はじまり
ハア、ハアと生温かい息が顔にかかる。
目を開ける前に、逡巡する。
どうか、俺の予想とは違いますように。
臆病な俺は、なかなか目を開けられないでいた。
顔に、何かが這うような感触がした。
もう迷ってなんかいられない。
俺は、薄目を開けた。
目の前の犬を見た瞬間、気が遠のいた。
こらえろ。
俺は、大の犬嫌いだった。
そうとは知らない犬が顔を舐めてくる。
全身の鳥肌が立つ。
これはいったいどういうことだ。
犬の向こう側に、青空が見える。
外で寝ていたのか、俺は。
起き上がると、全身むち打ちのようになっていた。
犬はまだ、吠えない。
そのまま吠えないでくれ。
俺はどうやら穴の中にいるようだった。
落とし穴でも落ちたのか?
思い出そうとしても、思い出せない。
それどころか、自分がどこにいたのかも思い出せなかった。
ウァン! ウァン!
「ひゃんっ」
犬が吠えた瞬間、俺はエビぞりのように体を反らせた。
「いって」
腰に痛みがほとばしる。犬の鳴き声を聞くと、いつもこうなる。
そういう俺の生態は正常に思い出せるのに、自分が誰だかは分からない。
俺は犬が鳴かないようになだめながら、後ずさりをする。
とりあえず、この穴から出なければ。
昨日までの記憶はないが、随分外に出ていないような気がする。
だが、この穴は五メートル程の高さがあり、一人では無理そうだ。
俺はきっと、身体能力は高くないはずだ。どちらかというと、どんくさい部類だろう。
不本意ながら、今の時点で掴みたくもない手応えを掴んでいた。
「ひゃんっ」
またもや犬が吠えた。
「てめえ、ぶっ殺すぞ」
ドスを利かせるところを見ると、育ちもあまり良くないようだ。
自分の正体に期待をするのは止めておこう。いちいち落ち込んでいられない。
「ひゃんってめえ、黙ってろ」
犬を睨み付けると、白いハットを咥えていた。
「あんだ?」
「すみませーん」
上から女の声が降ってきた。
「それ、投げてもらえませんか?」
ポニーテールの十代ぐらいの女性が、穴の中を覗き込んでいた。
女神、降臨!
俺は、了承する代わりに、ここから出る手助けをしてほしいと頼んだ。
「ちょっと待ってて」
女性がそう言ってその場を離れた。
本当に戻ってくるのか気が気でなかったが、十分後にロープをもって戻ってきた。
下ろされたロープに掴むと、また体が反応した。
「ひゃんっなんだよ!」
振り向くと、犬の目が悲しげに俺に訴えてきた。
「ああもう、分かったよ!」
犬を抱きかかえて右手一本で伝い上る。
俺の「ひゃん」に、上から女性の笑い声が降ってくる。女神が悪魔に見えてきた。
地上に出ると、すでに体力は限界だった。
犬は薄情なもんで、ぐったりする俺を放って走り去っていった。
「バイバーイ」
犬に手を振る女性は、俺に水を飲ませてくれた。
「穴に落っこちちゃったの?」
「そうみたいだな。あんまり覚えてないんだけど」
「どこの人?」
「さあ?」
「もしかして、本当に覚えてないの?」
「ああ」
俺は起き上がって周りを見渡した。
「島?」
「そうよ。あなた大変ね。病院に行かなくちゃ」
「湿布もらった方がよさそうだな」
「それもだけど、記憶喪失なんでしょう?」
女性は、この状況を少し楽しんでいるようだった。息を弾ませている。
そりゃあ、運命的に助けた相手が記憶喪失だったというのは、この年頃の子には何かを予感させる出会いなのだろう。俺がもし美少年だった場合、この子の胸の内はお祭り騒ぎに違いない。
「いや、よしとこう。保険証もないし」
なんとなく、病院へは行かない方がいい気がした。
「うち、くる? すぐそこだから、手当てぐらいならできるよ」
俺は少なくとも、そこまで不細工というわけではないらしい。
ただし、この子がよほどの世話好きではない限り。
女性に抱きかかえられながら、家まで連れて行かれた。
家に着くまでの間、色んな話を聞かされた。
女性の名は、ホタル。年は十代かと思っていたが、今年で二十歳になるという。
一人暮らしをしており、小学校の教師をしているらしい。
なるほど、ここまで面倒を見てくれるのは、俺がタイプだからというわけではなく、教師の正義感からだというわけか。俺はがっかりしたのを悟られないよう、わざと明るく振る舞った。
「静かなところだね」
自分の年齢は分からなかったが、直感でホタルよりは年上のような気がして、タメ口を続けることにした。
「ここはね。もう一本向こうの通りに行くと、小さな商店街があるんだけど。落ちた場所がついてなかったね。なかなか人が通らなかったでしょう?」
「そうそう。マジ焦ったもん。ホタルさん見つけたとき、マジで女神に見えたよ」
ホタルは幼さが混ざった顔をクシャッとして笑った。
家に着くまでの間、何人か住民に出会ったが、皆がホタルちゃん、ホタルちゃんと声をかけてきた。
顔が広いね、というと、
「島ってそういうもん」
とさらりと言われた。
「服ぬいで」
俺がもじもじしていると、「早くして」と言われる始末だ。
雰囲気もへったくれもない。
「何か手掛かりになるものはないの?」
そう言いながら、服の中を探り始めた。
すると、ズボンの中に、クシャクシャに丸めた写真があった。
民家が並んでいるが、よく見ると駄菓子屋がセンターにそびえ立っている。
「君の住んでいたところかな?」
「どうだろう?」
「これを見て、何か感じるものはない? 懐かしい感じとか」
懐かしい感じがする、と言っておいた方が、ホタルの気がすむのならそう言ってしまおうか、とも思ったが、俺は言いきれなかった。
「でも、やっぱり何か意味があるんじゃない?」
ホタルとしては、そう結論付けたいようだった。
「そうなんかなあ」
俺の煮え切らない態度にイライラしたのか、ホタルは、この写真を警察に届けて調べてもらおうと言い出した。
「だから、病院とか警察とか行かない方がいいと思うんだよね」
「何で?」
ホタルは不服そうだ。
「ううん、うまく言えないけど」
頭のどこかで、行ってはいけないと言っていた。
なんとなく気まずい空気が流れ始め、シャワーを浴びることにした。
洗面台の鏡を見て、俺はショックを受けた。
自分が思っていたより、いい男ではなかったからだ。
えらは張っており、唇は血色が悪く、薄い。鼻も低く、目も落ちくぼんでいた。
ホタルは、女神だった。
俺は気づけば、女神の家に図々しくも体が回復するまでの間、二週間も居座っていた。