渡った先で
空が、見えた。
突き抜けるような青天井、そして大地を照らす太陽。その眩しさに、士会は目を細めた。
背中全体で硬い地面を感じていた。熱を帯びている。どうやら、あおむけに寝そべっているようだ。腕をついて起き上がり、顔を上げると、見慣れたフィナの笑顔が視界に飛び込んできた。
「……え?」
しかし、大きく異なる点があった。
あの、小さな鏡の中の平べったい映像ではない。等身大の、本物の笑顔。
間違いなくフィナ本人が、士会の顔を覗き込んでいた。
そもそも、全身を見ること自体が士会には初めてのことだった。背は、士会の肩に届かないくらい。薄桃の髪と瞳は変わらない。高温の気候に合わせているのか、袖がない服を着ており、かなりの軽装だ。それでも、服には光沢のある上質の布が使われており、また身につけた煌びやかな装飾品から、かなり裕福なことが見て取れた。そして胸には、士会のものよりも一回り大きめの、やはり中央に鏡が埋め込まれた首飾りが、光を反射して輝いている。
そして、フィナの口が、笑顔を保ったまま勢いよく開かれた。同時に、まだ立ち上がり切れていない士会を、上からぎゅっと抱きしめる。
「PX:*-¥! K・;+~」
「わ、ちょ、フィナ……へ?」
とっさに顔を横に向けたため、口がふさがれるようなことにはならなかったが、士会の側頭部に、フィナの柔らかさと温かさが伝わっていた。そのままもみくちゃにされる。
こうして触れ合って、改めてフィナの好意を感じた。こんなに嬉しいことは他にない。
ただ、士会は女の子に抱きしめられるような状況に、慣れてはいなかった。どうすればいいかわからず、戸惑ってしまう。
甘い感覚に焦りを感じながらも、フィナの言葉が全くわからなかったことに、士会は気づいた。邪念を払うため、そちらに必死に意識を向ける。謎の言語、英語ではない、と思う。自分の耳が信頼出来ない以上、確証は持てない。
何にせよ、これはおそらく彼女の母国語なのだろう。そう士会は結論付けた。考えてみれば、六年来のつきあいにも関わらず、聞くのは初めてだ。
歓迎の印としての彼女の挨拶であろう、と士会は判断した。
「な、なんて言ったんだ、フィナ?」
まだまだ焦りが抜けておらず、士会はどもりながら聞いた。
しかし、士会を放したフィナは、戸惑って首を傾げるばかりだった。
「おい、フィナ、どうした?」
再び話しかけてみたが、やはり同じ反応が返ってくる。
どういうことだろう。日本語が通じてないのか? いや、そんなまさか。今までフィナとは普通に日本語で話せていたのに。
「K@! &%$JD#+*/L*!」
と、何かを思い出したのか、フィナが掌を胸の前で合わせ、踵を返して駆け去ってしまう。その拍子に、ふわりと薄桃の髪が翻った。
「フィ、フィナ?」
名前は通じたようで、フィナは大丈夫とでも言いたいのか、親指をぐっと天に突き立ててきた。そのまま石舞台から降り、姿が見えなくなる。士会も少し、気持ちを落ち着けた。
事ここに至って士会は思う。
ここは……どこだ?
底抜けに青い空が広がっていた。強烈な日差しが、焦がすように目いっぱい差し込んでいる。雲は沸き立つような形をしていて、いかにも夏、という感じだ。太陽の高さからして、時間は昼頃だろう。
どう見ても、野外だ。我が家でもないし、フィナと話す時見えていた部屋の中でもない。
そしてこの陽気、十二月のものとは思えない。こうしている間にも、じわじわと耐え難い暑さが体の底からこみあげてくる。士会は手始めに上を脱ぎ、半袖一枚になった。長袖の下も鬱陶しいが、近くにフィナもいるのだ。さすがに下着一丁になるのははばかられる。
脱いだ服は振り払うように、地面に落としていた。士会がこちらに来る時、とっさにつかんできた上着ともども、士会の足元に積み上がる。服を脱いですっきりしたものの、まだ肌でじっとりとした空気を感じる。
ひとまず、士会は辺りを見回してみた。
士会が立っているのは、大きな円形の石舞台の上だ。その周りには鉤爪のような形状の岩が六本、その先をこちらに向けてせり出している。一方向にだけ、直前にフィナが下りて行った階段が設えられていた。
辺りは鬱蒼とした、背の高い森に覆われていて、ここは森にぽっかりと空いた穴のようになっていた。石舞台はかなり高く作られており、士会が直立すると目線がちょうど木々の高さほどになる。
一か所だけ森が途切れており、そこが太い道になっていた。ちょうど、階段と同じ方向に向かって伸びている。目を凝らすと、遠目に走るフィナの姿が見えた。
道は丈の低い草がそこかしこに生えており、かなり歩きにくそうだった。その先には、青い海がかすかに煌めいている。
「………………」
結局士会の頭で理解できたのは、ここが自分の部屋ではないということぐらいだった。
あの時起こったことを思い返してみる。確か、首飾りの鏡が光りだして、それで吸い込まれて、それから……。
「ダメだ、わけわからん」
結局、何の進展もないままぼやいた。こういう考えないといけないことは、亮に任せたいところだ。
「って亮……おい、大丈夫か?」
そこで、亮のことをすっかり忘れていたことに士会は気づいた。視線を下に向けると、士会の脱ぎ捨てた衣服類の下で、亮が倒れている。灯台下暗し、などと言っている場合ではない。微動だにしないその体からは、生気が全く感じられず――。
「おい! 亮! しっかりしろ!」
布団のように亮を覆っていた服を急いで払い、助け出して肩を揺さぶるが、亮は一向に反応する気配がない。いよいよ士会は焦り、知らずに腕にも力がこもっていた。
「亮! お前、こんなあっさり逝くような奴じゃねえだろ! おい! 返事しろよ! おい!」
「はーい」
「うおう!」
突然亮の首ががばっと持ち上がり、驚いて士会は後ろに跳びすさった。
「やー、いつ気づくかなーと思ってたんだけど、まさか最後まで気付かないとは。それにしても強く揺すりすぎ……。ほんとに逝っちゃうよ」
「てめえ……今のは冗談が過ぎるぞ。心臓に悪い」
「ごめんごめん。状況が状況だったね。それにしても暑いな。服を上からかけられた時は、死ぬかと思ったよ」
ひょい、と亮は立ち上がり、士会と同じように上着をはじめとした服を脱ぎ散らかしながら、首を回して辺りを見渡す。その顔に浮かぶのは、どこかわくわくした表情だった。
「自業自得だろ。お前、いつから意識あったんだ?」
「そっちが起きた直後だと思う。フィナが何か喋ってたけど、全く意味がつかめなかったね」
「お前もか。だよな」
これで、英語という線は消え去った。亮が言うなら間違いない。
「それで、ここはどこなんだ? 首飾りが光った時何が起きた? どうしてフィナと喋れない? それに今、冬だろ? 何でこんな暑いんだ? それに……」
さすがの亮にも答えようがないことは、士会もわかっていた。しかし、事態の不可解さに焦り、連続で質問してしまった。
「落ちつきなよ。焦っても何も出ないって。ここがどこなのかわからないのも問題だけど、一番まずいのは言葉が通じないことだろうね。状況がわからないだけなら聞けばいい話なんだけど、それすら封じられるとなると……。こっちの日本語もいまいちわかってくれてない感じだったし」
「……嬉しそうだな」
士会をいさめつつ、現状の厳しさを話す亮だったが、顔には隠しきれない喜びの色が浮かんでいた。
「これから何が起こるかわからないっていうのがこう、何とも。士会はそうじゃないの?」
そう言われても、今は困惑の方が強い。亮の言うような高揚も否定できないが、右も左もわからない場所に放り出され、おまけに今まで通じていたはずの言葉が通じないという不安と戸惑いが、胸中に渦巻いている。
「そうっちゃそうなんだけどな。不安のほうが大きいというか」
「なるほど。僕の場合、不安と喜びの比率がそっちとは逆だけど、ちゃんと不安も少なからず感じているよ」
亮の言葉に、士会は少し安堵した。友人がどこか遠くへ行ってしまったような感覚を感じていたのだ。
「とにかく、先立つものはやっぱりコミュニケーションかな」
「それだよな。今まで普通に話せてたのに、何で急にお互いわからなくなったんだ?」
そこがわからない。ついさっき、あの光に包まれる前までは、しっかり日本語で通じていたのだ。一体、どういう原理でこんなことが起きているというのか。
「それなんだけど、士会、首飾り持ってる?」
「ん、ああ……」
言われて初めて、いまだ右手に首飾りをしっかりと握っていたことに士会は気づいた。そういえば、服を脱ぐとき、紐が気になったような気がしなくもない。一気に新しい情報が入りすぎて、記憶がはっきりしていなかった。
「お、あったか。よかったよかった。それ、まだ向こうと通じてる?」
鏡を覗くと、そこに映っていたのは士会自身の顔ではなく、激しく揺れ動く景色だった。フィナが走っているのだろう、足音と荒い息遣いが、耳を近づけると聞こえてくる。そのせいで首飾りが跳ね回り、視界が安定しないのだ。先ほどの光の奔流の後、フィナは通信を切っていなかったらしい。
「通じてるみたいだぞ、ほら」
首飾りを掲げて映像を亮に見せると、亮は小さくうなずいた。
「よし、じゃあ士会、それ使ってフィナに話しかけてみてくれ」
「なるほど、実験か」
「すんなりわかってもらえて何より」
「馬鹿にすんな。これくらいわかるぜ……おーい、フィナ?」
返事が来るまでに一瞬の間が開いた。二人とも、聞き漏らすまいと耳を澄ませる。
「ん、会君? 何かあったー?」
聞こえてきた声は、至極のんびりとしたものだった。鏡の中の映像にフィナが現れ、足音が聞こえなくなったところを見ると、どうやら走るのを中断したらしい。
「通じてるな」
「通じてるね」
二人、顔を見合わせる。
明らかに流暢な日本語だ。息切れしているものの、紛れもない、士会たちが慣れ親しんだフィナの声だった。
「何かも何も、言葉、ちゃんと通じてるぜ、フィナ」
「え? あ、ほんとだ。でも今そっちに向かってるんだけど、どうにかできそうだから、ちょっと待ってて」
再び視界からフィナが消え、映る世界が再び揺れだした。ただ、さっきのよりも揺れが穏やかだ。走るのを止めたらしい。はあ、はあ、と荒い息を立てているあたり、走り疲れたのだろう。
「……さて、どういうことだ」
普通に話すと全く通じないのに、首飾りを介して話すと通じる。現象そのものは士会にも理解できるが、仕組みは全くわからない。
「うーん、その首飾りに翻訳機能がついてるとしか思えないねえ……」
「そんなことできるのか? それって、とんでもないオーバーテクノロジーだろ」
今世紀中かかっても発明できないのではないだろうか。仮にそんなものがあれば、一生英語の勉強をしなくて済むので、非常にありがたい。素晴らしい。
……いや、でも、無理だろう。現実は厳しい。
「だけどそれなら、さっきの光は何だったのさ? 瞬間移動したとしか思えない今の状況は?」
「いや、そりゃそうだけどさ……」
「ああいう意味不明なことがあったんだから、しばらくはあるがままを受け入れた方が、精神衛生上いいと思うよ。また何か、理不尽なことがあってもどうにか対応できるし」
「うーん、納得いかねえけど、それもそうか。ところであれ、フィナかな?」
次々湧いてくる疑問をとりあえず棚上げし、再び辺りを見渡すと、森の中の一本道を人影がこちらに歩いてきていた。疑問形で聞いたものの、正直なところ、士会には確信を持って言えた。あれはフィナだ。遠いが、十分目視できる。
「ほんとだ。おーい」
亮がひょいと手を挙げ、フィナに向かって手を振った。初め、フィナは気付かなかったが、ふと目線を上げた時に気がついて、こちらに振り返してくる。そして前に出す足を速め、またも走り出した。
しばらくして、フィナが石舞台までたどり着き、士会たちのいる舞台の上まで登ってきた。その両手には、小さな機械が一つずつ握られている。フィナは、そのうち片方を正面に持って、機械を左耳にかけるような仕草をしてから、無言で士会と亮に差し出してきた。付けろ、ということだろうか。
そこで士会は機械を受け取って、同じように耳に着ける仕草をしてから、ひょい、と首を傾げてみる。「耳につければいいのか?」と聞いたつもりだった。それに対し、フィナはこくこくと勢いよく首を縦に振った。
耳にかかった髪をかき上げ、実際にそれを装着してみると、なんだか不思議なぐらいに順応した。むしろ機械のほうが、士会の頭の形状に合わせたような感覚だ。
「どうかな、会君。違和感ある?」
「いや、びっくりするぐらいない……っておお?」
一瞬自然に会話していたが、士会はすぐに気づいた。フィナと会話できる。
「士会、どうしたの? っと、もしかして……」
そう言って、亮も機械を着けてフィナに話しかけた。どうやら士会の反応からその効力に気付いたらしい。
「なるほど、翻訳機か。凄いな。それにしても、こんなものがあっさり出てくるなんて、こういうのが当たり前の世界なのかもしれないな」
……世界?
「いや、それ、すっごく貴重なものだよ。それでどんな言葉でもわかっちゃうし、話せちゃうから。私たちも四つしか持ってない。全部、この島で見つかったらしいんだよね」
「……つまり、これがあれば、センター試験も」
「いや、耳におかしな機械つけてたら見とがめられるでしょ」
亮の言葉に、士会はがくりと肩を落とした。
「そんなことより士会、どっか突っ込むところはなかった? 主に僕の喋ったことで」
そう言われて、とりあえず士会は記憶を遡ってみた。確かに、すぐ前に違和感を覚えたところがある。
「そうだ、世界って……」
「うん、そこ。わかってくれてありがとう。突っ込んでもらいたくて選んだ言葉がスルーされるって悲しいね。今よくわかったよ」
「どうでもいいことは置いておいて、世界ってどういうことだ? ここ、フィナの国じゃないのか」
それとも単に、言葉の綾なのだろうか。
「いやあ……、フィナの世界のほうがしっくりくると思うなあ。そもそもこんな道具、どう考えても現代科学の産物じゃないし。翻訳能力もそうなんだけど、気づいた? これ、僕の耳の形に合うように変化したよ。まあ、あとは今までのフィナとの会話も合わせたら」
「つまり……?」
「ここは僕らの住む世界とは違う世界。辿り着いた新天地。ってとこじゃないかな。
「………………。えっ、ええええええええええ!」
しばらく絶句してから、ようやく思考が追い付いて、士会は叫び声を上げた。