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第一話「揺れの予感」

 地震は、音より先に来る

 俺はそれを母親の死で知った


 十二年前のあの日、揺れは小さかった。

 震度で言えば二か、せいぜい三。

 街は何事もなかったように朝を迎え、ニュースは別の話題を選んだ。


 壊れたのは、あのアパートだけだった。


 古く、危険で、報告書の中では何度も指摘されていた建物。

 それでも補強は見送られた。

 理由はいくつも用意されていたが、要するに「今回は大丈夫だろう」という一文にすべてが集約されていた。


 母は、そこに住んでいた。


 あの夜、電話が鳴った。

「今日は帰らないで」

 それが、母の最後の言葉だった。


 俺は、帰らせた。

 自分の都合で。


 だから、地震が母を殺したとは思っていない。

 俺が殺したのだ。


 ――そう考えることで、ようやく日常が成り立つ。


 通勤電車は、今日も遅れていた。

 車内には湿った空気と、誰かのため息が混じっている。


 午前八時十二分。

 床が、ほんの一瞬だけ沈んだ。


 揺れではない。

 落ちたのでも、傾いたのでもない。

 地面が、息を吸った。


 俺は顔を上げたが、誰も反応していなかった。

 スマートフォンの画面から目を離す者はいない。


 ――なかったことにされた。


 地方自治体の都市整備課。

 俺の席は、窓際でも中心でもない、中途半端な場所にある。


 肩書きは「耐震担当」。

 実際には、耐震診断の書類を確認し、形式が整っていれば判を押すだけの仕事だ。


 危険だと分かっていても、止める権限はない。

 上に回せば、戻ってくる。

「予算がない」

「優先順位が低い」

「今回は見送る」


 見送られた先に何があるか、俺は知っている。


 午前十時二十三分。

 コピー機の横で、また揺れを感じた。


 今度ははっきりと。

 足の裏から、骨へ伝わる低い感触。


 俺は周囲を見回した。

 誰も顔を上げない。


「今、揺れませんでしたか」


 自分の声が、ひどく場違いに聞こえた。


「え? 揺れてないよ」


 同僚は笑って、すぐに画面へ戻った。

 その笑顔が、十二年前と同じ形をしている気がした。


 昼休み、外に出ると空が異様に澄んでいた。

 雲がなく、風もない。


 地震の前は、いつもこうだ。

 理由は分からない。ただ、外れることがない。


 足元から、低い音がした。

 耳ではなく、内臓に触れるような音。


 地面の下で、何かが溜まっている。

 力ではなく、黙殺が。


 俺は立ち尽くし、思った。


 ――ああ、ここは地獄だ。


 まだ揺れていないだけの、

 もう完成している地獄だ。

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