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 倉田はまたS市に来ている。施工から検収まで客先の工場に設備を納品する仕事がこの日で終わった。客先の誰かの親戚が営んでいるとかいう料理屋で催された宴会のあとで、中原に誘われて倉田は港近くのスナック「波止場」へやってきた。


「なかちゃン、おかえりなさーい」

「ママ、ただいま!」


 中原ときゃっきゃと挨拶を交わすのはやはりラメがきらきら光る黒いニットをまとっているが前回と異なり、福々しい初老の男だった。いや、男性じゃなくて女性なのかもしれない。見た目がまるまるとしている上に声が野太く酒焼けしていて判別しづらい。


「この人ね、倉田さん! 東京の人!」

「初めまして! いいオトコね!」


 前回来たときと店は同じなのだが店主が違う。中原のキープしているボトルが出された。倉田は首をかしげながら水割りを口に含んだ。

 今回ははじめから客がそこそこに入っている。中原は今日も機嫌良く「だっはっは」と馴染みの常連客と差しつ差されつしている。倉田にもじんわりと酒が効いてきた。



 女が橋の上から消えるように去ったあと、倉田は橋を渡った。霧どころか靄もなくなり晴れた冬の夜は寒さがどことなくやわらかい。淀んだ運河に沿って倉庫が建ち並ぶ。蹌踉と歩く倉田の前に見覚えのある建物が現れた。


――そんな。ここには名曲喫茶があったはず……。


 夜ごと通っていたはずの喫茶店は灯りも人の気配もなかった。久しく扉を開けたこともないのか、埃にまみれたドアから店の中をうかがうこともできない。女どころか、思い出すよすがすら残っていなかった。



 出張のあと倉田が東京に戻ると、ペット探偵とシッター、双方から「これ以上探してもきっとあなたの猫は帰ってこない」と依頼を断られた。ゲイルのために行っていたルーチンがなくなって倉田の日常は機械的に会社と自宅を行き来するだけになった。

 こうしてまたS市の潮の香りがするあたりにくると、ゲイルと不思議な女のことを思わずにいられない。倉田は苦い酒を飲んだ。


「――浮かない顔ね」


 倉田の前へやってきた波止場のママにボトルを出すよう頼んだ。


「あら。前にもいらしたことあった?」


 中原と同じウィスキーをキープして、と説明したが、ボトルはなかった。まるまるとした腕を組んで考え込んでいたママが


「あー、たぶんあれね」


 眉を開いた。


「ときどきあンのよ。うちの店っていうかこのあたりでね。倉田さンだっけ? あなたが会ったアタシってすっごく痩せてたンじゃない?」

「はい。――確か『よしときな、その女』って」


 酔いが口を軽くしていたかもしれない。あらあらまあまあ、と目を丸くするママに促されるまま倉田は女のことを話した。


「そう」


 聞き終えてママは目を細めじっと倉田を見た。


「昔からこのあたりはさ――」


 何年かに一度、倉田のように不思議なできごとに遭う者がいるのだという。神隠しだの狐に化かされただの、と恐ろしげな色をつけておもしろがる向きもある。


「ずいぶん前になるけど、倉田さンみたいに別のアタシに会ったっておひとがいてね。そのアタシが――さかい橋を渡っちゃ駄目だっていってたンだって」

「さかい橋?」


 倉田の脳裏に霧でけむる橋が浮かんだ。


「渡ると帰ってこれなくなっちゃうって。――まあ、あっちのアタシに会ってこっちに帰ってきた人の話しか知らないわけなンだけどさ」


 ママはまるまるとした指を頬にあてた。考え考え、言葉を選びながら語るところによると、この「波止場」というスナックあたりはときどき別の世界と接することがあるのだという。その街は現実のS市と違い、霧に包まれたさかい橋がある。その橋を見るのは家族や恋人、親しい人を亡くした者ばかりなのだという。言葉を濁していたが要するに女が去った別の世界というのは死後のそれを指すのだろう。


――つくり話みたいだな。


 でも倉田は不思議とそれを受け入れていた。ペット探偵とシッターから依頼を断られたときに感じた反発も、身を苛む後悔も遠い。女の姿になって倉田の前に現れたがゲイルはもう帰ってこない。


「『いっしょにいこう』って説得されまくったひともいたのよ、橋の向こう側へ」

「ああ……」


 そういえば


――ほんとはあなたもいっしょに――。

――なんてね。


 女もそういっていた。


「オトコとしてはフラれたけど、家族として愛されたってことなンじゃない」

「そうでしょうか」

「あっちのアタシは『よしときな』なンて言ったらしいけどさ、――いい女じゃない」


 男とも女とも分からない太った初老の店主が大きな腹を揺すって笑った。黒いニットに散らばるラメがきらめいて星空のようだ。苦い、と思って口にしていた酒も酔うにつれてむしろうまく思える。倉田はスマートフォンにぶら下げたカメオのチャームを指で撫でた。


 ゲイルは倉田の愛猫だった。手のかかる妹のようであり、つらいときは黙ってそばにいてくれる姉のようでもあった。時を重ねて老いてもゲイルは美しく、少し臆病でやさしい猫だった。そしてほんのひととき、恋人だった。



(了)

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