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虚ろな表情で出社する社員達とすれ違いながら会社を出た。
空が青く、眩しい。朝に空をゆっくり見上げるなんていつぶりだろうか。まずは銀行に行き、当選金を受けとるための手続きをすませてしまおう。明け方に退職届を書いてから、高額当選金の受け取り方もスマホで調べておいたのだ。
銀行で手続きを済ませ、スーパーで食料品や日用品を買い揃えた。ずっと眠るためだけにアパートに帰って来ていたので、色々不足なものが多い。近々大金が口座に入る予定なので財布の紐も緩みがちになるのを注意しながら買い物をしたが、それでも購入品は大量だ。
たくさん買い物をし過ぎたのでスーパーからアパートまで歩いて帰るのは難しそう。今日ばかりはタクシーに乗って帰るという贅沢をしてもいいよね。
今日はもう退職パーティーだ。
お酒も買ってきているので昼間から飲酒してやる。
タクシーの運転手さんにアパートの近くまで乗せてきてもらい、大通りで下ろしてもらう。アパート前の道が狭く、車が通って行けないのでここからこの大荷物を自分で運ばなければならない。
タクシーの運転手にお金を払い、お礼を言ってから気合いを入れて両手に買い物袋を持ってアパートを目指す。自室はアパートの二階の一番奥の部屋なので、重さで指がもげそうになるのを堪えながら階段を上った。
部屋に入り一番最初に冷蔵庫へビールを入れ、久しぶりに部屋の窓を開ける。
今日は掃除機だってかけてやる。この時間なら近所の迷惑にだってならない。そう意気込んで念入りに掃除をやったつもりだったが物が少ないのですぐに終わった。
仏壇も綺麗にして花を供え、母の笑った遺影を見ていたら涙が出てきた。久しぶりにこんなにゆっくり自分の時間を過ごしている。
「お母さん、ごめんね。就職出来るのをあんなに喜んでくれたのに……」
心の中で謝りながら暫く仏壇の前に座っていたのだが、そのまま眠ってしまったらしい。
アパートの周りの建物が高く日中でも薄暗い室内が一層暗くなり、オレンジの光の筋が何本か部屋に射し込んでいる。もう夕方か。昨夜から何も食べていないことを思い出したらお腹が小さく鳴った。
何か食事を作ろうと立ち上がり、ずっと鞄に入れっぱなしにしていたスマホを取り出すと画面には会社から大量の着信履歴が残っていたことに、さぁーっと頭が冷えた。まずい、折り返さないとと指が勝手に動きかけて止める。
「……あ、会社辞めたんだった」
寝起きで頭が混乱していた。
私は今朝仕事を辞めたのだ。電話を折り返す必要もない。電源を落とそうとした時にまたしつこく会社から着信が入る。
「しつこいなあ……はい、もしもし」
『馬鹿野郎! 何で電話に出ないんだっ!』
突然の怒鳴り声に身が竦む。
電話をしてきたのは退職届を叩きつけてやった上司らしい。
「あの」
『あの、じゃねぇんだよ。てめぇ、どういうつもりだ。あぁあ? なぁ、あんな紙切れで辞められると思ってんのかよ?』
「あんな紙切れって退職届のことでしょうか」
『うるせぇ! とりあえず明日謝罪してこれからも死ぬ気で働くなら許してやる。社会人としての常識はねぇのか! 引き継ぎがあるんだからすぐすぐ辞められるわけねぇだろうが』
「貴方に許して頂かなくて結構です。もう二度と連絡しないで下さい」
『……おいおい、そんか怖い声出すなよ』
上司は突然声のトーンを落とし、気持ち悪い猫撫で声になる。
『俺が構ってやらないからいじけているんだろ? 出社して良い子に働いたら可愛がってやってもいいんだぞ。こっちはお前の住所を分かっているんだ。今から家に行って俺の女にしてやろうか? 勿体振るなよ。顔は冴えないが身体はそこそこ……』
その一言に苛立ちが爆発した。
「……今までの会話は全て録音しています」
『なにっ!?』
「それに憲法で「職業選択の自由」が保障されているように、労働者は自由に会社を辞められるはずでは? 貴方の許可は必要ありません。すぐに処理出来ないのであれば、退職日まで有給を使わせて下さい。入社してから一度も使わせてもらえていないので有給休暇は残ってますので」
『……君には分からないかもしれないが会社には有給の時季変更権というのがあってだなぁ』
録音されていると言われ、露骨に丁寧な喋り方を始めた上司を鼻で嗤う。
本当は録音なんてしていないが、今のご時世有り得ない話ではないと危機感を持ったのだろう。
「退職するのに時季を変更するなんて不可能ですよね? それに先ほどの発言も警察に相談させて頂きます」
『な、なに!?』
「貴方からの電話に身の危険を感じました。家に来るだなんてどういうおつもりで言ったんですか? 私に貴方への好意は一切ございません」
『いや、それは』
「奥様にもご連絡した方がよろしいですよね。私のことを散々悪く言っていましたが、お宅の旦那こそ……」
『やめろっ! いや、すまない、大きな声を出して。分かった。君の退職の件は俺が責任を持って受理しよう……だから』
「よろしくお願いします」
退職届を受理してくれるのならばサービス残業の強要、有給休暇の取得拒否、パワハラ、セクハラの一切合切を口外しないので、二度と目の前に現れるなという条件を元上司に約束させた。
はいはいと何でも言うことを聞いてきた私の強気な態度に、何か決定的な証拠を握られているのではと疑心暗鬼になった横柄なくせに気が小さい元上司は私の言うことに従った。宝くじのおかげでお金の心配をしなくてもいいことが心強くて、今までの嫌味も少しだけ言っておいた。
「はぁー、すっきりした。あいつに言ってやったわ!」
通話を終了させ、興奮して渇いた喉を潤すために冷やしていたビールを取り出して一気に飲み干した。行儀悪いが冷蔵庫の前で立ったまま飲んだビールは最高に美味しかった。
嫌なことは全部洗い流してしまおう。
今日はゆっくり湯船に浸かる! そう決意してお風呂場に向かったのだが、脱衣場にある鏡に疲れきった女の顔が映って立ち止まる。もちろん私だ。じっくり鏡に映る自分の顔を見たのだが、窶れて目の下には隈があり、顔色が悪い。美容院に行く時間がなくて背中まで伸ばし放題の長い髪を一つに結んでおり、華やかさが欠けた特徴のない平凡な顔は疲れきっている。働きだしてから目が悪くなり、今では眼鏡がないと生活するのも大変なのだがその眼鏡も寝ながらつけていたりしてフレームが歪んでいる。
毎日仕事ばかりで忙しく働いていた割に、お金がなかったので自分に対して手をかけてこなかった。好きな人でもいたら違ったかもしれないが、そんな相手は残念ながらおらず、おしゃれや美容に興味を持てなかった。落ち込んでも仕方ないが、色々サボってきた自分の今までの行動がこの結果なのだ。
私はゆっくり長風呂を楽しんでから、気持ち念入りにスキンケアを施しておいた。