ハクロを発つ日
出立の日、士会は部屋の掃除を終えていた。少ない私物を運び終え、がらんとした部屋は、どうしても寂しく感じてしまう。
「シュシュ、お疲れ様。掃除、手伝ってくれてありがとな」
「はい。でも士会様、そういう仕事こそ、従者に任せるものなのですよ」
手を後ろに回して、上目遣いでシュシュが訴えかけてくる。そんなシュシュは、今日もいつもと同じ、ふりふりの従者服だ。聞けば同じものを何着も持っているらしく、従者たるものそれが普通なのだという。今度何かの折に、服でも買ってあげてもいいかもしれない。自分の従者が着飾ったところを見てみたい、などと言えば、押し切れそうな気がしていた。
「そう言うなよ。一年世話になったんだ、自分で片づけたいだろ」
「まあ、そういうところが、士会様の良いところですよね」
字面とは裏腹に、あまり褒められていない響きを、士会は感じ取っていた。自分の仕事を持っていくなと言いたいのだろう。それは何度も言われてわかっているのだが、士会にもやはり譲れないところはある。といっても、この一年でそこらの綱引きを続けてきて、互いにおおよその相手の一線は見極めている。
要するに、相手を知った、ということだ。
「とは言っても、普段からこの部屋を掃除してくれてたのはほんと助かってたぞ。俺一人だったら、今頃大掃除の真っただ中だ」
日中調練に出ている最中、シュシュは厨房の手伝いをする他、毎日士会の部屋の掃除や洗濯、その他雑務をこなしてくれていた。士会なら当然毎日はしない。洗濯は週に一度、掃除は月一がせいぜいだろう。足の踏み場もない散らかった部屋になっても、多分気にしなかった。
「いえ、それすらできないとなると、私は何のための従者なのか本気でわからなくなりますから。ほんとに。本当に」
強調に強調を重ねてきた。職務に忠実な彼女にとっては、そこが譲れない最後の砦なのだろう。
「けど、フェロンに戻ったら、フィリムレーナ様が広壮な屋敷をご用意してくださっているでしょうね。やることが増えるのはいいことですが、屋敷を管理するための侍従も増えますね……」
少しだけ、憂いを帯びた声音でシュシュが言った。今までは士会専属のたった一人の従者として、日に影に支えてくれていたが、侍従が増えるとその中に埋もれてしまうかもしれないと心配しているのかもしれない。そこまで自分との間柄を大事にしてくれているというのは、思い上がりだろうか。
「フィナと親しく話せるのも、あっちの世界の話ができるのも、お前だけだろ。都に行っても、やってもらうことはいっぱいあるよ」
「そう……ですよね! ありがとうございます!」
「それはこっちの台詞だ。いつもありがとな」
仕事熱心な従者の頭に手を乗せ、優しく撫でてやる。これで目を細めて喜んでくれるのだから、こちらも嬉しい気持ちになってくる。
「さて、行くか」
士会は具足を着込み、使い慣れた部屋を後にした。後ろからシュシュもついてくる。
兵舎を出たところで、ビーフックとばったり出会った。
「よう」
士会が手を上げて挨拶すると、ビーフックはこちらを見るなりみるみる顔を青ざめさせた。
「し、失礼します!」
挨拶も返さず、即座に回れ右して走り去っていった。士会が何か言う間もなかった。
これは、逃げられた、のか。ちょっと傷つく。
そんな士会の肩が、後ろから叩かれた。
「すまんな、士会。失礼な妹で」
振り返ると、バリアレスが苦笑いを浮かべていた。
「痛めつけたのが効いていると見える」
「いやまあ、あれはちょっとやり過ぎだったかなーと今になって思う」
ウィングロー軍が到着した日、士会はいつものようにバリアレスと組んでビーフックと対峙した。兵の練度は、おおよそ拮抗していて、ビーフック側の方がわずかに上、というくらいだった。ただの平原で、互いに地の利もあったものではない。その条件で士会とバリアレスは、ビーフックを散々に打ち破った。
あの時は、ハクロを去る前に恩師に自分たちの全力を見てもらおうと、少し舞い上がってしまっていた。正直反省している。ビーフックにしてみれば、屈辱的とすら感じてもおかしくない。
「そんなことはない。あいつもどっかでぽっきり折れないと、自分の力量をいかに過大に見誤ってるかわからないだろう。良薬は苦いもんだ」
「毒になってないといいんだけど……」
楽天的なバリアレスに比して、士会はどうにも懐疑的だった。先ほどの様子を見ると、ただいじめただけのような気がして心が痛む。
士会とバリアレスは連れ立って、ハクロの正門に向かった。既に兵たちが集まり、輜重の列が並んでいる。
「やあ、護衛対象の御到着だね」
「止めてくださいよ、アルバスト殿。万が一襲撃とかされたら、俺は率先して前に出ますからね」
そう言うと、送りに来てくれたアルバストが渋い顔をした。
「いや、君こそ止めたまえよ。護衛の軍の立場がないだろう」
「敵を目の前にして見てるだけとか……」
その情景を想像して、すぐに士会は答えを出した。
「うん、ないですね!」
「あるから。今回君は、袖の姫様方と同じ扱いだから」
「……つまり、燐紗と同じように突撃していいと」
「例が悪かった。紐寧和殿と同じ扱いだから、大人しくしていること。ほら、ウィングロー殿の顔を潰すつもりかい?」
さすがにそう言われると、士会としても食い下がれなかった。
「まあ、この規模の軍に襲撃をかけるようなのはそうそういないだろうから、杞憂だろうけどね。仕儀山の賊徒を平らげたのもあって、南方は比較的平和だし」
鷺北部でも反乱軍の討伐が行われていたが、まだその芽はくすぶり続けているようだった。南部では帰順させるという士会たちの処置が功を奏したのか、反乱が起きるような兆しは見られない。賊徒の類も、規模の大きなものは確認されていない。
不気味なのが、ペリアスが移っていったという西部だった。今のところ何も起きていないのだが、重税や不正で民の不満が募る中、何もないということ自体が不自然なのだ。
もっとも、ハクロからはあまり縁のある地域ではないので、情報収集にもそこまで力を入れていない。単に情報網に引っかかっていないだけ、ということも十分考えられた。
「それじゃあ俺は、兵のところに行ってきます。これが今生の別れになる者もいるでしょうし」
士会のフェロン行きが決まった際に、意外なほど多くの兵が同行を志願した。特に生き残った士会の麾下は、ほぼ全員がついてくることになった。残る者も、それぞれの事情で地元を離れられないだけで、できればついて行きたいと言ってくれる者が多かった。
士会の下にいた兵は、ピオレスタの下にいた者など一部を除けば、フェロンで徴兵された者たちだ。これだけ多くの兵が地元を捨ててまで同行してくれるというのは、士会にとっては感涙を流すくらい嬉しいことだった。それだけ兵たちが、士会を慕ってくれているということだからだ。
今、士会指揮下の兵たちは、それぞれに戦友たちとの別れを惜しんでいる。その輪の中に自然と入っていけることが、士会には何より幸福に思えた。
ウィングロー軍が準備を整え、正門の外に整列している。それを背後に立つ士会の眼前には、見慣れたハクロの白い街並みが広がっていた。
街の境界を挟んで、内側に送り出す側のアルバスト、レゼルに、ハクロの諸将たち。外側に士会、バリアレスが並び立ち、少し離れて紐寧和、紐燐紗、ウィングローが様子を見ていた。
「アルバスト殿。一年間、お世話になりました。ここでしか学べない、俺に必要なことを、数えきれないほど教わりました。ありがとうございました」
士会が一礼し、一歩引いた。代わりにバリアレスが、一歩前に出る。
「俺も色々世話になりました。一年前の荒れていただけの俺を、叩き直してもらった恩は忘れません。ありがとうございました」
バリアレスも一礼し、一歩下がった。その目は、かすかに潤んでいる。
「やあ、最後にしおらしいバリアレスを見れるとはね。別に二度と会えないわけでもないんだし、シャキッとしなよ」
アルバストはいつものように、飄々とした顔で笑っていた。
「とはいえ、次会うのがいつかはわからないからね。餞別の品がある」
しまった、と士会はバリアレスと目配せで語り合った。まさか持たされるものがあるとは思っていなかった。こちらからは何も用意していない。
二人の様子を見て、再びアルバストは笑った。
「何、そんな大層なものじゃないさ。気軽に受け取ってくれたまえ」
運ばれてきたのは、平たい木箱だった。服……だろうか? 士会が余所行きの服を持っていないことを聞きつけて、わざわざ用意してくれたのかもしれない。そうならば、なんと気の利く将軍なのだろうか。
「開けてみても?」
「ああ。気軽にどうぞ」
アルバストに促され、士会とバリアレスは同時に箱を開けた。
中身は士会の予想通り、服だった。さやかに光沢を持つ布地は、一目で上質なものだとわかる。予想から外れたところは、礼服ではなく具足の上から着る軍袍だったことだ。なるほど、確かにこちらの方が、士会にとってもバリアレスにとっても実用的だろう。
問題は。
「……白い、ですね」
「良いだろう、ハクロ近郊で取れた上質の糸で織られた純白の軍袍だ! これを着て先陣を切れば、目立つこと間違いなし! ふむ、今思ったが僕と勘違いされる可能性もあるな。まあ、それもよかろうか」
「………………」
「………………」
士会とバリアレスは再び瞬時に目配せし、互いの意思を疎通した。
無地だな。
正直、微妙だな。
すぐ汚れそうだしな。
好きな色に染めたら使えるんじゃね?
まあ、とりあえず言うことは言っとこう。
「ありがとうございます! 大切にさせていただきます!」
士会とバリアレスは声を揃えて張り上げ、礼を言った。うむうむとアルバストはうなずいているが、大切にするという言葉の選び方が味噌だ。使うとは言っていない。
何がまずいってこの衣装、死装束に見えるんだよなあ。そこまで信心深いわけでもないが、戦場で着るにはあまりにも縁起が悪すぎる。何も考えずにこんなの贈ってくる以上、こちらの世界にそういった風習はないんだろうけど、多分。
木箱を従者に片づけさせたところで、アルバストが不意に真剣な気を放った。瞬間、周囲の空気が萎縮したように引き締まる。士会もバリアレスも、戦場にあるかのような心持ちに切り替えた。
「では、武宮士会、バリアレス・ファルセリア。両名とも、ハクロを任されし守将としての権限により、ハクロ軍上級将校としての任を解く。これより、それぞれ次の任に励むように」
「拝命しました」
背筋をぐっと伸ばし、足先を揃えて、士会とバリアレスは敬礼した。これは一つの区切り。ハクロでの鍛錬の日々との別れ目。複雑な思いが、士会の胸の内に去来する。
アルバストは表情を柔和に崩してから、労うように最後の言葉をかけた。
「よく、働いてくれた。お疲れ様」
少し、うるっと来てしまった。しかしこの人を前にして、涙はあまり似合わない。一度唇を噛みしめ、涙腺を引き締めてから、士会は声を張り上げた。
「ありがとうございました!」
バリアレスとまたしても声が被ったが、最後のこれは意図したものではなかった。
そして二人は一礼し、背を向け、城外へと歩き出した。