黒猫
次の角を右に曲がれ
俺が聞き取れたのが間違っていなければ、女の子は英語でそう言った。瞳を見ると、青い目をしていた。
母親は早口の英語でまくし立てた後、女の子の手を引っ張り、会話を強制終了させた。
センキュー
振り返った女の子にそう言い、背筋をシャンと伸ばして次の角を右に曲がった。
ない。
俺の緊張は一気解けた。そして、やはり外人の子どもはアテにならんななどと勝手なことを考えていた。
ひょっとしたら、と思い、俺は自分の背中を手で触ってみた。
この手の感触を信じるならば、地図は浮き出ていないようだ。
がっくり項垂れると、ちょうど黒猫に足を踏まれた。
「いてぇな、おい」
苛立ちを黒猫にぶつける。
「おい、待てお前」
俺は黒猫の背中から地図が浮き出てくるのを見逃さなかった。
「ガッハッハッハッハ」
黒猫を抱きかかえて高らかに笑う。
「お前、でかしたぞ!!」
黒猫に高い高いをすると、黒猫が震え始めた。
この星印が目的地らしい。そう遠くない。黒猫を抱きかかえたまま、歩き始めた。
しかし、昔ながらの懐かしさを感じる町並みだ。ここだけ都市開発が遅れているのか。
外でまりつきをしている子どもたちを、現代で初めて見かけた。
浴衣を着て出歩いている人たちも多い。下駄まで履いているおっさんもいた。
ジーンズにワイシャツの俺が浮いている。
俺は古着屋に入り、この町の正装に着替えた。
写真の中の景色に嫌われないように、俺はそこまでした。
写真の中の景色に着いた時、俺はすぐに答えを欲しがった。
さあ、ここから何が分かる?
駄菓子屋に入る。
俺だよ、俺が帰ってきたよ。
「いらっしゃい」
奥の方から腰を上げて出てきた女の店員は、俺を見て一瞬驚いた顔をして、笑顔を作った。
温泉に誘ってきた老婆と同じ人種だ、と俺は直感で感じた。この人は信じてはいけない。
「その猫」
店員に言われ、俺は黒猫を抱えたままであることを思い出した。
「あ、すいません」
俺は背中の地図を隠しながら、黒猫を手放す。
「大丈夫? 傷があるみたいだったけど」
「はい。猫同士の喧嘩でなったみたいですね」
猫から直接聞いたかのように答えてしまった。
「そう。ごゆっくり」
店員は俺に興味はないようで、のっそのっそと奥に引っ込んでいった。やせっぽっちであるにも関わらず、象に思えた。 店内の客は俺一人だけだった。俺はゆっくり店内の商品を見回ることにした。
懐かしい。俺はここのおやつを食べて育ったんだろう。
だがその割には店主の俺に対する愛情は薄い。つい、風船ガムを取って噛んでしまうくらい、俺は動揺を隠せずにいた。目の前のドーナツでもよかったが、真ん中に空いた穴を見ていたくはなかった。
幸いにも、店員は俺の万引きに気づいていない。俺は、心音の速さが変わらないことに、肩を落とした。
俺は相当やばいということか。犯罪を犯してもドキドキしないなんて、常人ではない。
自分がいい奴だろうと信じ込むのは、何もおかしいことではない。
世の中の大半は、いい奴だ。
誰かが物を落としたら、拾ってやる、老人や妊婦には席を譲ってやる、腹を空かせている奴には、食べ物を与える、それがたとえ、猫や犬でもだ。
俺は大半の人間と同じく、善人というわけにはいかないのか。
風船ガムが割れた。
シャッター音がした。
撮られた。
この無様な姿を、何者かに撮られた。
パパラッチが、この狭い駄菓子屋に潜んでいたのか。
今の今まで自分を悪人だと思い込んでいた俺は、今の今のいま、芸能人だったのかと考えをテーブル引きを決めたようにスマートに改めている。
万引きの瞬間を撮られていたら終わりだ。俺はネズミ捕りに専念する。
犯人を突き止めるため、目を閉じる。
視覚を遮断し、他の感覚を鋭利に研ぎ澄ませる。
お前は、そこにいるな?
俺は確かに、そいつの正体を感じ取った。
目を開けると、そいつはいなかった。
店員がどこからか出没し、近づいてくるが、店員はそいつとは違う。
そう思っていたのに、俺に近づいてきた店員は、いきなり俺を突き飛ばした。
俺はドーナツの穴に吸い込まれそうになりながらも、なんとか足を踏ん張り、驚いて店員の顔を見た。
その強張った顔を見て、俺はドアの外に飛びだす。
その顔は、万引きなんてちっぽけなものではない、もっと大きな恐怖から逃げるべし、と告げていた。
俺の予想が的外れでないことは、誰より饒舌な顔を持つ店員が追いかけてこないことで証明された。
自分の運命から逃げたくない。だけど、死にたくもない。
俺は、この胸騒ぎから解放されるときが来るのだろうか。
瞼を閉じると、そいつがまとわりついてくるようで、必死で耐えて、走り続けた。