とある教室の一事件
情けは人の為ならず、という有名な言葉がある――いや、そんなことは日本人ならほとんどすべての人が知っている話で、辞書にも載っているし、国語の授業でも習うし、そうでなくても、今の時代、ググればいくらでも調べられる話だ。
僕が『有名』と言ったのは、そんな当たり前の説明をしたかったわけではなく――つまりこの言葉は、有名は有名でも、『誤用されやすい言葉』として有名になったということだ。
有名になりすぎて、逆に、誤用する人は昔に比べてだいぶ減っているだろう。怪我の功名というやつかもしれない。
他にも『役不足』とか『すべからく』とか『小春日和』とか、同系統の言葉はいくつもあるだろうが――今僕が話題にしたいのはそんなことではない。
単に、僕がつい最近『情けは人の為ならず』なんだなあと実感したというだけの話であり、はっきり言ってしまえば、僕が他者に情けをかけたという話だ。……何だか、言葉の響きはちょっと良くないが。
僕のクラスに、菱野縁という女子がいた。
一年の十二月に転入してきた生徒だ。
背は低めで、ボブカット。表情は乏しく、声も小さい。猫背で、しかも時々髪がボサボサのまま登校してきたりする。ブレザーもブラウスも皺くちゃで、おまけに人に話しかけることも滅多にないものだから――あるいは、途中転入というのが元々大きいのかもしれないが――人の輪の中にまったくと言っていいほど入らない人だった。
授業で指された時に、必要な分答えるだけ。
あるいは、業務連絡で言葉を交わすだけ。
休み時間も、人と話したりはしない。
ボーっと、窓の外を眺めているだけである。
見る限り、別に仲間外れにされているとか、嫌がらせを受けているとか、そんなことはなさそうだった。単に、他のクラスメイトの意識の外側にいるという、そんな感じの状況だった。
だからだろう。
例えば日直や、委員会の仕事や、教師からの頼まれ事で、彼女が何かしら困ることに遭遇しても、人に頼れないし、周りも彼女が困っていることに気付かない。気付けない。
やたら重いものを運んでいたり。
両手が塞がってて扉を開けられなかったり。
棚の高いところに手が届かなかったり。
そんな状態になっても、彼女はオロオロとするばかりで、誰にも助けを求められないし、誰からも助けられない。
そんな時に『情け』をかけたのが、まあ、僕だという話だ。
少なくとも目についた時は、極力彼女を助けるようにした。
重いものを代わりに持ってあげたり、扉を開けてあげたり、高いところの荷物を取ってあげたり。
……正直に言えば、これが純粋な『情け』だったかと聞かれると、答えに窮する。
少なくとも一度目は、純粋な親切心だった。それは断言できる。
しかし、助けた後、「ありがとう……」という小さな声と共に向けられる薄い微笑に、何となく惹かれるものがあったのも事実だ。そして、次回からそれを心のどこかで僅かながらも期待してしまっていたのも、また事実だ。
これから仲良くなることもあるかも――という、十代男子としてはまあ健全な期待が幾らかあったことも、僕としては決して否定はできないのである。
しかし一つ、誤解してほしくないのは、ウチのクラスも別に、冷たい人間の集まりというわけではないのだ。
授業中も休み時間も雰囲気は明るいし、変な派閥もないし、イジメも(少なくとも僕が知る限り)無いし、不登校児もいない。学級会での討論も活発だし、テストのクラスの平均点も常に一番だし、体育祭や文化祭の団結もなかなかのものだった。
クラスに、クラスメイトに、問題があるわけではない。
単に、菱野さんが一線引いているというだけのことだ。
それ以外は、高校の一クラスとしてはほとんど完璧だったと言ってもいいのかもしれない。
僕だって別に他校の実情を知っているわけではないが、それでも、不満というのはまったくない。このクラスにいることができて幸せだと心から思っていた。できれば、来年もこのクラスのままでいたいと思っていた。
そして、あわよくば、菱野さんへの『情け』に対する何かが返ってくれば……。
などという下心を抱えたまま高校生活を続け――
――そして、二年の二学期。
――十一月の終わりのことだ。
僕は授業中、うたた寝をしてしまった。
これまで、自転車の路駐を数度したことがあるくらい(弁解させてもらえば、駐輪場が満杯だったのだ)の僕にとっては、これは、それに次ぐくらいの悪行だった。
昼過ぎの授業で、しかも苦手な物理の授業だった……というのは言い訳だろう。
ともかく意識を取り戻した僕は、慌てて顔を上げた。
そして驚いた。
――カーテンが真っ赤に汚れていた。
――そして、生臭かった。
ぼやける眼を拭いながら、教室を見渡すと――首から上がすっぽりと無くなったマネキンみたいな人形が、二十二体、周囲の机に整然と座っていたのである。
教壇の前にも、一体立っていた。
人形――人の形。
妙に精巧だった。
妙に生々しかった。
その首元から、ちょろちょろと赤い液体が零れているのを見つけて――僕はやっと、それが元々人間だったということに気付いた。
声は、出なかった。
足元の真っ赤な水たまりを見止め、立ち上がることもできなくなった。
右を見た。
左を見た。
覚えている限り、その席の主とまったく同じ形をした人間の四肢が、制服を着たまま、そこに座っていた。
夢だと思った。
夢中夢というやつだと思った。
けれど、鼻孔の奥に突き刺さる臭いも、不規則な水滴音も、生ぬるい風も、すべてリアルだった。あまりにもリアル過ぎた。
頭が真っ白になった。
そのまま、気を失いそうになった――その時だった。
「…………ふふ」
と、後ろから笑い声が聞こえてきた。
息のような声だったが、誰のものか、すぐにわかる。
この学校でいえば、この声を聴いた回数は、担任教師の次くらいに僕が多いはずだ。
そんな――そんな菱野さんの笑い声が、後方から少しずつ近づいてくる。
ぴちゃぴちゃという足音と共に。
僕は動けない。
そしてその声は、僕のすぐ後ろ――耳元まで達し、
「お早う」
という言葉を吐いた。
「随分ぐっすりだったね? 疲れてた?」
今までにないくらい、甘ったるい声音だった。
しかし、僕は答えられない。
振り向けない。
「そのまま、ずっと眠っててもよかったのに」
背筋に冷たいものが走った。
それでも、僕は動けない。
「……ふふ。まあ、雉林君は、悪い人じゃないみたいだし、何もしないであげる」
耳裏に息がかかる。
それだけで、目が眩む。
「私のこと、誰にも言っちゃダメだよ? そんなことしたら、あなたと、あなたの家族、どうなっちゃうか、わかってるよね? 雉林君、頭いいもんねぇ?」
僕の首元を、生温かい菱野さんの舌が這う。
飛び上がりそうになった。
体中が痺れた。
「二人だけの秘密だよ? いい? わかった? ……ふふ、じゃあね、ばいばい」
それだけ言うと、菱野さんはまたぴちゃぴちゃと音を鳴らして、教室を出て行った。
そしてそのまま、この空間はほとんど無音と化した。
三十分後、授業が終わり、隣のクラスの生徒がこの教室の扉を開けるまで……。
ここからは、後から知った話である。
結論から言えば、僕がいることができて嬉しい、幸せだとのたまったこのクラスに、善人など、ほとんどいなかったらしい。
亜久島有介は、無免許運転の常習犯だった。
一色崎早紀は計数百万の万引き犯だった。
糸側卓は近隣商業施設の器物破損犯。
得永香苗は違法薬物所持。
樫鳴康太は他校生への恐喝。
期師田紀夫は暴行罪。
越田美緒は未成年への強要罪。
此永猛は先輩の集団詐欺に加担。
才個陽介は空き巣犯。
須々気直哉はスリ及びひったくり。
立花市敬は違法アップロードの常習。
手鳴直美は数件の放火。
篤志賀亮は父親の横領の積極的幇助。
富沢省は銃刀法違反。
中須磨京子は通貨偽造。
西牧白湯は親戚の監禁歴あり。
西岡栗栖は知人店舗への執拗な業務妨害。
野原克弥は公共サイトのクラッキング。
古峠美乃梨は祖父の船で密漁。
松皮淳は違法賭博に入り浸り。
餅田光里は盗撮。
弓縞翔も暴行罪
そして、担任の木野着は殺人犯だった。
シロだったのは、この日休んでいた大長と渡重――そして僕だけだ。……いや菱野さんの線引きはわからない。違法駐輪は範疇外ということ? もしくは、『情け』で見逃してくれたということなのだろうか?
――なぜ菱野さんは、あんなことをしたのか?
事件から結構経ってから、僕が伝え聞いた噂レベルの話は、こうだ。
インターネットのどこかにあるという、各所の管轄外だという電子空間(残念ながら僕はこの手の話に明るくないので、この表現が正しいのかは自信がない)。そこに、犯罪者の名前を小物から大物まで論う奇異な場所があったそうだ。
そこで日々何百と挙げられる名前――その中で、掲載者がひとところに異常に集まっている場所があった。
それが、僕のクラスだった。
元来、そこは私刑を好む人種が多く出入りしている場所。そこでの発言は加熱の一途をたどり、最終的には『粛清』と、その貢献者へのフィードバックという話にまでなったそうだ。
そして、それを実行したのが、菱野さんだった。
彼女は、想像できる限り『最悪』の実行の仕方をしたのだ。
結果として、彼女が『フィードバック』を受け取ったのかは、僕にはあずかり知らぬ話だ。そもそも、これが真実かもわかっていない。
菱野さんは、元来精神異常者だったのか?
もしくは、実は彼女の中では、普段助けてくれない周囲に恨みがあったのか?
あるいは、彼女はお金に窮していたのか?
そんなことも、もはや僕にはわからない。
僕が唯一知ることができるのは、彼女の現状のみ。彼女は――約二か月の自宅待機の後、編入させられた二年一組のクラスで、僕の隣で、何食わぬ顔で授業を受けている。
わけがわからなかった。
今も、わけがわからない。
あんなことをしでかして、どうして捕まらないのか? ――これも聞いた話でしかないが、彼女はあの日、三時間目で早退して、家で寝ていた――ということになっているらしい。
血痕は? 凶器は? 駅や町中の防犯カメラは? アリバイは?
と、疑問は尽きないが、もしかしたら、例の電子空間の知り合い達の援助があったりしたのかもしれない。……憶測でしかないが、僕にはもはやそれしか考えられない。そもそも、あんな大作業を菱野さん一人で実行できたのかも、疑問は疑問だ。
おまけに、つい先日聞いた話では、この学校とまったく無関係の男性が容疑者として捕まり、何やら自白を始めたということだ。……もう、意味がわからなくなってくる。
一体何が真実なのか?
何となくわかるのは、どうやら僕以外にあの『事実』を知る者――そして訴え得る者は、誰もいないらしい、ということ。それだけだ。
(ちなみに、あの事件の状況下で一番怪しいのは、当然僕ということになる。しかし、あの後、僕は気を失い、駆け寄ってきた別クラスの先生に起こされることになり、『犯行』の最中、僕はずっと一人、気を失っていたということになっている。僕の体や衣服に血痕が何も付着していないのが幸いした。)
……もし、あの時点で、僕ももっと大きな罪を犯していたら?
そう考えると、震えが止まらない。
イコール、僕は今生きていないということに他ならないからだ。
あるいは、菱野さんが今も僕の隣にいることを考えれば、これからもそんな行動は起こせない。起こせやしない。起こせるわけがない。
……いや、それを言うならば、僕は現状、一つの大きな罪を犯していることになる――隠匿罪というやつだ。
そう、これは――
僕が菱野さんにかけた『情け』のおかげで僕は命拾いしたという話であり、
菱野さんが僕にかけた『情け』のせいで、結果、僕もまた犯罪者になったという話だ。
ジャンル設定はいつも迷います。