籠城1
斥候が戻らない。それは、かなり重大なことだ。何があろうと、とにかく見たものを伝えるのが、斥候の任務だからだ。戻れないということは、ただならぬことが起きたと考えるべきだ。
敵に捕らえられ、こちらのことを全て吐かされた。最悪の事態を想定するなら、そうなる。イアルは、必死に頭を巡らせていた。
そして、この地鳴り。大きさからして、通常の行軍ではなく、疾駆している。急ぐ理由がある、ということだ。
それがフィリムレーナの身柄、というのは、ありそうなことだった。もしそうなら、ちゃちな偽装などするだけ無駄だろう。できることといえば山に拠り、なんとか守り通すしかない。
先に山上へ走らせた兵から、報告が来た。今は使われていない、壊れた砦があるようだった。
ありがたい。身を守るものが何もない可能性の方が高かったのだ。せいぜい、小屋がある程度だと思っていた。
まだ、運はある。か細いが、つながっている。
イアルは一行の、最後尾付近にいた。既に、山道を登り始めている。
「隊長!」
街道を走らせていた斥候が、戻ってきた。一組帰ってこないのを訝しんで、確認に出した者たちだ。
「敵の騎鴕隊、二千五百! 指揮官は不明、しかし袖の軍です! もう、すぐそこまで来ています!」
「了解。よく、走ってくれた」
疾駆する騎鴕隊から、必死で逃げてきたのだろう。二人の乗った鴕鳥は、潰れかけていた。
兵数がわかった。実にこちらの八倍以上だ。
坂の下には、既に敵の騎鴕隊の先頭が見えている。
「急げ!」
荷車を押す兵を急かした。坂は緩いが、荷物を積んだ荷車を押し上げるのは骨が折れるだろう。踏ん張ってもらわなければならない。貴人だけでなく、今となっては兵糧も貴重だった。
「五台目! 車軸だけ壊して道を塞げ!」
指示を受けた、最後尾の荷車についていた兵が、荷車を横倒しにし、車軸を折った。
道幅は狭い。これをのけない限り、騎鴕では上がれない。
「アンテロープ、しばらく時間を稼いでくれ。ただ、犠牲はできる限り出すな。今は、一人欠けるだけでも大きい。頃合を見て、退いてこい」
近衛隊の二番手の隊長に、指示を出した。三十人を、殿軍として残す。
兵数差がある分、一人の犠牲が同数の場合よりもずっと重い。それで、こちらが退くために足止めを務めさせるのは、かなり難しい役割だろう。しかし、こちらが砦にこもる前に、追いつかれるわけにはいかないのだ。幸い、この山道の狭さのおかげで、一度に戦える人数は少ない。
荷車を追い越し、山上まで駆け上がった。既に砦の中に入っていた兵たちに、それぞれの配置を指示する。その間に、砦の中も見て回った。
粗末な砦だった。既に放棄されており、無論食糧や武器は置いていない。城壁は身の丈を少し超えたほどの高さで土製だが、いくつかの建物と武器倉、兵糧倉は、どれも石造りだった。明確な弱点として、複数の場所で城壁が崩れて穴が開いていることが挙げられる。そこは、守備を厚くする必要があった。
砦の周囲は傾斜がきつく、守るのに適していた。正面は尾根伝いにまっすぐな道が伸びていて、見通しもいい。
「井戸はダメです。枯れています。ただ、昨日の雨が、溜まっているところがありました。貯水槽として、使われていたのだと思います」
「そうか。持ち合わせの水が切れたら、それを使うしかないな」
報告に来た兵は、すぐに持ち場に戻っていった。
昨日の雨に感謝すべきだろう。どのくらい持ちこたえられるかわからないが、もしかすると数日はいることになるかもしれない。長く籠城すると、不衛生な水は疫病の元になりかねないが、そんな心配をしなければならないほどこの砦では持たないだろう。
正直、敵に捕捉された時点で、切り抜けられる公算は少ない。しかし、自分は次代の鷺の皇を守っているのだ。おいそれと、諦めるわけにはいかない。最初に出したフィリムレーナの使者が、どこかの軍に知らせることに成功している可能性も、わずかだがある。一縷の望みでもある限り、時を稼ぎ続ける。それが、自分のやるべきことだ。
「殿下及び使者殿、到着しました。門は、閉めています」
「中央の大きい兵舎に案内せよ。後は、荷車に載せたまま、砦中央に安置する」
門も壊れかけだったが、一応は閉じられるようになっていた。
兵舎も、姫の御所にはあまりにも粗末で、しかもところどころ綻びがある。しかし、今は贅沢を言っていられる状況ではない。
「それから、使わない建物はいっそ砕いてしまえ」
「砕く……ですか?」
「そうだ。こちらが上を取っているのだ。石を投げるだけでも、大きな脅威になる。二十人ほど回して、投げる石を作れ」
「わかりました」
兵が駆け去ってすぐに、表の方から喧騒が聞こえてきた。敵が、攻め上ってきたのだ。
直接指揮するため、イアルもそちらへと急いだ。途中で、殿軍を任せていたアンテロープと行き合う。激しい戦いになったのだろう、息を切らせていた。
「犠牲、二名」
「よくやった。裏を、頼む」
二名なら、かなり少ないほうだろう。上手くやったようだ。
敵は、正面からまともに攻めかけてきていた。今のところ、別の方向に回った様子はない。
城壁を登ろうとしたり、門を壊そうとしてくる。それを兵たちが上から突いて、妨害していた。イアルも城壁に登り、部下の槍を手に、加勢した。
大した兵ではない、というのが、イアルの見立てだった。練度は低い。一方、近衛隊は元々勇士集めている上、鍛え上げられた精兵だ。一人で二、三人は相手にできる。しかし、八倍だった。
幸いと言っていいのか、相手にも籠城戦になる予定はなかったようだ。こちらの準備もないが、向こうにも十分な装備は揃っていない。多分、フィリムレーナの情報が入り、慌てて送り出した騎鴕隊なのだろう。当然、街道を進む荷車を捕らえればそれで終わりで、こもった敵を攻撃するような軍ではない。城門を破る斧、城壁を越えて飛んでくる矢など、どれかがあっただけでも、戦況は大きく変わったはずだ。
城壁に登った近衛兵が、石を投げ始めた。拳大の大きさの飛礫が、敵兵を襲う。まともに当たった兵は、骨が砕けていた。何人かは頭に当たり、そのまま倒れている。
袖軍が、体勢を立て直すために退き始めた。
「今だ! 出るぞ! ついて来い!」
イアルは、城壁から飛び降りた。槍を手放し、背の双剣を一挙に引き抜く。
剣刃が、閃いた。
退こうとした兵の首が、宙に舞う。
そのまま追いすがり、二人、三人と次々に首を飛ばした。後ろから、部下も何人か降りてきている。
逆落とし。坂を駆け下る勢いを存分に利用し、敵兵を討っていった。抵抗しようとする者もいたが、一合と打ち合わず、具足ごと断ち斬った。
イアルの剣は晴嵐二振りの剣と名付けられた、名剣だ。時には敵の剣をも斬り落とすほどの、鋭い斬れ味を持つ。
退き際を襲われて、敵には混乱が起きていた。逃げようとする兵が坂を転げるように下り、状況が分かっていない兵と入り混じっているのだ。
頃合を見計らって、イアルは引き返した。深入りは危険だ。気づいたら、左右の山から敵兵が湧き、囲まれた、ということにもなりかねない。一時的に、局所的に押しているとはいえ、今いるのは十数人なのだ。
多分、部下と合わせて二、三十は討っただろう。十分な戦果だ。何より、自分が陣頭で大立ち回りを演じるのは、兵の士気に大きく影響する。
それを示すように、砦に戻ると、大きな歓声に出迎えられた。
イアルは、双剣のうちの片方を振り上げ、それに応えた。
※
フィナの機嫌が、悪かった。
それを士会が、懸命になだめている。士会がいると、フィナは自重せざるを得ないらしく、いい抑えにはなっていた。
それでも、不満は溜まっていそうだった。
しかし、今はどうすることもできない。荷車で運ばれ、気づけば籠城しているのだ。優雅な暮らしをしてきたフィナに、この不自由な生活は耐え難いのだろうが、こらえてもらうしかない。
亮は、フィナを士会に任せ、建物の解体を手伝っていた。
畏れ多い、と縮こまられはした。しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない、
と説き伏せた。
砦の中にあった大きな丸太を多人数で持ち、石壁に打ち付ける。組み上げられた石造りの建物が砕けると、その破片を拾って一台空けた荷車に載せ、前線に持っていき、下ろす。それを城壁の上から投げつけ、敵を追い払っているのだ。どうやら、フィナと亮たち二人の居室となる建物以外は、全て打ち壊すつもりらしい。
既に、日は中天を越え、傾き始めていた。一度は敵を追い払い、降伏の使者も追い返してから、ずっと攻撃が続いている。正面だけでなく、城壁の亀裂を目指していくつかの方向から攻められていた。
今のところ、敵を砦の中には入れていない。多分、入られたら一気にこの砦は落とされる。外から来る者を打ち払っているだけだから、なんとか持っているのだ。
亮は既に、前線を見ていた。重い荷車を押して、届けに行った時だ。塀の向こうで何が起きているかは見えないが、怒声や叫声を、嫌というほど肌で感じた。
さすが、皇の近衛というだけあって精兵で、数で勝る敵を押し返してはいた。しかし、亮の見ている前でも、一人が槍をつかまれ、向こう側に引きずり込まれたのだ。生き残っては、いないのだろう。
着実に、犠牲は出ている。この砦を守る者が少なっている。それは、敵が減る速度よりきっと速い。
「亮様。どうか、フィリムレーナ様を悪く思わないでください。フィリムレーナ様は、ずっと宮殿で暮らしてきたのです。外に出ても、多くの護衛を引き連れて、せいぜい都の近郊だけでした」
ずっとついてきていたミルメルが、不意にそう言った。
「こういう状況に慣れてないっていうのは、よくわかるよ。あまり、不自由のない生活を送ってきたのも」
それは、自分や士会もそうだ。向こうにいた時、衣食住に困ったことはなかった。ただ、幼い頃から周りにかしずかれている生活は、想像がつかない。危機感より不機嫌が優先しているのは、その辺りに理由があるのかもしれない。
「士会、フィナ。ご機嫌いかが?」
亮は、あてがわれた兵舎に戻った。そこだけは、壊さずに置いておく予定だ。
しばらく兵たちと動いていたが、結局自分は足手まといだった。ただ、意外なことに、体力的に問題があるわけではない。力、というか身体能力も、ずっと劣るかと思っていたが、むしろこちらの方がかなりいいくらいだった。離れたのは、どうしても自分を気遣う空気が抜けず、兵士たちの動きがぎこちなくなるからだ。力がなくとも、エルシディアはフィナの侍従たちと一緒に働かされていた。
「俺は、まあまあだな」
「………………」
士会は、いつも通りだった。しかし、フィナはむすっとしていた。やはり、我慢を強いられるのは、いただけないらしい。シュシュ以下従者たちは、はらはらと気をもみながら事態を見るばかりだ。上と下、という感覚が強いのだろう。ここでフィナに何か言えるのは、多分士会と自分しかいない。
「いつになったら、帰れるんだろう」
「そのために、みんなが頑張ってくれてるんだろ。そんなこと、言うもんじゃない」
「そうだけど……」
士会の手前、強くは出られない。しかし、窮屈なのは嫌だ。そういったところか。
「水をもらってきた。飲むといいよ」
「ああ。ありがとう。仕事に出てたのか?」
水の入った革袋を手にしながら、士会が聞いてきた。
「うん。崩した建物の破片を運ぶ作業を。城壁の上から、石を投げつけてる」
「さっきのすごい音か。事前に連絡が来てなかったら、攻め込まれたかと思っただろうな」
「まあ、家一個崩しているわけだし、音は大きかったよ。手伝ってきたけど、僕がいない方が作業がスムーズだったから、諦めて戻ってきた」
「そうか」
そう言って、士会は少し黙った。従者たちも、あえて口を挟もうとはしない。
重苦しい沈黙が、兵舎の中にしばらく降りた。
「……戦、なんだよな」
「うん」
「見てきたのか?」
「こちら側だけ。城壁があったから、直接は見えない」
「……そうか」
何を、とは言わなかった。
城壁が覆っているのは、亮たちの身だけではない。亮たちから戦の光景を、覆い隠してもいるのだ。あの壁を隔てた向こう、すぐそこでは、殺し合いが起きている。壁に取り付いては投石に阻まれ、槍で突かれ、死体の山が出来ているのだろう。
それが、何か重石のように、心にのしかかっていた。
「なあ、亮。ここ、任せてもいいか?」
「任されるような仕事はないけど、いいよ」
士会もまた、わだかまった物を抱えているのだろう。それを何とかするために、腹を決めたのだ。
自分はまだ、一歩を踏み出し切れていない。