綿菓子を溶かして。
おぼろげでありながら、決して忘れられない記憶がある。
それはおそらく、安曇双葉が自認している中で最も古い記憶だろう。
二歳か三歳くらいのころだっただろうか。まだ言葉もまともに話せないほどに幼いころ、年上の従姉によく遊んでもらっていた。
愛嬌があり、利口で面倒見のよい従姉だった。
一人っ子であったフタバにとっては甘えられる姉のような存在で、幼心に彼女のことが大好きでよく懐いていた。
彼女はパズルが得意だった。
ご両親の趣味だったのだろう。彼女の部屋にはいくつものパズルがあり、中には大人でも苦労するような難解なものも含まれていた。
彼女はそれらの中から一つ手に取っては解いてみせ、「●●は頭がいいんだね」と両親に頭を撫でられていた。彼女はくすぐったそうに目を細めていたが、そうされることがとても好きなのだということは、幼いフタバにも十分理解できた。
ある時、彼女が一際大きなパズルを持ってきた。
「これは、うちにある中で一番むずかしいパズルなんだよ」
そう言って複雑な幾何学模様が何重にも組み合わさったような木片細工を、誇らしげに披露してくれた。どうやら、誕生日プレゼントにねだって買ってもらった世界最高峰の難度を誇るパズルらしく、飛び切りに複雑なパズルだけあって流石の彼女もかなり苦戦していたようだった。何日かしばらく挑戦し続けているが、なかなか進められずにいたそうだ。
彼女がそれをフタバに見せてくれたのは、当然、フタバがパズルを解くための助力になると考えたわけではなく、ただ、他愛のない話題の一つとして、珍しいものを紹介してあげようといった程度の考えだったのだろう。
その日も、あちらを押して、こちらを引っ張って、いろいろと試していたのだが、一向にらちが明かず、やがて気が変わって別のオモチャで遊び始めていた。
まだ、パズルがどのような遊びであるかすら理解できていないほどに幼かったフタバは、目の前に転がっていたそれを彼女の真似事をするようにいじり始めた。
それから数分後、フタバは宝石のように煌めくピンク色のガラス玉を、彼女に見せた。
「はい、おねえちゃん」
きっと喜んでくれると思っていた。
しかし、彼女はフタバの差し出したそれと、部屋の片隅でバラバラになったパズルのピースを一瞥すると、ひったくるようにガラス玉を奪った。
そして、フタバが取り出してあげたそれを小さな木箱の中に戻し、ピースをひとつひとつ組み立てなおそうとしていた。
「おねえちゃん……?」
突然豹変してしまった従姉の様子に不安な気持ちがあふれ出してきたフタバは、縋るように彼女に手を伸ばした。
――フタバの小さな手は無言で叩き払われた。
拒絶された、とはっきりと理解した。
正しい手順を踏まずに力任せに戻そうとしたために歪にゆがんでしまったパズルのピースと、今にも泣きだしそうな顔でガラス玉を睨みつけていた彼女の姿を見て、フタバは母の名前を覚えるより前に、ひとつ、世界の真理を知った。
――この世界には一度壊れてしまうと、二度と元の形には戻らないものがあるのだ、と。
その日以来、従姉と遊んだ記憶はなく、もう名前も覚えていない。
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女子高生といえばマックであり、マックといえば女子高生である。
それはおそらくカエサルがブルータスに暗殺された頃にはすでに広く知られており、きっと今日より百年後に至るまで変わることのない定説だろう。
そんなわけで、マックのボックス席でバニラシェイクに口をつけながら女子高生安曇双葉はひとりスマートフォンをいじっていた。
目まぐるしい投稿の応酬が繰り広げられているグループLINEを斜め読みする限り、友人たちは、ほどなくこちらに到着するようだ。
当たり障りのないスタンプを既読代わりに一つ送信したところで、ドカっと、対面の席に腰を下ろす者があった。
「ごめん、お待たせ」
視線だけスマホに戻すと、いったいどんな早業を駆使したのか『フタバと合流』の文字がリアルタイムで更新された。
「言い出しっぺが遅刻?」
フタバが言うなり、その人物、小諸凛子は両手を合わせる。
「ごめんごめん。いやさ、最近、フタバってばバイトばっかりで全然一緒に遊べていなかったじゃん? だから、柚乃と詩乃に合わせるのに慣れちゃってさ。……怒ってる?」
「別に」
「……不機嫌?」
「少し」
当て付けのように、フタバはバニラシェイクの底をすする。
もっとも、たかが五分の遅刻で機嫌を損ねたりするほど潔癖な性格でもない。わざわざ口にすることはないが、機嫌を損なっているの原因はまったく別だ。
「ごめんってばー。いつか絶対埋め合わせするからさ」
「埋め合わせって、具体的には?」
「なーんにも考えてない」
悪びれもせずリンコは言う。
いつもと変わらない親友の様子にフタバは呆れながら、スマホを傍らのバッグへしまい込む。
「相変わらずデコってるねえ、そのバッグ」
「キラキラしたもの、好きだから」
「知ってる」
言って、リンコはおもむろに左耳につけていた青いピアスを外し、フタバのバッグの端へとつけた。
「じゃあ、これで埋め合わせってことで」
思いもよらないリンコの行動にどう反応すればいいか困っていたところで、
「おいーす。ユノシノちゃんが合流だぞー」
と、おそろいのゆるふわストロベリーブロンドをたなびかせた二人が登場し、ボックス席の隙間を埋めるように腰を下ろした。
「フタバちゃんおひさー。最近誘っても全然一緒に遊んでくれなかったから柚乃ちゃん寂しかったんだぞぅ」
「バイトが忙しかったから」
仔犬のように抱きついてくる柚乃を引っ剥がしながら、フタバは言う。そして、まったくひどい言い訳だと思う。
本当はバイトが忙しかったのではなく、自主的にバイトをたくさん入れていただけだ。嫌なことを考えてしまいそうになる余計な時間を、忙殺させるために。
「ぶぅ、私たちの友情はバイト以下かよぅ」
「そーいやさ、フタバのバイトってなんか特殊な奴だよね?」
ポチポチとスマホでオーダーしながら、詩乃が言う。
「そぅなの? なに? いかがわしいやつ?」
「そんなわけないでしょ」
「アプリとかでもあんま募集見かけないやつだよ。ほら、なんだっけ? サド?」
「女王様じゃん。数あるいかがわしいやつシリーズの中でも一番わかりやすいいかがわしいやつじゃん。おとうさん、そんなの許しませんよぅ」
「あ、でもわかる。フタバに罵られたいって男子、たぶん多いよね。切れ長で色気のあるこの瞳で睨まれるの、想像するだけでゾクゾクしちゃう、みたいな」
「なぁに、詩乃ってばそういう気のあるタイプだった?」
「……なんか勝手に変な勘違いしてるみたいだけど、当然女王様なんてやってないし、いかがわしいことなんて何もしてないよ。ただ、おじいちゃんの部屋に遊びに行って一緒に本読んだり駄弁ったりするだけの健全なバイト」
「パパ活じゃん。結局いかがわしいやつじゃん」
「いや、おじいちゃんだったらジジ活じゃない?」
「でもまあ、おじいちゃんと本を読んでるだけなら変なことされたりする心配もないだろうし、ある意味健全なのかな?」
「いやいや、最近はそうとも限らないんじゃないの?」
「……ねえ、この話まだ続くの?」
うんざりしたような声でフタバが言うと、柚乃と詩乃は互いに顔を見合わせやれやれと首を振る。
「そぅだぞ詩乃。四六時中ヒマな私らと違ってこっちのリンコさんはなんせ彼氏持ちなんだ」
「そうだね柚乃。彼氏といちゃこらする時間を無駄に奪ってしまってはリンコさんに申し訳ないというものだ」
ひれ伏すような芝居がかった仕草で、二人は並んでリンコに頭を下げる。
「で、リンコさんや。今日の緊急招集の議題はなんでござるかね」
唐突に水を向けられたリンコは、言葉を準備していなかったのか、指先で髪をいじりながら視線を泳がせる。
「いやー、実はね、まさにその彼氏に関することなんだけどさ……」
そしてしばらく口をもごもごとさせたあと、パンと手を合わせ三人に頭を下げた。
「これからそいつに会って別れ話ってやつをする予定なんだけど、一緒についてきてもらえないかな?」
ちりと。何かの熱が、フタバの胸の中で疼いた。
同じ女子高に通い、等しく男性に縁のなかったはずの仲良し四人組の一人であるリンコにいわゆる彼氏というものができたのはほんの二週間ほど前のことだ。
運命的と呼べるようなエピソードは一切なく、きっかけはただのナンパであった。
ゲームセンターを訪れていた仲良し四人組は、最近夢中になっていたちいさくてかわいいマスコットキャラクターのプライズ目当てにクレーンゲームにかじりついていたところで、軽薄そうな男子グループに声をかけられた。
その中の一人が、たまたまリンコがお目当てにしていたキャラクターのグッズを身に着けていたため、うっかり意気投合してしまった。
フタバにとっては内心あまり気分のいい展開ではなかったが、楽しそうに盛り上がっている友人にわざわざ水を差すこともないだろう、とその時は余計な言葉は飲み込んでいた。
それが、間違いだったと後悔したのは次の日だ。
「なんか、押し切られて付き合うことになっちゃった」
困ったような、少し照れくさいような顔で、リンコはそう言った。
交換した連絡先にいきなり告白メッセージが送られてきて、当然最初はやんわりと拒絶していたのだが、聞けば、その男子高生たちはこの辺りでは名の知れた進学校の生徒であり第一印象よりは素行が信用できそうだっということと、まずはお試しで二週間だけでそのあときっぱり振られるようだったら潔くあきらめると言われたことから、断り切れずに承諾してしまったそうだ。
「そいつ医者の息子なんでしょ? 将来有望の優良物件じゃん。どうしてフっちゃうのさー」
「そうだそうだ。どうせ捨てるんだったら私らにいい男を紹介してからにしろー」
柚乃と詩乃が、ポテトをかじりながら好き勝手に言っている。
「まあ、確かに悪い人じゃないと思うんだけどね」
「じゃあ、なんで?」
フタバがそっけなく聞くと、リンコは少し困ったような顔をした。
「それがね、ちゃんと言葉で説明できる理由がなくって、だからこそ困ってるっていうか」
「どゆこと?」
「最初はね、新鮮な感覚だったし正直少し楽しいかもって気持ちもあったんだ。だけど、しばらく彼とLINEのやり取りをしているうちに、なんとなく“違う”って思って。で、一度そう思ったら、もう止まらなくなっちゃって――」
後悔が滲んだような声でリンコは言う。「そしたら、罪悪感みたいな気持ちしか残らなくなっちゃった」
件の彼氏との待ち合わせに、リンコは駅近くのファミレスを指定していた。
比較的広めの店内で、なるべく目立たない位置のボックス席を選びフタバはリンコと二人並んで待つ。
柚乃と詩乃は、少し離れた場所でそれぞれクリームソーダをつつきながらちらちらと様子をうかがっていた。
指定時刻の1分前。来客を告げるベルが鳴り、見覚えのある人影が目に映る。何日か前に、ゲームセンターで見かけた顔、――だが。
隣に座るリンコが、緊張で硬く震えたのが分かった。
「おまたせ、リンコちゃん」
「なに、二人いるじゃん。どっちがお前の彼女なん?」
「どっちにしろ勝ち組っしょ。両方マジかわいいじゃん。嫉妬するわ」
「余ってる子はフリーなの?」
「えっ、マジ? だったら俺いっていい?」
「いやいや、何勝手言ってるの。俺がいくに決まってるでしょ」
想定外の人数だった。ぞろぞろと連れ立って、7,8人の大所帯だ。呼び出したのは彼氏一人であったはずだ。
常識外れな振る舞いに、嫌悪感が膨れ上がる。フタバは思わず目つきが悪くなるのが自覚できた。
「ここ、四人掛けなんで彼氏さん以外は別のところへ行ってもらえますか? お店のご迷惑にもなりますので」
フタバは意図的にキツめの言葉を選んで言うが、男子高校生たちはあくまでおどけた態度を崩すことなく、ケラケラと笑いながら斜向かいのボックス席へと腰を下ろした。
「ごめんね。騒がしいやつらでさ」
「ううん、大丈夫」
リンコの声が少し小さい。作り笑いも、ぎこちない。
嫌な雰囲気だな、と思った。
ポンコツ彼氏も意図してこの人数を引き連れてきたわけではないだろうが、これから始めようとしている話題が切り出しにくくなってしまった。
「ここ。一人分、席が余ってるなら僕も一緒に座ってもいいかな?」
場にそぐわないような大人びた声が混じった。
彼氏が引き連れてきた大所帯の中で、一人だけ輪に加わらず様子を見ていた男子生徒。
二週間前、ゲームセンターで出会ったときの集団にはいなかったように思う。
「リンコ、いい?」
フタバが確認すると、リンコはこくりと頷いた。
「ありがとう」
その男子生徒は頭を下げ、静かに腰を下ろす。そのとき、正面に座っていたフタバの顔を見るなり表情をこわばらせた。
「……なに?」
フタバが不信感をあらわにした視線を送ると、彼は顔を振って表情を切り替える。
「いや、申し訳ない。なんでもないよ。……気を悪くさせてしまったかな?」
「別に。気にしてないよ」
ほかの連中と違い、茶化さず素直に謝罪できるくらいには誠実な性格のようだ。
おそらくリーダー格、あるいは保護者のような立ち位置の人物なのだろう。ポンコツ彼氏にとっても信頼のおける人物のようで、会話の端々に敬意のようなものが見え隠れしている。
「それで、リンコちゃん。直接会って話したいことって、なにかな」
ポンコツ彼氏が、浮かれた声で言う。
「…………」
「リンコちゃん?」
「……私から言おうか?」
フタバが水を向けると、リンコはふるふると首を振る。
そして彼氏をしっかりと見据え、
「私たちの交際だけど、やっぱりやめにしたいんだ」
と言った。
「えっ?」
想像だにしていなかった言葉だったのだろう。
彼の顔に浮かんだのは、動揺や得心ではなく、純粋な困惑だった。
「えっ、どゆこと? 付き合うのをやめたいってこと?」
「うん」
「どうして?」
「今日でちょうど二週間でしょ。二週間付き合ってみて、やっぱり違うなって思ったから」
「それじゃ理由になってないよ。俺、何か嫌なことした? それとも、どうしても別れなきゃいけないような事情でもできた?」
「ううん、特に何もない」
「じゃあ、どうして。納得できないよ」
「よくわかんないけど、なんか、違うって思ったから」
「……ほかには?」
「ううん、それだけ」
「なにか、言いたいことがあるんだったら、俺ちゃんと話聞くよ?」
「別に、そういうのも特にない」
「――つまり、どうしても、無理なのかな?」
「……うん」
彼氏はしばらく目を伏せ、沈黙が続く。
「……………………」
「ごめん」
端的にそう言って、リンコは頭を下げる。
強引に押し切られて承諾しただけの時限付きの関係を解消するには、十分すぎるほどに誠実な対応だろう。
たっぷり十秒ほど、だれも口を開かない時間が流れた。
そして唐突に、ガンッと、テーブルが蹴り上げられた。
「ざっけんなよ」
先ほどまでの浮かれた声が信じられなくなるような、暴力性を孕んだ声だった。
リンコの肩が、ピクリと跳ねる。
「は? なに? 俺、そんなわけわかんない理由でフられるの?」
「もともと、二週間のお試しでって話だったし……」
「でも、オーケーしたでしょ?」
「それは、だから、ごめんって……」
「マジ言ってんの? 納得できないって」
「でも、なんて言われても、やっぱり無理だから」
「ふざけてる? 今更そんなこと言う?」
「だから、私は最初から言ってたじゃん、付き合う気はないって。何度も、何度も言ってたじゃん。だけど、そのたびに否定してくるから、だから、仕方なく形だけ付き合ってただけじゃん。きちんと終わりを決めるからって約束で」
「…………」
「――そんなやり方で、うまくいくわけないじゃん」
瞬間、リンコの言葉に激昂して立ち上がりそうになった彼氏を、隣に座っていた男子生徒が止めた。
「言葉を捨てて暴力に訴えるようだったら、僕は君を軽蔑するよ」
「……ふんっ」
テーブルを蹴られた時は反応できなかったが、今度暴力的な手段を取ってくるようだったら飛び掛かってやろうと思っていたフタバは、少し肩透かしを食らったような気分になった。
彼氏は、半分あげていた腰を乱暴に下ろす。
そして、信じられないような悪辣な態度で、リンコに言う。
「わりに合わねえんだよ」
「……えっ?」
言葉の意味を呑み込めずにいるリンコに、ポンコツ彼氏は鼻で笑って言葉を続ける。
「あのさぁ、俺らの通ってる高校がどんなところで、そこに通ってる学生がどんな生徒か知ってる? お前らみたいに暇を持て余して遊び惚けているような頭空っぽの女子高生とは違うんだよ? 毎日毎日勉強して勉強して、トップクラスの大学に入って、いずれは社会を動かしていく立場の人間なんだよ? お前が言った通り、俺たちは付き合って二週間だ。二週間。俺は、二週間もお前に付き合ってやったんだよ? 同じ時間でも、お前らと俺らとでは、価値が全然違うんだ。当たり前だよな? コンビニのバイトと会社の役員とが同じ年収のわけがないもんな? 頭空っぽでもそれくらいわかるだろ? つまり、お前に付き合ってやってた時間の分だけ、差し引きで俺は損をさせられているんだよ。損害を受けたのは俺のほうなんだよ」
傲岸不遜。厚顔無恥。
聞いているだけで寒気がするような暴論を、ポンコツ彼氏はまるで演説でも打つように得意げに語る。
リンコが自分で話すと言った手前、フタバは口をさしはさむことはやめようと思っていた。
だが、我慢するにも限界はある。
「ねえ、あんたさあ、リンコのことが好きだったんでしょ? だから付き合ってって言ったんでしょ? なのにどうして、そんな酷いこと言えるの?」
「フタバ。いいって、やめて」
「…………あぁ?」
「ねえ、日本語わかんないの? 頭良いんだったら言ってる意味わかるよね? ねえ、答えてよ」
ポンコツ彼氏は、わざとらしく舌打ちをして、言う。
「馬鹿じゃねえの。別に、好きだったってわけじゃねえよ。ただの損得で声かけただけだ」
「なに? どういうこと?」
「こいつと付き合えば、時間やらの多少の投資は必要だろうけどいずれは回収できるって思ったってことだよ。だけどまさか、これから投資分を回収しようって思っていた矢先に、一方的に、『はい、おしまい』ってなるなんてな。結果、回収ゼロで投資分丸損だよ。笑えるだろ? 常識的に考えて、普通そんなの納得できるわけねえだろ?」
不快感はすでに限界を超えている。抑えようとしても、感情がこぼれ出てしまう。
「……投資の回収って、なんのこと?」
ゲス野郎の考えそうなことなど、透けて見えるようにわかっていた。
刺すような視線で睨みつけながらフタバが言うと、ゲス野郎はいやらしく口の端を上げて笑う。
「決まってんだろ? 顔はそこそこだけど、胸のサイズは抜群だったからな」
咄嗟に手を振り上げたところで、それよりも先に乾いた音が響いた。
「っ痛ぇ」
「――さすがに、下品が過ぎる」
ゲス野郎の隣に座っていた男子生徒が言う。
「……暴力を否定したお前が、暴力振るうのかよ」
「軽蔑してくれて構わないよ」
フタバが、振り上げた手のやり場に困っていると、彼は先に振り下ろした手をさすりながら頭を下げた。
「友人が失礼なことをした。代わって謝罪する。君たちの言い分は十分理解できたし、もうこれ以上交わす言葉もないだろうから、先に帰ってもらって構わないよ」
「ちょ、なに勝手なこと言ってんだよ。話はまだ終わって――」
「終わりだよぅ」
「終わりだねー」
離れた席に座っていた桃色ブロンドヘアーの二人組が、そろってスマホのカメラを向けながら近づいてくる。
「……なんだ、お前ら?」
「フタバちゃんに言われて、私らずっと撮影してたかんねぇ」
「暴言もばっちり録音済みー」
「んなっ……!!」
「これ以上リンコちゃんに迷惑かけるようだったら、うっかり指が滑ってこの動画、SNSにアップロードしちゃうかもしれないよー?」
「私ら、SNSのフォロワー10万人だよぅ? 拡散力舐めんなよぅ?」
二つのスマホを前に、ゲス野郎は口を開けたままフリーズしている。
フタバとしては、内心まだまだ言いたいことは山ほどあった。だが同時に、これ以上一秒でもこんなやつと同じ空気を吸いたくないとも思った。
一度だけ、射殺すつもりで睨みつけた後、フタバはリンコの手を引き無言のまま大股で店を後にした。
逃げるように駅前の広場までやってきた四人は、お互い顔を見合わせ、だれからともなく一斉に笑い出した。
「あはははは、なにあれ。ヤバすぎでしょ」
「リンコ、男運なさすぎでしょ。ヤバすぎでしょ」
「なにが、“悪い人じゃないと思う”よ。ぶっちぎりで最低なヤツじゃん」
「ね。我ながら、ね。人を見る目がなさすぎるってね」
「でも、さっきはマジびびったー」
「私もー。最後のほうドヤってスマホ向けてたけど実はずっと震えてたし、なんならいまもまだぷるぷる震えてるし」
「初めてのライブ配信の時より緊張したねぇ」
「フタバちゃんがいてくれてホント良かったよ」
「うん、本当。ありがとね。隣にいてくれて、とても心強かったよ」
「今日からアネゴと呼ばせてもらいやす」
「もらいやす」
「いや、勘弁して」
笑っているうちに、張り詰めていた感情がほぐれていく。ゆっくりと、いつもの四人組の空気に、戻っていく。
「ごめんね、フタバも、柚乃も詩乃も。やっぱり、私にはまだ彼氏とか早かったみたい」
お腹を押さえながら、はにかむようにリンコが言う。
そして、
「これからも、すっとこの四人で一緒にいようね」
と言った。
彼女の言葉は、心の底からそう願っているようだった。
「――そうだね」
一瞬だけの躊躇いのあと。
フタバは、控えめに笑って頷いた。
賑やかな休日のファミリーレストランの一角で、一際騒々しい男子高校生の集団が一人の男子生徒を中心に盛り上がっていた。
「フられちまったな」
「抜け駆けすっからだよ。ざまぁ」
「うっせーよ。ああ、マジ気分悪ィ。なんでこの俺があんな頭空っぽな連中にバカにされなきゃいけねぇんだよ」
同級生に茶化されていた男子生徒が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「お前、自分より馬鹿な人間嫌いだもんな。偏差値至上主義者」
「当然だろ。世の中ってのは頭の良い奴が回しているんだから。頭の悪い奴は、頭の良い奴の言葉に従うべきだ。口ごたえすらするべきじゃない。だってのに、あのアホ女どもときたら。……特に、隣に座ってた目つきの悪ィ女。好き放題言いやがって、マジ許せねえ」
乱暴に吐き捨てられた悪態に、ひとり大人びた雰囲気をまとっていた生徒が突然吹き出した。
「君は、少し人を見る目を養ったほうがいい」
「どういうことだ?」
「君はずいぶんと彼女のことを見下しているようだけど、僕は、彼女が君より劣っているとは思わない、ってことだよ」
「……ずいぶんとあいつらの肩持つじゃねえか。お前こそ、ああいう連中のこと毛嫌いしてそうに思っていたけどな。全国テストで成績上位常連の天才様がよ」
「確かに、世の中には唾棄すべきような軽蔑に値する人間がいることは事実だ。だけど、そんな人間はほんの一握りだけだよ。だから、僕は君みたいに、だれかれ構わず見下すようなことはしない」
「はん、庶民受けしそうなご立派なお考えをお持ちで」
「あと、今後の君の未来のために、一つ忠告しておくよ。エリート意識を持つこと自体は否定しないけれど、それを振りかざすときは、きちんと相手は選ぶべきだ」
「どういうことだ?」
「たとえば、銃を持っている人物が一方的に蹂躙するつもりでケンカを売った相手が、実は戦車を持っているような人物だったとしたら、それは滑稽で哀れな話だろう?」
「だから、さっきから何の話をしているんだ?」
「君が目つきが悪いって言ってた子。彼女の持ってたバッグ、ちゃんと見た?」
「あのバカみたいにキラキラにデコられたクソダサいバッグか?」
「そう。そのキラキラの中に、僕が持ってるものと同じものがあったんだけど、気づいたかな?」
「は?」
「少し前、みんなにも披露したことあったでしょ。僕がイギリスの国際大会に出たときに持って帰ってきたやつ。もっとも、僕が持ってるそれは彼女のそれほどキラキラした色じゃないから気が付かなくても仕方ないかもしれないけどね。だけど、僕に限らず、彼女が持っているものの意味と価値を知ってる人間が見れば、さっきの君たちの言動は、実に滑稽に映っただろうね」
「……は?」
少年はつい先ほどの記憶を思い起こす。
彼女の隣に置かれていた、目が痛くなりそうなくらいキラキラと煌めいていたスクールバッグ。そこに張り付けられていた大小さまざまな金色のオブジェ。
中心にいた男子生徒の顔から急激に感情が消えていく。周りではやし立てていたほかの男子生徒たちも、同様に静まり返ってしまった。
「“頭の悪い奴は、頭の良い奴の言葉に口ごたえすらするべきじゃない”、だっけ?」
「――――ッッ!!」
羞恥で顔を紅潮させた男子生徒は、感情のままに思い切りテーブルを蹴り上げる。
休日のファミレスの喧騒の中、その音を気にする客は誰もいなかった。
「ねえ、じいちゃんって結婚してたっけ?」
フタバがそう尋ねると、白髪の男性はゆったりとした動作で手元の書類から顔を上げた。
いかにも上等そうな革張りの椅子がギシリと音を立てる。
「安曇さんの口からそんな話題が出るとは思っていませんでした。おかげで年甲斐もなく少しびっくりしてしまいましたよ」
言葉とは裏腹に、男性の表情は穏やかだ。
「バイト中に無駄口叩くなって?」
「いえいえ。いつも難解な論文の査読を手伝っていただいているのにアルバイト程度の報酬しか支払えずに申し訳なく思っていましたから。若い子が、こんな老人との世間話で満足されるかはわかりませんが、無駄口も大歓迎ですよ」
そう言って、デスクの上に山積みにされた分厚い郵便物の束とを端へと押しのけ視界を開ける。
一緒に押しのけられた三角形の古い卓上プレートには、硬いフォントで数学科教授と刻印がされていた。
「それでなんでしたっけ、結婚ですか? ええ、していますよ。妻とはもともと大学時代の同級生だったのですが、おかげさまで私のような研究一辺倒の偏屈な学者にも理解のある妻で、夫婦円満でやっています」
「付き合うとき、どっちから告白したの?」
「私からですよ」
「どうして、告白したの?」
フタバの言葉に、老教授は口元に手を当てしばらく考え込む。
そして、「妻との関係を“これからも続けていきたい”と考えたから、でしょうか」と答えた。
老教授の言葉に、フタバは目をしばたたかせる。
「それって、逆じゃない? 関係を”壊してしまうかもしれない”から告白はしない、とは考えなかったの?」
「逆じゃありませんよ。関係を続けていきたいと考えたから、告白したんです」
「……ふーん」
少なくとも文面の上では非常にシンプルに思える言葉を、フタバはまるで難解な数式を前にした時のように頭の中で反芻する。
「人間関係で悩んでいるのですか?」
「ちょっとね。あー、駄目だ。やっぱりモヤモヤするだけで全然すっきりしない」
「安曇さんにも、苦手な分野があったんですね」
「正直、今まで解いてきたどんな課題よりずっと難しいって思う」
フタバがそう言うと、老教授は夜のフクロウのように静かに笑った。
「安曇さんがそう言うのであれば、もしかしたらそれは人類史に残るほどの難問なのかもしれませんね」
老教授の控えめなジョークに少しだけ笑って、フタバは小さくため息をこぼす。
幼いころの苦い経験から、フタバは、大切なものを壊してしまうことにひどく臆病になっていた。
おそらく、その影響だろう。
フタバは、いつのころからか心の奥底で芽生えた甘い熱に、気が付きながら見て見ぬふりをしていた。
この熱はたぶん、一般的なそれと違って、単純な言葉で型にはめられるようなものではない。
とても甘美な予感を秘めている。だけど、同時にとても繊細で、まるで綿菓子のように儚いものだ。だから、きっと心の外に出してしまえば、たちまち自分の熱に焼かれ、壊れてしまう。大切なものを巻き添えにして。
甘美な予感は、予感のままでいい。
何もしなければ、関係は壊れない。進みはしないけれど、終わりもしない。
そんな、ほのかな香りを楽しむような曖昧な時間がただ続けばそれでいいと、そう思っていた。
だけど、思い知らされた。
大切なものが、あっけなく奪われてしまう喪失感を。
一人ぼっちで宇宙に放り出されるような孤独感を。
いままで、繊細なバランスで釣り合っていた天秤の片方に、ドカドカと鉄球を載せられたような気分だった。
本当に、このままでいいのか。
いったいいつまで自分に嘘をつき続けるのか。
今にもはち切れそうな心を無理やり宥めるように、逆の皿に思いつく限りの理屈を載せ続けてはいたが、天秤はいつ壊れてもおかしくないほどに歪んでしまっている。
ちりと。
甘い熱は、日に日に強くなっていく。
抑えられなくなった熱で綿菓子の端が溶け、雫になって落ちる。
そして、フタバははたと思い至る。
「――ねえ、じいちゃん。溶けない綿菓子ってあると思う?」
「砂糖菓子の綿菓子ですか? そうですね、溶けないようにするための手段であればいくつか思い付きはしますが、純粋に溶けない綿菓子というものは存在しないと思いますよ」
その言葉に、フタバは満足そうに「だよね」と頷く。
自然界に青い薔薇が存在しないように。水面に映る月を捕まえる手段が存在しないように。
溶けない綿菓子は、存在しない。
つまりは、いずれは、必ず溶けてしまう。
だったら、さっさと溶かしてしまえばいい。
繊細さも、儚さも、最初から溶かしてしまえばいい。そんなものに拘泥する必要などひとつもないのだから。
綿菓子なんて、溶かしてしまえばただの砂糖の塊だ。つまりは、甘いだけの感情だ。ならば、なにを躊躇う必要があるだろうか。
「うん。ちょっとだけすっきりしたかも」
強い光を目に灯して、フタバは言う。
その様子を見た老教授は、ふと思い出したように言う。
「そういえば、まだきちんとお祝いの言葉を伝えられていませんでしたね。先日の国際数学オリンピックではずいぶんとご活躍されたようで、おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「そのバッグ、また一つ勲章が増えましたね」
「そうだね。実は、今日も一つ増えたんだ」
「そうなのですか?」
「それも、飛び切りにキラキラしたやつ」
ここ数日悩み続けていたことが嘘のように、フタバは気持ちが高ぶっていた。
この甘い感情をさらけ出したら、彼女は、いったどんな反応をするだろう。
やっぱり驚くだろうか。それとも、お腹を抱えて笑い出すだろうか。当然、拒絶される可能性だって少なくない。
鼓動が高鳴るのを感じる。
世界が、真っ白な雪で覆われたような気分だった。想像の銀世界に、フタバは目を細める。
生まれて初めて雪に足を踏み入れるような気持ちで、フタバはバッグの端に取り付けられていた青いピアスを、そっと撫でた。
―了―




