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 中原が「ん?」と首をかしげる。丸い目が向けられているのは宿が用意してくれた弁当でなく倉田のスマートフォンだった。


「そのスマホ、なんかついてましたよね? ペンダントみたいなの」

「ああ――」


 よく見ていらっしゃいますね、と言いそうになったが倉田は呑みこんだ。カメオのチャームはスマートフォンのストラップにしては大きく目立つ。それがなくなれば違和感を覚えて当然だ。


「昨夜から見当たらなくなってしまいまして」

「あちゃー」


 中原が唐揚げを箸でつまむ手を止めた。


「もう一度立ち回り先を探してみます」

「見つかるといいですね」

「ほんとに」


 話題は予定通りこの日終了する設備の試運転データ採取へ移った。今回の出張は最後まで順調だった。客先の設備主任である中原の協力が大きい。検収まで一気に済ませられればよかったが、あいにくスケジュールの関係で今回は設備の施工と試運転のみだ。


「一度東京に戻りますが、すぐに検収でこちらへまいります」

「じゃあ、打ち上げはそのときにしましょうか」


 中原が唐揚げをむぐむぐとほおばり、嬉しげに目を細めた。



 夕方、客先の工場を出た。倉田の出張はいったん終わるが、数日後に営業も連れて戻ってくることになっているので今までと変わらない。「お疲れ様でした」「また明日――あ、明日じゃないのか」ぐらいの違いだ。

 宿に戻り、軽く荷物をまとめた。上司や担当営業に報告を済ませてある。急ぎの案件もない。最後の特急は既に出てしまっているが電車を乗り継いでいけば東京へ帰れなくもないが、出発は明日の朝になっていた。


――会いに行かねば。


 倉田はジャケットを羽織り、チャームの外れたスマートフォンを懐に入れた。


     *     *     *


 いつものように宿のある高台から街へ向かって坂道を下る。海から街へ濃い霧がぼんやりと立ち込め、信号も車のライトも、旅館や店の看板もよく見えない。それでも倉田は潮のにおいに導かれ港へ、そして川沿いの道へ辿り着いた。通い慣れたあたりは一段と霧が濃い。石造りの家々、頼りない街灯の明かり、しんとして揺れもしない枝垂れ柳がのったりと重い霧でけむる。


「来ないで」


 倉田が橋のたもとにつくと女の声がした。濃い霧に阻まれて表情がうかがえないが細身のシルエットが橋の真ん中に見える。か細く儚い声に胸が締めつけられる。はっきりと今日が出張の最終日だと告げていなかったがどこかで耳にしたのか、


――悟ったのか。


 機嫌を損ねてしまったらしい。出張先、旅先で渇きに振りまわされいっときの熱情に身を任せるほどお互いに若くない。連絡先をたずねゆっくりと気持ちを確かめられれば、と考えたのが裏目に出たのかもしれない。


「すぐに――」


 戻ってくるから、そう言い聞かせ女を安心させたかった。


「来ては駄目」


 女がじり、と後ずさる。倉田は橋へ一歩、踏み出した。ぐんにゃりと粘りの強い何かに足を踏み入れたような奇妙な感覚に(とら)われる。ただの霧ではないのか。


「来ないでって、言ったのに」


 冷たい霧をかき分け女が姿を現した。


――やっぱりゲイルに似ている。


 緩くウェーブのかかったアッシュグレーのショートボブ。首に巻いた明るいグレーのストール。帰ってこない愛猫のやわらかいサバ白の毛を思わせる。ここ数日間ひとときともにするだけだった女を、倉田は初めて抱きしめた。ふわふわとした髪に頬を寄せる。腕の中で女が


「私、実は」


 身動(みじろ)ぎした。


「ここにいられるのが今日までで――」

「俺も、そうだ」

「違う。そうじゃないんです」


 とん、と胸を押される。女の様子がうかがえる程度に体が離れた。緩んだストールの隙間から細く白い首が、そして赤黒い(あざ)が見えた。


――まるで紐で締めた痕のような。


 はっとした女がストールをつかみ、痣を隠した。倉田はふたたび女を抱き寄せた。


「私――、主人とはもう長く暮らせないと、ずいぶん前から分かっていました。最後の日、首輪を外してしまって――」


 倉田は女のふわふわとした髪を撫でた。


「この街に来てしまいました。帰りたくても帰り道が分からなくて、でももう一度撫でてほしくて、こんな風に。――そう」


 女の声が震える。


「そう思っていたらあなたがこれを持って現れたのです」


 体を離した女がコートのポケットから小さなものを取り出した。白い手の中にあったのは倉田がなくしたカメオのチャームだった。


「一度だけ――初めてあの首輪をするときに見せていただきました。この写真を最後にもう一度見たくて、でも自分では開けられなくて」


 細い指がロケットの蓋を開けた。元気だった頃の両親が肩を寄せ合いまぶしそうな顔で微笑んでいる。


「人間の指だとこんなに容易(たやす)い」

――ゲイル。


 愛猫の名前を口にすることはできなかった。代わりに女の細い体を抱きしめ、額に口づける。


「最後なんて、言うな」

「ほんとはあなたもいっしょに――」


 女が体を離した。倉田の手を取り、カメオのチャームを握らせる。冷たい指だった。


「なんてね」


 女は困ったような笑みを浮かべた。そしてじりり、と後ずさった。白く濃い霧が女を包む。


「待っ……!」


 追いかけようと手を伸ばした倉田をのったりと重く冷たい霧が阻んだ。女の影が遠くなる。


「――どうか、お元気で」


 囁きが聞こえた。きっとまた困った顔をして笑っている。そんな声だった。重い霧の拘束は、愛猫の尻尾が足を撫でていくのと似たするりとした感触とともに解けた。


 倉田は橋の上で呆然と立ち(すく)んでいた。重く冷たい霧はあっさりと引いている。石造りの家々も、枝垂れ柳もない。倉田の立っているここも運河にかかるコンクリートの橋だった。


――夢を見ていたのか。


 そんなはずはない。

 女の――ゲイルの気配を探し倉田は蹌踉(そうろう)と橋を渡った。


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― 新着の感想 ―
ずっと弦楽器の演奏がうっすらと背景に流れているような物語に思えました。 現れた女性がゲイルであることは読み手にもすぐに伝わるのですが、おとなの男女として、短い逢瀬ながらも静かな関係性が逆に引き込まれま…
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