閑話 士会と女の味2
ハクロの街中には、白い物件が多い。白が大好きな街の守将が強権を発動して強制した――わけではなく、ハクロの近くに建材に向いた白い石の採石場があるのだ。これは装飾用の石としても用いられ、ハクロの名産品になっている。
買い出しなどで士会よりは詳しいシュシュが、一応の案内人を務めていた。といっても軍で出す食事は一括で直接仕入れてしまうため、個人で買いに来ることはない。調理器具が壊れた時などに、たまに街に来るらしい。仕事に励む彼女にたまには休みをあげたいが、主人が軍の調練に精を出している時に遊ぶなど考えられないのだそうだ。
今は士会も指揮官としてそれなりに給料をもらっているため、そこからシュシュにも給金を渡そうとした。しかし既にフィナからもらっていると断られ続けている。今日は別な形で、彼女に礼をしたいと考えていた。
農作物を売る露店が並ぶ通りを、士会はシュシュと連れ立って歩いていく。そこかしこから、値段交渉したり、物々交換を持ちかけたりする声が聞こえてくる。随分と売買の自由度が高い市場らしい。こちらでは、それが普通なのかもしれない。
「ちょっと果物でも食べよう」
そしてシュシュに何も言わせず、蜜柑と思しき柑橘類を二つ購入し、彼女の手に一つ握らせた。「食べるか?」と聞くと確実に遠慮されるので、少々強引に行くのがこつだ。
少し路地に入り壁に背中をついて、皮をむいて一房食べてみた。薄皮の中に含まれていた水分が口内に広がる。酸味が強いが、ほのかに甘くておいしい。
「んんんんんんん~、しゅっぱい、けどおいしいです、士会様」
口元を尖らせてシュシュがうなる。果実類は嗜好品の側面が強く、日常的に食べることはない。いつもと違うぜいたくは、多少なりとも礼にはなるだろうか。
不意に、パンパンと手を打ち鳴らす音が士会の胸から聞こえた。フィナの合図だ。
路地には他に人気はなく、表通りの雑踏の喧騒で人ひとりの声くらい紛れてしまうだろう。
胸の中にしまい込んでいた鏡を取り出し、士会は答えた。
「いいぞ、フィナ」
「うん。今日はお休みだって聞いてたけど、何してるの? 今までは寝てばっかりだったけど」
「さすがにそれもどうかと思ってな。シュシュと一緒にハクロを散策してるよ。ほら」
鏡をシュシュの方に向けた。今、鏡には、手に柑橘類を持ってはむはむと咀嚼する姿が映されている。
「ん……あ! フィ、フィリムレーナ様! 申し訳ありません、今ちょっと手が離せなくて」
「いいよ、そのままで。でもいいなー、私も会君とそういうことしたいなー」
「難しいだろうな……フィナを連れるとなると、どうしても仰々しくなっちゃうからなあ」
士会とて、今はフィナが鷺にとっていかに重要な人物か理解している。彼女に代わりはおらず、もし暗殺でもされようものならあっという間に亡国の危機になる。フェロンで遊覧船に乗って街を巡った時の過剰なまでの護衛も、今なら当然のことと思えた。
一方の士会も、今は護衛を付けている。今も鏡宵と鏡朔やその手の者が、目立たないよう士会の近くにいるはずだ。しかしフィナの護衛となると、影の部隊だけでは不完全だろう。
「それでもいいから、また一緒に遊びたいな……。ね、やっぱりそっちに行っちゃだめ?」
可愛らしい声と目でそう訴えられると非常に断りづらいが、フィナを守る力をつけてから戻ると心に決めている。直接会ったら何かが揺らいでしまいそうで、士会はフィナの訴えを退けた。
「……ダメだ。ごめんな。けど、待っててくれるんだろ?」
「うん……そうだったね。私も待つって決めたんだ。ごめんね、困らせるようなこと言っちゃって」
「いいや、待たせてるのはこっちだからな」
ふとシュシュを見ると、満面の笑みを浮かべていた。それを見て、士会は今の会話を思い出し、赤面する。余人に聞かれるとかなり恥ずかしい会話を、従者の前でしてしまっていたようだ。
しばらくフィナとの交信を楽しみ、市場でシュシュと買い食いした後、士会はハクロの街を流れる川に沿って歩いていた。フェロンほどではないものの、ハクロも水運が使われているようで、荷を積んだ小舟が時折士会を追い越していく。細い枝葉が流れるように枝垂れた木が川の両岸に植わっており、風流な風景を作り出していた。周囲は宿屋や飯屋が多く立ち並んでいる。
始めは景観を楽しんでいた士会だったが、徐々に違和感を覚えるようになっていた。
やけに露出の高い女性が多い。
この世界では和服のように衣を前で合わせ、帯や紐で止めて着るのが一般的だ。色使いや意匠に違いはあるものの、男女ともに差はない。
しかし先ほどからやけに胸元をはだけさせた女性や、ことさらに脚を露出させた女性を多く見かけるのだ。道を行く男たちにはにやけながら凝視している者も多い。初心な士会は目を背けていた。
これはちょっと、シュシュの教育に悪い……と思ったが、そういえば彼女もそういった知識は持ち合わせていた。しかし士会の常識的には、あの扇情的な姿はシュシュには早い。
居づらさを感じていたこともあり、士会は早々に踵を返し、もと来た道を戻ることにした。
ちょっとだけ、残念だった。
※
「くうっ、惜しい! もう少しだったのに! あああ金がもったいない……」
目の前で白約が悔しがっていた。白約の策は、女性に金を握らせ士会の近くで誘うような格好をさせることだった。確かに士会はあられもない女性の姿に著しい興味を示していたし、あの従者がいなければ、周囲の男と同じくより露骨に鼻の下を伸ばしていたかもしれない。
しかし。
「いや、白昼堂々手を出すことはないでしょう」
「さすがにそりゃないと思ってるけどさ。情欲を刺激すれば、向かうところはやっぱり妓楼だろ?」
「士会殿にその発想はないと思いますよ。せいぜい兵舎に戻って自分で処理する程度じゃないでしょうか」
バリアレスも同意見だった。士会にこちらの常識が通用するとは思えない。
「大体お前ら、なんでそんな回りくどいんだよ。直接とっ捕まえて引きずってでも連れてきゃいいじゃねえか」
「それが出来るのは、この中でバリアレス殿だけですよ」
「最近お二人とも、一対一ならアルバスト殿と互角にやり合うじゃないですか」
「一人でダメなら二人でかかればいいだろ」
バリアレスとしては、いきなり襲い掛かって無理やり妓楼に引っ張って行って、上物の女に抱き着かせれば後は流れで行けると思っているのだが、どうも士会の部下二人は気が進まないようだった。
「こう、出来れば本人の意思で行ってもらいたいんですよね」
「そうそう、無理やりってのはなんか違うというか……」
歯切れの悪い二人を前にして、遂にバリアレスがキレた。
「ああもうまどろっこしいなお前ら! 鷺国の危機とか言ってたのになんだそれは! もういい、俺がやる!」
宿屋街の一角に珍しい果実酒を出す店がある。酒を飲んでいる気にならずバリアレスの口には合わなかったが、あれなら士会に偽って出しても酒とバレることはないだろう。
そもそも傍観して楽しむつもりだったバリアレスだったが、あまりの締まりのなさに自分がやることになってしまった。
しかしそのことに、本人は全く気付いていなかった。
※
夜。士会はバリアレスに誘われ、酒場に来ていた。男同士二人で飲もうぜとのことだったので、シュシュには悪いが先に帰ってもらった。
もちろん、未成年の士会に酒を飲む気は毛頭ない。だが、果実を絞った飲み物など酒以外も出す店だと聞いて、了承したのだった。いつも調練や実戦の中で話すばかりなので、腰を落ち着けて話してみたいという気は士会にもあったのだ。
「とりあえず何か飲もうぜ。俺は酒だ」
「俺は酒以外だが……何があるんだ」
酒場といっても、あまり雑然とした雰囲気はない。恋人とのデートで使いたくなるようなお洒落な店だ。現に恋人同士と思わしき姿もそこかしこに見える。どうも男二人できた自分たちは場違いな気がしてきた。とはいえよく見ると、男だけの客もちらほらと見える。
壁にメニューと思しきものが貼ってあるものの、士会は字が読めない。もっともそれはこの世界では珍しいことではないらしく、そこまで大きな反応をされたことはなかった。ただ時折、神の使者なのに字が読めないのか、と驚かれることはある。
「俺がおすすめのを頼んどいてやるよ」
バリアレスのおすすめということに一抹の不安を覚えたが、士会は素直に任せた。
「ベルゼルが入って、騎鴕隊はどうだ? バリアレス」
「見ての通り、今はまだ連携不足だな。あいつを見てて思ったが、俺はどうも騎鴕隊同士の戦いにこだわってしまうらしい。逆にあいつは、歩兵と連携の取れる位置から動きたがらない。それで、動きが噛み合わなくなってる」
そのことは、士会も見ていて思っていた、新生バリアレス騎鴕隊の問題点だった。騎鴕隊は動きが速い分、指揮官個々で動きを決めることも多い。そんな時、指揮官同士の考え方に差があると、一つの騎鴕隊でなく分離したいくつかの騎鴕隊になってしまいかねない。状況を読んだ上でそれならばいいのだが、普段からばらけてしまうのは、一つの隊として脆い。
「歩兵と連携を持とうとしてくれるのは、俺としてはやりやすいけどな。ただ、やっぱり叩けるなら相手の騎鴕隊をきっちり叩いてほしい。その方が、後々優位に立てる」
「ちょうどいい落としどころを探るしかねえな、と思ってるよ。あいつの動きには、さんざん苦戦させられたからな。あれも一つの戦い方だと、理解はしている」
質でも数でも劣る騎鴕隊を率いながら、歩兵を使って長いことバリアレスの騎鴕隊を止めていたのだ。ベルゼルの戦い方から吸収すべきものがあると、バリアレスも感じているのだろう。
飲み物が運ばれてきた。バリアレスのものは発泡酒で、士会のものは桃色の飲み物だった。
一口飲んでみる。口の中に透き通るような爽やかな甘さが広がった。桃のような味だが、少し違和感がある。添加物なども入っていないだろうし、異世界の果実であることが違和感の正体だろうと士会は納得した。
甘い飲み物、というのはこちらではあまりない。懐かしいとも言える味だった。
「いいな、これ」
「だろ? ちょっと高いが、飲み放題にしてあるからな。ガンガン飲んで元を取るぞ」
「勝手に飲み放題にしてたのか……まあ、これならいくらでも飲めるからいいか」
ぐいっと飲み干し、早速バリアレスに次を頼んでもらった。バリアレスも一気に杯を空にし、士会のものとともに注文したようだ。
「ピオレスタはどうなんだよ」
「不思議なくらい馴染んでるぜ。年下の俺の指揮を受けてくれるか少し不安だったが、杞憂だったな」
「軍に年上も年下もあるか。指揮系統が全てだ。大体、白約だってそうだろ」
「そういうもんか。何にせよ、ピオレスタも動くタイミングを見誤らない、機を見るのが上手い指揮官だ。さすがにそこまでのキレはないものの、アルバスト殿に近いタイプじゃないか?」
次が運ばれてきた。バリアレスがどんどん飲むので、士会も釣られて勢いよく飲んでしまう。話していると喉が渇くので、次々飲むのも気にならない。
なんだか気分が高揚してきていた。体も火照ってきている。
「だったら、お前の指揮とは相性良さそうだな。ところでお前、いつまで仕事の話を続けるつもりだ。男と男で話すことと言ったら、女のことだろう。殿下とはどうなんだ、連絡は取れてるのか」
「連絡は取ってる。上手くやってるよ」
フィナの絡む話をこんな場所でするのは危うくないかと思ったが、士会は正直に答えた。いつもならもっと照れている話題だ。
続々と運ばれてくる飲み物を飲んでいる内に、士会はだんだんふらふらとしてきた。今まで味わったことのない、熱に浮かされたような感覚だ。それが酩酊だということに、酒を飲んだことがなかった士会は気づいていなかった。
倒れこむ士会を見て、対面に座るバリアレスはにやにやと笑っていた。
はめられた。意識を失う寸前、士会は気づいた。
目が覚めると、布の感触を頬に感じた。
そして目を開けて飛び込んできたのは、誰とも知れぬ女性の裸身だった。
反射的に士会は寝返りを打ち、後ろを向いた。まだ少し酔いが残った頭が揺さぶられ、気持ち悪い。どうやら寝台の上で、女とともに寝かされていたようだ。何とも言い難い、恥ずかしさのようなものを士会は感じていた。
しかし同時に、士会は冷静だった。首謀者は割れている。間違いなくバリアレスだ。あの飲み物には、疑問に思わない程度にアルコールが含まれていたのだろう。昼間ピオレスタの様子がおかしかったのも、街にやたらと扇情的な女が溢れていたのも、奴が裏で手を回していた可能性が高い。思えばバリアレスに妓楼に誘われたことは何度かあった。間接的な手段では埒が明かないと痺れを切らし、強引な手に訴えてきたというのは想像に難くない。
なぜそこまで士会に女を経験させようとするのかはわからない。彼なりの親切心なのかもしれないし、単純に恥ずかしがる士会を面白がっているのかもしれない。何にせよここまでやったのなら、どこかで様子を見ているはずだ。見られている、という気配も感じる。
後ろで女が動く気配がした。抱き着かれる前に寝台から飛び降り、周囲を見渡す。
障子の隙間。目が合った。
瞬時に距離を詰め、障子を勢いよく開く。
「……お前らもか。見損なったぞ、特にピオレスタ」
そこには、押し入れの中に所狭しと詰め込まれたバリアレス、ピオレスタ、白約の姿があった。
「誤解です、士会殿。我々は鷺の国の将来を思って」
「そうですそうです! 国の危機を未然に防ぐために」
「あー、まあ、そういうことだ。別に悪意があってやったわけじゃない。それをわかってくれ。な?」
士会は三人の目をそれぞれ見つめた。ピオレスタはなんとなくだが、強い意志を持ってこんなことをしでかしたと見える。国の危機がどうのこうのという与太話も、彼からすれば本気なのかもしれない。
白約は半々、といったところか。情状酌量の余地はあるが、ある程度面白がっていたというのもまた真実だろう。
バリアレス、こいつはダメだ。瞳の奥に笑いが垣間見える。やはりこいつが今回の件の首謀者で間違いない。
「仕組んだのはお前だな、バリアレス。ちょっと表に出ろ。白約にピオレスタ、お前ら武器になりそうなもの調達してこい。腹癒せに立ち合いでボコってやる」
「言うじゃねえか、俺をボコるって? いいぜ受けてやる。盛り上がってきたぜ」
ピオレスタと白約が駆け出す前に、士会は二度とこんなことが起こらないよう宣言しておくことにした。
「いいか、俺は初めてもその後も、心に決めた一人としかしないと決めている。俺はそのくらいの覚悟で、あいつのことを愛している。今後つまらないことはするなよ」
まだ酔いが少し残る頭でそう言い残し、士会は先に部屋を出た。
「ね、会君」
廊下に出た瞬間、フィナが小声で鏡から話しかけてきた。
一気に酔いが吹っ飛んだ。
まさか。
「聞く気はなかったんだけど、今大丈夫かなーって様子見ようとしたらね?」
そして、きゃーっと嬉しそうに黄色い声をフィナは上げた。
どうやら告白ともとれる先ほどの宣言を本人に聞かれていたらしい。
士会の顔が真っ赤に染まった。それは、初めて飲んだ酒とは関係のないものだった。