休竜原の戦い 開戦前
二つの大軍が、朝もやの中で陣を敷いていた。
どちらも臨戦態勢である。ただ、まだ互いに激突するには至っていない。
そのつもりもないことを、士会は敵の動きから見て取っていた。どうやら、こちらとの約束通りに動いてくれるようだ。
雲がちらほらあるくらいで、天気は快晴だった。調練を積んでいるとはいえ、雨はやはり気が滅入るので嬉しい。条件は相手も同じなので、別に戦の有利不利が変わるわけではないが。
軍に林立する旗がたなびいている。風が少しあるようだった。さらに強まれば、土煙が舞い上がるかもしれない。元々戦場はそういうものだが、風に煽られると土煙は勢いを増す。目をやられる兵が出ることも考えられた。
旗の中には、昨日フィナから渡された双剣旗もあった。灰地に紺色で、紋章が描かれている。それを眺めるのは、少し誇らしい。出陣間近の士会の陣に今朝方届けられ、鷺の灰旗とともに掲げられていた。
布陣しているのは、フェロンの城壁から十里(五キロ)ほど離れた、休竜原と呼ばれる平地だ。出来れば作物を踏み荒らしたくなかったのだが、フェロン周辺の平地はどこも農地であり、戦場にしやすい場所がなかった。
山並みは遠く、地形に起伏はない。大軍を動かすのに支障がないということだ。地の利というものが存在せず、真っ向からのぶつかり合いになるだろう。
別の場所で、水軍も反乱軍と対峙していた。こちらは、優勢が予想されている。早く決着が付けば、他の役割も果たしてもらうつもりだ。
いくつかの理由が重なり、士会はかなり緊張していた。この戦いに負ければ、フィナは全てを失うことになる。それは、士会にとっても生きる意味を失うことに等しい。その上、こんな大舞台で、これまでとは比較にならない数の軍を指揮することになるのだ。
亮には初めてと言ったものの、実を言えば、万超えの大軍を指揮するのはこれが初ではない。暗江原の戦いでは、一万より少し多い軍を指揮した。そしてほとんど何も出来ないまま、惨敗し、多くの兵を死なせた。
今回も、自分の指揮でおびただしい死者を出すのではないか。そんな恐怖は、常にある。指揮の大枠はそれぞれの軍についた将軍たちに投げるつもりとはいえ、それでも心がざわついた。
さらにもう一つ、士会の心に波を立てるものがある。
士会の後ろには、フィナが戦鴕の上に座っていた。身を固める煌びやかな具足は、あまり似合っていない。着られている、といったところか。本来戦場に出てくる人物ではないのだから、それで構わないと士会は思った。そんなことは、自分が代わりにやればいい。ただ、今回ばかりはそうはいかなかった。
フィナは、不安で落ち着かなさそうな様子だった。自分の不安を顔に出して、フィナをさらに心細くさせるわけにはいかない。士会は表情を整えてから、少し後ろに下がり、フィナに肩を寄せた。
「心配するな、フィナ。戦闘が始まる前に、お前は城の中に戻る」
「だったら、今戻りたいよ」
「言っただろ。その前に、見せたいものがある。お前が、見なくちゃいけないものだ」
そう言うと、フィナは黙りこんだ。心当たりは、あるのかもしれない。そこをもっと深く考えてもらえれば、士会の狙いは当たることになる。
フィナの周りは、少数の近衛で固めてあった。その中に、士会は見覚えのある顔を見つけた。
ラプド。一年前、士会が袖から脱出する時、近衛の一隊を指揮していた。今は、イアルの後を継ぎ、近衛隊長になっている。
もっとも、今回近衛に出番を回すつもりはなかった。彼らが戦うことは、すなわちフィナの身に危険が迫るということだ。約束通りなら、そうはならない。
そして、バングルが思い描いた人物ならば、きちんと交わした約定を守ってくれるはずだった。シュシュから聞いた話では、こちらを騙すようなことはしてこないだろう。根拠が薄いとも思えるが、そこは賭けだった。この国の将来を考えると、それだけの価値はある。
敵が、進軍してきたと報告が入った。地が動くように、反乱軍がゆっくりと前に進んでいる。それでも、まだ攻めかかってくる様子はない。叫べば声が届くようなところで、再び止まった。
「フィナ、出番だ。行こう」
士会はフィナの戦鴕の手綱を手に取り、軍の中を前に抜けていった。フィナが乗っているのは雪のように白い鴕鳥で、品の良さを醸し出している。もっとも、普段駆けさせているわけではないので、戦鴕としての能力はあまり高くないだろう。戦鴕も訓練が重要で、何日か駆けさせないだけでもその質は落ちる。
「ほ、本当に行くの?」
「何か危ないことがあれば、俺が死ぬ気で守る。安心してとは言わないが、落ち着いてついてきてほしい」
「うん……」
士会とフィナは、自軍を離れ、大軍と大軍の間の領域に足を踏み入れていった。
合わせるようにして、反乱軍側からも緑髪の人物が一人出てきた。あれが、バングルなのだろう。
両者はあるところで立ち止まった。距離にして、二十歩ほど。士会には、バングルの顔形がはっきり見えた。身を包む具足や腰に帯びた剣があまり似合っていない文系の雰囲気で、ピオレスタとはまた違った美男子だ。注意深く見ると、鼻の形にシュシュの面影がある。
「鷺国将軍、武宮士会、約定に基づき殿下をお連れした! 反乱軍の者たちよ、ここに汝らの真意を伝えよ!」
士会が声を張り上げると、バングルが同じようにして返した。
「約定の履行を確認した! 日月の旗に集いし戦士たち、その心をあるがままにぶつけよ!」
バングルが手を振り下ろした。それが、合図だったらしい。
突如、轟音が反乱軍全体からとどろいた。よくよく聞くと、口々に何か叫んでいる。それは、士会が期待した通りの内容だった。
およそ人が思いつく限りの罵声。声にもならないような怒号。それらが混然一体となって、鴕上に座るフィナの下に襲い来る。
「何……これ……」
士会の背に、愕然とするフィナの声が刺さる。
フィナの中では、民は豊かに暮らしていて、自分は民に慕われていると思っていたのだろう。そんな幻想は、ここで全て打ち砕かれた。彼女は今、まごうことなき現実にさらされている。
中には、石を投げてくる者もいた。士会は剣を抜き、フィナに届きそうなものだけを払った。バングルも攻撃するのは止めるように言っているが、なかなか収まらない。ただ、さすがに矢を射てくる者はいなかった。
士会はフィナの方を見やった。目を閉じ、耳を伏せ、鴕上でうずくまっている。うつむいた顔は蒼白になっており、全身が震えていた。
愛する人のそんな姿を見るのは、正直辛い。しかし、必要なことだった。
「フィナ。辛いのはわかるけど、顔を上げろ。これが、今鷺が直面している現実で、お前が向き合わなければならない事実だ」
「嘘……だって、みんな、何も問題ないって……」
生まれてからずっと、そうやって廷臣たちに吹き込まれていたのだろう。だからこそ、この罵声の嵐は世界が崩れるような衝撃があるはずだ。
「それを、自分の目で確かめたのか。今聞こえてくる恨みは、今目の前にある怒りは、全てお前自身で感じられることだ。どうか、きちんと目を開けて、真っ直ぐ彼らのことを見つめてほしい」
士会の言から一拍開けて、フィナは恐る恐るといった様子で顔を上げた。その目には涙が浮かんでいる。それでもフィナは、荒ぶる反乱軍の姿を見ていた。
そろそろ、頃合いだろうか。バングルに目配せすると、首肯が返ってきた。
互いに戦鴕を返し、自陣へと戻る。その間も罵声は止まらなかった。
「ラプド、任せた」
「承知しました」
すかさず近衛がフィナの周囲を囲み、陣の後方へと下がっていった。彼らは戦には参加しない。そのままフェロンの城まで戻り、決戦の行く末を待つことになる。
フィナに現実を突きつける。それが士会の考えた、この戦の利用法だった。フィナは以前から、民を気にする素振り自体は見せていた。政に関心がないのも、任せておけば民が健やかに暮らしていけると考えているからだろう。
この戦は、言うなれば民の怨嗟が形を成して襲ってきたようなものだ。フィナを覆うまやかしの霧を晴らすには、絶好の機会だった。
フィナをお飾りの総大将に据えて、戦に出すことも考えたが、この戦は実力が伯仲している軍同士のぶつかり合いだ。フィナには悪いが、枷をつけて戦い抜けるほど甘いものではなかった。親征ともなれば士気は上がるだろうが、動きの制約に見合うものではない。
下がっていくフィナのことをひとまず頭から追い出し、士会は反乱軍に意識を向けた。