神使と皇子
砦に駆け込んだ士会は、急ぎ防備の確認を行った。最近まで使われていた砦だけあって、低めながら城壁もしっかりしている。さらに二方は頂上付近が岩盤の露出した崖となっており、登ることはほぼ不可能だ。難破して袖から脱出したあの時、短時間ながらこもった砦とは雲泥の差だ。
しかし、状況が絶望的なことは変わらなかった。皇子たちを追ってきた五千が山裾に展開し、攻囲の陣を敷いている。移動中、バリアレスと白約が介入しようとしていたが、千三百足らずではいかんともしがたかったようだ。士会もその間、脱出できそうな隙をうかがっていたが、遂に見いだせないまま攻囲が完成してしまった。
今もまだ、外から千三百が背後を襲う構えを見せており、五千はこちらを攻撃してきてはいない。しかし、散らばっている袖の軍勢が集まってくると、千三百では全く対処できなくなるだろう。既にアルバストには知らせているだろうが、到着まで早くても二日はかかる。
「独力で……なんとかするしかないか」
「士会殿」
「うおっ」
気づいたら、鏡宵が後ろに立っていた。気配を全く感じない辺り、さすが暗闘を得意とする軍の指揮官といったところか。
「すまんな、鏡宵。お前の手の者も、随分と死なせた」
「謝るには及ばない。そういう任務だったし、金は十分もらってるしな。それに、言うほど死んでもいない」
「そうなのか?」
「俺たちはまず、生き延び方を叩きこむところから始めるからな。山中に姿をくらました奴もいれば、敵兵になりすましてあの五千の中に潜り込んでるやつもいる」
「ほう? それは心強いな」
「大した期待はしないでくれよ? そんな大きな働きはできん。そんなことより、姫様方がお呼びだぞ」
「姫? ああ、皇子寧和と皇子燐紗か。姫っつーとうちの姫様を連想するな……」
「一人しかいないから呼びやすいものな。それじゃ、俺は見回りに行ってくる。茂みの中から、密かに接近されないとも限らないからな」
「いや、ちょっと待て」
気になったことがあり、士会は鏡宵を呼び止めた。
「お前は逃げなかったのか」
鏡宵の言う通りなら、鏡宵自身もどうとでもあの場を凌げたはずだ。わざわざ本職でない戦闘に加わり、窮地に陥る必要はない。
鏡宵は少し真面目な顔になり、士会の方を振り向いて答えた。
「指揮官が離脱すれば統率が取れなくなるのは、俺たち忍びの軍でも変わらないからな。俺があの場を離れるわけにはいかなかったのさ。それに――」
「それに?」
鏡宵は一瞬しまったという顔をしてから、しかし言葉を続けた。
「それに、必ず助けが来ると信じていましたもの。士会様」
急におしとやかな挙措になった鏡宵に、士会は少したじろいだ。その間に、鏡宵は音もなく城壁を跳び越え、山へと入っていってしまった。
士会はちょっと考えてから、それが彼女なりの照れ隠しだということに気づいた。
束の間、士会はフェロンのフィナに思いを馳せた。今の窮状を知ったら、さすがに彼女も心配するだろう。幸い、野営の任務に入ると予め伝えてあるので、向こうから通信が来ることはない。
「と、呼び出しか。後回しにし過ぎたかな」
砦の防備を逐一自分の目で確認していたので、皇子たちに挨拶する機会を逸していた。本来なら、真っ先に行わないと失礼に当たるのだろう。ただ、今は戦の渦中にある。聞き及んでいるような人物なら、礼儀より優先されるものがあることくらいは、わかってくれるはずだ。
士会は皇子たちの仮住まいとした、石造りの小屋に向かった。他の建物は、以前イアルがやっていたように壊させ、投石用の石を作っている。先ほどから、建物を打ち崩す大きな音が何度も鳴り響いていた。
「ハクロ軍上級将校、武宮士会、ただいま参上しました」
扉を開け、士会はとりあえず一礼した。今まで接した皇子がフィナだけなので、こういう時どういう作法を取ればいいのかわからない。
部屋の中には、皇子二人にその侍従が数名と、わずかな人数しかいなかった。これで、袖から逃げてきた者たち全員となる。元は七十余名いたというから、ほぼ全滅に近い形で皇子の命を守り切ったようだ。
「楽にしてくれ、士会殿。私は袖の第三皇子、紐寧和だ。こっちは第十皇子の燐紗。この度は、窮地を救ってくれて感謝する」
紐寧和は長い黒髪をすっと垂らし、黒い双眸が冬の澄んだ空気のような凛とした佇まいを感じさせる麗人だった。声も挙措も一つ一つが洗練されていて、美しさを際立たせている。
姉から紹介を受けた紐燐紗は、軽くうなずいた。二条に垂らした白桃色の髪、同じ色のくりんと大きな目、小さな背丈と幼さを感じさせる見た目だが、戦場で最後まで踏ん張って剣を振るっていたのは彼女だった。シュシュと同じくらいに見えるが、剣の腕はなかなかのものだ。
どちらも、まとった衣服は粗末なものだった。貴人だとわからないように、という偽装だろう。裾は擦り切れ、全身が土塵にまみれていた。
「救ったって言えるほど、窮地から出てはいないですけどね。ここ、今のところどん詰まりの袋小路ですよ」
皇子捜索のため散らばっていた袖兵たちが、これから続々とここに集まってくるだろう。今でさえ戦力差は絶望的だが、それがさらに広がるのだ。
「面白い表現をするな、貴公は。ところで、敬語は改めてもらって構わない。黒髪にその鳶色の瞳、貴公は鷺に降り立ったという神の使者であろう? 我ら、神の子孫を名乗る者とは対等以上であるべきだ」
この世界の国家の皇たちは、創世神話の神々の子孫を名乗っている者が多い。鷺も袖もどちらもそうだ。
「あー、まあ。一応は。なら、そうさせてもらうかな。それで、用件は」
「一つは、礼を言っておきたかったこと。もう一つは、直接現状を聞いておきたいということだ」
「私も! 私も一つあるので!」
紐燐紗が手を挙げていたが、本人も姉の用件の妨げる気はないらしい。士会は手短に、砦に逃げ込んだはいいものの脱出する手立てがないこと、外部からの助けは時間がかかる上、そう大きな規模ではないことを話した。
「なるほど、これは確かに袋小路だな。笑うしかない」
「笑えないです、全然笑えないです姉様」
泰然としている紐寧和とは対照的に、紐燐紗の顔は引きつっていた。
「そういうわけで、今のところは二人ともちょっぴり延命したに過ぎないんだ」
「だが、あそこで落命するよりはずっとましだ。確かに最悪な状況だが、生きていれば少しの間でも、違う風が吹くのを待つことができよう」
「姉様が敵の手にかからない限り、負けてはいないですもんね」
皇子二人とも、芯の強い女性のようだった。この期に及んでもまだ前向きさを失ってはいない。
「違う風か。少し聞きたいが、袖の中央で何か変化が起きる可能性は?」
他力本願だが、この攻撃を止めるような政変がもう一度起きることはないのだろうか。
「望み薄だな。大規模に軍が動き過ぎている。これを差し止めるような政変というと、兄上の暗殺くらいしか思い浮かばない」
第三皇子の紐寧和の兄というと二人いるが、この場合は太子圏のことを指すのだろう。
「各皇子たちがこぞって兵を出してるみたいだから、ない話でもない気がするけどな」
「兄上は父上の失言以来、とにかく暗殺を警戒していてな。確かにこの混乱の中ならあるいはとも思うが、そう都合よくは起こらないだろう」
「そうか……まあ、元より期待する話ではないな」
士会も言葉ほど落胆はしていなかった。もしかしたら、と少し思っただけだったのだ。
「で、燐紗。何か言いたいことがあったようだが」
「もう、良いのですね姉様。では、士会殿。単刀直入に言います。指揮権を譲っていただきたいです」
「はい?」
幼い少女が胸を張って言うものだから、士会は素っ頓狂な声を出してしまった。
「私は剣だけでなく、指揮にも自信があります。現状を打開する策があなたにはないのでしょう? なら、私に任せて」
「いや待て、なんとかできる方法を思いついているのか?」
「それは……まだ、その、ないですけど」
「ないんかい」
士会は思わず言い放ってしまった。ほんのちょっとだけだが、まさか、と思ってしまったのだ。
「ですが! 兵を預けてもらえばなんとか」
「と言ってもなあ。その幼さで指揮はちょっと」
「私はもう十五です! 戦場に出ても良い頃合いです!」
思ったより年が近かった。そういえば、体格も自分たちの世界より小さめの傾向があるのだった。バリアレスも十五で戦場に立っていたらしいので、そこに関しては的を外した発言ではない。
「士会殿。燐紗は本気で言っている。本気で答えてやってほしい」
士会が戸惑っていると、紐寧和から補足が入った。それを受けて、士会は目つきを変える。
「指揮権は、渡せない」
「なっ……それはなぜ」
心底意外だという風に、紐燐紗は大きな目をさらに丸くした。
「あいつらは、俺がこの一年近く、寝食を共にして、手塩にかけて育ててきた兵たちだ。あいつらは俺だからこそ命を預けてくれているし、俺はだからこそあいつらの命を預かっていられる。それをいきなり他の指揮官に渡す、というのは、容易くできることではない」
「むっ……むううううう……」
紐燐紗は葛藤するようにうなり声を上げていた。そこに士会は、畳みかけるように言葉を投げる。
「指揮に自信があるというなら、指揮官と兵との信頼関係がどれだけ重要か、骨身に染みて知っているはずだ。俺は、あいつらを手足のように動かせる。お前に、それだけの指揮が執れるのか?」
「執れます!」
煽るように言った士会の言葉に、紐燐紗は即応して答えた。多分、反射的に出てきた言葉だ。
「ほう? ならやってみるか――と言いたいところだが、今そんな場合でもないし場所もない。ここは一つ、立ち合いで決めないか」
「剣技で決めるということですか……いいでしょう。その勝負、受けて立ちます!」
「よし、決まりだな。少し待ってくれ、剣を用意させる」
「え? 棒でも使うのではないのですか」
「指揮権がかかった立ち合いだぞ? 真剣でやらないでどうする」
士会は有無を言わせず、真剣での立ち合いに話を持っていった。紐燐紗も、それ以上は何も言わなかった。ただ、白桃色の目が不安げに泳いでいるのを、士会は見逃さなかった。
「よいのか、士会殿。燐紗は武芸にも秀でている。少女だと思って甘く見ていると、痛い目に会うぞ」
「知ってるよ。戦場で、剣さばきを少し見た。強い。けど、どこかに脆さのある強さだ。大丈夫、俺も酔狂で指揮権を出したわけじゃない」
この一年、強い相手とも弱い相手とも数限りなく戦ってきた。その中で、彼我の実力差を測ることもある程度はできるようになっていた。
「なら、よいが」
「実を言うとな。俺は少し――怒っているんだ」
理不尽かもしれないが、いとも容易く指揮権を譲れなどと言えてしまうのは、自信過剰だろう。いくつもの戦場を共に越えてきた兵を寄越せと言われるのには、士会にとって憤りを感じることだった。
それに、紐燐紗の物言いには、どこか見覚えがあった。多分、大敗を喫する前のバリアレスに似ている。折れたことのない強さ。退くことを知らない、暴走した自信。バリアレスはそれらを粉々に叩き割られることで、一歩突き抜けることができた。
紐燐紗にも、そんな何かが必要だろう、と思う。
兵たちは見張りについており、立ち合いを見守るのは紐寧和を置いて他にない。
紐燐紗は、この期に及んでも真剣での立ち合いに不安を覚えているようだった。それが、士会にはよどみとしてはっきりと見て取れる。
士会は静かに、晴嵐二振りの剣を構えた。つられるように、紐燐紗も剣を上げる。
「始め!」
紐寧和が合図を出した瞬間、士会は一瞬にして距離を詰めた。紐燐紗のどっちつかずのような剣をいとも容易く弾き飛ばし、そのまま首筋に剣を突き付ける。瞬間的に起こったことが理解できないのか、紐燐紗は茫然としていた。
「俺の勝ちだな」
「なっ……ちょっと待ってください、そんな……」
「何を待つんだ。戦場なら、お前の首は胴から離れていた」
「う……」
煌めく晴天剣の白刃を前に、紐燐紗は明らかにたじろいでいた。士会は再び、煽るように言葉をかける。
「まだ、やるか?」
「や、やります! 今のはまだ、心の準備が」
その後五戦やり、五度とも士会が一方的に紐燐紗を打ちのめした。最後には、紐燐紗は剣を取り落とし、泣き出しそうになっていた。いじめているようで心が痛むが、彼女には必要なことのはずだ。
「驚いたな。燐紗に何もさせずに勝ち続けるとは」
「一年前の俺だったら、立場が逆だっただろうけどな。色々あったけど、自分のせいで多くの人を死なせて、初めて見えてきたこともある」
士会自身も、士会の将軍の位のためというしょうもない理由で、おびただしい数の死者を出した敗北を経験している。あの戦の内容は、決して忘れてはならないものとしてバリアレスと何度も話し合った。そうすることで、互いに成長できたところがある。
「俺は指揮に戻るよ。紐燐紗の後のことは、頼んでいいか」
「引き受けよう。妹は勇ましいが、なるほど、挫折を知らなかったか。考えてみれば、皇子を相手に本気で打ちかかれる者など、数えるほどしかいないな」
「今まで手を抜かれていたかは、わからない。ただ、これは俺の役割だろうし、経験するなら早い方がいいと思っただけだ」
少し照れたように士会は頭を掻いた。なんとも、柄にもないことをしてしまった感じがある。体中がむずがゆい。ただ、以前の自分やバリアレスを見ているようで、つい手を出してしまった。
「一つ言っておくと、紐燐紗は強い。今の結果だけを見ると、そうは思えないかもしれないけどな。あれは、単に真剣での立ち合いに慣れていなかっただけだ」
「わかっている。私をここまで守り通してきたのは、他ならぬ彼女なのだからな」
「なら、いい。それじゃ、俺は失礼するよ」
踵を返しかけた士会を、紐寧和は少しだけ引き留めた。
「燐紗の今後を思っての行動、誠に感謝する。それにしても貴公、燐紗の成長を促すとは、どん詰まりなどと言いながら全く諦めてはいないのだな」
「まあな。俺自身、こんな感じの状況から、救ってもらったことがあるんだ。今度は、俺の番だよ」
手にした双剣の元の持ち主のことを、士会は思い起こしていた。
背を向けて歩き出す士会に、何かを感じ取ったのか、後ろから紐寧和は声をかけた。
「貴公、まさか死ぬ気ではあるまいな?」
「いいや。ただそれは、状況が決めることだ」
士会は言葉を濁し、皇子たちの小屋を離れた。本当は、自らの命を捨てれば皇子たちを逃がせる状況なら、迷わず死を選ぶ覚悟はできていた。命をつなぐ、それが命を救われた者としての責務だと考えているからだ。
ひとまずは今日を凌ぎ切らないとな、と士会は独りごちた。