夜戦2
遠い敵の砦から火の手が上がるのを、士会は今か今かと待ち構えていた。
火に頼らなければ少し先も見えない闇夜なので、砦はどこにあるのかわからない。しかしそれだけに、兵糧を焼き払うような炎が上がれば、ひと目で気づくだろう。
ここ数日、山麓の罠を少しずつ解除していた。こちらが長期戦も辞さない構えだと、相手に誤認させるためだ。奇襲の予兆も、こちらが間道の存在に気づいていることも、敵に気取られるわけにはいかない。今回の攻撃も、いつもの攻撃の延長上だと考えて、こちら側に注力してくれるのが一番いいのだ。
実のところ、今夜は攻撃すらしていなかった。数日の攻撃、というか調査で安全とわかっている範囲までしか兵を入れていない。こんな夜に罠だらけの山中に突っ込むのは愚の骨頂だ。あくまで、こちらの脅威を敵に見せ、混乱させられればそれでいい。
士会の率いている歩兵は火を持ち、周囲にかがり火も焚いているので明るいが、近くで埋伏するバリアレスの騎鴕隊は闇の中で息を潜めている。敵が打って出てきたら歩兵で足を止めさせ、バリアレスが一気に蹴散らす。余裕があれば、砦の中まで攻め込めるかもしれない。そうなれば、この戦はそれで片付く。
もっとも、これは作戦の枝葉に過ぎない。幹はあくまで、兵糧への攻撃だ。
それにしても、待つというのは気が焦れるものだ。どんよりとした曇り空で星月も隠され、かがり火の向こうの暗闇も、時間の経過もわからない。一応、夜通し陽動を続けるくらいの心積もりで来てはいるのだが、辛抱きかなくなってくるのは生来の性格によるものだ。
士会は、都へ送った使者のことに思いを馳せていた。先日調べるよう命じた内容に関しての鏡宵、鏡朔の手の者が送ってきた報告は、実に詳細で、多岐にわたるものだった。これだけ証拠があれば、亮も動きやすいだろう。
空を見上げると、鈍い色の雲が空を覆っているのがわかった。ゆっくりとだが流れていっている。
一瞬、雲が切れた。上空の彼方には月が出ているらしく、切れ間から薄明かりが差し込んだ。
闇の中に、何か見えた気がした。
目を凝らしたが、既に光は失われている。士会が部下に確認しようとしたところで、異変が起こった。
「なんだ?」
隊の前方が騒がしい。いくつかのかがり火が倒れ、松明も不規則に揺れている。しかし、詳しい様子は見えない。大きな声も上がっているようだが、何を言っているかは聞こえない。
喧嘩か何か、騒ぎでも起きたのだろうか。士会がまず思ったのは、それだった。血の気の多い兵は少なくない。馬鹿馬鹿しい理由で殴り合いをすることも、そう珍しい話ではなかった。
もっとも、それは平時の話だ。敵と直接交戦していないとはいえ、戦場で意味のない馬鹿をやらかすほど緊張感のない兵たちではないはずだ。
交戦。いや、まさか。この暗闇の中、明かりもなしに動くことは不可能だ。
本当に?
「敵襲です!」
そう叫んだ味方の兵の声で、士会は我に帰った。
「確実にか!?」
誤報ではないのか。そう念を押しつつも、士会の心中には焦りが生じていた。
「間違いありません! 賊兵です!」
「規模は!」
「不明です!」
討ち払わなければ。しかし状況が把握できておらず、手が打ちづらい。ひとまず士会は、襲撃されている箇所の対応を、林内の隊を指揮している白約に命じた。ただ、敵が一隊だけとも限らない。士会の持つ兵力は動かし難い。
少し待ったものの、一向に敵の数が上がってこなかった。喧騒は次第に広まり、近づいてくる。山の上の見張り台からも、煽るように鬨の声が上がった。士会の心中では、焦燥感が広がってきていた。一度、白約に伝令を送った。
帰ってきた伝令は、悲鳴のような報告を届けてきた。
「敵は少数の模様! しかしかがり火が倒され、暗闇で敵味方の区別がつきません! 同士討ちの恐れもあり十分な反撃ができません!」
「な……!」
同士討ちという単語に、士会は動揺した。味方同士で殺し合う羽目になるのは、想像するだに恐ろしい。それだけは避けたい。
ただ、少数とわかったのは大きい。数が活かせるのなら、手の取りようはかなり増える。
士会は腹をくくった。灯りがないせいで同士討ちになるのなら、温存している自分の隊の出番だろう。全員が松明を持っているし、統率も取れている。
「俺も向かう! 混乱を抑えることに集中してくれ!」
走り去る伝令の背中を見ながら、士会はすぐに前進を開始した。
騒ぎが起きている場所は音ですぐにわかる。そこを半包囲するように、士会は広く兵を展開した。白約の隊も、指揮がしっかり行き届いている分は合わせて動く。
「まずは明るく、視界を確保しろ! 味方は味方として隊に収容、敵は討て!」
片手に剣、片手に松明を持った兵が、網を絞るようにじわじわと進んでいく。半円の内側は不規則に揺れ動く松明や、地面に転がっている燃えかすなど、混乱の様子が見て取れた。
夜を征服するように、指揮下の兵たちが灯りとともに進むにつれ、少しずつ兵を収容していく。囲みは徐々にすぼまっていき、混乱もじきに収束させられそうだ――そう士会が思っていたところで、左翼からまた鬨の声が上がった。
こちらに攻勢をかけてきたか。しかし、今度は迎撃の態勢が整っている。数で圧倒的に優っている以上、容易く弾き返せるだろう。士会は他の場所にも敵が来ないか警戒を続けつつ、戦況を見守った。
静まらない。
どころか、混乱は徐々に周囲に波及し、一向に収まる気配を見せていなかった。
埒があかない。半円の中の混乱は既に収まっているし、もう動いても問題ないだろう。遠くからは戦鴕の駆ける音も響いている。バリアレスも異変に気づき、動き出したようだ。
こちらが混乱していては、バリアレスの突撃も効果が薄い。士会は自身が直接率いる隊を動かし、混乱の収束を図ろうとした。
次の瞬間、混乱の中から小集団が一気に士会目指して突っ込んできた。兵も動揺して、上手く対応できず突破されている。
「まずい――!」
後退を命じかけた口を、士会はぐっとつぐんだ。こういう時、下手に慌てて逃げようとすると一気に崩れるものだ。指揮の訓練を始めた時、嫌というほど知らされた。窮地ほど、将は落ち着いていなければならない。少なくとも、表面上は。兵の心は、こちらが思っている以上に、自らを手足として使う指揮官に影響されている。
士会は麾下の騎兵を小さく固めた。他の兵は、あくまで落ち着きを取り戻すことを優先させる。きちんと迎撃できれば、少数の敵を恐れることはない。
敵が見えた。いや、味方か。ハクロの軍で使っている具足を着ている。
しかし、ためらわずにこちらに向かってきた。敵から逃げているのだろうか。それにしては様子がおかしい。
そこで士会は、はっと気付いた。こちらの具足を奪い、偽装しているのだ。自軍に見える者たちが襲ってきているせいで、同士討ちが起きているように見えたり、迎撃すべきかわからず混乱も際限なく広がっていく。
味方に見えるがあれは敵だと麾下に言い聞かせ、他の兵たちにも浸透させていく。あとは初撃をきちんと受け切れば、包囲状態で逆襲できる。
しかし、冷静に構えたこちらを見てか、敵は反転しさっと退き始めた。
「やるな」
追うか。今なら後ろから襲いかかることができる。やられっぱなしも癪だし、騎乗している麾下の兵なら難しいことではない。
しかし、士会は反撃を命じなかった。同士討ち、という話がどこまでのものだったかわからない。去りゆく敵に追いすがって混乱を助長すると、最悪こちらが暗闇の中で各個に孤立しかねない。敵があれだけとも限らないし、ここは腰を据えておこう。
伝令が来た。
「お、ナイス」
白約が態勢を立て直し、横から敵に食らいついたらしい。そこにバリアレスも駆けつけ、完全に敵を蹴散らしたようだ。暗闇の中に消えた敵を探すことは出来ないが、それだけばらけた敵もすぐにまとまることは不可能だろう。隊としての体を成してはいない。
また、伝令が来た。谷とは全く別の方向から、新手の騎鴕隊と思わしきものが接近してくるという。それで、気づいた。バリアレスの隊のものとは別の足音が、夜の闇の奥から響いてきている。
数は百程度。敵の規模を考えると、それなりに多いと言えるか。
混乱は既に収束に向かっている。士会は急いで兵を小さくまとめにかかった。さらにバリアレスに伝令を出し、迎撃に向かってもらう。
敵の持つかがり火のおかげで、敵の騎鴕隊の動きや規模はすぐにわかった。なるほど、夜に火を使っていると、相当に目立つ。土地勘があれば、暗闇の中からの急襲も不可能ではないのかもしれない。
バリアレスの突撃をかわすように、敵の騎鴕隊は進路を曲げた。しかし、かわしきれてはいない。後方をバリアレスの隊に捕捉され、削れるように灯りが地面に落ちていく。
おそらく、先の奇襲と連携するつもりだったのだろう。しかし、何らかの理由で騎鴕隊が遅れたか、もしくは戦闘が思いのほか早く終わってしまったかで、時間差ができてしまった。こちらは既に混乱から脱しつつあり、騎鴕隊単体の相手くらいなら余裕をもってできる。
そう考えながら、士会はバリアレスが敵の騎鴕隊を蹴散らすのを見ていた。まず戦鴕の質からして差があるため、全く勝負になっていない。歩兵が介入する間もなく、敵が溶けるように崩れていく。
「さすが、勝ってる時は強い将……」
「士会殿。またぶん殴られますよ」
ぼそりと呟いたのだが、近くに来ていた白約にしっかりと聞かれてしまったらしい。
なおも追いすがろうとするバリアレスに、戻るよう伝令を送った。しばらくして、引き返してくる。闇の中に散った敵を追い続けるのは危険が大きい。早々に切り上げたほうがいい。
それはわかっていたのか、追撃を打ち切って帰ってきたバリアレスに、不機嫌さは見えなかった。
「嬉しそうだな」
「おうよ。最初はグダグダやってたみたいだが、なんだかんだ勝ちと言っていいからな」
「お前はそうかもしれんが、こっちはちょっとな……」
途中から参戦したバリアレスは、退き際の敵の追撃に新手の騎鴕隊の撃破と景気がいいが、こちらは少数の奇襲部隊に散々にやられてしまった。一度幕営しているところまで戻って数えないとわからないが、少なくない犠牲が出ているだろう。月も星も出ていない夜の闇では、灯りなしで行動など出来るはずがない、という思い込みで何人も死なせてしまった。これは、完全に士会自身の落ち度だ。
しかしバリアレスは、きょとんとした顔で士会を見てきた。
「何だお前。気付いてなかったのか」
「え? 何が」
「ほら、ここからでも見えるだろ」
バリアレスの指差した方を見ると、山の端から夜空が赤く染まっているのが見えた。
ちょうど、砦の方角だった。