姫と過ごす日
ぽつり、ぽつり。
雫が屋根の端から落ちていく。
目を凝らさないと見えないような細雨が、大地を静かに濡らしていた。湿度が上がり、蒸し暑く感じる。数日続いた晴れで、梅雨が終わったと思ったのは間違いだったようだ。
あいにくの雨に、士会たちは結局フィナの私室で麻雀を打っていた。面子を集めるため、亮の従者のミルメルも来ている。一応亮にも声をかけたが、何か用があるとのことで来なかった。
「それチー」
「はい」
鳴いたフィナに士会は牌を渡す。今日も今日とてお得意の鳴き麻雀のフィナは、機嫌が良さそうだった。楽しみにしていた遠足が延期になっても、自分と遊ぶという目的さえ果たされればそれでいいらしい。嬉しい限りではある。
士会も自風の「西」をシュシュから鳴きながら、のんびりと今を楽しむことにした。こんな風にフィナと気軽に遊べる日が来るというのは、あまり想像していなかったことだ。遠足がダメになったからといって、落胆するほどのことではない。それはまあ、フィナと二人で出かけたかったというのが本音だが、それはまた、今度でもできる。
「あ、ロン!」
「えっ……やられました……」
初心者のシュシュから、鳴きまくって強引に手を揃えたフィナが上がっていた。どう見ても染めているのだが、シュシュにはまだそれを判断するだけの経験がない。
捨て牌と鳴いた牌から相手の手を読むんだよ、と説明すると、シュシュは熱心にうなずいていた。素直な分吸収が早いので、あっさりフィナを抜かしそうな気もする。もっとも、素直な分顔に出やすいので、こういう遊戯には向いていないかもしれない。
半荘終わったところで、少し休憩することにした。士会は窓辺に行って、外の様子を見る。依然として雨はしとしとと降り続いていた。
「雨、止まないね」
そっとフィナが、士会の後ろに寄り添うようにして立っていた。
「そうだなあ……梅雨ってのは気が滅入る」
「会君のところにも、梅雨があったよね」
「ああ。雨になると、合羽着て自転車乗らないといけないからなあ。暑いんだ、これが。でも、今よりはずっとマシだったな」
「雨の日も、調練ってあるんだね」
「具足着たまま濡れっぱなしになるからなあ。暑いし蒸れるしいいことない」
「雨の日は延期にしちゃえばいいのに。会君とこの体育祭みたいに」
「雨が降っても敵は待ってはくれないからなあ……」
場合によっては嵐の時ですら好機と捉えることすらある。全身ずぶ濡れの不快感にも、慣れておく必要があった。雨天中止などあり得ず、荒天中止が稀にあるかもしれない、くらいか。
フィナは士会の隣に並んで、窓の外を眺めている。どことなく、何かを待っているような様子だ。
「大変……なんだねえ……」
「将軍だしな。率先してやらないと、下に示しがつかないし」
「そっかあ。うーん……将軍って、もっと楽なものだと思ってたよ」
「前にも言ったろ、お前を守るに足る力を身に付けるって。それを維持するためには、厳しい調練を積んで、精強な軍を養うことが必須なんだよ」
「むむ……そう言われると弱いなあ。でも、疲れてるだろうけど、時々は夜に会いたいな」
「俺の方も、日々に潤いが欲しいからな。毎日は無理だけど、時々なら願ったり叶ったりだ」
そっと士会は手を伸ばし、フィナの細い腰に手を回した。少し緊張したが、嫌がる素振りはない。そのまま少し力をこめて、士会はフィナを抱き寄せた。
フィナは満足気に目を細めている。二人並んでくっついたまま、しばらくの間雨を落とす曇天を眺めていた。
フィナが朝廷で会議をしている間、士会は館に戻ってシュシュを話し相手にしていた。昼は調練で、夜はすぐ寝るので、普段シュシュと落ち着いて話をする時間はあまりない。
「士会様は、向こうの世界におられる時、こういう日は何をしておられたのですか?」
「ゲームだな」
「といいますと、麻雀のようなものでしょうか」
「そうっちゃそうだが、人数がいないとできないだろ。向こうの世界には、一人で物語や戦闘を楽しめるゲームもあった」
「ええと、書ではないのですか」
「違うな。まず、画面というものがあってだな……」
士会もしどろもどろに説明するが、シュシュは頭に疑問符を浮かべたままだ。物事を説明するのは、士会の得意とするところではない。どちらかといえば、感性の世界で生きている。
「まあ、向こうには一人で暇を潰せる便利なものがあるんだよ」
結局テレビゲームや携帯ゲームについて、シュシュが理解することはなかった。
「神様の国って、潰さないといけないくらいみんな暇なのですか」
「うーん、微妙なところだな」
この世界の大多数を占める農家では、毎日畑の手入れがある。農閑期も、街に出稼ぎに行ったり、縄や草鞋作りなど家で稼げる仕事をしたり、薪拾いなど家の仕事をしたりと忙しい。しかしその一方で、一日の中に暇な時間というものがあるのも確かだった。そういった時間をどう過ごしているのか、士会は知らない。ご近所付き合いとかだろうか。
「何にせよ、娯楽はたくさんある。それにかけて、俺たちの国は他の追随を許さない」
「楽しいことがたくさんあるのですか。それはいいですね」
兵たちを見ていると、娯楽といったら酒か女か賭け事くらいしかないように感じる。いつ戦で果てるとも知れない身だからこそそうなのかもしれないが、あまりにも幅が狭いと士会は思ってしまう。
侍従が、来客を知らせてきた。亮が来たらしい。フィナとともに会議に出ていたはずなので、その足で来たのだろうか。
「会議はどうだった」
「会議の方は、一瞬で終わったよ。その後に、水軍の閲兵式があってね」
「何、聞いてないぞ」
水軍の総指揮官であるベルとは、いまだに面識がない。水軍というものも、話に聞いているだけで、船に乗っている軍という程度の認識しかなかった。
「鷺の水軍のほぼ全軍が集結しているらしくてね。大河を埋め尽くす軍船はなかなか壮観だったよ。フィナはふーんて顔してたけど」
「うーん。想像できるから困る」
さっさと終わらないかなあとか、思っていたに違いない。亮にわかったのだから、水軍の指揮官たちも当然気づいただろう。そういう時だけでも、真面目な顔をする努力くらいはしてほしいものだ。
水軍はしばらく都に留まった後、鷺各地の水域に散らばるらしい。
シュシュが茶を入れて持ってきてくれた。一礼して、部屋の扉の横に控える。
「ところで士会。鷺の西方と言われて、何か思い当たることはないかい?」
「漠然としてるな。うーん、そうだな……」
少し考えて、士会は答えを出した。
「なんとなく、きな臭い」
「なんとなくか」
「根拠がないからな。ただ、どうにも平和すぎるというか」
他の地域ではしばしば反乱が起きているが、西方ではその臭いすら感じない。賊も他の地域より少ない。
「ハクロのアルバスト殿の話では、西方に腕のいい街宰や守将が固められているというわけでもない。もちろん、いないわけでもないけど」
「なるほど。その割に静かすぎるというわけか」
「それもある。あと、俺が潰した反乱の残党も気になる。確か西へ向かったはずだが、全く音沙汰を聞かない。本当に西方に行ったかもわからないけどな」
残党とは、以前ピオレスタの下にいたペリアスのことだった。強硬に反乱を続けようという意思を見せていたのだが、どこかで旗を上げたという話は聞いていない。今は雌伏の時、ということなのだろうか。
「ふーむ。紐寧和殿が言ってたんだけどね。どうもあの辺りは物流がおかしいらしい。どこかに消えていって追えない流れがあるそうだ」
「消える物流……」
「誰かが、大量に物をため込んでいるとしか思えないんだって」
今のところ、出揃っている材料だけでは漠然としている。何かあるかもしれない、だけでは物事を動かすのは難しい。
「鏡宵たちに調べさせるか?」
「それがいいかな……僕らの護衛とかいくらでも仕事あるし、あんまり人数は割けないだろうけど」
鏡宵、鏡朔、そして亮についている鏡暮は、本来士会たちの暗殺対策として雇われている。とはいえ、裏の伝手をたどって調べ物をするのも得意なので、自然と色々な仕事を任せるようになっていた。
「そういやあいつらのこと、どうやって知ったんだ」
「実はフィナ経由でね。士会の身辺を守る必要があるからってダメもとで聞いてみたら、代々皇室が雇っている人たちがいるって言われて。彼らはそこから派遣されてる」
「そういうのは、周りの人がやってるものかと思った」
「ちゃんと皇室直轄のものがあるみたいだね。まあ、フィナはやっぱりあまり興味がないみたいだったけど、顔合わせはしてたみたい」
最初は由来がわからないのであまり信用せずに使っていたが、それならそこまで警戒することでもなかったかもしれない。
そのまましばらく雑談してから、亮は夕飯を食べに自分の館に戻った。
夜、士会は再びフィナの私室に来ていた。夕飯もフィナのところで食べたので、腹は完全に満たされている。フィナの食事は必ずかなり多めに作られるため、なんとか平らげようとした結果だ。
部屋の中にいくつもある燭台に火が灯されているものの、少し薄暗かった。
「腹が重い……」
士会は床に座り込み、フィナの寝台を背もたれにしてくつろいでいた。腹を飽きることなく何度もさすっている。その様子を、椅子に座ったフィナが呆れたように見ていた。
「残したらいいって何度も言ったのに。全部食べたらそりゃ大変だよ」
「出されたものは全部食べるってのが家訓だから……」
家訓というのは言い過ぎだが、そう躾けられたのは確かだ。武宮家はどちらかといえば放任主義的な家だが、食べ物を粗末にしないという一点に関しては非常に厳しかった。だから残すのが前提で作られていると言われても、体が拒否反応を起こしてしまう。
「私のところは、食べたいときに食べたいものを食べたいだけ食べるだからなあ」
贅沢な話だったが、それがフィナの育った環境というものなのだろう。非難するつもりはなかった。それに、少しずつその意識も、変わってきているようだ。
「会君と一緒に食べるたびにこうなるのも困るし、私の食事も少し減らそっか」
「それがいいよ。もったいないし」
ゆっくりと士会は立ち上がり、縁側へと続く扉を開けた。闇の中に、街の明かりが点々と見える。
気が進まないが、言っておきたいことがあった。
「……なあ、フィナ。今度の休みこそ、街へと出かけような」
「うん。……どうしたの、何か改まって」
「フィナ。お前は、自分が治めている民について、どう聞いている?」
緊張で口の中が乾くのを感じながら、士会は聞いた。
「どうって言われても……時々賊徒や反乱はあるけど、普通に生活してるって聞いてるよ」
やはり、そう吹き込まれているようだった。それも、フィナの幼少期から仕えている側近たちからだ。鏡宵に聞いて、なぜフィナが窮乏の日々を強いられている民のことを放っておいているのか、明らかになった。単純に、知らないのだ。側近から民の様子を伝えられ、健やかに過ごしているという夢想に浸る。それが幼少よりのフィナの生活の一部であり、そこにフィナは一片の疑問も持っていない。
「そうか。……俺はこの一年、ハクロやその周辺で動き回ってきた」
「あ、そっか。会君、私より人が見えやすいところにいたんだね」
どうだった、と聞かれて、士会は少し答えに詰まった。つつがなく、平穏に過ごしていたという答えを、当然期待されているのだろう。しかし、そうは返せない。
「……場所によりけり、だな。元気に過ごしているところもあれば、生き死にの境を常にさまよってるようなところもある。賊徒も反乱も、フィナが考えているより多いと思う」
「そんな場所もあるの? うーん、中央からだと目の届かないところもあるのかなあ。今度、詳しく調べさせてみるね」
調べさせたところで、捏造された結果が上がってくるだけだろう。士会自身、今日の会話だけで解決しようというつもりはなかった。ただ、楔を打っておくだけだ。
「まあ、念頭に置いてくれているだけでもいい。全土の調査となると取りこぼしも多いだろうし。それに何より、フィナ、お前は自分の目で、自分の民を見た方がいい」
思い出すのは、フィナが通るたびに平伏していた人々の姿だ。あれはよくない。民というものの真の姿を覆い隠してしまう。
「ここから民の営みは見えない。だから、見に行こう。俺と出かける時にでもさ」
「見てるけどなあ……でも、会君と一緒なら違って見えることもあるよね!」
士会の真意をフィナは汲み取れていないようだった。今は、それでもいい。少しずつ、認識と実態のずれをわかってくれればいい。
だが、もしも好機が訪れたなら。逃さず、フィナの見る世界を変えてやろう。
思惑を胸に秘めたまま、士会は愛する人の隣で、ひたすらに闇を見つめていた。