流された先2
亮が士会と話していると、士会の従者のシュシュが、冷水に濡れた布を片手にとことこと走ってきた。
「士会様、起きられたのですね。手拭いのお取替えに参りましたー」
シュシュは先ほどまで気絶したまま寝入ってしまった士会に付いていたが、こぶに乗せた布が少し熱っぽくなってきたため、わざわざ近くの小川まで行って換えを作ってきていたのだ。すぐそこに海があるよ、と亮は言ったのだが、後で塩を吹いてしまってはいけない、と断られた。そうなったところで、士会は多分、あまり気にしない。
差し出そうとしてきっちり畳んでいなかったことに気づき、一度広げて細長く折り畳む。そして満面の笑みを浮かべつつ、両手で士会に手渡した。
「どうぞ!」
「あ、ありがとう」
受け取った士会の声は、少し緊張していた。まだ、尽くされるということに慣れていないのだろう。こぶのできた箇所に乗せ、そのひんやりとした感触に気持ちよさそうに目を細めていた。役に立てたのが嬉しいのか、シュシュもにこにこと笑みを浮かべていた。
現在の気温はわからない。しかし、梅雨の間の晴れの日、初夏の気候がこのくらいの暑さだった気がした。冷たいおしぼりは少し羨ましい。自分もミルメルに頼んでみようかな。
シュシュが今度は、じっと亮と士会の顔を交互に見つめていた。
「……どうしたの、シュシュ?」
たまらずに亮が聞くと、シュシュは慌てて申し訳ありませんと頭を下げた。
「その、本当に瞳と髪の色が、違っておられるんだな、と思いまして」
「ん……それがどうかした、のか?」
少し迷ってから、士会は語尾を選んだ。亮も同意を表すためにうなずく。
「あれ、お二人ともご存じないんですか?」
シュシュはそれからこの世界の髪と瞳の色について説明してくれた。
この世界の人々は多彩な髪の色と瞳の色を持っており、多少の遺伝性はあるとはいえ、割と不規則に色が出るらしい。確かに目の前のシュシュも、こちらでは染めた結果でしか見たことのない、橙色の髪をしている。そこらを見回してみても、フィナの桃、ミルメルの水色をはじめとして、黒、茶、緑、青など多種多様だ。
しかし、シュシュが言うには、髪の色と瞳の色が異なる人はいない。だから、瞳髪異色は神の化身や使者としての証とされているそうだ。二人の瞳の色が濃くて、ほぼ黒に近いような色だったら、話がこじれていたかもしれない。
「亮様、士会様、少し、お時間よろしいでしょうか」
そんなことを亮が考えていると、ミルメルが近くに来ていた。
「いいよー暇だし」
「あ、えっと、何、ですか?」
軽く答えた亮に対し、士会は焦って返答が途切れ途切れになった。特に、敬語にすべきかため口にすべきか迷ったらしい。先刻シュシュに対しては敬語が自然と出ていなかったが、自分の従者だから、というわけではないだろう。丁寧なミルメルの人柄が、同じ言葉遣いを士会に使わせた。
「士会様。我々は従者です。文字通り、あなたがたに付き従う者です。対して、あなたがたは皇太子であるフィリムレーナ様に、同格と認められています。そのあなたが、我らに対してそのような言葉遣いをなされますと、フィリムレーナ様の立場がありません。その旨、よくお考え下さい」
立て板に水を流すが如く、士会はよどみないミルメルに諭された。
「あ、はい……うん。オッケー。わかった」
戸惑いつつも、士会は言葉遣いを変えた。
「ありがとうございます。では、本題に。先程、近衛隊長のイアル様から、今後の方針についての指示が出ました。近辺の袖の砦を避け――」
「袖?」
肝心の話にミルメルが入りだした矢先、士会が割り込むように聞いた。
「失礼しました。袖は我らが流れ着いた、今いる国です。敵国であるため、接触は避ける必要があります。私たちの国はご存知でしょうか?」
「いや、知らない」
士会が首を横に振る。亮は士会が目を回している間に聞いていたため知っていたが、口は挟まなかった。
「私たちの国は鷺といいます。皇位につかれているのはロベリクロン・ワルツユルト・蓮月陛下。フィリムレーナ様のお父様であられます。都は白河のほとりにある、フェロンです」
簡単に、ミルメルが鷺という国の情報を寄せてくれた。亮も士会もうなずいて、話の先を促す。
「先ほど、フィリムレーナ様の親書を持たせた使者を、イアル様が飛ばしておられました。とはいえ、助けが来る可能性は低い。また、ただ歩いて移動するだけでは、見つかった時が非常に危ういです。それゆえに、商人一行になりすまして進む、と仰っておりました。ひとまず荷駝車や積荷など、偽装に必要なものを近くの村で買いつけます。フィリムレーナ様、士会様、亮様には安全のため、荷駝車の積荷の中に隠れていただきます。ご不便をお掛け致しますが、お許しを」
言い終わり、ミルメルは頭を下げた。肩にかかるかかからないか、という長さの水色の髪が、小さく揺れる。ふむふむ、とただミルメルの言葉を聞いていただけのシュシュだったが、突如はっとした顔になり、慌ててならってお辞儀した。勢いがつき過ぎて、肩甲骨の辺りまで伸びた髪が、広がって顔にかかっていた。
「わかった。ありがとう」
「ああ、士会殿、亮殿。少し、お話が」
ミルメルの話が終わったところで、老いた男性が一人近付いてきていた。具足は他より少し上等なもので、背には交差するように剣を二振り、担いでいる。髪は白くなっているが、体格はがっしりとしていた。こちらにも、白髪というものはあるらしい。瞳とは色が違っても、白髪はさすがに神に由来する印とはならないのだろう。
「フィリムレーナ姫殿下の近衛をまとめております、イアル・リオレイドと申します。お見知りおきを」
そう、体の大きい男ではなかった。士会や亮より少し低いくらいの身長だ。
それでも、何か圧倒されるものを感じた。見上げるような巨人に話しかけられたような、そんな錯覚を覚える。そのせいで、返事をすることもできなかった。士会も、同じ状態のようだ。
イアルはイアルで、なぜか士会をじっと見つめていた。
「私から、現状についてお伝えしようと思った次第です」
無言の膠着は、イアルが解いた。亮もその言葉で、慌てて返答する。
「いや、ちょうど今、ここのミルメルから聞いたけど。偽装して進む、ということは」
「ああ、従者の方に伝令を頼みましたな。しかし、そこからさらに状況が変わりました。先ほど近隣の集落にやった部下によると、しばらく前に、軍が近くを通ったそうです」
「軍?」
亮と士会が同時に聞いた。そんなものが近くにいたら、帰り着くのは相当困難になる。
「はい。規模はわかりませんが、袖軍でしょう。国境付近で、鷺と袖のぶつかり合いになる、という噂もあります。まあ、普段から規模の小さい衝突は起きていますが」
「なら、やり方を変えますか?」
「いえ。軍といっても、近くの街の軍が調練していた可能性も高いです。斥候は多く出しますが、進みます。最悪、軍とやらに買い上げた穀物を売りつけてやりましょう」
そう言ってから、イアルは顔をしかめた。
「実のところ、ここに留まって助けを待つのは非常に危険です。使者が鷺まで辿り着けるかわかりませんし、待っている間に地元住民の目を避け続けるのも至難です。食糧を買い付ける以上、痕跡はどうしても残りますし」
「救援が途中で打ち払われる可能性もありますしね」
亮の言葉を、しかしイアルは否定した。
「いえ、それはなんとかなるのです。鷺の誇る水軍は、天下に並ぶものがないと評判です。航海技術も頭抜けており、海洋での戦闘に限れば、ほぼ確実に勝てるでしょう。ただ、先に申し上げた通り、ここに留まり続けるのは厳しいのです」
それだけ言って、イアルは部下の元に戻った。
「大変なことになってきたな……」
「ここ丸一日、急展開の連続だね……」
フィナのいる方を見に行っていたミルメルが、戻ってきた。
「フィリムレーナ様が、起きられました。あと一時間ほどで、出発するそうです。装いは、動きながら整えると」
「早いな。いや、気を失ってたからそう感じるだけか」
「一時間……一時間?」
そこで亮は、一つ、気にかかったことがあった。
「単位って、共通なのかな」
「へ?」
「はい?」
間の抜けた声は、士会とその従者のものだ。
「確かに、全く違ってもおかしくありませんね」
「こっちの一時間は、一日を二十四等分したものだけど、そっちは?」
「同じです。二十四等分です。では、長さはどうでしょう? 五百メートルで、およそ三百歩」
「五百メートル? ちょっと微妙なところついてきたね」
「え、あれ? 微妙ですか?」
「……んん?」
何か、齟齬を感じる。ミルメルと二人で、首をかしげた。
「シュシュ。説明を頼む」
「すみません士会様。私もわかりません」
二人、仲良く会話についてきていないが、亮は無視した。
「……待てよ。五百メートル。これ、いくつって聞こえた? 単位なしで」
「一、です」
「単位は?」
「里です」
「ほうほう」
亮はやっと理解した。ミルメルはさっき、一里で三百歩と言ったのだ。
「それがね、ミルメル。僕には、数字が五百で単位がメートルに聞こえていた」
「……ということは」
ミルメルの視線が、亮の耳へと向かった。
「そうだね。こいつが、単位を換算してくれているんだと思う」
亮は、耳元の翻訳機をこつこつと叩きながら言った。時間の単位は同じようだが、距離の単位は違うらしい。それをわざわざ換算して翻訳してくれたのだ。
「単位の名前として言えば、換算されないのですね。驚きました。これまで、ほとんど使い道が見出されていなかったのです。せいぜい、異民族との対話くらいです」
「国ごとに言葉が違ったりしないの?」
「いえ、どこも同じですよ。辺境や海の向こうに異民族がいて、そこは違うみたいですが、鷺とはあまり交流がありません」
「通訳できる人とかもいるのかな?」
「少数ですが、いると聞いたことがあります」
ミルメルと亮の会話は、途切れることなくどこまでも続いていく。
未知のものを明らかにし、それを応用していく。亮にとって、それは何よりの娯楽だった。そして生きていく上で、そういう楽しさは何より重要なものだ。対するミルメルも、仕える主の喜びが伝わってくるようで、積極的に話を続けている。
「よくやるぜ……。理解する気も起きねえ……」
「難しい話は苦手です……」
一方、置いていかれた食らった二人は、考えることを放棄して、二人して体育座りでしきりに波の打ち寄せる海を眺めていた。