1-1 壊れかけの日常
『本の虫』という言葉は、藍川悠里という男子高校生を表すにふさわしい言葉なのだろうが、実際のところ僕は虫が大の苦手だし、ただ本が好きな人のことを虫呼ばわりされるのは、正直不快でしかないというのが実情である。
けれども、僕は正真正銘、大がつくほどの本好きだ。
どれくらい本が好きかというと、僕の部屋には本棚に入りきらなくなった本が足の踏み場もないくらいそこら中に散乱し、天井に付くくらい積まれた本が東京のビル群のように無数に屹立している。
新品の紙の匂いも好きだし、古本の湿気を帯びた埃臭い特有の匂いも好きだ。
『ジリリリリっ!』
そんな大好きな本たちに囲まれながらすやすやと眠っていた僕は、朝日が昇るのと同時に鳴り響く絶対に起こしてやるという一点に特化した馬鹿でかい音量の目覚まし時計に叩き起こされた。
飛び起きた衝撃で、小さなビルがばらばらと崩壊する。これも日常茶飯事の光景である。
意識がはっきりとなかなか覚醒しない。ついでに、目の前の視界は真っ暗。とても古臭い紙の匂いがした。
顔面に本が乗っていた状況を寝ぼけたままぼんやりと鑑みるに、どうやら僕はまた読書中に寝落ちしていたらしい。頭に乗った本が、誰の支えもなく布団に落下した。
こんなこともあろうかと、目覚ましを予めセットしておいて本当によかったと安堵する。本の続きが気になって、次の日が学校があろうと用事があろうと読んでしまうところが、また僕らしいなとつくづく思う。
自分のよだれで本が濡れていないか心配だったが、大丈夫だった。僕はそっと本をベッドの横に置いた小机の上に置き、最低限の着替えをして部屋を出る。
日の当たらない西向きの廊下は、ひんやりと素足を包み込んだ。
--------------------
階段を降りた先にあるリビングでは、テレビをつけながら朝食のトーストを一足先にもそもそと頬張る母・藍川遠子の姿があった。
「おはよ」
僕が簡易的な挨拶を済ませると、母は「ん」と反応する。挨拶は返してくれない。
うちは、母と僕の二人暮らしである。僕と同じ本好きだった父親は、僕がもの心つく前に他界し、顔もそこまで覚えていない。
在宅でwebデザイナーを仕事にしている母親の朝は、在宅ワーカーにしては意外と早く、いつもそれなりには早起きしている僕よりも起きるのは30分ほど早い。
そんな母は、いつもテレビを見ることが朝の日課なのだが、今日も全国ネットのニュース番組を流し見していた。
いつもなら、触れることなく過ぎ去っていくくらいに、テレビ離れの進んだ現代の高校生である僕なのだが、その日は違った。
『人気作家・柚月天音さんの作品を模した事件が青山市内の高校生の間で多発していることが問題となっています。原因は未だ不明ですが、大怪我をする高校生もいるなど事態は深刻化しており、警察や学校自治体では不審な人物に近寄らないよう注意を呼びかけている』
とのこと。
「だってさ、悠里。気をつけなよ?」
「……」
僕は、何も答えずに、母から視線を逸らして冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。無意識のうちに、冷蔵庫を閉める動作に力が入った。
どうして、こんな話題の時に限って、母は僕に声をかけるのだろう。
どうせ、いつもは気にかけないくせに。こういう時だけ親身な親を語るのは、正直都合が良すぎると思う。
でも、そういったところでまだ子供だからと一蹴されてしまう、己の社会的弱者である現状に歯噛みするが、否定することはできないために、僕は黙秘を貫くのだ。
正直にいうと、僕と母は、あまり仲良くはない。
僕が片親となり、女手一つで何かとお金のかかる高校生男子である僕を養ってもらっているという形式上、同じ家に二人で住むことは覆すことのできない事象ではあるが、それでも、母と僕の関係性はどこか氷のように冷え切っていた。
——それもすべて、本好きだった父が他界してからだ。
母が父をどれほど愛して結婚したかは分からないが、少なくとも、人間が変わるくらいに変貌するということは、それだけ父を愛していたのだろう。
以前の母は、とても笑顔の絶えない優しい母だった。
それが今は当時の面影なく、朝昼晩関係ないほど感情の乏しいどこかやつれた表情を常にしていた。人生をただのうのうと生きる人間。そう形容するに等しい。
だからこそ、父の愛した家の書斎を受け継ぎ自分の部屋にし、愛した父の面影を思い出してしまう僕という存在は、母にとってはあまり好まないのだろう。
元々、父の所有していた本、つまりは遺品を母は全て処分するつもりだったようだ。思い出してしまうから、その一点の理由で。
でも、それを拒んだのは、紛れもない僕だった。
父との思い出をつなぐ本を疎む母と、父の意思を受け継ごうとする子供にすぎない僕。
そのせいもあって、我が家の会話において、本に関する話題はタブー事項とされていたのだ。だが、そんな中、母があえてその話題を口にしたことにどんな意味があるかといえば、それは、新たな火種をばら撒くことだけであった。
「……母さんには、関係ないだろ」
そうぶっきらぼうに言い放つ僕に、母は露骨に嫌な視線を返す。
「あのね、母さんは悠里が心配だから声をかけただけで——」
「じゃあ、なんで母さんは僕を遠ざけようとするの?」
「……それは……」
少し切り返されるだけで、さっきまで強気だった母は、何も言い返せなくなる。大型犬に吠えられた子犬のように縮む母の小さな体に、母としての威厳というものはもう感じられなかった。
答えなんて、僕もわかっている。分かりきって言っている。
でも、そうでもしないと、この永遠に抜け出すことのできない泥沼のような会話に終止符をうてないから、僕はあえて母に強くあたるのだ。
牛乳を憂さ晴らしのようにごくごくと一気に飲み干し、コップを流しで軽く洗う。
朝ごはんは食べずに、母からそそくさと距離をとった。
「……学校行ってくるね。母さん」
「……うん。いってらっしゃい」
荷物の準備や身支度も済んでない状態で言うには早すぎる言葉は、出発前に声をかけないと言うことを意味している。
朝の母との顔合わせは、これで終わりである。あとは多分、夕飯まで顔は合わせない。
僕は、その場から逃げ出すようにリビングから立ち去る。
現実から目を未だ逸らせないのは、僕も同じだった。