湯けむり事件発生
アツアツのたこやきを食べている間に、心のもつれが取れ、それを見抜かれたのか、老婆が俺を温泉に誘ってきた。
一刻も早く行かなければならない気がするのだと説明はしたが、老婆は取り合ってくれない。
「これも何かの縁ですから」
「でも、こちらにも都合がありますからねぇ」
押し問答の繰り返しに、女子高生が終止符を打った。
「たこやき食ったんだから言うとおりにしな」
そこを突かれるとぐうの音も出ない。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「嬉しい、本当に良い温泉なのよ」
老婆の微笑みに、なぜだか少し悪寒が走る。
ほどなくして俺は山口で途中下車し、老婆と女子高生の後からバスに乗った。
バスはどんどん山奥に入っていった。
老婆は相変わらず俺に話しかけてくるが、女子高生は俺に干渉することはなく、一寝入りしていた。
今となっては女子高生の我関せずの態度の方がありがたい。
俺はひと時も気が休まることがないまま、温泉に着いてしまった。
今年で創業百周年を迎えるという老舗の旅館に入っていった。
かなり豪勢な旅館で、エスカレーターでフロントまで行き、お出迎えの女将が五人もいた。
「この待遇は俺のおかげっていうわけではなさそうだな」
「はあ? 何言ってるの?」
独り言のつもりだったが、女子高生には聞こえていたようだ。
「なあ女子高生、お前のばあちゃん何者だよ」
「女子校生じゃなくて、アカリ。人のこと女子高生って呼ぶバカいる?」
「そうカリカリすんなって」
「あんたの名前は? 聞いといてあげる」
そういわれて、俺はどうしようか頭を巡らせた。
自分の仮の名前を作っておいた方がいいな。
どうせならカッコいい名前にしておこう。
「俺か? 俺はサブローだよ」
「演歌歌手みたいね」
俺が抱いてほしかった感想とは少し違ったが、まあよしとしよう。
部屋も申し分のない広さで、部屋から見える景色も海が一面に輝きを放っており、素晴らしかった。
鹿児島に行かずに、ずっとここにいたい。
お酒が入ると、ついそんなことを口にしていた。
「いくらでもいるといいよ」
老婆はいつでも耳当たりの良い言葉を投げかけてくれる。
老婆が口を開くときには俺の耳は宝箱になり、アカリが言葉を吐き捨てる時には俺の耳はゴミ箱になっていた。
「刺身と酒がよく合うわ」
赤ら顔のアカリに、俺は一石投じる。
「お前、酒飲んでいい歳じゃないだろう」
「水を差すようなこと言わないでよ。あんたこそ二十歳すぎてるんでしょうねえ?」
見た目年齢では二十そこそこだろう。俺は自信を持って頷いた。
「まぁまぁ、今日くらい羽目を外したってバチは当たらないわよ」
老婆が甘い言葉をささやき、俺の耳が宝箱になる。
「そうだな、今日という日に乾杯っ」
「調子いいんだから」
ヘソを曲げていたアカリも、ご馳走に手を伸ばすうちに、怒りがどこかに消えてしまったようだ。
俺は腹が膨れて動けなくなり、何時間か眠った後、テレビの前で丸くなっている二人を起こさないよう気を付けながら、一人とぼとぼと温泉に向かった。
時計を見ると、午前二時を回っていた。どうりで欠伸が出るわけだ。
眠い目をこすりながら地図を確認すると、男湯、女湯、混浴の三種類があった。
俺は迷わず混浴の方に足を向ける。
鼻歌を鳴らしながら脱衣し、鏡で自分の体を眺める。
空き時間に筋トレに励んでいる体は、少しずつ成果を見せ始めていた。
フェイスタオルで大事なところを隠して、パンドラの箱を開ける。
誰か温泉につかっていた。湯けむりでよく見えないが、男ではなさそうだ。
俺は焦る気持ちを落ち着けながら、慎重にシャワーを浴び、忍び足で湯に入る。
先客と一メートルほどの距離で、はっきりと女だと分かった。
恥ずかしいのか、こちらに背を向けているが、髪をお団子にしてくくっている。
神様ありがとうございます。
このあたりで俺の目は完全に覚めきっていた。
神に礼を述べた後、辺りを見回して、冷静に状況確認をする。
どうやら俺と女の二人だけしかいないようだ。
この状況を生み出してくれたすべての皆様に、感謝。
俺は、奇跡のようなシチュエーションに、夢ではないかと頬を抓ってみたが、ちゃんと痛みが走った。
後は、声をかけるだけだ。
「あのー、もしもし?」
緊張して声が裏返りそうになるのを、なんとかこらえる。
俺に呼び掛けられて振り向いた女性は、俺の期待を裏切り、オバサンだった。
「なんだって顔するんじゃないよ」
「いえ、そんなつもりは・・・」
がっかり感が顔に出ていることを指摘され、口ごもる。
なんだよちくしょう!
俺は天を仰いだ。
「あんた、どこから来たんだい?」
「南の方から来たんだと思われます」
「思われますって、変な子だね」
ごもっとも。今後もこんな台詞を言われ続けるんだろうな。
架空の設定を作っておこう。
たった今からやることがなくなったわけだし。
切り替えようとしていたが、オバサンは若い男と話せるのが嬉しいのか、俺が変な子でも話しかけてくる。
俺もだんだん母親のように思えてきて、気を許してきたころ、
「背中を流しましょうか」
と言っていた。
オバサンも満更でもなさそうだ。
こういうのも悪くないな。と、昨日たこやきをつついていた頃の気持ちを呼び覚ます。
「人に背中を流すなんて初めてです」
嘘ではない。俺は自分に言い聞かせる。記憶を失った後からが、俺の第二の人生が始まっている。
「お母さんにもやってあげな。やった方もやられた方も、幸せな気持ちになれるんだから」
タオルに泡立てて、丸くなってたっぷり脂肪を蓄えた背中をさするようにして洗う。
「もっと腰を入れな」
オバサンの要望通り、腰を入れてゴシゴシ洗った。赤くなってきたが、オバサンは根を上げなかった。
自分で腰を入れろと指図をしたので、痛いとは言いにくいのだろうか。
痛そうー。ヒリヒリしているに違いない。
俺がそう睨んでいると、何か血管のようなものが浮き出てきた。
なんだこれ?
何か、絵のようにも見える。
き、気持ち悪ううううう!
鳥肌が立ちつつ、浮き上がる絵から目が離せない。
四角が何個か並んでおり、その一つの四角の中に、星印がついている。
「あの、何か背中に仕掛けをされてます? アート的な何か」
「なんだい、それ?」
とぼけているのか、俺の頭がおかしいと思われているのか、オバサンの反応からは分からない。
「なんでもないです」
俺はオバサンと他愛のない話をして、のぼせる前に先に湯から上がった。
さっきのアレは何だったんだろう。
部屋に戻り、そのまま布団に倒れ込んだ。
朝方、大勢が俺のお目覚めを待ち構えていた。
「え?」
大勢の中に、昨日のオバサンがいた。
「あんた、私の下着盗んだでしょ」
アカリが軽蔑の眼差しを俺に向けている。
その視線を真っ当に受けて、オバサンの言葉を反芻させた。
俺が顔色を変えるのに、時間はかからなかった。