃である。 世界各国の何隻かのノアの箱舟はどこかしらに飛び立った。
そして、また、その箱舟は気ずかぬ内に鮮やかな洗礼を受けて、彼方の塵へと帰っていったようである。
「じゃあ、行こっか花江ちゃん。」
「はい!」
夕焼けに照らされて、無機質な鉛色の階段もオレンジ色に、そして、もちろんのこと彼女らも例外なく照らされていた。
「先生。私、学校の方に行きたいです。」
「そうね。私も是非そうしたいわ。」
「しかし、本当に今日は暖かいわね。」
「そうですね。確か十二月では十五年ぶりの暖かさらしいですよ。」
二人の足跡は学校に着々と迫っている。 そして、甘美な時も同様に。
「先生。葉月先生。私、幸せです。今、この瞬間がとても幸せです。」
「私もよ。花江ちゃん。」
「ねぇ先生。この空と街がこんなにも暖かいんだし、せっかくだから、先生に私のこと全部さらけ出しちゃてもいいですか?」
「いいわよ。私を誰だよ思っているの。 あのカウンセラーの葉月先生じゃない。」
「ふふ。ありがとうございます。」
暖かい空に照らされている、黒く紅いシャボン玉を吹こうとする彼女の細胞は生き生きと分裂を繰り返している。
また、同様に照らされる彼女の埃だらけの受け布団も今はすっかり、さっぱり空虚に輝いていた。
「実は、私の祖母はもうこの世にはいないんです。」
「花江ちゃん。だから、施設なんかに。」
「悲しみました。そりゃひどく悲しみましたよ。 でももういいんです。 私は乗り越えたんです。 最愛の人の死を乗り越える。 私にはそれしか選択肢はなかったんです。」
「花江ちゃん。一回座って話さない? 無理しなくていいんだからね。」
「だから、もう大丈夫ですって。 あの時はすがる人が誰もいなかった。 いや、心の中ではもちろん、先生は私をどんな時でも支えてくれていました。 でも、こうして出会っていなければ、きっといつか私はジェンガのように崩れ去っていたと思います。」
「花江ちゃん。」
そうしていると彼女らの吐く白い息と、学校が放つ悠久の白樺色の大気はほのかに共鳴し合っているようだった。
「あ、着きましたね!」
「花江ちゃん。 あなたは今、こうして暖かい息を吸って、吐いている、そんな光景を私が見られるだけで十分よ。 あなたは色んな人に裏切られて、ついには人までも殺めてしまった。
そんな花江ちゃんを見ていて、私までも現実逃避という愚行に走って、大切な母さんを裏切ってしまった。」
「先生。私のせいで。。。。」
「でもね、花江ちゃん。 今、こうして私と花江ちゃんは同じ空気を吸い、生きることを楽しみ合っている。 そんなことだけで、有り余る程十分なのよ。 もう花江ちゃんに過去なんて必要ないの。 花江ちゃんは前だけ向いて、自由にいればいいのよ。」
「先生。 やっぱり葉月先生は最高のカウンセラーです。 これまで何度も私の心が汚されるたびに私を救ってくれた。 でも、私、先生とのこれまでを振り返って、ちょと気ずいちゃたことがあるんです。」
「はて、何かしら?」
彼女たちは熱く、どこか白くはたなた淡く語らい合っている。
ところで、彼女らの散歩の目的というもの言うなれば、学校の訪れを契機とした過去の回想と追憶といったもののはずであったが、彼女らの足はもう学校からは反対の南側を指していた。
それはどういう事であろうか。
おそらくだが、彼女らは人生の岐路の語らいを通して、明確な航路を変更したようであった。
それは、過去の回想や追憶でもなく、忘却、いや脱却である。
「先生と私が会話する時って、いつも、私に関するのことしか話してなかったですよね。」
「そりゃ。カウンセラーだからってことはあるでしょうが、少し不自然でした。
先生はきっとカウンセラーだから、そういう訳じゃなくて、どんな時も自分自身を話す事に強固な南京錠をかけてしまっているんですよ。」
そのシャボン玉を吹かれた彼女の胸とブレインは熱く呼応した。
「花江ちゃん。花江ちゃん。 その答えは正解よ。 確かに、私はどんな時も自分自身の口に解かれる事のないロックをかけていたのよ。」
「そして、そんなことを言ってくれた人はこれまでの人生の中で母を含めて誰もいなかった。」
「先生。先生が泣いている姿なんて、私、初めて見ましたよ。」
今、涙を垂らす彼女は、喜びから起因するその行為自体が初めてだったようだった。
「葉月先生! 私、先生の話が聞きたいんです。 私は先生を愛しています。 だからこそ先生の話を聞きたいんです。」
「花江ちゃん。 私、花江ちゃんになら、自分を解放できる気がするの。」
「先生。 私は先生を愛しているんです。 愛し合っているなら当たり前のことじゃないですか。」
彼女は全てを解放した。
その内容というと昨晩彼女が見た、夢の全貌のそのままであった。
何を隠そう、昨晩の夢自体が彼女の全てでありそのものであったのである。
「先生。 やっぱり先生は先生で先生だったんですね!」
「どういう事よ。」
「や、いい意味でですよ」
「花江ちゃん。 とにかく、ありがとう。 あなたは間違いなく、私にとってのカウンセラーよ。」
「変なこと言わないで下さいよ!」
相互開放、彼女らはお互いがお互いをさらけ出して、開放されたようだった。
そうして、彼女らの足跡ももうじき、始まりの地へと再び帰依していくようであった。
空は少し薄暗い。 夕焼けの終わりと共に、彼女らの歩みも終焉へと向かっていったのだった。
「着いちゃいましたね。」
「早かったわね。 でも何より楽しかったわ。」
「私もです!」
紫模様の階段を駆けるヒロインたち。 彼女らの心も満たされて、同様に身体の方も満たされたがっている。
「はぁ。少し疲れちゃいました。」
「花江ちゃん。 花江ちゃん あなたは私を私でいさせてくれた。 愛しているわ。 愛しているわ。」
高鳴る彼女は彼女に接吻を投げかけた。
もちろん、もう一方も応じるようだった。
「先生。 どうしちゃったんですか。 先生じゃないみたい。」
「花江ちゃん。 横にならないかしら?」
「ふふ。 いいですよ。」
「暖かいですね。」
「私もよ。」
そうして、ヒロインたちは温もりを分かち合った。 数秒後、二回目の接吻を交わし合った。
「愛しているわ。」
「愛してます。」
笑みを浮かべ合い、愛を育む。 愛を浮かべ、 先よりかは力強い頂点の笑みを浮かべ合う。
「先生。 素敵です。」
「花江ちゃん。 花江ちゃん。」
息を吸う。 息を吐く。 息を吞む そして、荒げた。
「。。。。。。。。。。。。。」
「。。。。。。」
「。。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
もうじきだった。 終局はもう時だった。
「愛してるわ。花江ちゃん。」
「私もです。先生。」
「。。。」
「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」
「。。。。。。」
「。。。。。。。。。。。」
もうじきだったのだ。 本当にもうじきだったのだ。
彼女らの愛の完全な成就は。
ピカァ
彼女らの何回目か分からない接吻と共に、その轟音は鳴り響く。
今宵の空と似た淡い橙色の何者かが、彼女らを優しく、はたまた殺戮戦車のように覆い尽くした。
「はなえちゃ。」
「せんせ。」
ボカーーーーーーーーーーーーー――――――――――ン
そうして、崩れ去った。
彼女らの儚い恋慕とこの世の理が。
エピローグ
3柚木
ビービー けたましい着信音が私の小さな楽屋を荒げるようだった。
私自身、この音が吐き気を催す程大嫌いだが、居眠り症の私にとって、マネージャーの咲さんからの助け舟がなければ、私は到底、女優業を続けることなんぞ不可能であったであろう。
そうして、いやいや私は、スマートフォンを弱々しくスクロールして、マネージャーの咲さんからの着信を応じるようだった。
「柚木さん! 本番まであと三十分ですよ!」
「起きてます。 起きてます。」
「メイクアップはしてあるんですか?」
「大丈夫、大丈夫ですよ。 もう、あとはオンエアで目立ってぶちかますだけですって。」
「私は四六時中、柚木さんに付き添えないんだからしっかりしてくださいね!」
「あ、そうえば咲さん。さっき私、今までに見たことないくらい凄い夢、見たんですよ!」
「はい?もう、本番前ですよ。そんな子供みたいなことは辞めて、頼むから早く準備してくださいよー。」
「はいはい。分かりました。 でね、女の子のカウンセラーと女の子の生徒の話なんですけどね。」
「結局話してるじゃないですか!」
「準備しながらだから許してくださいよー」
「その女の子と女の子がだんだん愛しあっていく、みたいなものが夢の大枠なんだけど、
私って女の子が好きでもどっちもあり側な人間じゃなんですよね。」
「随分具体的な夢なんですね。」
「夢って潜在意識が反映されるっていうじゃない。 こんな夢を見るってことは私のどこかしらにそういう意識が存在してるってことだと思うんですよ。」
「私だって先週ガマガエルに追いかけられた夢みたいなものを見ましたけど、そんなの私の日常に全く関係ありませんよ。」
「そうよね。でも、私、この夢で、色んな人の意識であったり、気持ちが少しだけ分かった気がするんです。」
「夢から学ぶものなんてあるんですか?」
「きっとあるんですよ。人を好きになることなんて誰でもあるきっかけで変わりうる、そう私は思った。」
「もう、何、本番十分前に話してるんですかー。 そろそろ、私も忙しいし切りますよ。」
「せっかく、人が真剣に話してるいるのにひどいですねー。 、まぁ今日のオンエアは是非とも期待していてくださいよ!」
「今日の私はいつもと違う気がするんです!」
「お、珍しいじゃないですか。じゃあ、頑張ってくださいね。 明日は朝八時半からお台場スタジオですからね。」
「分かってますよ! あ、そろそろ行かなくちゃ。 じゃあ、切りますね。」
?Hazuki 某日
某日
カチャと音がなる。ライターに火が付いた。ピコッと音が鳴る。テレビに灯が付いた。
「さぁ今夜も夜会にようこそ。どうも、MCの堺です。今夜もライブで現代人の悩みをスカッと解決いたしましょう。そして、今夜は特別なゲストが二人来ていらしゃています。」
うるさい登場BGMだ。フー。フー。
「コメンテーターの桜井さんです。」
「どうも、こんばんは。」
「女優の柚木さんです。」
「よろしくお願いします!」
「さて、ゲストも揃ったことだし、今日の夜会のトピックを視聴者の皆様にお伝えします。
お、まず、神奈川県A市からの佐々木さんからのお便りです。
私は30代の何の変哲もないありきたりな子持ちの主婦でございます。
しかしながら、最近ある悩みがあるのです。私はある何かが、芽生えてしまったのです。
私は夫と結ばれるまで、男の人と手も繋いだことのないような生粋の処女でありました。
そんな中、私は当たり前のように九年程前から夫と子作りに励みました。
正直、今、振り返ると私はその行為に微塵も何の感情も抱いておりませんでした。
私は他の家庭のように、当たり前の家庭を築く。そんなことばかりで、前など何も見えておりませんでした。
正直に端的に私の心打ちを明かします。
私は自分の娘に家族愛とは異なる愛を明らかに抱いてしまったのです。そして、夫に性的感情を抱いていない。
おっと。ううん。」
「おい、大丈夫すかディレクター!」
「おい、一旦とにかくコマーシャル入れろ!」
「や、彼女の気持ちも分かります。彼女は何も悪いことはしていない。きっと夫への申し訳なさとこれまでの食い違いがそうさせてしまったのでしょう。彼女はずっと苦しんでいたんです。」
「ちょと。柚木さん!」
カチャ。
「情報専門学校、光眼舎!」
ピコッ。テレビの光は止んだ。
こいつはやっぱりうまかった。
あと、昨日初めて打ったやつはもっとやばかったけ。
なんか、甘くて苦い感じだったな。
あぁそろそろ死んじゃおうかしら。
自然発火 self ignition
私はこの世の事象と行為は全てこの陳腐な自作の造語から成り立っていると勝手ながら信じこんでいる。
作中の全人間の神経細胞の発火、または幾多の恋慕、はたまた、惑星の無下たる自滅
正直に言ってしまえば、私が生ける日常もこの寓話とかなり通ずる所があるようである。
少なくとも、私は皮肉屋であり、楽観主義者である。
それ故に、このような退廃的な理論に陥るのであろう。
私は、無感情に情動的にこの世の営為をこれかれも受け入れ続けたいと思う。
Fin
「
救済には、様々な方法がる。




