桜心中
桜の下には屍体が埋まっていると言ったのは、誰だったか。
坂口安吾、いや、梶井基次郎か。
まあ、桜というものには少なからず魔力が宿っているに違いない。
今の姿を得る前から、私はこの桜というものを知っている。恐らく何千年という輪廻の中で、囚われてきたものの正体がこれだ。
「どうです、綺麗なものでしょう」
目の前の男は、そう言って微笑んだ。
丁寧にアイロンをかけられた白いカッターシャツにスラックスを履いた、簡素な出で立ち。私はこの男にまるで見覚えがなかった。垂れ下がり気味の目尻、無造作な髪、背筋は真っ直ぐにのびている。
休日の午後に散歩がてら近所の土手を歩いていた私にとっては、初対面の人物だ。
「私、あなたに会ったこと、あるでしょうか」
そう返していた。満開の桜の下で、その男はまたくすりと笑んだ。綺麗なものでしょう、と言われても、私はこの桜を毎日見ているのだ。さも自分が咲かせたかのように言う彼に、若干の違和感。
「いえ、初めてですね」
「なら、なぜ」
なぜ、何だろう。
私は、そこで漸く先程から感じていた異物の気配の実体を掴んだ。
男は、何かを手に提げていた。吹き荒れる花嵐の中で、それだけが異質である。目を凝らした。そして、後悔した。
その骨張った手には、大量の赤がこびり付いている。
春とは・・・死の季節だ。
私は真っ当な人間だ。普段は会社で働き、たまの休みにはこうして散歩をしたり読書をして過ごす。桜が綺麗に咲くこの時期などは、特に土手を歩くことが趣味になっていた。
そんなある日、いつもの道を歩いていたら、こんな得体の知れない男と会ってしまうとは。
手を血に染めた男は、私の方をじっと見つめていた。怪我、ではなさそうである。なぜなら、その大量の血液が付着した右手には、細長い棒のようなものが握られているからだ。あれは、なんだ?
男は私の視線に気がついたのか、ああ、と目線を下げた。
「これですか、アイスピックというものですよ。ほら、氷を砕く道具です」
私はそれに合点がいって、頷いた。目の前の彼が、誰かを刺してここに来たのだなあということも悟った。そして、自らの内に恐怖が生まれぬことに、心底疑問を覚える。
「あなたは、人を殺したのですか」
全く震えていない自分の声。何故だか、心はいたって平静のままであった。
「昔、なにかの小説で読んだのですよ。男がアイスピックで恋人の腹を刺すのです」
優しい弧を描く眉を下げて、男は微笑んだ。
「小説?」
「僕、それを読んだのは小学生の時なのですが、いえ、全くの偶然なのですが図書館で見つけまして。で、とても衝撃を受けましてね。ずっと心にあったのです。その描写が。白く平らでなだらかな美しい曲線をえがく女の腹。そこに突き刺すアイスピックの鋭利さ。溢れ出る血と白い腹とのコントラスト。・・・ああ、すいません、つい語ってしまう性分でして」
男はまたはにかむと頭をかいた。
同時に、私の脳裏に鮮やかなるその情景が浮かぶ。到底私には理解出来そうにない趣向であることに、間違いはない。
「結論を言ってしまいますと・・・そうですね、殺すつもりはあまりありませんでした。しかし死んでしまった、のは四人でしょうか。白い肌の、美しい人たちでした。ただ、脆かっただけです。残念だ」
「その、アイスピックとやらで、腹を刺したのですか。小説のように」
「ええ、もちろん腹を」
ぼうっと花が舞うのを男の背景とみていた私は、彼がまだ何か語りたそうにしているのがわかった。それを目線で促してやる。
「・・・それから、お恥ずかしいのですが、僕、腹だけでなく、色々なところを刺すのが好きなのです。例えば、うなじとかですね。こう、白く美しい首には、抗えぬ魅力があります。あんなに無防備に晒されていては、手を伸ばしたくなっても、仕様がないではありませんか」
「・・・人を刺すのは、どのような心地なのでしょう」
「まず、風俗に電話をします。色の白い、綺麗な腹の子を頼むことが多いです。ホテルで落ちあい、先に風呂に入ってもらっている浴場にアイスピックを持って押し入り、刺します。白い柔らかな平原に抵抗なく鋭い切っ先が潜ってゆく感覚は、癖になるものです。そのとき、私は例えようのない優越感を覚えるのです。これは、禁忌でしょうか。恐らく一般の方が愛する人と結ばれることに幸せを感じるのと、同じものです。僕は、美しい白い肌に、これを刺すことで幸福を感じることができるのです」
私は、ひらひらと落ちるピンク色の花弁が、彼の髪の上に落ちたのを見た。
男は、異常だった。平常というものに、普段から私達は囚われている。それはこの現世に生きる以上のがれることなどできない鎖であり、誰も核を知ることのない漠然と横たわる事実だ。
昔、叔父が言っていたことを思い出した。この世には二種類の人間がいる。世の条理に適応できる人間と、できないが故に短命である人間だ。まあ、この男はまず後者に違いない。
「思うのですが」
「なんです」
「僕、きっと貴方に前世から恋をしていたのだと思います」
「大仰ですね。私の人生をその程度で買うつもりだったんですか」
「へへ、すいません。そんな気がしたのです。この桜の魔力のせいということにしておいていただけませんか」
彼は、シャツの襟を直した。その拍子に、手に付着していた赤黒い血液が染みを作る。それに気が付き、男は自分の掌を見つめた。風に煽られた髪も直したいようなそぶりだが、それは汚れた手のせいで叶わなそうだ。
「これから、どこへ」
私は、自分の口から滑り出た言葉に自分で驚いた。この青年の行く末がいったいどの果てにあるのか、知りたかったからかもしれない。
「・・・そうですね、そろそろ潮時なのかもしれません。いや、随分と昔から、追われているのです。でも、悪いことをしたとは自分でも思えないのに、なぜ裁きを受けなければならないかがわからないのです。ですから、僕は・・・そうですね、この季節に、僕も別れを告げようと思います」
私は、思わず声をあげた。
強い春風が髪と頬とを柔い腕で嬲る。視界を埋め尽くすそれに、思わず目を閉じる。
これを開いてはいけない気がした。天命とは、得てして如何なる時も人間のものである。
瞼の隙間から、眩い光が見えた。昼の高い日差しの下で、きらきらと輝く桜の木は、枝に男を縄で吊り下げていた。縄は彼の首をしっかりと絡めとり、風に揺れている。
ああ、きっと、ずっと前からこうだったのだ。恐らく、誰に聞いたのかもわからない、前世から。
桜の樹の下には、私の希望と絶望が埋まっている。