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夕方の香り

作者: 橘 劫


 僕は作業を終え、ゴム手袋と空き瓶をゴミ袋に片付けた。換気扇はずっと回しっぱなしだ。冷蔵庫を閉めた後、手についた匂いが気になり水道で洗い流した。

(明日は生ごみの日で、その次が燃えないゴミの日だっけ……)

 などと考えながら窓の外に目をやると景色が燃えているようだった。西へ沈む太陽の光がわずかに部屋へ入り込み、白い壁紙も染め上げている。蛇口を閉め窓枠に手をかけた。

僕の身長以上に大きい窓はスルスルと呆気無く開いてしまう。セミとカラスの大合唱が聞こえる。一人暮らしする僕のために両親が探してくれたマンションの四階から見える景色は、いつ見ても綺麗だなぁと思える。家賃も両親が出してくれている余裕もあるからかこういう景色を鑑賞するゆとりもある。同じマンションに住む家族の子どもたちが近くの公園から帰ってくるのもよくある風景である。駐輪場に自転車を止め、携帯ゲーム機をカゴから取り出し、何やら数人で話しながら入り口に入っていった。最近の子どもたちは各々の家でゲームをすることは少なくなっているのだろうか。以前ニュースの特集で『子どもたちとゲーム』というトピックで云われていたことだけど、「最近は公園に行っても遊具が少なく、遊び場が徐々に減ってきている。それは親や教育委員会が遊具の危険性を声高に叫び、撤去させているからだという。そうなると子どもたちはゲームでしか遊ぶものがない。しかし、各家庭でゲームをするとゲームを長時間してはいけないと怒られるため、携帯ゲーム機を持って公園で遊ぶ以外方法はないのだ」と、メガネを掛けた偉そうな学者が云っていた。実際に周りの子供たちを見ていると確かにそうかもしれないなと思ったりする。

 これ以上窓を開けると四階とはいえ虫が入ってきそうだと思い、窓を閉めてカーテンも閉めた。そして部屋の電気をつけ、ニュースバラエティを見ることにした。どうやら、夕方のニュースに入ったようである。

「さて、次のニュースです。◯◯日朝、△△市の公園で成人の男性らしき遺体が発見されました。発表によりますと、◯◯日午前八時二〇分頃△△市内にある公園に、人の死体があると110番通報があったということです。通報者は園内の清掃員。これを受けて、✕✕県△△署の警察官数名が現場に駆けつけたところ、成人男性とみられる年齢不詳の遺体が発見されました。目立った外傷はないということですが遺体は頭部がない状態だったとのこと。なお、遺体は衣服を身につけておらず全裸の状態で周辺からは所持品なども見つかっておりません」

 △△市って僕が今住んでいる地域だなと思っていると、ピンポ~ンとチャイムが鳴った。

 僕はテレビを点けたまませかされるようにドアスコープを覗いた。外には焦げ茶色のスーツと青緑色のスーツに身を包んだ白髪の目立つ壮年の男性と20代前半ぐらいの男性が立っていた。全く見知らぬ人で訝しんだ僕はドアチェーンを付けたまま、すぐにドアを閉められるように小さく隙間を作って開くと、

「夕方に申し訳ありません。△△署の米村です」

 と、焦げ茶色のスーツを着た壮年の男性が腹の底に響かせるような重低音の声を出す。米村と名乗った男性は内ポケットから警察手帳を取り出し自分の顔写真を僕に見せた。僕がその顔写真を確認しようと思った時にはもう既に手帳を戻していた。

「失礼ですが、龍造寺りゅうぞうじ 祐希ゆうきさんですね」

 僕の鼓動がわずかに跳ね上がったのがわかる。ゆっくりと会釈のような頷きをしながら僕は”警察のことだから僕の素性なんて調べようと思えば調べられる、僕の名前なんて知っていて当たり前だ”と自分を納得させるように心を落ち着かせた。

「おそらくもう知っているかと思いますが、先日公園で成人の男性らしき遺体が発見された事件が起こりました」

 今度は青緑色のスーツを着た若い男性が話し始める。さっきのニュースで云っていた事件だ。

「我々が調べた結果、被害者の名前は秋月あきづき 敬介けいすけ。あなたが通勤している会社の人間であることがわかりました」

「は、はぁ」

 僕は思わず生返事をしてしまった。ボサボサになった髪の毛を掻きながら、若い警察官の話を続けて聞いていると、

「身近な人が死んだというのに、ずいぶんと驚かれませんね」

 米村さんが僕を観察するように見ながら尋ねてきた。僕は黒縁メガネの位置を直しながら、

「そ、そんなことは……ぼ、僕、あ、いえ、私と秋月さんは部署が違うのであまり出会う人じゃありませんでしたから。秋月さんは営業部で、私は総務部の人間です。話だったら営業部の人に聞いたほうがいいんじゃないですか?」

 と口ごもりながら答えた。普段から人と会話することが苦手で極力人と会わないようにしているから、これでも精一杯はっきりと話しているつもりなのだ。

「ええ、もちろん営業部の人たちにも事情聴取で回っていますよ。私たちは殺害現場に近い人物から洗うよう命令されましてな、こうしてあなたのもとにいる次第ですよ」

 米村さんが白髪を愛でるように自ら頭を撫でながら苛ついているような、吐き捨てるような口調で僕に呟く。若い警察官が米村さんに何か耳打ちをすると、米村さんは小さく頷き、

「どうも、お時間を取らせて申し訳ありませんでした。実はまだまだお話を聞かなければいけない人がいましてな、また改めて龍造寺さんにはお話を聞かせてもらいたいと思います」

 と深々と頭を下げて、次いで若い警察官も頭を下げて、僕の元を後にした。僕は彼らをしばらく見送った後、急いでドアを閉めた。

(え、なんで僕の所に警察官が!? も、もしかして僕、疑われてるの?)

 ドアに背を向けて体重を預けるようにもたれかかる。頭がパニックになりつつあるのを落ち着けと念じ、フラフラとリビングへ戻った。先程まで座っていたソファに座り、テーブルに置いていたアンドロイドの電源を入れ、セキュリティキーを入力してついっぷるアプリを開いた。Wi-Fiに繋いでいるにも関わらず機動に時間がかかるのが難点だけど、ツイッターを初めて間もない頃に出会ったブラウザアプリだから愛着も湧いている。タイムラインに流れてくる情報はやはりニュースでやっていた首なし遺体遺棄事件が占めていた。ニュースサイトのアカウントと有名芸能人のアカウントと少数のリア友や仕事仲間しかフォローしていないから当然といえば当然なのかもしれない。僕は慣れた手つきでフリックをしてツイッターに文を書き込んだ。


  リュウ@ryuryu1209

  さっき、テレビでニュース見てたらいきなり警察が来て、事情聴取していったよ~、 急だったからしどろもどろになっちゃってものすごく怖かった~^^;


 ツイッターに呟いたおかげか、だいぶ気持ちも和らいできていた。スマホからテレビの画面に目を移すと、既にニュースが終わり今日の特集コーナーをやっていた。内容は僕のお父さん世代の懐メロらしい。


 ♪~アンネがね アンネがなければできちゃった できちゃった できちゃったのは赤ん坊~♪


 スローテンポのギターに合わせて漫談を聞いているようだ。

(なんで、アンネがないと赤ん坊ができるんだろう)

 などと、考えているとスマホからピロリンと音が鳴った。すぐにスマホをタップすると、愛梨からのリプが来たという通知だ。


  トラ@torako252

  @ryuryu1209 リュウのところにも来たの?こっちは会社で仕事してる時に警察がきたよ~。昼過ぎに来たのに私が会社出れたのさっきだよ!(`Д´)プンプン


 先ほど米村さんが云っていたことは間違いなかった。愛梨は敬介さんと同じ課だからより入念に聴取をされたのだろう。ねぎらいのリプを送り、僕の方で起こったことも愛梨にDMで話した。どうやら愛梨のところに行った警察官は、テレビでよく見る捜査一課の人らしい。敬介さんのことで心当たりはないかとか最近何かに悩んでいる様子はなかったかとかとにかく質問攻めにあったようである。しばらく話をして一区切りがついたので、僕は愛梨に明日また会社でと送った。愛梨と喋ったおかげでさっきまで襲っていた不安がだいぶ消えていた。ソファに寝転んで、スマホを一旦OFFにしようとボタンを押しかけると、上部に再びツイッターにリプが届いたというアイコンが出ていた。今度は誰だろうと思い画面を開くと、


  大友葉子@yokotomo

  週刊さすライフ編集記者の大友と申します。突然のリプ失礼致します。先日起こった男性遺棄事件についてお話を聞かせてもらえないでしょうか?


 フォロー外のリプが来ている。僕は一瞬頭が真っ白になった。ただのフォロー外であるだけでなく、商業誌関係の人から来たのだ。一度呼吸を整え改めて文言を見直す。『週刊さすライフ』という雑誌名をまず確かめることにした。スマホで雑誌名を検索すると、どうやら地方誌や専門誌ではなく、全国誌の雑誌のようだ。特集内容に目を通してみたが、都市伝説や芸能人のスッパ抜き、政治家の黒い噂と称した批判めいた記事など、よくあるアウトロー系の雑誌みたいである。出版会社も設立して十年も経っていない。実際に存在する雑誌であることがわかり、念のためリプを送ってきた本人のプロフィールも確認した。確かに、当該雑誌の記者であるということを書いているため、返事を書いても問題なさそうである。僕は失礼のないように返事を書いた。


  リュウ@ryuryu1209

  @yokotomo 大友様、お話の件ですけれどもこちらは警察に軽く事情聴取を受けたのみの人物であり、おそらく貴方様の期待に添えられるようなことはお答えできないと思います。お力になれずに申し訳ありませんが、今回のことはお断りさせてください。


  大友葉子@yokotomo

  @ryuryu1209 お返事有り難うございます。了解しました。


 と簡素な返事がすぐに返ってきた。僕は安堵の溜息を漏らし改めてスマホから手を離す。僕は冷蔵庫を開けて今夜の夕食は何にしようと考えた。



 俺と新米の八角は被害者である秋月敬介と同じ会社に通う龍造寺祐希の家を離れ、車で署に戻ることにした。懐からマールボロを取り出し咥えると、

「米村さん、俺の車は禁煙っす」

 運転をしている八角から注意された。小さく舌打ちをして、

「いいだろ、ちゃんと窓を開けて外に吸い殻捨てるからよ」

 と、車の窓を開けながら云うと、

「警察官が車外に吸い殻を捨てるなんて市民のイメージに傷をつけます。署まで我慢してください」

 事も無げに迷惑そうな口調で否定した。仕方なくタバコを戻し、開けた窓に肘をかけ、

「全く、首の切り取り殺人なんてややこしい事件起こしやがって、予定していた年休もパーだ」

 ブツクサと文句を吐き捨てるように云った。

「どうせパチンコと競馬でスッてしまうんですから、いいじゃないですか」

 八角が人の生活を否定するように会話をする。大卒と同時に入ってきた新人捜査官だが、何十年とキャリアを持つ俺に対して全く歯に衣を着せぬ発言をしやがる。時代の流れというべきか、ここ最近の若者の礼儀とやらに苦言を呈したくなる年になった自分がいる。自分の心が狭くなったのかもしれないなと思いつつ、△△署に着いた。署内の一角を借りて捜査本部が設置されており、既に捜査を終えた捜査官たちも続々と集まっており、事件の責任者である吉岡警視が前のテーブルでパソコンを操作していた。俺たちも角の椅子に座り、捜査報告会が始まるのを待った。

「米村さん、今回の事件、どう見ていますか?」

 八角が隣から俺に尋ねてきた。

「そんなの今から始まる捜査報告会を聞いてみにゃわからんよ、情報も方針もないってのに憶測で話せるか」

「それもそうですね、僕、殺人事件の捜査なんて初めてですから緊張します」

 こいつが署に配属されて初めての殺人事件だ、当然といえば当然かも知れない。

「お前、云っておくが殺人事件で俺たちが第一線で捜査できると思うなよ? あくまで俺たちは一課の手伝いだ。基本は聞きこみやマークになる」

「わかっていますよ、それでもこういう大きなヤマ、初めてですからね」

 八角が緊張しているのを見ると、こいつもまだまだ青いな、と微笑ましくなるものだ。

「みなさん、それでは全員揃ったところで捜査報告会を始める。まず聞き込みの報告をお願いする」

 吉岡警視が口火を切ると、はい! と一人署員が立った。それから次々と捜査報告が始まり、俺たちはそれらの重要そうなものをメモしていく。

 どうやら、殺された秋月敬介は会社内で女性に人気があったという。容姿、成績共に申し分なしの人間である以上それは仕方ない。それだけに女性からのアプローチも多く、失恋した人は数知れず、といったところらしい。プライベートの方では婚約者が何ヶ月か前におり、双方の両親の挨拶を済ませるという話まで行っていたという。婚約者の話が出ても女性たちの人気は衰えていなかったというから相当だな。

 仕事上とプライベートにおいて恨みを買うような話は出ていない。とすれば、やはり怨恨の線か。女性社員に絞って操作を続けるという話で報告は終了した。

「次、鑑識の報告だ」

 吉岡警視が次に被害者の報告を促した。鑑識の報告によれば、マスコミに発表した情報に加え、男性器から精子がこびりついていたという。しかし、男性器から女性の愛液や唾液、指紋は見当たらない、という謎の報告があった。吉岡警視はその報告を聞きしばらく腕を組んで考えていたが、

「おそらく彼と情事を行おうとしたところで彼を殺害し、首を切り取った。そして公園に捨てたといったところか」

 よし、と彼は息を整え我々に予め配っていた資料に目を通すよう促した。そこには今後の捜査と人員配置の名前がある。捜査一課は本当の殺害場所の特定と聞き込み、俺たちは会社内の女性にマークし、聞きこみをするように書かれていた。俺たちが担当する相手は、辻本愛梨とあった。



 私が会社で仕事をしていると、突然社長が営業部へ入ってきた。そして部長に何か耳打ちをすると、驚いた表情で社長となにか話をしている。しばらく話した後、こちらを向いて、

「みんな、仕事中すまない。なんでも秋月くんが何者かに殺されたらしい。その捜査で今警察が来ているそうだ。みんな、一人ひとり事情聴取に協力してくれ。辻本、君から頼む」

 と私を名指しで指名してきた。社長は私のもとに寄り、ゴメンねと云いながら会議室へ案内した。既に中には男性が数人座っていて、まるで面接を受けるようだった。

「どうぞ、おかけください」

中心に座っていた男性が前の席を促した。私は緊張しながら腰を下ろす。

「社長からお話を聞いたとは思いますが……」

を皮切りに、秋月さんが殺されたということと何か彼について知っていることを教えてほしいと云われた。私は特にないと答えると、

「では、犯行時刻の十六時頃あなたは何をしていましたか?」

「その時間は確か、営業で外回りをしていたと思います。証明する手立てはありませんけど」

 あらかじめ来るであろう質問を先に答える。刑事さんも私の発言を記録しながらなにか話している。

「わかりました、では、我々が許可を出すまで会社から出ないようにお願いします。ご協力ありがとうございました」

 私は会議室のドアを閉めた。先ほどの刑事さんの質問で私は隠し事を二つした。一つは敬介さんに告白してフラレたこと、もう一つは……



 次の日、会社に行こうとすると、マンションの出入口に記者たちが数名陣取っていた。僕がマンションから出ようとするのに気づくと、カメラマンはすぐにカメラをこちらに向け、記者たちは我先にとマイクを僕に向ける。

「◯◯テレビなんですが、事件についてお話を聞かせてもらえませんか」

「△△新聞です、先日の男性遺棄事件についてお話を」

「週刊✕✕です、事件について一言!」

 たくさんの言葉が飛び交う。僕は背負ったリュックサックのショルダーベルトをしっかりと握り、間を割って無理やり外に出た。僕の後を追おうとしていた記者たちは新たな住民が出てきたのを見てターゲットを変えたようだ。僕は契約駐車場に停めていた車に乗り、会社へ向かった。Bluetoothを利用してスマホに入れていた音楽をカーオーディオで鑑賞する。時折気分が乗れば口ずさむ。朝の眠たさを噛み殺すのにちょうどいい過ごし方だ。


 ♪~夢の坂道は木の葉模様の石畳 まばゆく白い長い影~♪


 父から一人暮らしをするときにもらったCDの曲が流れてきた。この頃の曲はギターでスローテンポな曲が流行っていたのだろうか。歌手名を見ると中村雅俊と書いてあり、この人歌手もやっていたのかぁと何の気なしに思った。やがて曲が終わるとちょうど会社の職員駐車場に着く。曲の終わりと同時に会社に着くと少し気分が良くなる。専用駐車場から社員専用口へ向かうと、マンションにいた時よりも多くの取材陣が待ち構えていた。僕は通路の壁際に隠れ、さすがにあの中を割って入るのは難しそうだと思っていると、

「よっ、リュウちゃん」

 と、後ろから快活な声が聞こえた。振り向くとそこにはスーツ姿にヒールを履いた愛梨が手を振っている。僕も挨拶を返し、親指で通用口を覗くように指示した。愛梨も僕の隣でこっそりと通用口を覗くと、

「警察の次はマスコミかぁ、ホントに朝からご苦労なこって」

 快活でいて憎まれ口を叩いても下品さを見せない、ボブスタイルの髪が彼女のあどけなさをより際立たせているようだった。愛梨は僕の方を向き、

「あれじゃあ出社できそうにないし、別の通用口に行こっか」

 と先程まで通った通路を引き返し、普段は警備員が使用している通用口に向かった。警備員が一人扉の前に立っているだけでこちらには取材陣は来ていないようだ。40過ぎのおじさん警備員が僕たちに気づくと、

「お、愛梨ちゃんたちかぁ。一緒に出社とは仲がいいねぇ、いつもの通用口使えんかったんだろ?」

 と全てを理解しているらしくあっさりとドアを開けてくれた。

「ありがとぉ、高倉さん」

 両手を合わせてお辞儀をする愛梨。豪快に笑う高倉さんを横目に開けてくれた扉を二人で入る。

「今日の当番が高倉さんでよかったね、ここも陣取られていたらどうしようかと思ったよ」

 高倉さんは契約した警備会社の人で僕たちの会社を請け負っている。当番制で他にも数名代わる代わる入ってきているが、年齢層が若い人が多く頼りがいがあまりない。そんな中高倉さんは、以前会社の入口前で酔っぱらいが大声を出して暴れているところを、慣れた手つきであっさりと押さえつけた。酔っぱらいもじたばたして抵抗していたが、関節を抑えられ下手に動くと余計に痛みが増す状態になっていたから、最後警察の人が来る頃にはすっかり大人しくなっていた。それ以降高倉さんの評判は社内に広がり、今では僕たちの会社の門番と云われている。

「じゃ、リュウちゃん。またお昼一緒にね」

 先に愛梨は営業部の部屋に着いたので別れた。僕の担当する総務部は営業部よりさらに奥になる。自分の担当する部署につき早速備え付けのパソコンを起動した。周りには既に仕事を始めている社員も多く、それぞれが受け持っている業務を消化し始めている。ただ、報道された死体遺棄事件の影響で十六名いる総務部の社員の内数名が新たなタスクを割り当てられているようだった。担当課長はそれ以上にマスコミへの応対をどうするかに頭を悩ませている。社長も課長のデスクで二人して頭を抱えていた。年の割に前髪が後退し始めている頭が更に加速しそうだなと思いながらメールチェックを始めた。

「メールメールっと、やっぱり事件に関連する緊急メールが飛び交っているなぁ」

 メールボックスには通常五つほどしかメールが来ないのだが、今日見たら十以上のメールが届いている。一つ一つメールを読み解くと、マスコミ対応の記者会見を開くべきか、会場は大会議室でいいのか、こちらで代理業務を行っているイベント関係各社に説明をいつするか、いずれも緊急度の高いメールだった。一番新しく届いたメールは社長からのメールで、

「各自、マスコミからの取材には応じないように。マスコミ及び警察への対応は社長及び、専務、総務部課長が代表して執り行うこととする。取引を行っている企業や代行しているイベントに関係する企業に対する説明は営業部社員が行い、電話での問い合わせは総務部社員が対応する。添付している文書を読み、電話での対応には十分注意をするように」

 と、書いてありワードで書かれた文書が添付されている。開くと、今回の事件については警察に捜査をお願いしているため、我々の方でお教えできることはない、記者会見もマスコミを通じて開きます、と答えそれ以外のことはノーコメントでとあった。間もなく、業務開始時間になる。今日進めようと思っていた業務がどこまで進められるのか不安がよぎる。



 始業時間を迎えた会社は息をつく暇もないほどに多忙だった。ひっきりなしに鳴り響く電話。ホームページや社員の名刺に書いている電話番号は総務部の電話番号のみで営業部へ直通の電話は取引先ぐらいにしか知られていない。総務部を経由して営業部へつなぐようにしているので、営業部が多くの電話応対をすることはない。それよりもまずどうにかしなければいけなかったのは、マスコミだった。我先にとマスコミが出入口から押しかけてくるのを高倉さんたち警備員がせき止める。僕たち総務部の社員が記者会見を昼過ぎに行うことをマスコミに説明し、なんとか一旦引き上げてもらうことに成功した。高倉さんたちも嵐が過ぎ去ったと汗だくになりながらいつもの持ち場へと戻っていった。

「課長、昼過ぎに記者会見なんて資料や原稿の準備はできているんですか?」

 黒縁メガネで若干白髪が混じり始めている七三分けの頭を掻きながら、

「いやぁ、こんなことは初めてでな。記者会見を開くと言ってもマスコミたちが何を聞いてくるのかさっぱりわからんのだよ。殺された秋月くんは確かに我が社の社員だがそれ以上に一体何を知りたいのかが……」

と深い溜息をつきながらぼやいた。

「よく企業の脱税やらインサイダー取引、社員の不祥事なんかで記者会見を開くためのマニュアルはあるでしょうけど、殺人事件の記者会見なんてそうそうありませんしね」

「本当に、困ったものだよ。昼過ぎの記者会見どうなることやら……」

 冷や汗をハンカチで拭きながら重たい空気を背負って課長は僕と一緒に部署へ戻った。相変わらずひっきりなしにかかってくる電話の応対も時間毎に人を変え、磨り減る神経の負担を減らすようにしている。

 時間も正午を回ったが、電話の方は鳴り止む気配がない。休憩時間返上かなと思っていると、

「リュウちゃん、お昼休み行けそう?」

 と愛梨が扉からひょっこり顔を出した。僕は愛梨に今日は無理だと言おうとすると、

「祐希くん、今は他の社員で何とか回せるから30分程度昼休みを取りなさい」

 課長が僕に昼休みの時間を設けてくれた。他の社員も順次休ませていくと言ってくれたので、じゃあお先にすいません、と云って愛梨と一緒に会社を出る。

「総務部の空気重苦しかったねぇ、営業部の方も重いなぁって思っていたけど総務部が3割増しに重たそうだったよ」

 愛梨と近くの公園のベンチで隣り合うように座った。会社はこんなに重たいっていうのに燦々とした太陽の照り付けはお構いなしに僕たちに日の恵みを与えている。今日は穏やかな風も出ているし、木々が影になっているベンチは鬱々とした気持ちをゆるやかに溶かしてくれる装置みたいだ。隣に愛梨がいるおかげかもしれないけれど。僕はコンビニで買ってきたツナサラダとツナマヨおにぎりを取り出す。愛梨はかわいいうさぎのナプキンに包んだアルミ製の弁当箱を取り出しながら、

「リュウちゃん、相変わらずコンビニ弁当? それじゃあ栄養偏るよぉ」

 と、僕の持っているものを見ながら呆れた表情で云ってきた。

「いいんだよ、僕シーチキンが好きだしちゃんと野菜も摂っているから」

 そう言いながらツナマヨのおにぎりを頬張る。ツナマヨおにぎりはどこのコンビニで買ってもそれほど大きな変化はない。イロモノ系を買う勇気がない僕からすれば大安定の商品である。

「それから話変わるけど、僕のこと『リュウちゃん』って呼ぶのやめてよ。ツイッターやってること皆に知られたくないし、恥ずかしい」

 再三何度も云ってきたことをもう一度改めて切り出した。愛梨はミックスベジタブルのコーンをつまみながら、

「えー、いいじゃん。リュウちゃんはリュウちゃんだし、ビジュアルもなんかほら、リュウちゃん! って感じするよ?」

 口に運んだ後の箸を動かしながら当然のように返す。はぁ、と僕はため息をついた。僕がやめてほしいと云っても毎回良くわからない理由で拒否される。

「あとツイッターに自撮り写メとかあんまりつぶやかないほうがいいよ。ああいう所で何気なく上げた写真から身元特定されるんだから」

「大丈夫大丈夫、私みたいな女に興味を持つ人なんていないって、それを云ったらインスタグラムで上げている人なんかはどうなるのよ。自分の子供の写真とかも普通に上げてるし、リュウちゃんは心配しすぎ!!」

 箸を僕に向けて物を取る動作の真似事をしながら僕の心配事をあっさりと無下にする。

「それよりさリュウちゃん、昨日警察が来たんでしょ。そのことを聞かせてよ」

 愛梨はすぐに話題転換をした。僕の云うことをちゃんと取り上げてくれているのか不安になるくらいの自由な話しぶりにいつも僕はハマってしまう。仕方なく僕はありのまま起こったことを愛梨に話した。

「へぇ~、じゃあリュウちゃんのところに来たのは偶然なのかな」

「多分、違うと思う。今回の事件でまず捜査の対象になるのは秋月さんの周りの人たちからだろうから、ここの会社も最初の捜査対象に入っているはず。僕のところに来たのは現場が近くてなおかつ、同じ会社員であるから、理屈で言えばこれ以上ないくらいクロだって思われる条件だね」

「リュウちゃん、すっごく詳しいねぇ。でも、よく警察もあっさりリュウちゃんのところを離れたね」

「警察の人が云うには他に聞き込みをしなければいけない人がいるからってことらしいけど、まぁそれで僕の事情聴取は終わり」

 ツナサラダに付いているドレッシングのディスペンパックをパキッと折る。和風ドレッシングをまんべんなくサラダにかけて空になった容器をコンビニ袋に入れてからサラダを食べ始めた。

「リュウちゃんも災難だったね。ま、リュウちゃんと秋月さんには接点なんてないもんね。それに秋月さんには婚約者がいたでしょ? 挙式の日程も決まっていたのにね」

 愛梨はそう云いながらきんぴらごぼうをつまんだ。僕はサラダを食べていたフォークを止め、

「愛梨、君は今夜行われる秋月さんの告別式には出席するの?」

 と聞いた。愛梨は僕の方を向きながら、

「同じ部の社員だからねぇ、私だけじゃなく営業部は皆出席するよ」

 と答えてきんぴらごぼうを全て口に運んだ。愛梨の弁当箱は空になり、僕もサラダを食べ終わった。

「さてさて、リュウちゃんは午後また電話応対でしょ。私もお世話になっている取引先の方に顔出しに行かなきゃ」

 愛梨は弁当箱を簡単に包み直し、立ち上がる。僕もビニール袋を結んで公園に備え付けてあるゴミ箱に捨てた。



「米村さん、どうします? 行きますか?」

 八角が隣でマークしている辻本に接触するか尋ねてきた。俺はマールボロに火を点けて一つくゆらせる。辻本は会社から出て家に戻っているようだった。

「そうだな、行くぞ」

 携帯灰皿にタバコを押し込め、歩いている辻本に接触した。

「辻本さん、△△署の米村です。ちょっとお時間よろしいですか?」

 辻本は我々の方を振り向くと、少し驚いた表情をした。我々を交互に見回しながら、

「なんでしょうか? この前の事情聴取で知っていることは全て話したと思いますが」

「ええ、今日はもう一度確認のために参ったんですよ。ほんの少しですから付き合ってくれませんか?」

 辻本はこちらの方に身体を向けた。それを従うという意味で取りメモ帳を取り出し、

「以前聞いたことをもう一度聞きます」

 と初めて同じことを繰り返し聴いた。以前聞いた答えと齟齬がないか、そうやって嘘がないかを見抜くためでもある。人は嘘をついた時、嘘の内容まで記憶をするというのはよほどの意識をしていないかぎり、齟齬が生まれる。

「なるほど、では最後に秋月さんと交際したいと告白したそうですね」

 と、他の女性社員から聞いたことを確認した。すると辻本は目を見開きこちらを見据えた。口元をギュッと噛み、瞬きを何度かして、

「はい、でも婚約者が居ると断られました。それだけですよ」

 と答えた。辻本の告白に関してはそのとおりだ。我々も詳しく聞きそびれていたので今ここで彼女を揺さぶるにして小さいものだ。もう一つ、彼女に揺さぶりをかける意味でも尋ねるものがある。

「そうそう、秋月さんはどうやらストーカーに悩んでいるそうでしたが、何か知りませんか?」

 この質問を聞くと彼女は初めて小さい声を出して驚いた。

「そう、なんですか? 初めて聞きましたけど……」

 彼女は目線を横に向け何か思案をしているように見えた。彼女の挙動を見ながら、

「わかりました、今日のところはこれで帰りたいと思います。ご協力ありがとうございました」

 と締めくくり、停めていた駐車場へ戻った。辻本も小さく会釈をしていた。

「米村さん、もういいんですか? 明らかに何か隠していたように見えましたよ?」

 車内で八角が不満そうに漏らした。

「うるせえな、んなこたあ俺だってわかってるよ。だがそれを確かめる前に行くところがある」

「どこですか?」

「龍造寺の所だ」



 午後からも電話応対に追われ、定時になっても会社を出られなかった。記者会見の方も秋月さんの人柄や仕事ぶりを聞いてくるだけで、会社自体に関する質問は多くなかったらしい。その点はまず課長の危惧していた点が取り払われたと云っていいだろう。昼のニュースで警察の会見報告があったらしく警察は怨恨の線で操作を進める方針だと説明したとのこと。しかし会社側は、秋月さんは人望も厚く仕事上で恨みを買うような人物ではないと答えた。そのためか、当初予定していた記者会見の予定時間を大幅に短縮して終了することができた。社長も課長も数年分歳を重ねたような疲弊を見せるも、マスコミの攻撃から切り抜けられた達成感に満ちた表情で、二人で居酒屋に行く約束をしていたことは社員の誰も咎めることはできなかった。僕が総務部を出ることができたのは結局夜八時以降だった。そこからマンションに着く頃には九時を回る前で、テレビでは映画の時間帯に入る前のニュースがちょうど始まっており、

「次に先日起こった男性死体遺棄事件です、警察は事件の残虐性から怨恨の線が強いと見て捜査を進めて……」

 僕はテレビをうんざりするように消す。着ていたスーツをハンガーに掛け、下はパンツのみ、上は白いカットソーを着たまま脱衣場へ向かった。夏場はクールビズの着用が認められているため、上はカットソーだけでスーツは着用していない。脱衣場の洗濯機の中に靴下とカットソーを脱ぎ捨て、浴槽にお湯を張り始める。お湯が溜まるまでテレビを見ながら買ってきた和風パスタを食べようと思っていると、ピンポ~ンとチャイムが鳴った。僕は音に驚き身体をすくませる。下着しか身につけていないので、僕は慌てて近くにあったバスローブを着てドアスコープを覗く。すると昨日来た米村さんと若い刑事さんの二人が立っていた。僕がガチャリとドアを開けると、

「夜分遅くに大変申し訳ありません。△△署の米村です」

 と警察手帳を僕に素早く見せた。申し訳ないと云っておきながら本心ではそう思ってないに違いないと思いながら、

「何でしょうか? 知っていることなら昨日全て話したと思うんですが」

 と尋ねる。

「すいませんね、もう一度龍造寺さん、あなたにお話を聞きたいと思いまして」

 米村さんは口元で笑みを作りながら僕を見つめてきた。その目がどことなく心の中を覗きこもうとしているみたいだった。米村さんは懐から別の手帳を取り出しページをめくりながら、

「まず確認をしておきたいのですが、秋月さんに婚約者がいることは会社内でも知られていたのですか?」

 と聞いてきた。

「え、えっと、僕、あ、いえ、わ、私はその、会社の人たちと世間話をするような人間ではないのでよくわからないんですが、同じ営業部の、あ、愛梨が知っていたから多分皆、知っていたんじゃないかな、と思います」

 米村さんの目が僕の口の動きを見逃さないように凝視していた。その目が怖くて、僕は上手く喋ることができず視線を落としてしまう。

「愛梨さんとは誰のことですか?」

「え、えっと、営業部にいる辻本愛梨です。も、もういいですか? さっき仕事から帰ってきたばかりなんで早くお風呂に入って寝たいんです」

 早くこの場から立ち去りたい。このドアを閉めて自分の世界に閉じこもりたい。心の中から悲鳴が聞こえてくる。

「あー、それは誠に申し訳ない。最後にもう一つだけお聞きしたい。秋月さんがストーカーに悩んでいたという話は聞いたことありませんか?」

 僕は米村さんの言葉に一瞬ドアを閉めるのをためらったが、

「し、知りません。帰ってください!」

 と、勢い良くドアを閉めた。米村さんたちはしばらく入り口で何か話しているようだったが、間もなくいなくなったようだ。息を荒げ、呼吸が整わない。バスローブも着崩れてしまい、肩からはだけてしまっている。バスローブを着直すと、システムバスの音声案内が流れてきた。機械音声でお風呂の準備ができたと。警察の訪問で予定していたタスクがズレこんでしまったが、先にご飯を済ませようとリビングへ戻る。コンビニの袋から和風パスタを取り出し、冷蔵庫にある麦茶入りのピッチャーを出して陶器のコップに注ぐ。コップに満たされた茶色の水から麦の香りがしてきた。手早くピッチャーを冷蔵庫に戻し、和風パスタの隣にコップを置く。そして先ほど消したテレビをもう一度点けた。ニュースが終わり映画や二時間ドラマの時間帯に入ったため、どの番組を見ようかコロコロとチャンネルを変え、よくある情報バラエティを見ることにする。二時間ドラマや映画は一度見始めると終わりまで目が離せないから、パスタを食べ終わった後すぐにお風呂に入りたい今の気持ちからすると見ないほうが良さそうだ。夏休みアニメ期間に入っているため、宮﨑駿や細田守関連の映画が毎週見られるようになっている。昔見た映画のタイトルをテレビ欄で見るだけで懐かしさがこみ上げてくる。見ていた番組がコマーシャルに入ったので、少しだけ映画の方へチャンネルを変えると、引っ越しした先の家のボロさにテンションが上がって浮かれている姉妹が映った。子供の頃からずっとテレビで放映され続けている映画だ。僕はシメジを口に運ぶ。調理されるときに水抜きが上手くできていなかったからか少し水っぽかった。ほうれん草はいわんやと云ったところだろう。麦茶を一口飲んで、パスタをすするとまたコマーシャルに入る。あ、と思い出し慌てて情報バラエティに変える。すると、驚きの展開が! と引っ張っていた続きがちょうど終わって次のコーナーに回っていた。

(むう、結局あの作られていた製品は何だったんだろう)

 と、独りごちる。次は下町にロケに行くコーナーで東京のとある市街地に芸能人が練り歩くというものだ。そこでちょうどパスタを平らげ、空の容器をビニール袋に入れてコップを洗い場に持っていく。ビニール袋は市指定のゴミ袋に詰め込む。

「明日は燃えないゴミの日だから、忘れないようにしないと」

 燃えないごみを玄関前に出しておこうと結んでいた開け口を持つ。ガチャンと金属の音が鳴る。月に一度しかないため、一度溜まってしまうとなかなか出せない。

「痛っ!」

 ゴミ袋を玄関に置くときに何かで切ってしまった。どうやら、ゴミ袋から糸ノコギリの刃が飛び出てしまったようだ。僕は救急箱が置いてあるリビングへ戻り、バンドエイドを取り出す。傷口に貼って、救急箱を元の棚に戻してその隣に置いてある布テープを持って先ほどの糸ノコギリの刃をグルグルにした。これで刃が人を傷つけることはないだろうと飛び出した刃をゴミ袋に押し戻して、穴を塞ぐ。

「はあ、ついてないな。仕方ない、気を取り直してお風呂に入ってこよう」

 布テープを片付けて僕は風呂場へ向かった。そろそろだから明日からまた気が滅入るな。



 敬介さんの告別式が終わった次の日である。いつものようにお昼を一緒に愛梨と食べていると、

「リュウちゃん、昨日告別式に行ったら、変な人がいたのよ」

 と話しかけてきた。僕はいつものツナサラダに入っているトマトを食べながら、

「変な人?」

 と尋ねた。愛梨は頷きながら、

「そうそう、私たち営業部が告別式に行ったらね、黒のワンピースに白真珠のネックレスをした女性が末席にいたの」

 弁当箱に入っているひじきを食べながら僕に状況を話す。

「別に、普通の参列者にしか聞こえないけど……」

「リュウちゃん気が早いよぉ、話はまだ続くの。それで受付で名前を記帳していたらその女性がこっちを見ていたの。ハンカチで口元を覆っていたけど、私たちをじっと見つめているのよ」

 愛梨は次に鶏の唐揚げに箸を伸ばした。

「変な人だなぁって思っていたら、その人がこっちに来てさ。『突然申し訳ありません。大友というものです』って名乗ったのよ」

 僕の心臓がどきりと痛むように鼓動が跳ね上がった。思わず食べていたツナサラダを落としてしまうほどに。

「リュウちゃん、どうかした?」

 愛梨がきょとんとした表情で尋ねてきた。僕は落とした容器にサラダを入れてビニール袋に詰め込みながら、

「その人、僕のところにも来たよ」

 と答える。すると愛梨は目を大きく見開いて、

「そうなの!? え、それで、どうしたの? なにか話した?」

 声のトーンが上がり喋るスピードも三倍になった愛梨。僕はまたベンチに座り直して、

「実際に会ったわけじゃない。愛梨とツイッターで喋った後、話を聞かせてくださいってリプが来たんだ」

 と話した。愛梨は腕組みをしながら、

「うーむ、リュウちゃんの所に何でリプが来たのか疑問だね。私たちは団体で来たからなんとなく会社の人だってわかったかもしれないけど」

 と状況を分析しながらあれこれと思案を張り巡らせている。

「それで、大友って人は愛梨のところに来てなにか聞いてきたの?」

 僕は愛梨に続きを尋ねた。愛梨も僕の方を向いて、

「あっそうそう。それで、『実は今回の秋月さんの事件を調査しております。よろしければ告別式の後、お話を聞かせてもらえないでしょうか?』って云われたの」

 残っていた鶏の唐揚げを箸で摘んで、僕の口元へ寄せる。僕は何も云わずに愛梨の唐揚げを頬張る。

「そんなこと云われてもさ、私たちだって秋月さんのプライベートまで把握しているわけじゃないし、秋月さんもあんまりプライベートな話をするほうじゃなかったから、丁重に断ったの」

 愛梨の唐揚げを噛み締めながら話を聞く。愛梨の方も雑誌記者の話を断ったと聞いて自然と納得する。私たちは敬介さんのことをそれほど知らない。僕は他の課にいるから仕方ないかもしれないが、愛梨の方にも彼の情報はあまりないということには驚いた。業績もよく、周りの社員とも齟齬がないように思えていたが、プライベートとなるとあまり話さないのだろうか。

「結局その人はそれを聞いてすぐ席に戻ったんだけど、何だったんだろうね。記者にしても告別式に参列するなんて、普通ないじゃない」

 愛梨の言葉を聞いて、僕はふと米村さんの言葉を思い出した。

「もしかしたら、ストーカー、なのかもね」

 ツナマヨおにぎりを食べながらポツリと漏らした。

「ストーカー?」

 愛梨が怪訝そうに尋ねる。僕は奥歯に挟まった海苔を舌で取りながら、

「うん、昨日も僕の所に刑事が来てね、秋月さんがストーカーに悩んでいるって話を聞いたんだ」

 昨日のことを愛梨に話した。

「確かに秋月さん女受け良かったもんね、将来も約束されたようなもんだったし狙う女も数多くいる、か」

「愛梨も、その一人だったでしょ」

 愛梨の言葉に素早く僕は突っ込む。愛梨は弁当箱を片付けながら、

「何云ってるの、私なんか相手にされてなかったもん。結局いつの間にか婚約者ができたんだし社内の女性は夢破れたりって思っていたに違いないわよ」

 あっけらかんと話す。確かに、愛梨は好意を持っているという話はしたけれどそれを行動に移すという話はしていなかった。他の女性もなんとなくお近づきになりたいなぁというレベルで止まっていたのだろう。

「でも、もし彼女がストーカーだったとしたら、秋月さんを殺した犯人と喋った可能性もあるわけよね」

 愛梨が弁当箱を片付けて、ナプキンを結ぶ。僕もビニール袋にゴミを入れて近くのゴミ箱に捨てる。

「まだ犯人って決まったわけじゃないけど、可能性で云えばそうだね」

「このことさ、警察に云った方がいいかな」

「やめておこうよ、まだ確たる証拠もないのに全く関係ない人だったらどうするの」

 僕が及び腰でいると、

「じゃあさ、その人に会ってみない?」

 愛梨が突拍子のない提案をしてくる。僕は当然そんな提案を受け入れるはずもなく、

「何云ってんの!? どんな人かわからない人に会うなんておかしいんじゃない?!」

 明らかな拒絶反応を示した。愛梨は笑いながら、

「大丈夫大丈夫、向こうは名前を名乗っているんだから、いきなり危険な目に遭うことはないって。それに、二人でいるほうが怖くないでしょ?」

 僕の意見に全く耳を貸さない。

「僕は嫌だよ! 行くなら愛梨一人で行ってね」

 愛梨の思いつきに巻き込まれるのはゴメンだ。僕はさっさと会社へ戻ろうとすると愛梨が僕の腕を掴んで、

「リュウちゃん、お願い。もし私がそのストーカーに殺されたら夢見が悪いでしょ? リュウちゃんに絶対迷惑をかけないから! 本当にお願い!」

 左手を前にして僕にお願いをする。既にこういうことに誘われることが迷惑になっているのだが、当の愛梨はそんなことを微塵も感じていない。おそらくこの場は断っても仕事終わりにまた同じように誘ってくるだろう。僕は渋々観念して、

「愛梨、二つ約束して。僕が良いということ以外はしないこと。必ずやる前に僕に相談すること。わかった?」

 と提案をした。愛梨は満面の笑みを浮かべ、

「ありがとう~、だからリュウちゃん大好き!」

 と僕を抱きしめる。ツイッターのことといい、愛梨とはもう振り回される関係になってしまったのかもしれない。僕はそれを嘆きはせずただこの関係が嫌なものじゃないなと自覚できるくらいに思ってしまっていた。



 愛梨の提案に付き合わされることになったのだが、まずは大友葉子という記者にコンタクトをとる方法を見つけなければいけなかった。仕事帰りに近くの喫茶店でカフェオレを飲みながら、

「愛梨、その記者の方に連絡できるの?」

「ううん、あの時ただ会話を交わしただけで名刺も何ももらわなかったの。だから、まず雑誌を作っている会社に連絡してみようかなって思って。リュウちゃんのツイッターの方で雑誌名が書いてあると思うからそっちを見てもらえない?」

 僕にスマホを取り出すように促す。僕はスマホからツイッターを開き、リプライタブをタッチする。

「あれ? リプが消えている?」

 リプライ画面には先日まであった大友葉子の会話が消えていた。僕の呟きを辿るとたしかに記者の方と話したのは間違いない。しかし相手の呟きが忽然と消えてしまっているのだ。

「愛梨、なんかアカウントが消されているみたい」

「えぇ、確認できないの?」

 愛梨も僕の隣の席からスマホ画面を覗きこむ。アカウントを検索しても「該当するアカウントは存在しません」と出る。

「困ったね、これじゃあ雑誌名から会社に連絡取れないじゃん」

 愛梨がうつむきがっくりとしている。僕はここでこのまま愛梨の提案を流してしまおうかと考えたが、愛梨のしゅんとした表情にいたたまれなくなり、

「愛梨、僕に記者の人が話しかけた時、雑誌名をググったから検索履歴に残っているかもしれない」

 と云うと、愛梨はすぐに身体を寄せて、

「ほんと!? 早く、見せて見せて!」

 と急かす。僕はグーグルの画面を開き、検索履歴窓を確認する。

「あった、『週刊さすライフ』検索をかけてみるよ!」

 数日前とはいえよく履歴を残していた、文明の利器の記憶力は本当にすごいと云わざるをえない。数秒も経たずに出版会社のホームページが出てきた。画面をスクロールさせ編集部の連絡先を見つける。

「あったよ、連絡先。さすがに今から連絡してももう帰っちゃっているだろうし、明日の昼休みに連絡取ろうよ」

 時刻は夕方六時を回っている。今から電話をしても退勤している可能性が高い。愛梨は僕の提案に素直に頷き、明日また会おうということで別れた。

 


 次の日、昼食時にメモっていた電話番号にかけた。数回のコール音の後、

「はい、◯◯出版社編集部です」

 声の低い男性の声が出た。僕は仕事時の口調になりながら、

「突然のお電話失礼致します。先日そちらにいらっしゃる大友様から取材を受けまして、その件についてお電話させていただいたのですが」

 と答えると、

「大友、ですか……少々お待ちください」

 相手は保留音に切り替える。『エリーゼのために』の電子音がしばらく流れるが、

「申し訳ありません。大友は二週間ほど前に寿退職しており現在在籍しておりませんが」

 と返ってきた。僕はえ、と漏らし、

「で、ですが私たちは先日確かにそちらの大友という人物から取材を受けたんですよ」

 と話しても相手は困惑したような口調で、

「そうおっしゃられても、こちらには既に在籍していないのでどうにも回答がしかねる事態でして……」

 としどろもどろに話す。結局、そのまま電話を切り隣でアロエ入りヨーグルトを食べている愛梨に一部始終を話した。アロエの果肉をスプーンで掬いながら、

「私たちの前に現れた女性記者は既に会社には在籍していない、ふむむ、謎ですなぁ」

 アロエを口に入れる。僕もスマホを片付けてツナマヨおにぎりを食べる。しばらくお互いに無言でいたが、

「ねえ愛梨、もう調べられる方法がないから、ここでやめようよ。十分でしょ?」

 とこれ以上の調査を打ち切ることを切り出した。愛梨はちょうどヨーグルトを食べ終えたらしくビニール袋に捨てながら、

「う~ん、そうだね。しばらくは秋月さんの抜けた穴を埋めたりしなきゃいけないし、どっちにしても動ける状態じゃなくなっちゃうもんね」

 僕の提案に頷いてくれた。僕は愛梨の探偵ごっこに付き合う必要がなくなったことに安心し、

「じゃあ、調査はこれでおしまい。お互いにまた一緒に仕事頑張ろうよ、僕はあと半年でいなくなるけどさ」

 僕がそう云いながら食べていた昼食の容器を全部ビニール袋に丸めて近くのゴミ箱に捨てる。

「あ、そっか。リュウちゃんの契約後半年なんだっけ」

「うん、一年ごとに最長二年契約、あっという間だったなぁ」

 僕はベンチから会社の方を仰いだ。ここに入社した時のこととかを思い出すと少し感慨深くなってしまう。

「非正規雇用でも周りの人とか優しくて、すごくいい人ばっかりで良い職場だったよ」

「リュウちゃん……」

 僕が思い出にふけっているのを愛梨は何も云わなかった。しばらくすると僕の手を握って、

「リュウちゃん、あと半年! 一緒に仕事頑張ろうね!」

 と笑顔で話しかけてきた。僕は笑って頷く。

「当然だよ、ここに来て最初に声をかけてくれたのは愛梨じゃないか」

 思えば入社したての頃、右も左も分からないまま仕事を割り当てられ、上手く周りの人と溶け込めずにいた。聞けば優しく答えてくれるだろうけど、質問の仕方がわからなかった。事務経理の仕事と言っても職種ごとにローカルルールみたいなのがあって、それをどうやって聞けばいいのかわからなかった。そんな状態が数日続き、簡単なミスを出しつつも何とか仕事をしていると、愛梨が総務部に顔を出した。

「すいませ~ん、この企画書に印鑑がほしいんですけど~って君、新しく入ってきた子?」

 総務部の入口手前が僕のデスクだったので、すぐに愛梨が僕に話しかけた。

「あ、え、は、はい。龍造寺祐希と言います。よろしく、お願いします」

 僕は立ち上がって恭しくお辞儀をした。愛梨はそんな僕に、

「へええ、変わった苗字だね。私のことは営業部にいる愛梨ちゃんって覚えてね。よろしく」

 と僕の肩を軽くポンと叩いて課長の方へ歩いて行った。

「愛梨ちゃん、か」

 僕が再び作業に戻ろうとすると、愛梨がまた僕の机によってきて、

「そうそう、ここの課の人は結構奥手だから自分からしゃべんないとダメよ、それじゃあねぇ」

 と、云い残して去っていった。僕は愛梨の言葉を聞いて受身の姿勢でいてはダメなんだと教えられた気がした。僕なりにわからないことをたどたどしくてもいいから聞くべきなんだと。それから僕は、一つずつでもいいから隣の人にわからないことを尋ねるようになった。僕自身があまり喋らない人だったので、最初はおっかなびっくりな表情をされたけど、何度か繰り返すうちに周りの人と溶け込めてきた気がした。ひな鳥のように待つのではなく、今ある環境の中で自分の居場所を作る、たとえ愛梨がそういうつもりがなかったとしても僕はそうしなければいけないんだと悟れたのだから、愛梨に感謝をしている。そして、今のようにお昼休みは一緒にご飯を食べるようになったのも愛梨が誘ってくれたからだ。

「お昼ごはん一緒に食べない? 新人さん」

 お互いのことをそこで話し合って、社内にいる人がどんな人かを教えてもらった。

「たまに、総務部と営業部の合同プロジェクトとかやる時があるから、ここでどんな人か覚えておくと仕事しやすいわよ」

 と、愛梨は笑いながら話してくれた。事実、その半年後に僕と愛梨、そして合同責任者として敬介さんの三人で合同プロジェクトの企画立案を指示された。その頃から啓介さんは優秀な人材であることは教えられており、僕と愛梨はほとんど敬介さんの指示通りに動くだけで十分だった。敬介さんの目が届かない場所は愛梨がフォローに回ったりして、僕の仕事はせいぜい予算の試算といった細々とした事務経理の仕事だけだったのを覚えている。

「本当に、色々あったなぁ」

 僕は思い出の反芻から現実に戻った。

「仕事に戻ろう、愛梨」

 繋いでいた手を離し、愛梨と一緒に会社へ戻った。



 敬介さんの事件から三ヶ月ほど経った。さすがに今はもうテレビの報道や特集で事件が取り上げられなくなっており、今ではいつもの政治家の批判や芸能人の恋愛報道がひしめき合っている。警察も捜査を進めているらしいが、あれ以来僕のところには警察が来ることはなかった。今日は会社に連絡をして、休暇をもらった。ここの所気分がすぐれない状態が続いており、今日はそれがピークに達していたのだ。

「うぅ、吐き気が酷い……会社には連絡したし、ちょっと横になろう」

 朝から気だるく吐き気が続き、とてもじゃないが動ける状態じゃない。さっきまで寝ていた布団にまた入り込み、

(昼からまた病院行かなきゃなぁ……市役所に行っておいて正解だったな、はぁ)

 頭のなかでグルグルと回る思考に酩酊し、自分でも気づかずにいつの間にか寝入っていたようだ。

 起き上がる頃には既に正午を過ぎており、今から近くの病院に行ったとしても午後にまた来るように云われる時間だ。だるさはほとんど抜けておらず、寝返りを打って近くに置いていたスマホを手に取った。

「あ、愛梨からLINEが来ている」

 スマホをタップし、LINEを開く。来ていたメッセージは僕の体調を気遣うメッセージから始まり、次のメッセージに目が止まった。

「大友さんが、来た?」

 それは検索の糸が途切れていた大友葉子という記者が愛梨に接触してきたという。僕はスマホの画面を引き寄せ、

「昼休みに来て、愛梨に話を聞きに来たって……えぇ!?」

 僕は吐き気を抑えながら、スマホをフリックして、愛梨の身を案じるメッセージを送った。

「今丁度昼休みだから、すぐに返信できるはず。でも、大友って人と今一緒にいたら……」

 愛梨からの返信がこんなにも待ち遠しいと思ったことはない。早く無事であるという返信がほしい。すがるようにスマホを握りしめていた。既読がなかなかつかない、たかだか数分がとても長く感じてしまう。愛梨はこの時間帯、遅くても五分以内に返信が来る。寝返りを何度も打ちながら、喉元に訪れる吐瀉物を何とか胃に押し返し意識を保った。息も少し荒くなりギラついた目になっているだろう。あれから体感では数十分にも感じる時間が過ぎた後、愛梨から返事が来た。すると、夕方にどこかのお店で話をしようと約束したらしい。愛梨は体調悪そうなら自分だけ会うと云い出している。

「だ、ダメ……うっぷ」

 胃液が急激に逆流してきた。這いつくばるようにトイレに行き、何とか胃に流し込んだ朝食べた物が消化される前の状態で吐き出された。黄色いゲル状の消化物が便器いっぱいに広がる。鼻を突き刺すような匂い、生々しい肉の腐りかけのようだ。ある程度吐き気が過ぎ、吐いたものを水で流す。口周りに残る苦々しい吐瀉物が忌々しい。洗面台に戻り、口をゆすいだ。だいぶ口の中のイガイガがなくなり急いで、愛梨にメッセージを送った。

「愛梨、君だけだと危険だ。僕も今体調が悪くて外に歩けない。僕の家に来てほしい。大友っていう記者もその提案を承服しなければ蹴ること。いい?」

 しばらくすると、愛梨から了解という言葉と絵文字が送られてきた。僕はすぐに重い身体を奮い立たせ、何とか愛梨とともに臨めるようにするため、病院へ向かった。



「八角、行くぞ」

 俺は八角の肩を叩いた。

「行くって、どこにですか?」

 八角は立ち上がりながら俺に尋ねた。俺は取調室に向かいながら、

「決まってるだろ、ようやく辻本のついた嘘を教えてくれる奴が現れたんだよ」

「なんですって?!」

 八角は俺の後ろを慌ててついてくる。俺はあらかじめ呼び出しておいた、そいつのいる取調室の扉を開けた。

「あなたは……警備員さんじゃないですか」

「あぁ、会社で警備員として派遣されている高倉氏だ」

 パイプ椅子に縮こまったように座っている高倉がいた。そこには活気あふれ、気さくな高倉というイメージとは程遠く生気が抜けているようだった。俺は対面の椅子に座り八角は角の机にある椅子に座る。

「それで、話を聞かせてもらえますか?」

 俺の言葉に高倉は鼻息をフンと鳴らし、

「えぇ、もう家内との離婚調停も済みました。洗いざらい話したいと思います」

 とうつむいたまま語り始めた。

「まず、あなたは秋月さんの死亡推定時刻である十六時、辻本さんと一緒だったそうですね」

「はい、その日、私は出勤日ではなかったので、たまたま愛梨ちゃんと街中で出会ったんです。最近秋月さんにフラれたからなんとなくブラブラしていたと」

「それで、どうしたんですか?」

 高倉は再び沈黙した。膝にあった両手を机に上げた。手は震えていた。

「彼女はあっけらかんとラブホテルに私を誘ったんです。傷心していた気の迷いだったんでしょう」

「彼女の誘いにあなたは何故のったんですか」

 曲がりなりにも妻子ある身でありながら、何故彼女との茨の道を歩んだのかそれは当然の疑問だった。

「……魔が差したとしか云えないですね。ラブホテルに入ったのは十四時頃、そこから三時間ホテルで過ごしました」

 辻本が隠していたのはこの事だったのか、と確信した。

「それで、私の軽率さ故にホテルを出る時に天罰が下ったんですよ」

 高倉は肩をすくめて自嘲気味に云った。

「奥さんに見られてしまったんですね」

「はい、ホテル街から出る所を買い物帰りの妻に」

 高倉はその後離婚を請求され、説得むなしく調停に入った。そして数日前に和解が成立し、正式に離婚することになった。たったひとつの過ちで高倉は家族を失ってしまった。

「なるほど、よくわかりました。浮気に関しては民事で既に和解が成立している以上、我々から云うことはありません」

 そう云って高倉を取調室が出るように促した。彼はお辞儀をして、そのまま出て行く。

「辻本が犯人じゃなかったんですね、じゃあ一体誰が……」

 八角が調書を書き上げ、俺に尋ねてきた。俺はもう確信めいた自信を持った。

「犯人は辻本じゃない、やはりあの女だったんだ。行くぞ八角!」



 かかりつけの病院に這いつくばるようにたどり着き、受付の看護師さんに今の状態を説明して、なんとかすぐに診断してもらった。身体の事情もあって薬ではなく食事療法を薦められたので、云われたものを食べるようにすると、幾分良くなった。市役所はもう少し体調が良くなってから行くことにして、愛梨たちが到着するまで横になっていた。

 夕方六時を過ぎた頃、インターホンが鳴った。僕はボサボサの髪とスウェット姿でドアを開ける。ドアの向こうには愛梨ともう一人、女性が立っていた。伏し目がちで長い黒髪が艶やかさを醸し出していた。白い無地の長袖ブラウスにブラウンのキュロットスカートがよく似合っている。

「リュウちゃん、こちらが大友葉子さん。ここに来る道すがらリュウちゃんのことはある程度話したよ」

 愛梨の紹介で僕は挨拶をする。向こうもこちらに目線を合わせ、

「大友葉子といいます。あなたがツイッターで話しかけたリュウというアカウントの中の人なんですね」

 声のトーンはクリアで決して聞き取りづらくはない。

「はい、立ち話もなんなのでどうぞ中に」

 僕が部屋の中へ促すと愛梨の後に入ってきた。靴も動きやすいコンバースオールスターのスニーカーで、だいぶ履き古しているようだ。僕はリビングの方へ案内し、インスタントコーヒーを出した。電気ケトルはすぐにお湯が沸くので便利である。僕はソファのある方に座り、大友は対面に座る。愛梨は僕と大友の横の方に座った。

「でも、驚きました。私、リュウって名前を見ててっきり男だと思ってて」

 大友が話しだした。僕は、自分の髪を近くにあったヘアゴムで束ねて黒縁のメガネを掛ける。

「あー、一人称僕だしね、そりゃリュウちゃんが女だってわかんないって」

 すっかり愛梨は彼女と打ち解けている。僕は彼女の表情を監視するように見据えた。口元を抑えて笑っている彼女も僕の視線に気づき、

「あの、何か?」

 と尋ねる。

「大友さん、単刀直入に聞くよ。あなたは何故この事件を調べているんですか」

 彼女の問いに、僕は問い返した。大友は顔を伏せ、僕の渡したコーヒーを一口飲んで、

「私は雑誌記者です。今回の事件の調査を命じられて調べている、それだけです」

 と答えた。僕はすかさず、

「いいえ、あなたは嘘をついています。あなたは既に雑誌記者ではない、そのことは三ヶ月前あなたが教えてくれた雑誌名から出版社に問い合わせて確認済みです。何故、あなたは嘘をつくのですか」

 と切り返す。大友は目を見開き、僕から視線を外さなかった。僕は彼女の言葉を待った。愛梨はただ事の成り行きを見守ることしかできないでいる。

「まさか、あなたは警察が話していたストーカーなんですか?」

「ち、違います! 私は、その……」

 ストーカーではないと否定はするも二の句が継げない。大友の目は左右に泳ぎ、やがて、小さくため息を付いて、

「私は、彼の婚約者です」

 と、観念したように呟いた。

「え、あなたが秋月さんの婚約者なの!?」

 愛梨が驚き、僕も目を見開いた。敬介さんの婚約者が今目の前にいる女性だという。

「信じてもらえないかもしれません。私をこのまま警察に突き出しても構いません。米村さんが証明してくれます」

 僕のところにも来た刑事の名前を出したあたり、確かな信ぴょう性が見受けられる。

「なるほど、ではどうしてそのことを隠していたのですか?」

 僕は素朴な疑問をぶつけた。婚約者であるという事実は、特段隠す必要性が見受けられない。むしろ、新たに情報を提供する場合において十分相手の警戒を解く要素たり得るものではないのかと思う。

「私が彼の婚約者であることを話すと第三者は同情の目を寄せるんです、もちろん私は遺された人であり、哀れみや憐憫を持たれるのはしょうがありません。でも事件を調べるための聞き込みにおいては非効率的なので、そこを省いたのです」

「何故、そこまでして調べたいのですか」

「彼との婚約がなくなり、私は実家に呼び戻されたのです。元々、彼との婚約に対して両親はあまり快く思っていませんでしたから」

 彼女がここで調べることができる時間が有限だったのか。

「両親には会社の引き継ぎをしなければいけないと説明してなんとかここに留まっていました。でも、あと一週間にはここを離れなければいけません。何もわからないまま、実家に戻らなければいけないのはあまりにも嫌でした」

 最愛の婚約者を失い、なおかつ犯人も動機も凶器もわからない。彼女のやるせなさは如何程のものだっただろう。警察も捜査を続けているにもかかわらず進展は芳しくない。彼女が居ても立ってもいられないとなったのは性格もあるけれど自明の理だ。

「結局、ここまで自力で調べてみたのですが、何もわからずじまいでした。あの日話した電話が彼との最後の会話だなんて……」

 彼女はハンカチをギュッと握りしめ、唇が震えている。愛梨はたまらず、大友の背中を擦った。

「大友さん、もし、よろしければその時の話聞かせてもらえませんか?」

 愛梨の言葉に大友は、

「何故ですか、今更そんなことを」

 と答えた。

「私たちで良ければあなたの意志を受け継ぎたいんです、最愛の人を失い今も犯人がのうのうと生きていることがたまらなく許せない。このまま実家に戻るよりも私たちに意志を託してくれませんか?」

 愛梨はその人柄で困っている人を見過ごせないことは知っていた。僕自身、彼女の気持ちは理解できるし、できることなら協力したいと思っている。

「いいんですか、私のわがままに付き合っていただけるなんて」

「もちろん! これでも営業部内では『眠りの愛梨ちゃん』って呼ばれているんだから!」

 それは普段外回りの合間よく公園で寝ているからついたあだ名である。ほとんど口を挟まなかった僕も、

「僕もできることならあなたに協力したい、だから、あなたの知っていることを全て教えて下さい」

 僕と愛梨の顔を見比べ、ハンカチで涙を拭い、

「わかりました、彼の会話から今に至るまで話したいと思います」

 そして大友は大きく深呼吸をした。



 私がまだ◯◯出版社に勤務していた時です。敬介さんに仕事終わりに電話をかけました。受け持っていた担当ページの記事の〆切が迫っていたので、少し遅くなってしまったのです。

「もしもし、ごめんなさい敬介さん、仕事が滞っちゃって今終わったところなの」

 スマホで電話をかけるとすぐに敬介さんが出てくれました。

「ううん、気にしてないよ、締め切り間近なんだから仕方ない、葉子の身体こそ大丈夫?」

 彼はいつも通り優しく、そして暖かい言葉をくれました。

「ねえ敬介さん、今夜あなたのところに行ってもいいかしら?」

 仕事で疲れていたけれど、彼の元へ行きたくなりました。そして、あのぬくもりと全てを受け入れてくれる包容力を実感したくなったのです。でも彼は、

「ごめん、明日は大事なプロジェクトの発表日なんだ」

 と断ってきました。

「そっか、うん、わかった」

 少し拗ねたような声を出してしまいました。彼も忙しい時期だってわかっているのに、私は自分本位に考えていました。

「そう拗ねないでくれって、これが終わったら今後のことも話したいから、どこかで食事に行こう」

 彼の言葉に私は心が踊りました。数ヶ月前に正式なプロポーズを受けて、何も進展がなかったのです。時折電話で話すことはあるけれど、お互いに仕事が忙しいためになかなかプライベートな話ができないでいました。ようやく、彼と一緒になれるんだと喜びました。

「本当に? 絶対よ、約束だからね!」

 私は彼に何度も念押しをしました。彼は何度も約束してくれて、そして後日改めて電話をしてくれるということでその日の電話は終わりました。私が彼と交わした最後の言葉です。

 その後私は任された記事の校正を終え、会社を去りました。彼のプロポーズの後、私には家で主婦に専念してほしいとお願いされたからです。今の仕事は好きでしたけど将来のことも考え、退職願を提出していました。でも、彼からの連絡は待っても来ませんでした。私の方から何度も連絡しようかと思いましたが、彼の邪魔になるのは嫌だと思い、連絡をためらっていました。

 それから二週間経った日、仕事を辞めてしまった私は日がな一日ツイッターやアプリゲームをするぐらいしかやることがありませんでした。その日も心のなかで焦りを持ちながら、彼を待ち続けました。太陽も傾き、間もなく夜になった頃です。ドアのイヤホンが鳴りました。私は彼が来てくれたのだと思い、不用心ながらもドアを開けてしまいました。するとそこには二人の男性が立っていました。一人壮年の男性が胸元から警察手帳を取り出して、

「△△署の米村と申します。失礼ですがあなたは大友葉子さんですか?」

 警察手帳を開いてすぐに懐にしまって、

「既にニュースを見ているかもしれませんが、あなたの婚約者である秋月敬介さんが死体で発見されました」

 機械的な口調で淡々と告げました。私は最初、彼の云っていることがわかりませんでした。人が死ぬという事実はまず受け入れるということができないのだと感じました。その後、少しずつ彼が死んだのだという情報が身体に沈み込んでいきました。そして、私は崩れ落ちてポロポロと涙がこぼれ始めました。米村さんたちは私が泣き止むまで待ってくれました。どれくらい泣いたかは忘れました。ようやく、涙も止まり嗚咽がまだ止まらないくらいになって、

「大切な婚約者を失ったお気持ちはお察しします。ですがどうか、私たちの捜査に協力をしてくれませんか?」

 米村さんは穏やかな口調で話しかけました。私は頭が混乱したままで、

「そんなこと云われても、私は何も……」

 捜査に協力なんてできない、そう思っていました。でも、米村さんはそれでもいい、私たちの質問に答えてほしいと云われました。私はうずくまっていた体勢を立て直しました。米村さんは敬介さんのことを知りたいと云われ、知っている限りのことは伝えました。最近彼が恨まれたりしたことはありますか?と云われた時、私はふと思い出したことがありました。

「そういえば、彼はストーカーに付きまとわれているって聞いたことがあります」

 彼のプロポーズを受けてからしばらくして、電話で話した時に彼が話していたのを思い出しました。

「ストーカー、ですか?」

 米村さんがメモ帳に向かっていた視線をこちらに向け尋ねました。私は思い出しながら、

「はい、私にプロポーズをしてしばらくしてからよく、誰かに付きまとわれている気がする、と」

 と答えました。その後いくつか質問をして米村さんたちは帰りました。私は居間に戻り改めて彼を失ったという言葉が重く圧しかかった。このままだと気分がもっと沈んでしまいそうだったので、スマホでツイッターを見ました。いつもと変わらないタイムラインがその時だけ取り残されているように感じました。それで、キーワード検索で「警察 事情聴取」と打ったら、龍造寺さんのツイートがヒットしたんです。それでつい彼女にリプを送ったんです。でも、知らない人でしたから身分を少し偽ってしまったのは、今は申し訳ないと思っています。私は仲間というか今の気持ちを誰かと共有したかったんです。こんなこと、誰にもわかってもらえないから、同情じゃない仲間認識が欲しかった。結局龍造寺さんに断られて、そのまま何をして過ごしたのかよく覚えていません。

 そして、彼の葬儀が行われ参加して彼の遺体を見て驚きました。首がない、大好きな敬介さんの顔を見送ることができないことが余計に悲しくなりました。彼のご両親には既にご挨拶を済ませていたので、親族の席を促されましたが正式な結婚式もしていなかったので、固辞しました。そこで、愛梨さんと出会ったんですね。そこでも何かと情報を得ようと頭を切り替えて話しかけました。収穫はなかったですけれど。

 それからしばらくして、また米村さんたちがやって来ました。捜査の過程で改めて、また来られたと云われたんですが、

「大友さん、あなたが先日おっしゃっていたストーカーの件なんですが、どうやら秋月さんの身近にいた人物らしいんです」

 米村さんからの説明だと、敬介さんが会社から帰る度に後ろから誰かに尾行されているらしいと同僚に話していたそうです。また、誰かとは云いませんでしたけど女性に告白されて断ってから尾行されていると話していたと。そして鑑識の結果で敬介さんは男性器から精液がこびりついていたとも話していました。痴情のもつれで殺されてしまったのではないか、という線で今捜査を進めているから、何か心当たりはないかと切れました。

「そんなこと云われても、彼のプライベートを思い出す限りではいないと思います」

 彼の私生活ではストーカーになり得る人はいない。彼をストーカーしていた人は誰だったのか、今でもわかりません。彼の秘密主義なところが今こんなにも困らせるなんて思いもよらなかったです。

 そして、しばらく経ち私は両親から実家に戻るように勧められています。だから、最後に敬介さんが勤めていた会社を見ておこうと思って、見に行ったんです。そしたら愛梨さんに会ったと。私の話は以上です。



 大友さんの話が終わり、話の継ぎ穂を探しあぐねていた。僕が無言でいると、大友さんが

「愛梨さん、会社でそういう人に心当たりはありますか?」

 と尋ねた。愛梨は僕の方を向いて首を横に振る。

「残念だけど、私は心当たりないな。秋月さんに好意を抱いていた人は多かったけど、ストーカーに及ぶ人って浮かばないよ」

 僕も愛梨に同調し、心当たりはないと述べた。大友さんはとても残念そうな表情になるので、

「どうか、気落ちしないでください。僕たちがきっと犯人を探してみせます」

 と励ました。その後、いくつかお互いに会話をして愛梨と一緒に大友さんは帰宅した。僕は二人を見送って、

「大友さん、あなたの気持ちを汲み取るように努力します。でも、きっとあなたの思いが成就することはないですよ」

 と、少し大きくなったお腹を擦さすり、冷蔵庫から愛する人の首を取り出した。愛しく撫でながら、

「ね、お父さん」

 そう呟いた時、ドアから終わりを告げるチャイムが鳴った。


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