鷺袖情勢
ある日、士会は調練中、アルバストに呼び出された。場所はハクロの中心、四階建ての天守閣の中だ。建造物の中層に、街の軍事を取り仕切る守将の執務室はあった。
「なんだろうな。いつもこんなややこしいことはしねえのに」
具足のままやってきたバリアレスは、頭の後ろで腕を組んでいる。士会同様、彼も呼び出しを受けていた。
「さあなあ。しばらく待てば、どの道報告に行くんだけど」
既に日は天頂を過ぎて、傾きかけている。日が落ちて調練が終わった後、必ずその日の訓練状況の報告にアルバストの部屋を訪れるので、普通の連絡ならその時に済む。領内の賊徒の討伐に駆り出されることもあるが、この時間なら日没を待ってもあまり変わらない。
狭く急な階段を登り、執務室に入ると、そこには二人の人物がいた。一人は士会を呼び出した張本人、アルバスト。そして、この街の政を司る街宰、レゼルの姿もあった。アルバストは机の前の椅子に掛け、レゼルはその後ろで控えるように立っている。アルバストの服装は軍装ではなく、レゼルと同じ着物に似た部屋着だが、やはり上から下まで白で統一されていた。喪服みたいだな、と士会は毎回思う。
「ああ二人とも、入る前に全身を点検してくれよ」
「しましたよ。毎度のことなんですから」
部屋の調度は主の好みを全開で反映しており、白で統一されていた。落ち着かない上、少しでも汚れがあると目立ってしまう。いちいち部屋の前で靴の土など汚れの元を落としてこないと、この部屋には入れない。
「そうは言っても、毎日夜にはどこかしら汚れてしまうのさ。全く、けしからん話だ。全てを湧き上がるような入道雲の色で染めたいというのに。もっと徹底した管理を行わないと」
「部屋に舞う埃を全部追い出さないと、無理じゃないですかね」
士会もバリアレスも慣れたもので、口をつく言葉はかなり素っ気無かった。真面目に対応しても疲れるだけだとわかっているのだ。
「うーむ、確かにそうだね。君の言うことはもっともだ。今後は従者に命じて、そこまでやってもらうか」
「絶対終わらないので止めてあげてください。そんなことより、急に呼び出したのはなんのご用件ですか」
そんなことを命じられたら、荷物をまとめて夜逃げするしかない。空気清浄機などという便利なものは、こちらの世界には存在しないのだ。
「そんなことより? おいおい、冗談じゃない。これより重要なことなんて――」
「あるから早く本題に入らないか。わざわざ調練中に引っ張り出されて、愚痴に付き合えじゃ締まらないだろう」
あまりの話の進まなさに見かねてか、レゼルが口を挟んでくれた。守将と街宰では街宰の方が形式的には上になるが、ほぼ同格と言っていい。関係もすこぶる良好で、きついことも言える間柄だ。
「はいはい、わかったよ。どうにも気が進まなくてね。わかるだろう?」
「なら、面倒なのは後回しにしてしまえ。伝えることがあるだろう」
「そうするか。いいかい君たち、報告が二つある。中央からのものと、袖に入っている密偵からとだ」
「密偵……それ、俺たちが聞いていいんでしょうか」
「むしろ聞かせたくて話に出しているんだ、気にするな」
機密性の高い情報もあるのではないかと考え、士会は聞いておいたが、レゼルはそう言って軽く笑った。
「さて、では前菜から行くかな。この前燐との締盟に顔を出した亮殿だが、官職に就いたそうだ」
「え。亮が?」
なんだかんだとフェロンに留まっていた亮だったが、遂に腰を据えるつもりになったらしい。
「まあ、内容は殿下の相談役というただの名誉職だけどね。ただ、殿下の信任が極めて厚いために、無視できない影響力を持ったようだね」
フィナの存在ありきとはいえ、独自に自身の立場を築き上げているようだ。さすがにそこは抜け目がない。
「名誉職に収められて喜んでいる層と、殿下への影響力を警戒している層がいるようだ。ただ、今のところ亮殿は大きな動きは見せていない。ひたすら勉学に励んでいるとのことだ」
レゼルの言葉に、士会は小さく笑った。異世界まで来て、ようやく勉強する気になったらしい。要領のいい亮のことだし、凄まじい勢いで様々なことを吸収しているのだろう。
「後は、北の方であった反乱が討伐されたみたいだね。あっけなかったな」
以前、北でそこそこの規模の反乱が起きたとは聞いていた。しかし中央から軍を送ることもなく、現地の軍だけで対処できたらしい。
「中央からはそんなところだろう、アルバスト」
「そうだね。それじゃ主菜といこうか。袖の話と言っても、僕らにも関係するかもしれないから、頭に入れておいてほしい」
「わかりました」
バリアレスと声を合わせて返事をし、同時に場の雰囲気が少し硬くなった。アルバストとレゼルが、交互に話を進めていく。
「袖で政変が起きるかもしれない。きっかけは、袖皇の容態の悪化だ」
鷺皇ほど酷くはなかったものの、現袖皇は病気がちであり、数日寝込むことが時々あった。
しかしこの度、かつてなく大きな病にかかり、半月以上病床から離れられなかったという。
「その時、重臣の何人かと世継ぎについての話をしている中で、袖皇がこう漏らしたそうだ。『私の目は正しかったのだろうか?』」
「前後の詳しい会話もわからないし、病に倒れ弱気になっていて、つい漏らしてしまっただけかもしれない。しかし最悪なことに、この袖皇の発言が外に漏れた」
皇の死後、次代の皇になるのは皇太子であり、これは皇が生前に決めておかねばならない。病気がちな袖皇は、早い内から名を圏という長男を太子に指名していた。
ところがここにきて、袖皇自身から皇太子の選択の正否についての疑念が口に出された。しかも、これがその場に会した重臣たちの中で留まればよかったものの、誰かが漏らしてしまったらしい。
「太子圏は焦っただろうね。今までずっと自分が次代の袖皇だと信じて疑わなかったのに、急に廃嫡される恐れが出てきたんだから」
皇太子の変更は滅多に起こることではないが、現皇太子に問題がある、と皇にみなされた場合に、起こることもある。歴史上にも、例はあったようだ。
また、長子が家を継ぐ、つまり嫡子になることが多いが、これも次子以下の方が出来がいい場合は変わることもある。皇太子の場合も同じことで、長子の圏を皇太子にしなければならないわけではない。
「そういうわけで今、きな臭い雰囲気が太子圏を中心に漂っているらしい」
「漂ってるどころか、巻き起こってるくらいがちょうどいいかな。やれ他の皇子に攻め入るだの、やれ暗殺者を放っただの、黒い噂がそこら中で飛び交っているそうだよ」
色を好む袖皇の子は多い。その中でも、生母の出身国の勢力が強い皇子橋、皇子玲亭、生母が最も袖皇から寵愛を受けている皇子間、民衆からの人気が高い皇子寧和辺りが、皇太子にとって目障りなようだった。
なお、太子圏の生母の家格は悪くないものの、既に後宮にあるその部屋を袖皇が訪れることはほぼない。そして、太子圏の評判は、すこぶる悪かった。色を好み、また酷薄。人の好悪が激しく、それが人材の登用に如実に現れる。一方で、時折臣下の話を聞かない。およそ皇にふさわしい性情とは言い難かった。
「ま、徳を積むなり、政を改めるなりして評判をあげようなんて噂が一切出てこないあたりからも、察することは出来るわな」
「一部、我が国も笑って聞いてはいられんがね……おっと、これは失礼。愚痴なんて、僕の柄じゃないね。ともかく、それで臣下達もそれぞれ保身や躍進のため、他の皇子に取り入ったりして、上層は本当に大混乱のようだ」
「うわあ……なんというか、ドロドロしてるな……」
要するに、後継を巡った熾烈な兄弟喧嘩が起ころうとしている。今挙がっただけでも五人、そしておそらくそれ以上に多くの兄弟姉妹が、皇の位を虎視眈々と狙っているのだろう。そして、次の代に移ると、皇の席に座るために尽力した臣が重用され、他の皇子についた臣は冷遇されるということは容易に想像できることであり、袖の人臣も兄弟姉妹の政争の渦中にいる。
「ま、代替わり前の皇家や貴家じゃままあることだ。ちょっと規模は大きいがな」
「自分の家を守るっていうのは大変だからね。皆がそれぞれ動くのも仕方がないところはあるのさ」
しかしレゼルはからりと笑ってそう言い、アルバストがそれに続いた。バリアレスもうんうんとうなずいている。お家騒動というのは、こちらの世界でも市民権を得ているようだった。
「でも、そういう意味じゃ、うちの国は楽でありがたいですよね」
「それはそうだな。何せ選択肢が一人しかいない」
「……僕は、それもどうかと思うけどねえ」
バリアレスが気楽そうに言うと、レゼルが同意し、アルバストが少しげんなりしたように言った。
鷺皇の子はフィナ一人だけで、その鷺皇も兄弟はいないので、今の鷺に皇の直系以外の皇族は存在しない。従って、皇位継承権は自動的にフィナに渡るわけだが、もしフィナが非命に倒れれば、皇族を失った鷺は大混乱に陥り、壮絶な権力闘争の果てに空中分解しかねない。
「確かに、皇子がわずかな供回りで袖国内にて孤立しているとの報が入ったときは、肝が冷えたな」
「あれは本当に、この僕ですら寿命が縮むかと思ったよ。もう二度と、あんな思いはしたくないね」
「俺も、あんな焦った父上、初めて見ましたよ……」
士会たち一行が袖領内で襲撃された一件で、必死になっていたのは当事者だけではなかったらしい。
「それで、その後継争いが一番のトピックだったんですか?」
士会が聞いてみると、アルバストとレゼルはもちろん、というふうにうなずいた。
「直接は関係ないかもしれない。だが、間接的に我々に影響が出る可能性はある」
レゼルが言った内容は、しかし士会にはあまりピンと来なかった。
「例えば人気取りと外敵作りのため、こちらへの侵攻が計画されるかもしれない。もしくは、権力争いに負けた誰かが左遷されて、柳礫や国境付近のほかの街に新たに赴任するかも。そうなってくると、僕らにも影響は出てくるだろう? 予兆を拾っておくに越したことはないさ」
「なるほど……」
「関係があるにせよないにせよ、我々は最前線に立っているのだからな。敵の情報をできる限り詳しく得ておくのは、非常に重要なことだ。遠い都の出来事が、戦場に直接響いてくることもある……のだろう? アルバスト」
「まったくだ。それに助けられたこともあれば、辛酸を舐めさせられたこともある。戦を戦場だけでやるものだと思うのは、あまり利口とは言えないよ。……ともかく、報告はこれで終わり。何か聞きたいことはあるかい?」
「いえ、特には」
「なら、任務の話をしよう。食後の甘味としては、ちょっと胃もたれするかもしれないね……。僕なら食べずに下げてもらうが、そうもいかない。いいかい、隣のビュートライドから、救援の要請が来たんだ」
「救援、ですか」
士会もバリアレスも、瞬時に気を引き締めた。上官がへらへらしているので油断していたが、救援とはただ事ではない。隣街にも当然軍は常駐している。その軍では対処できず、やむなく周りを頼らざるを得ない事情が起きていなければ、救援などというものは届かない。街が攻囲を受けているなど、重大な危機も考えられた。
ビュートライドは、ハクロから都に向かう場合、一番最初に通る街だ。士会も一度、フェロンへの途中に立ち寄ったことがある。
「ああ、力を抜いてくれ。街が落とされるとか、そういう話じゃないから」
しかし、あくまでもアルバストは楽に腰掛けたままだった。手をひらひらと振って、しきりに緊張を解くことを促してくる。
「では、どういう要件で」
直立を若干崩したバリアレスが短く聞いた。
「賊徒に手を焼いているらしくてね。僕らに討伐をしてもらいたい、と」
「そんなもん、向こうで勝手にやればいいじゃないですか」
バリアレスが呆れたように言うと、アルバストもうなずいた。
「全くだね。つくづく馬鹿馬鹿しい。こんなことでこの僕の手を煩わせるなんてねえ。ところがこれが手ごわいらしく、既に街の守備軍が三度まともにぶつかって、三度とも打ち破られたそうだ」
「三度!?」
ということは、まぐれでもなんでもなく、実力差で叩きのめされたのだろう。
「ええと、数はどのくらい」
「五百ほどだそうだ。うち、騎鴕が五十ほど」
「ビュートライドは?」
「常駐してるのが三千。三度目は二千を出して、三百ほど犠牲を出して潰走したってさ」
四倍の兵力で戦って、惨敗したということだ。
「野戦ですか?」
「うん。根城には攻めかかってすらいないらしい。まあ、三度目は奇襲だったらしいけど」
「それでもひでえな」
ぼそっとバリアレスが呟いた。同感だ。
「それで、こっちにお鉢が回ってきたんですか」
「そういうこと。しかも狙うのが、官軍の兵糧倉や大商人の輸送隊ばかりなんだよね。村を襲ったりしないどころか、『うっかり』米や銭を落としていったりするから、民衆からは感謝される始末だと」
「義賊、ってことですか」
「公にそう吹聴してるわけじゃないが、そんなところかな」
「聞く限り、性質としては賊徒というより叛徒に近い。放っておくと、際限なく大きくなるぞ」
「叛徒……反乱、ってことですか」
レゼルが口にした物々しい語句に、士会とバリアレスの顔がこわばった。
「その通り。もう大きくなり始めてるそうだよ。人気も勢いもあるからね。既に、最近鷺の各地で起きている反乱よりも、少しばかり規模が大きいかな」
「君たちが何もしなくても、いずれ大きな討伐隊が組織されるかもしれないね」
「君たち、ですか……やっぱ、そういうことですよね」
「なんか燃え上がらねえが、仕方ねえな」
話の流れで、士会もバリアレスもどういう要件で呼び出されたかは理解していた。
「まあ、うん。もうわかってると思うけど、この件は二人に任せるから、よろしく。あんまりぞろぞろ連れて行くのも間抜けだし、そうだね……バリアレスは騎鴕隊から百騎を選んで、士会は今率いている五百をそのまま持っていくかな。頼んだよ」
「拝命しました」
二人で敬礼してから、さらに細かく編成を詰めたり、情報の共有を行った。その後、新兵の徴兵の話に移った将軍と街宰を尻目に、二人は部屋を後にした。