終章1 姫武者の追憶
山の端が白み始め、星が消えつつある。
夜明けが近づく草原を、士会はわずかな兵を伴って駆けていた。
隣には紐燐紗が控えている。二条の髪を靡かせながら、戦鴕を巧みに操っていた。
「燐紗。すまなかったな」
ふと、士会が口を開いた。何のことかわからず、紐燐紗は怪訝な顔をする。
「何の話です? 士会殿」
「歴燈のことだ。お前の師でもあったんだろう?」
それを聞いて、紐燐紗は合点がいったというように、ああ、と呟いた。その白桃色の瞳には、感情の色が映っていない。
歴燈を寡兵で破るのに、隊を分けられるよう指揮官がもう一人必要だった。しかしそのために、紐燐紗に恩人を斬らせてしまった。
「戦場でのことです。そもそも襲ってきたのはあちらからでしたし。謝られるには及びません」
「でも、割り切れてはいないだろう?」
「………………」
始めは平気な顔をしていた紐燐紗だったが、士会の指摘を受けて押し黙った。歴燈を斬る時の寂しげな表情を、士会は忘れてはいない。戦場を離脱してから口数が少なくなったのも、そのことと無関係ではないだろう。
やがて、紐燐紗はぽつぽつと語り出した。
「歴燈は、軍人らしい軍人でした。とにかく命令に忠実で、上に命じられたことはきっちりこなすのです。私が軍というものについて教えを請うた時も、嫌な顔一つせずに引き受けてくれました」
紐燐紗の口調は静かで、ともすれば戦鴕の走る音にかき消されそうなほどだった。それでも士会の耳には、しっかりと彼女の独白が聞こえていた。
「私は武の道を究めようと、様々な人に教えを受けました。しかし戦鴕の乗り方から軍学に指揮の方法まで、最も多くのことを教わったのは歴燈です」
紐燐紗の目は、真っ直ぐ前を向いていた。
「私が後ろから肉薄した時、歴燈は驚いていました。しかしその後、首を取る直前、どこか満足気な表情を浮かべ、あろうことか構えを解いたのです。私には、その顔が焼き付いて忘れられません」
「満足、か……」
自らが育てた皇子の成長を目の当たりにしてのことだろうか。それとも、自分を討つのが紐燐紗なら本望だ、ということか。もしかすると歴燈も、皇子を討伐しなければならないという命令と、手塩にかけて育ててきた紐燐紗への愛情に板挟みになっていたのかもしれない。
実際のところは、本人にしかわからないだろう。
「忘れられないんじゃなくて、忘れたくないんじゃないか? 恩師の最期だ、たとえ手を下したのが自分でも、それは看取ったということだろう」
「そうかも……しれませんね」
草原を吹き渡る風が、士会たちの間を通り抜けていった。
しばらく、無言で駆け続けた。日の頭が見え始め、辺りは既に明るくなっている。士会は声も出さず、少し進路を変更した。
「士会殿」
今度は紐燐紗の側から口火を切った。話の続きだろうかと、士会は思ったが、違った。
「これ、行き先わかってるのでしょうか」
「………………」
士会に黙る番が回ってきた。
「……いや、だってな? 案内役はまず紐寧和殿につけるべきだろ?」
「それはまあ、姉様を無事に送り届けるのが第一ですし、否定はしませんけど」
方角のわかる兵は、紐寧和とともに先行させてしまっていた。闇に強い鏡宵も、護衛として紐寧和についている。そのため戦場から離脱する際、士会は完全に勘を頼りに駆け出していた。
「土地勘そこそこあるから大丈夫だと思ったんだけどなー……。ちょっと……いや大分? ずれてたみたいだ」
「ええー……」
呆れたような紐燐紗の声を、士会はそっぽを向いて聞き流す。
「というか神の使者であられるなら、神様にお伺いをたてたりできなかったんですか」
「お前ら神の末裔らしいが、ご先祖様に話聞いたりはできないだろ? つまりそういうことだ」
「それはちょっと違うような……」
「同じ同じ。まあ、一応位置はわかるから、なんとか帰れるはずだ。途中で袖兵とばったり出くわさないかどうかだけは、心配だが」
「あの、もしかしてあれってそうなんじゃ……」
紐燐紗が指差した先を見ると、兵士の小集団が認められた。おそらく、斥候隊だろう。
「ヤバいな。一気に疾駆して潰すべきか……いけるか? いや待て、あれは……」
目をこらして、士会は兵士たちをつぶさに観察した。
「違うぞ! あれは鷺の斥候隊だ! 喜べ、近くに鷺軍がいるぞ!」
「本当ですか!?」
近づいて確認してみると、ピオレスタの出した斥候隊だった。かなり広範囲に斥候を出し、こちらの位置を探っていたらしい。
その場で、紐寧和の無事も知らされた。どうやらピオレスタの隊に行き着き、保護されたようだ。
斥候隊に導かれ、士会は残存兵を率いてピオレスタと合流した。同じ場所にバリアレスの騎鴕隊も駐屯しており、すぐにバリアレスとも会うことができた。
「皇子寧和から聞いたぜ。やりやがったな、士会!」
騎乗したバリアレスに後ろからぶっ叩かれ、士会は危うく開夜から転げ落ちそうになった。いきなり首にしがみつかれた開夜が、抗議するかのように低いうなり声を上げる。
「おい、こっちは戦闘からの夜通し駆け続けで眠いんだ。手加減してくれよ」
「なーに弱気なこと言ってんだよ。二万の包囲を七十でぶっ潰したんだろ? おら、もっと背筋を伸ばせ」
「雑魚が出しゃばってくれたのと、柳礫軍が実質味方みたいなもんだったからだぞ。運が味方してくれただけで、潰したとはとてもじゃないが言えん」
「謙遜するなよ。やったことは英雄のそれだぜ」
「英雄ねえ……」
全く実感の湧かない単語だった。自分はできる範囲のことを必死でやっただけだ。率いていた麾下の兵も半分以上失い、喪失感すら感じている。
「士会殿、よくぞご無事で」
「ああ。ピオレスタも無事で何よりだ。外からの牽制、ありがとな」
ピオレスタとバリアレスが包囲の外から後背を突く動きを見せて牽制してくれなければ、早々に砦を落とされていたとしてもおかしくない。
「いえ。あの状況なら当然の判断でしょう。礼には及びません。ところで、そちらの方は」
ピオレスタが紐燐紗の方を向いて尋ねた。彼女も戦塵に塗れており、姫としての優雅さより、武人としての無骨さが前に出ている。ピオレスタが気づかないのも無理はなかった。
「袖の第十皇子、紐燐紗と申します。この度は、随分と騒がせてしまいました」
戦好きでも一国の姫なだけはあって、紐燐紗もおしとやかな口調で話せるようだった。
そういえば、フィナがそういった話し方をしているところを見たことがない。なんだか余計心配になってきた。
「なんと、紐燐紗様でしたか。これは失礼しました。私は士会殿の指揮下の将校、ピオレスタと申します」
「士会殿の将校なのですね。いずれまた、お世話になるかもしれません」
一介の将校に何の用があるのだろうとピオレスタは首を傾げていたが、それ以上の会話はなかった。紐寧和が姿を現したからだ。
「姉様!」
「燐紗! 良かった。本当に、よくぞ無事でここまでたどり着いてくれた。私は本当に、頼もしい妹を持った」
「過分なお言葉です、姉様。軍神の使い、士会殿の御加護のあってのことでした」
勝手に軍神の使いにされているが、士会は訂正する気にならなかった。姉妹の再会に水を差すことになる。
しばらく二人で話してから、紐寧和は士会のところに向かってきた。
「士会殿。追われている私を拾い、幾万の囲みを破ってここまでたどり着けたのは、貴公の働きがあってこそだ。重ねて礼を言いたい。国を捨てた身ゆえ、言葉しか贈る物がないのが心苦しいが……」
「それだけで十分だ。二人を見つけて確保するのが、俺に課せられた役目だっただけだしな」
真正面から礼を言われて、士会は照れ隠しに鼻を掻いた。
「二人はこれからどうするんだ?」
「そちらの国でもやり取りがあるだろうから、数日から数週間はハクロに滞在することになるだろうな。その後、出来れば鷺国の都、フェロンに向かわせてもらいたい。亡命を頼むため、皇に拝謁が叶うのが最善かな」
「鷺の皇は病が篤いらしくてな。それは厳しいかもしれない。実権はフィナ――じゃなくて娘のフィリムレーナにほぼ移ってるから、そっちに頼むといいかもな」
その方が、士会による口添えもしやすい。確実に彼女たちの亡命を受け入れさせられるだろう。
「ふむ? なるほど、貴公は鷺の姫君と愛称で呼び合う仲であるのか。助言、感謝する。是非そうさせてもらうとしよう」
癖で口に出してしまったフィナという愛称を、紐寧和はきっちり耳に捉えていた。亡命の口添えをしようという士会の目論見も看破しただろう。
まあ、別に見破られたところで困ることでもないかと、士会は気にしなかった。
「それじゃ、昼夜兼行のところ悪いが、このままハクロまで移動しよう。一応はまだ、戦場から離脱しきれてはいないからな」
「そうしてもらいたい……っと、これは失礼した」
急に眠気が来たのか、紐寧和は俯いてあくびを噛み殺す仕草をした。考えてみれば、彼女は決死の逃避行を続けてきたのだ。睡眠も十分に取れていなかったところで、さらに夜を徹しての包囲突破を行った。むしろここまで、疲れている素振りを見せなかったことの方が驚きだろう。
「先を急ぐか。早いところハクロに戻って、固い地面ともおさらばしようぜ」
野営では寝台など望めるはずもなく、地面に筵を敷いて雑魚寝が一般的だ。柔らかい布団にくるまるには、ハクロの街に入ってからゆっくり休む必要がある。
その後は袖軍と会敵することもなく、士会は姫姉妹をハクロまで護送した。