闇の中へ
前皇帝リュート・レグス・ヴィルドは幼い頃から嗜虐性を持ち、女を沢山侍らせることを好む傲慢な男だった。
彼の父は賢帝と讃えられるほどの人物だったにも関わらず、なぜこのような長男が生まれてしまったのか?
それはリュートの母親とその生家であるミスラ公爵家の影響が大きかった。
「貴方は偉大なるヴィルド帝国の皇太子。この世の全ては貴方の物になるのよ」
リュートは忙しい父とはほとんど関わることがなく、毎日のように母親や周りの人間から「世界の全てはお前のものだ」と言い聞かせられたリュートはその言葉を疑うことなく成長した。
その結果、平然と他者を弄び、虐げる人間に育ったのだ。
当然父帝はこれを問題視し、人々と交流することで社会性を学んでこいと命じたことで、リュートは貴族の子息たちが通う学校に入学させられた。
しかし彼がそこで学んだのは思いやりではなく…むしろより狡猾に、自らの嗜虐性を上手く隠す術を学んだ。
表面上は優しくて完璧な皇太子として振る舞い、擦り寄ってくるものに飴を与えると面白いほど信者が増え、そして気に入らない者がいた時は「残念だ」と呟くだけで取り巻き達が忖度してその者を虐げるようになった。
こんなに愉快なことは他にあるだろうか?
リュートはそんな学生達の姿を動物園の見物客のように上から見下ろし、虐げられる様を他人事のように眺め、口元を隠すように当てた手の下でほくそ笑んでいた。
それから時が経ち、ミスラ公爵家の娘と結婚して子供もいたリュートは父帝が亡くなったことで遂に皇帝の座に着くこととなり、恐れるものがなくなった彼は長年隠していたその本性を露わにした。
身分関係なく気に入った女を侍らせ、昼間から酒を飲んで享楽的な生活を送る。
それだけでなく、自分に逆らった者は身分関係なくまるで見せ物のように公開拷問し、その姿を他の貴族たちに見せつけた。
そして長年目障りだった別腹の弟ルディウスも目の前で毒殺したついでに、その息子たちも殺そうかと考えたが…長男があまりにもルディウスに似た生意気そうな目をしていたのを見て、気まぐれなところがあったリュートは息子たちを殺さないことにした。
「お前たちが成長するのが楽しみだなぁ」
幼い頃のルディウスと同じ顔が自分に跪くのは大変気分が良く、父の遺体を前に悔し涙を流すことすらしなかった長男を見て、リュートは声を上げて心底愉快そうに嘲笑った。
その行動が、後に自分の首を落とされることに繋がるとは知らずに……
リュートが皇帝になってから一年が経った頃。
それまで続いていた平和協定は破られ、ヴィルド帝国は大規模な侵略戦争へ動き出した。
"真の意味でこの世の全てを手にするため"という愚かな理由で始められた侵略戦争は最初は好調だったが、しばらくすると行き詰まり始めた。
それは度重なる戦争による魔鉱石の不足が大きな要因だったが、それに加えていつまでも終わらない戦争に兵士の士気が下がり始めたのも大きかった。
「兵士など、何も考えず戦えばいいものを」
兵士など、ただの使い捨ての駒でしかない。
感情や執着心などという戦いに不必要なものは捨ててしまえ、駒には必要ないのだから。
そのように考えていたリュートはふとあることを思いつき、国中の研究者を集めて言った。
「命令に逆らわず戦闘力の高い人間を作る方法を考えろ」
皇帝が求めたのは、どこまでも従順で強い兵士。
それを作り出すため、ヴィルド帝国では秘密裏に非人道的な人体実験が行われるようになった。
そうして研究が進められていくうちに、とある研究者が人間に魔鉱石を埋め込むことで身体能力を格段に上げられることを発見した。
その研究結果に皇帝は大層喜んだが…しかし、それには大きな副作用が伴っていた。
その副作用というのが、常人ならとても受け入れ難いものだった。
魔鉱石を埋められた多くの人間はエネルギーによって身体に大きな負担がかかり、やがて発作を起こして内側から爆発して死んでしまうのだ。
また運良く馴染んで発作が怒らなかったとしても、無理やり身体能力を上げていることの負荷に耐えられなくなり、ほとんどが数年のうちに亡くなるだろうという想定のもとに作られたまさに使い捨ての兵士だった。
普通なら目を逸らしたくなるようなその研究結果を聞いたリュートは心の底からの笑みを浮かべ、失敗作は自爆兵として、成功作は強化兵士として戦地へ送り込むよう命じた。
彼が唯一惜しんだのは強化兵士の寿命が非常に短いことだった。
「良い武器は長く使えれば使えるほどいい」という言葉で、研究員たちは強化兵士の耐久寿命を伸ばす方向へ研究を切り替えていった。
そして魔の手は子供たちへ伸びていき…やがて副作用の発現が子供に少ないことがわかると、リュートはすぐに身寄りのない大量の子供を使って集中的に実験するように命じた。
その実験により強化された子供達は『ナンバーズ』と研究員に呼ばれ、数字で名前がつけられ徹底的に人を殺すための訓練を受けた。
そして彼らは人知れず、国の為に命を捧げることこそが正しいのだという洗脳のもと、戦場で大活躍したのだった。
これにより、戦況は再び好転した。
しかし侵略戦争に加えてこのような実験を行なっていたため、侵略国の分を含めても魔鉱石の供給は追いつくことがなく、ますます不足していた。
「魔鉱石が足りない?ならば探すでも奪うでもして集めろ。それがお前たちの仕事じゃないか」
魔鉱石が足りないと悲鳴をあげる軍部に対し、リュートは両手に女を抱きながらそう言った。
戦争には勝て、魔鉱石も必要な分どこからでもいいから調達しろ。
そんな皇帝の無茶振りに頭を悩ませた軍部は、藁にもすがる思いで国内の魔鉱石の産地の再調査を決定した。
これにより、所有者の身分に関係なく国内の鉱山は片っ端から調査されることになったのだ。
一方、それまでのリンベル・ミューラ侯爵は皇帝に対して献上品を送ってはいたが、一定の距離は保っていた。
あのように傲慢で愚かな皇帝を操ることはリンベルにとって難しいことではなかったが、それは亡くなった妻の意思に反すると考えたリンベルは皇帝から距離を置き、自身の領地の民が飢えないようにするため領地の運営に日々勤しんでいた。
しかし情報戦においては野心深かった頃と変わっておらず、皇宮にはリンベルの密偵が何人も潜んでおり、当時密かに行われていたはずの人体実験についても当然のごとく彼の耳に入っていた。
よりにもよって子供を武器にするとは…悪辣な皇帝のやりそうなことだ。
もしエリコが生きていてこのことを知ってしまったら、泣きながら子供たちを助けて欲しいとリンベルに頼んできただろう。
…しかし、もう彼女はここにはいない。
今の彼にとって大切なことは、2人の子供と自分の妻が眠る場所を守ることだけ。
その他は、正直どうでもよかった。
「しかしそうも言ってられなくなったようだ、エリコ」
そう言って、リンベルは酒を飲みながら書斎に飾られた妻の肖像画を指でなぞる。
皇帝が魔鉱石を探すように命じてしまった以上、あの鉱山がバレるのは時間の問題だ。
そしてあの横暴な皇帝が鉱山のことを黙っていた私を見逃すとは考えられない。
このままでは私たちの子供を守れるかすら危ういだろう。
「君は、こんな私を許してくれるだろうか」
もちろん彼女から答えは返ってくるはずもなく、分かっていたことなのにどうしようもない孤独感を感じたリンベルはソファに座り込み、そっと目を閉じる。
『私たちの宝物を、守ってあげてください』
彼女が亡くなる前、子供たちを一緒に抱きしめながら最期に残した言葉と微笑みを思い出した。
リンベルは今にも息が止まりそうな苦しさに襲われながら手を握りしめ、彼女への誓いを再び胸に刻み込む。
「私たちの宝物は、命に代えても守ってみせる」
たとえそれが、君が望んだ平和な未来を壊すことになろうとも……
そうして、リンベル・ミューラは闇の中へ足を進めたのだった。
それから1週間後、リンベルは皇帝に謁見した。
「陛下、国内全ての山を調査するなど、金のかかる無駄なことはおやめ下さい。
私に良い考えがあります」
許可をもらい皇帝に近寄った彼は上質な魔鉱石を流通している裏組織を知っていると囁き、ポケットから自身の領地で取れた魔鉱石を取り出して皇帝に捧げた。
「これをご覧ください。
透き通った、上質な魔鉱石です。
この魔鉱石を使えば、我々はもっと戦闘力の高い武器を生み出せるでしょう」
「なんと美しい……勿体無い、宝石として飾りたいくらいだ」
魔鉱石を手にとって惚けるように上機嫌そうに笑う皇帝を見て、リンベルはわざとらしくニコリと笑った。
「陛下、魔鉱石もいいですがもう一つ面白い物がありますよ」
リンベルは豪奢な飾り箱から葉巻を取り出し、それに火をつけて皇帝に差し出す。
受け取った皇帝は訝しみながらもその葉巻を吸った途端、目を見開き、何かに取り憑かれたようにひたすら黙って葉巻を吸い続け、吸い終わる頃にはどこか焦点の合わない目で気持ちよさそうに天井を見上げていた。
「なんだこれは……不思議だ。タバコよりも美味いし、気分が良くなる。一体これは何なんだ?」
「これは不思議な葉で作られた葉巻で、吸うものに快楽をもたらしてくれるのです。今陛下にお渡ししたのは上等品で健康に悪影響はありませんが、安いもので人体に有害ですが痛みを忘れさせる効果のある粗悪品もあります。
それを兵士に流通させ、兵士から金を取りつつ働かせるのはいかがでしょうか」
「実に素晴らしい案じゃないか、侯爵!」
リンベルが献上した品は他国で大流行している中毒性の高い麻薬で、この時のヴィルド帝国にはまだ無かったものだった。
しかしこれを機に、この麻薬は帝国内で大流行を起こし…国内治安の著しい悪化と引き換えに、リンベルの商会は多額の財産と権力を得ることとなった。
また、魔鉱石と麻薬の流通という二大産業を担うようになったリンベルは皇室御用達の商会主として地位を高め、やがてナンバーズなども絡んだ人身売買にも関わるようになっていた。
ルミエリスが生まれた頃には既にリンベルは貴族の中の実質的なトップに立っており、長年麻薬漬けにしてきた皇帝を操るのも彼にとっては容易いことになりつつあったのだ。
そんな状況の中、反皇帝派はリンベル・ミューラを悪魔と揶揄し、実際多くの貴族や市民から恐れられていたが……元来、他人に無関心な彼は何を言われようとどうでもよかった。
しかしいつからか、毎日見ていたはずの妻の顔をいつの間にか見ることができなくなってしまい、肖像画には布がかけられたいた。
原因は分かっている。
これは、彼女に対する罪悪感だ。
彼女が望んだ私の姿は、決して悪魔のような男ではなかった。
『貴方は誰よりも優しくて、愛情深い人よ』
私の両頬に手を沿わせ、優しく微笑む彼女の姿が頭をよぎる。
「私はどこまで堕ちればいいのか……
もう、君には会えないかもしれないな」
かつて妻が自分に見ていた姿と乖離していくことが辛く苦しい。
しかしこの汚い世界では権力がなければ何も守れず、ただ奪われるばかりだ。
当然、奪ったからには、奪われるのも覚悟しなければならないが……奪われるものを選ぶくらいは、私も足掻いてもいいはずだろう?
富も権力も手にし、全ての準備は整った。
後は、終わりの時を待つだけだ。
「君にそっくりなあの子に、全てを任せるよ」
リンベルは黒の革張りソファに身を預け、いつもの酒を飲みながら目を瞑る。
そして一度会っただけの孫娘に思いを馳せた。
誰よりも妻に似ているあの子。
私のせいで、両親に愛されなかった子。
せめて自分の遺した物が彼女の大きな力となり、幸せに導いてくれることを祈るしかない。
それが、私にできる唯一のことだから。
…時が経ち、各地で反乱が起きたことにより、皇帝リュートは全てを失った。
そして、かつて玉座から傲慢な態度で人を見下ろしていた男は、今では自分が殺したルディウスの息子の前に跪き、必死の形相でその足に縋りついていた。
「頼む、助けてくれ!何でもするから…」
いつか自分に媚びへつらうことになると思っていた相手に頭を下げ、プライドもなく命乞いするリュートの姿は哀れだった。
リュートと違い、大人しくしていたリンベルはああはなりたくはないものだと思いながら、目の前で皇帝だった男が首を落とされる瞬間を見届けた。
そして反乱軍の中心人物から激しい炎のように怒りで燃える赤い瞳を向けられた時、彼は心の底から安堵し、口角を釣り上げた。
ようやく、この地獄を終わらせることができるのだ。
私もミスラ公爵家の者たちのように首を切り落とされ、城門に吊るされるのだろうか。
そうなったとしても、別に構わなかった。
…ただし、それは"自分だけだったら"の話だ。
「新たな皇帝よ、私の命は差し上げましょう。
ですがその前に、お聞きしたいことがあるのでは?」
リンベルはそう言って胸元から妻が眠る地で採掘された魔鉱石を取り出し、新皇帝ベルムートに向かって不敵な笑みを浮かべる。
それは、ミューラ一族の命運をかけた賭けの始まりだった。