04.崩れる静けさ
変わらない日常の中で、あや子は少しずつ違和感を覚えていた。
健の帰宅時間が遅くなり、夕食を温め直す回数が増えた。
「残業?それとも接待?」
健に気づかれないようにため息をつきつつ、あや子は問いかけた。
「まあ、そんなとこ」
短く返すだけで、目も合わせようとしない夫。
スマホの画面を見つめる時間が、やけに長い。
いつも会話が少ないが、ここまでいないものとして扱われることは今までなかった。
「明日も遅くなるの」
シーン。
スマホをいじったまま何も返事がなかった。
あや子は会話をあきらめ、台所で後片付けをすると自分の部屋に戻った。
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それからも変わらない日常が続いた。
朝は自分と娘の分のお弁当を作り、仕事に出て、帰宅して夕飯を作る。
娘は受験勉強に追われ、あや子はスマホの家計簿とにらめっこを続ける日々。
けれど、最近、健の帰宅がさらに遅くなった。
「取引先との付き合いが増えててさ。」
そう言っていたが、以前よりも帰宅時間が遅くなり、香水の匂いがするし、酔い方も深い。
(本当に仕事なのかな…)
そう思いながらも、あや子は口に出さなかった。
今は、何よりも、娘の進学、家計のやりくり、節税対策も考えなくちゃ——
考えている暇なんて、ない。
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ある金曜の夜、仕事帰りに買い物をして駅前の路地を通りかかったあや子は、ふと足を止めた。
居酒屋のガラス越しに、見覚えのある後ろ姿が見えた。
(……健?)
いやまさか。
スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくった健が、向かいに座る女性と笑い合っていた。
その女性は、長い黒髪に端整な顔立ち。
外国人らしい雰囲気をまとい、流暢な日本語で話していた。
「ケンちゃんは、ほんと優しいね。」
「いや、アリサの方が頑張ってるからさぁー。」
照れたようなデレッとした表情の健に思わず、あや子は足を踏み出しかけた。
「じゃあ、今夜はご褒美ちょうだい?」
アリサの胸が健の腕に押し付けられた。
「……ここじゃ、まずいって」
ちょっとほほを赤くした健がアリサの腰に手を回していた。
「ふふ、じゃあ、あとでね。」
アリサが腰に回された健の手に優しく触れて、寄りかかるように体を寄せるとそっと頬にキスをした。
彼は一瞬ためらったが、やがてアリサの頬にキスを返していた。
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あや子は、動けなかった。
健がなんで。
いや人違い。
さすがに自分の夫を見間違えない。
あや子は足が地面に縫い付けられたように、ただじっとその光景を見つめていた。
心臓の音が、耳の奥で響いていた。
(ああ、終わっちゃったんだ)
涙も出なかった。
ただ、何かが心の中で静かに崩れていく音が、自分の中に聞こえた。
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その夜、健が帰宅したのは深夜過ぎだった。
香水の匂いがぷんぷんした。
「おかえり」
あや子はそっけない挨拶をした。
「……ああ」
「今日、駅前で見たよ。あなたと、あの人」
問いただす気はなかったが口からさっきの光景について話し出していた。
「……」
「何も言わないの?」
「仕事の付き合いだよ。」
「じゃあ、どうして女の腰に手をやって、なおかつ頬にキスするの?」
「外国人だから挨拶だ。」
それだけ言うと健は黙ってスマホを手に持って自分の部屋に行ってしまった。
あや子は、気が付かないうちに台所に入り皿を片付けながら泣いていた。
「私は、私は、確かにうるさいけど、無視されるほどひどいことは言ってない。なんでこんなことになるの。お金の話をしたから。でも本当のことじゃない。どうすればいいの。でも生活費や塾代や受験費用や・・・。」
片づけを終えて、台所の上に置かれていた請求書を見ながら、しばらくあや子はそこから動けなかった。




