方針
長い夢を見た。橋の上で、きれいな瞳をした青年が、絵を描いていた。
俺は、その歳で絵画に没頭する珍しさに興味を惹かれ、気づかれないように盗み見た。
流れる小川は、実物よりも透き通り、スマートな魚たちが不格好ながら、必死に泳いでいる。
今時の女の子たちがあえてすっぴんで写真を撮るように、小川が実像を誇らしくハリを出して青年に魅せている。
青年の横顔を眺めていたい乙女な心情に駆られながら、その絵がどう動いていくのか見守っていた。
この夢が、俺に何かを教えてくれているのだろうか。記憶を失う前のものなのか、目覚めてからミーに聞こうとすると、ミーは眠っていた。
あたりは暗く、夜であることが分かった。
俺はミーのカバンを探り、懐中電灯をつける。
とうもろこし畑にいることが分かり、ミーの機転の利かなさに、少し絶望した。
あの状況なら、普通どこかに移動してくれてるだろう。
俺はまた背中に悪寒が走り、ミーをお姫様抱っこして、逃げた。
足音が聞こえてくるわけではないが、第六感で、誰かが追ってくるのを感じるのだ。
それは、とうもろこしがオバケに見えるというようなファンタジーではなかった。
この女、俺のお荷物になりやがって。
そう思っていたはずなのに、俺はミーに恋をした。
俺もミーも、レンとジンのもとに帰ろうと言い出さなかった。
ミーも、二人より俺を選んだのだなと解釈していた。
俺たちは、二人で身を寄せ合って巡るめく季節を過ごした。
レンとジンの話は出さなかった。
だが、一度だけ俺から話を切りだしたことがある。
「心配してるだろうね、君のこと。今頃血眼になって探してるんじゃない?」
「それはないわ」
「どうして? 弟と元カレだぜ?」
「そんな余裕はないわ。私たちは殺されたと踏んで二人で逃げているはずよ」
「そんな経験があるのか?」
ミーは顔色を変えて、この話はおしまいにしましょうと言った。
ほとんど人目を避けて生きていたが、たまに調子がいい時は、町中でデート気分を味わった。
いつでも逃げられるように、クレープやパンケーキなど、胃もたれの危険がある店には入らなかった。
雑貨屋に入り、心に留まったアクセサリーをなんとなく手首にはめてみると、店員からにこやかに、よかったらどうぞと言ってもらえた。
デート中でも、気配を感じた時は、自転車に乗ったり、信号待ちの車をノックして譲ってもらったりして逃げた。車の運転はできた。俺は免許取得者らしい。
俺とミーは、喧嘩をすることはなかったが、一度だけ喧嘩をしてしまったことがある。
手を繋いで町中を歩いているとき、ミーからかけられた言葉が発端だった。
「サブローって、左手でしか手を繋がないよね」
それは、自分では全く意識をしていないことだった。
「そうか?」
だが、それからどちらの手で手を繋ぐのか、意識するようになった。
確かに俺は、左手でしか手を繋がなかった。
カレーのルーを手で掴もうとするくらい、右手で手を繋ぐのは難しかった。
俺にとってはどうでもいいことだったが、ミーは気にしていた。
何か大きな意味があるんじゃないかと言われても、覚えてないのだから仕方がない。
そんなことがあってからは、些細なことでも喧嘩をするようになってきた。
「これ以上女の子のことを見たら、あのとうもろこし畑に連れて行くよ?」
俺にとっては許せない脅し文句だった。
ミーといて、一番大きく感情が揺さぶられた。
「もう、別々に生きて行こう。お前はもう、あの林の中に帰れ」
「もうきっと二人はあそこにはいないわ。それに、もうあんな田舎に帰るのは嫌」
俺たちは神戸市内で一室のマンションを借りて住んでいた。
「それに、経験値の高い私といた方がいいはずよ」
「逃げる経験値なんて勝手に身に付いてだろ。俺はお前たちみたいに逃げてばかりじゃなく、いつかは解放されたいんだよ」
それは、ずっと胸にしまってきた本心だった。
それと対峙し、全てのことから解放される。ミーたちがやってこなかったことを、俺はするのだ。
それを言うと、
「無理よそんなの」
恐ろしく冷静にミーが言った。
「そうして私たちの仲間は殺されたんだから」