対峙
俺がショーウィンドーの前で宙を睨み付けていると、ソイツがふっと離れていくのが分かった。
額ににじみ出た脂汗を、ハンカチで拭く。
「ハンカチ王子、一勝零敗」
初めて、ソイツに勝ったのだ。
恋人と別れた日だったが、祝杯を挙げた。
バーに入り、店長にカクテルを作ってもらう。
あれだけ人目を避けるように生きてきたのが嘘のように、隣に座った若いお姉ちゃんをナンパまでしてみた。
福男の効力で、話が弾み、彼女の家まで押しかけることに成功した。
ベッドの上で、身の上話をした。
穴の中から生まれ、人の親切を受けまくる人生なんだと落胆口調で言うと、彼女は長い黒髪の手入れをしながら、ケタケタと笑って聞いていた。
自分のような人間は少数派だが存在するらしいこと、そいつらと出会ったこと、ティッシュペーパーのように軽くなった口が何もかもしゃべっていた。
「仕事は何をしているの?」
「仕事? 仕事は就く必要ないでしょ? それに、一応俺は追われ身だしね。実はさっきもソイツを振り払ってきたんだ」
「ふうん。誰に追われているの?」
「実態を見たことがないから分からないんだ」
そういうと、黒髪の女は顔をしかめたので、俺は話を逸らすことにした。
「髪の毛綺麗だね。伸ばしてるの?」
「夢が叶うまで切らないでおこうと思っててね」
「よかったら話してよ」
「私、空手を習ってるの」
ここで首を突っ込むのを止めればよかった。
俺は毎日練習に付き合わされるはめになり、全国大会前に怪我をした女に代わって、出る羽目になったのだ。
いくら相手が俺だからとはいえ、わざと負けてくれるわけではないらしい。
ガタガタに震えた足でステージに上がり、全力で向かってくる相手にボコボコにされ、一回戦敗退となった。
「私、空手習ってるの」
ここで話を逸らす技術をつけなければいけない。
俺は引きが弱いらしく、バーで飲み歩いては、
「私、キックボクシングを習ってるの」
「私、テコンドーを習ってるの」
という特殊な女を引っかけてしまうことが多かった。
ただの趣味だと言い張っていても、そういう女は警戒した。
触らぬ神に祟りなし。
俺は、苦い経験から、野原で佇んでいるような女性を求めるようになった。
絵描きの男に、スケッチをされるような女性を求め、俺は街から外れた、空気の綺麗な場所に住処を移した。
家と家の間が途方にくれそうなほどに距離がある田舎で民家を借りた。
すぐそばに川があり、そこで採れる魚は格別だった。
中でもお気に入りはシャケ。
いつか、運命の女性とここのシャケを分け合いたい。
そして、笑いあいたい。
俺は、アイツとの一勝を自信に、ここで身を固める覚悟をしていた。
流れる川を見つめながら、運命の相手が流れてこないか、凝視する。
待ち人どころか、桃でさえ流れてこない。
どういうことだろう。
首をひねりながらも、いつ同居人が来てもいいように、民家を大掃除した。
女の子がここに入ってきたときの顔を想像したら、気合が入った。
屋根裏部屋でホコリをはたき落とし、蜘蛛の巣を払っていると、名前が彫ってあるのを見つけた。
五人の名前が順番にかかれていた。
嫌な予感が胸に広がっていくのを知らぬふりして、俺はすぐに気持ちを切り替えた。
だから、家の戸が開く音がした時は、期待に胸が躍ったものだ。
もし俺が外国の子どもなら、ピーナッツバターを大量に届けてくれる配達人なのでは、と思い込んでいるのではないかと思うくらいに、勢いよく一階に駆け下りた。